マスコミの間にも、岡田日本代表監督の手腕に対する疑問が出始めた。筆者は岡田の代表監督就任に反対する立場なので、“ふむふむ”といった感じだ。
あるスポーツ専門誌が「代表監督論」を特集していたので、昼休みに立ち読みをした。斜め読みというか、ざっと眺めたに過ぎないので誤読があるかもしれないが、どうしても納得いかない部分があるので、指摘しておきたい。
同誌のなかに、元日本代表監督のトルシエが監督論を寄稿している。その中に、「岡田氏の最も重要な仕事は、日本代表を南アフリカへ連れて行くことだ」とあった。代表監督の最も重要な仕事がW杯予選突破だということは自明のことであって、この部分が間違いというつもりはない。筆者の主観では、日本の実力はアジアで10位以内なので、トルシエの指摘はまったくのところ当然なのだが、筆者が不満なのは、日本代表監督の役割がそこにとどまってしまうことだ。
日韓大会で日本代表を率いたトルシエは、予選免除の開催国代表監督だった。彼は日本代表監督経験者ではあるけれど、日本代表を率いて予選突破を果たしてW杯に出場した実績がない。日本サッカー界において、W杯アジア予選を突破した実績を持つ監督は、実は岡田とジーコの2人しかいない。
トルシエはこの事実を十二分に認識していて、彼の野心は、再び日本代表を率い、W杯アジア予選を突破することだと推察する。トルシエが日本サッカー界と、つかず離れずの関係を維持している理由は、トルシエに好意的な国が日本以外ないことはもちろんだが、彼が日本で遣り残した唯一の仕事、すなわち、W杯アジア予選突破の実績を残すチャンスを窺っているのだと思う。
筆者に限らず、だれも他人様の野心を否定しようもないのだが、トルシエの監督論は、代表監督経験者のものとしては物足りない。彼は日本人の特性をコレクティビズム(集合主義)だと看過し、監督が選手に対して強い指示を出し、組織的規律を強めることが代表強化の得策だと確信し、それを実行し、実績を残した。彼は開催国優位というアドバンテージも手伝って、W杯ベスト16の結果を出した。
彼の日本人理解は間違いではない。だがいま現在、トルシエの日本人に対する確信とそれに基づく実績が彼の監督能力の足かせになっている。彼の論法はもはや通じない。筆者はトルシエの功績を認めるけれど、今後の代表監督として彼は相応しくないと思っている。彼は自らの過去の成功理論に拘泥し、日本代表強化の方策を自らの過去の実績からしか導き出せない。トルシエの頭の中は、日韓大会で停止し、以降進歩していない。
トルシエの後任であるジーコは、トルシエを否定することを代表監督としての自らの任務として定め、トルシエの遺産を再教育することで日本代表を強化しようと図った。だがジーコの目論見は外れ、ドイツ大会では予選リーグ勝点1(無勝利)で敗退した。トルシエは彼自身が信じる日本人の特性に基づいたチームづくりに励み結果を出した。後任のジーコはトルシエの確信の限界を直感し、そこから180度の転換を意図して失敗した。
ジーコの後任のオシムは二人の失敗に気づき、「第三の道」を模索した。オシムは日本人の特性である規律重視、組織重視、サッカーにおける高いテクニックを土台としながら、さらに、それ以上の創造性を代表選手に要求した。その志は道半ばで頓挫し、いまとなっては、その進捗状況を検証することができない。
では、岡田はどうなのだ。岡田が自覚すべきは、日本サッカーの実力が世界32位以上ではないということだ。日本サッカーの実力は、98年(フランス大会)の他国開催で32位以下、02年開催国アドバンテージで16位、そして06年ドイツ大会の他国開催で32位以下となっている。たった3大会で実力を云々できないけれど、昨年のアジア杯4位の結果を加味すれば、日本サッカーの実力が世界で40位〜50位程度であることは疑いようがない。
そのような実力の国の代表監督のあるべき姿とは――このことは当コラムで何度も指摘したけれど――「代表監督はサッカーを語れ」ということにつきる。コンセプト、日本人論、組織論、技術論・・・いろいろなアプローチがあるけれど、なんでもいいから、代表監督は代表およびサッカーを語らなければならない。たとえば、代表チームのコンセプトを語ることだ。はじめに代表監督の言葉ありき――そうすれば、気に入らない者から反論が引き出され、賛同者から賛成の意見が出るだろう。重要なことは、代表監督の言葉を中心として、日本中にサッカー論の渦ができることだ。
「岡田はリアリストだ」「状況対応型だ」という評価がある。それは監督として当たり前なのであって、それだけならば代表監督の資質を欠く。日本というサッカー後進国、発展途上国は、代表監督の言葉が日本サッカーを牽引する。換言すれば、代表監督の役割とは、「ことあげ」なのだ。
かつて、発展途上の日本経済にあって、企業が“成長のビジネスモデル”を必要としたように、発展途上の日本サッカーにもビジネスモデルが必要なのだ。かつての日本経済に「経営の神様」が君臨したように、日本サッカーにも「代表監督」が君臨しなければならない。トルシエという「赤鬼」の後任は、文字通り「神様」(ジーコ)であり、「神様」の後任には、「カリスマ」(オシム)だった。それぞれがそれぞれのビジネスモデルを「ことあげ」し、代表の下に位置するJ1クラブが、代表監督の「ことあげ」に倣った。たとえば、オシム語録という「ことあげ」は、サッカーのみならず、日本人の指針として読まれた。ジーコの「個」の重視は、新自由主義の経済政策に併走した。
このような現象は、すべて日本サッカーの後進性ゆえであって、世界共通の現象ではない。だが、サッカーを強くする方策は、一方でクラブや代表の強化であり、そのまた一方で、社会がサッカーに対して強い関心を持ち続けることであることは共通している。スポーツの底辺の拡大と言ってもいい。あるいは、スポーツ文化の醸成と言い換えてもいい。
そのどちらか一方が動かなくなれば、長い目で見て、日本サッカーは必ず行き詰まる。たとえば、かつてのスターリン体制の社会主義国家群のスポーツはステートアマを頂点として、限られたスポーツエリートが国家管理の下、純粋培養された。このような強化策は、スポーツ文化として国民に定着することはなく、国家プロパガンダの役割を果たすに留まった。結果、国家体制の転換と同時に、スポーツ文化の停滞を招いた。スポーツは国家に従属すべきではない。
岡田が「ことあげ」をせず、Jリーグ各クラブ、海外クラブから選手を強権的に召集し、「日本代表」に閉じこもって強化を図ろうとするならば、それは形を変えたステートアマ方式の強化策と等しい。現在のところ、この方法が可能な国は、世界広しといえども、北朝鮮以外思い当たらない。
岡田は、「日本代表」という「枠」に内向きに閉じこもってはいけない。いまの日本代表でアジア予選を勝ち抜くことは最重要だけれど、そこに閉じこもってはいけない。ましてや、根拠のない大言壮語もいけない。客観的、科学的な根拠と鋭敏な感性に基づき、日本サッカーをリードしなければいけない――のだけれども、岡田にこの役割を求めることは・・・
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