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2008年12月16日(火) 功績

日本サッカー協会がオシムとのアドバイザー契約を更新せず、日本サッカー協会とオシムとの縁は、これをもって完全に切断した。オシムが自らの退任について、朝日新聞のインタビューに答えた。短いものだったけれど、日本サッカー界が見失っているものを改めて思い出せる内容だった。

オシムは、日本サッカー界に多大な貢献をした数少ない外国人の一人だ。その功績は、計り知れないものがある。手始めは、平凡なクラブチームの1つジェフ・ユナイテッド千葉を劇的に変えたことだった。千葉に属していた無名の若手がオシムの手腕により、日本代表級にまで上り詰めた。

それまでの日本サッカー界において、千葉の阿部勇樹・巻誠一郎・山岸智・羽生直剛・坂本将貴・佐藤勇人・水野晃樹・水本裕貴らの名前を知る人は少なかった。オシムが千葉の指揮を執り、リーグの順位を上げ、ナビスコ杯で優勝するころになると、サッカーファンのみならず多くの日本人が、バルカン半島からやってきた、鋭い目をした大柄な人物の存在に注目するようになった。そして、オシムがジャーナリストの前で披瀝する話のユニークさがもてはやされ、『オシム語録』と呼ばれるようになった。『オシム語録』は、スポーツ界のみならず、日本社会にまで影響を及ぼすに至った。

日本の近代化のはじまりとともに、多くの外国人が日本社会に影響を及ぼしてきた。中でも明治期、お雇い外国人の一人で、‘Boys Be Ambitious’という言葉を残した米国の農学博士ウイリアム・クラークが有名だけれど、『オシム語録』の影響力は、クラークを凌ぐものがある。旧社会主義国の出身者らしく、レーニンを引用したことが筆者には特に印象に残っている。スポーツの監督としては珍しい。

それくらいの影響力をもったオシムが日本代表監督に就任した後、病魔が彼を襲った。病から回復したオシムだけれど、彼が日本代表の指揮を取ることはなかった。オシムの退任は、日本サッカー界にとり、最大の損失の1つに数えられよう。

日本サッカー協会と完全に縁が切れたオシムが日本のサッカー界に戻ることがあるとするならば、それはクラブレベルでの話になる。たとえば、凋落した浦和を再建する指揮官として、オシム以外の適任者はいないと筆者はいまだに信じているし、若手の宝庫である磐田はオシムの指導を受ければ、もっと強くなるはずだとも確信している。

代表監督ほどではないかもしれないが、ACLをも戦うJリーグの監督は激務である。オシムの体調がそれに耐えられるかどうかはわからない。年齢からすればおそらく、無理だろう。ならば、われわれは、当時ユーゴスラビア代表監督だったオシムが発見し、育てたといわれるストイコビッチ(現名古屋監督)のW杯イタリア大会(1990)のプレーぶりを思い出すことをもって、オシムの偉大さを思い出す以外に方法がない。

バルカン半島は、日本から遠く、20世紀まで互いの交流も少なく、21世紀のいまでもそのことに変化はない。彼が代表監督を務めたユーゴスラビアという国家は、いまはすでになく、それは20世紀に生まれ20世紀に消えた、社会主義国家という遠い記憶に重なっている。しかし、サッカーというスポーツを介して、両国がそれまで感じていた遠い距離感と消え去ろうとしている記憶を超えることができた。サッカーを文化というのならば、オシムがそれを体現することによって、日本人に可能性や思考方法を伝えたことになる。

オシムは日本政府が招いたお雇い外国人ではない。たかだかという言い方は不適切だけれど、プロスポーツの監督にすぎない。けれども、というべきか、それゆえ、と言うべきなのか迷うところだが、オシムは日本の各層に多大な影響を与えた。一人の外国人が与えた影響力の大きさという意味で言えば、オシムに匹敵するほどの外国人の名前を挙げることが難しい。


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