| 2007年12月04日(火) |
星野ジャパンは高校野球 |
野球日本代表チームが台湾をくだして3連勝。北京五輪出場を決めた。台湾戦では、1−0の僅差で迎えた6回、台湾の主砲・陳金鋒の逆転2ランで試合をひっくり返されたものの、7回には無死満塁のチャンスで大村が同点スクイズ。続く西岡がタイムリーを放ち、勝ち越しに成功した。結局、この回打者12人の猛攻で大量6点を奪い逆転。9回にも新井の2ランなどで3点を挙げ、試合を決定付けた。
テレビ中継の解説陣は、7回無死満塁の場面での大村のスクイズを絶賛していた。結果からすると、このスクイズ成功が発火点となり大量点をもたらしたことになる。星野代表監督の名采配だというわけだ。
野球・日本代表はアジア予選を勝ち上がって、五輪出場を果たした。結果においては、立派な成績だ。MLBに所属する日本人一流選手を欠くとはいえ、アジアの頂点である公式戦で三連勝で優勝したのだから、サッカーでいえばアジア杯で全勝優勝したようなものだ。賞賛に値する。選手も監督もスタッフも頑張った。でも敢えて苦言を呈したい。
というのは、筆者のスポーツ観に、無死満塁でスクイズのサインはあり得ない。結果論でいえば、大村がスクイズを決めたボールは絶好球。大村がフルスイングしたならば、ボールは限りなく遠くに飛んだことだろう。いみじくもプロの野球において、絶好球を前にして、バットを横に構えて投手の前に転がすようなプレーに筆者はカネを払えない。代表チームがやる野球なのだろうか。このようなプレーは「高校野球」――日本の「高校野球」にのみ許されるプレーではないのか。もちろん、スクイズをした大村は責められない。彼は仕事をしただけなのだから。このプレーを見て、日本の野球の強さの基盤は高校野球にあるのだなーと、しみじみ感じた。規律を重視し、己を殺し、チーム一丸となって、指揮官の指示を守り抜く。
当コラムのサッカー日本代表監督後任問題で触れたように、代表チームのスタイルがその種目の日本でのあり方を決定する。かつて、オシムが日本代表監督に就任したことと時を同じくして、Jリーグの多くのチームがオシムが率いたジェフユナイテッド千葉のスタイルを取り入れたように。
星野監督が選手に強いる規律重視は、産業労働者における“フォーディズム”に似ている。星野野球では、選手が個を殺して機械のように自動的に動く。その動きは、プロ野球でありながら、「甲子園球児」そのままだ。20世紀、ベルトコンベアに従って労働を提供する工場労働者の姿そのものだ。
“フォーディズム”に反する労働の概念が“情動的労働”だ。“情動的労働”においては、個と個が制約を超えて、多様なネットワークを形成しながら自由に動き回り利潤を上げていく。“フォーディズム”とスポーツに関しては、サッカー日本代表監督のトルシエとオシムの比較のところで以前にも書いたことではあるが。
星野ジャパンで唯一光ったのは、問題のスクイズの直前、7回、無死一、ニ塁の場面で荒々しい走塁を見せた宮本のプレーだ。宮本は、星野(高校)野球が得意とするバンド作戦の一環としてニ塁代走に起用された。ところが、打者箱崎の下手なバンドが投手の前に転がり、危うく三塁封殺されようとする瞬間、台湾の三塁手の足を狙ったスライディングを敢行した。ビデオで見ると、宮本の後足が台湾の三塁手の足を跳ね上げた。きわどいプレーではあるが仕方がない。乱闘覚悟のプレーだと思うが、相手三塁手が警戒を怠っていたために、投手のフィルダースチョイス、三塁手のミスで乱闘には至らなかった。もちろん、相手三塁手の足を負傷させる確率は低くない。
このプレーこそプロのもの。高校生にはもちろん、危険すぎるのですすめられない。汚いプレーと紙一重だけれど、満塁で打席に入った打者が、絶好球を投手の前にバットに当てるだけで転がすようなプレーとはその本質を異にする。三塁封殺、一塁投球ダブルプレーを防ぐためのチームプレーではあるけれど、相手三塁手の足を狙うスライディングを敢行すべきか否かの判断は、個に委ねられている――代表選手には、こうしたプレーをみせてほしい。
さて、五輪に出場した日本チームは金メダルを狙えるのだろうか――筆者は勉強不足でわからない。でも、世界の野球の主流は、パワーとスピード重視の方向だろう。中北南米、豪州、日本に負けた韓国・台湾等の東アジアが目指す方向は、無死満塁でスクイズをやる野球ではないはずだ。野球がプロとして今後も日本で人気を得ようとするならば、打者は遠くへ速い打球を飛ばすべきだし、投手は速いボールを投げるか、あるいは、特別の制球や変化球を投げるべきだし、走者は素早いベースランニングをすべきだし、守備は・・・であろう。勝てばいいのだけれど、人を魅了するスペクタル性がなければ、プロ(野球)とはいえない。
無死満塁、打者がバットを横に構えて投手のボールを地面にポロリポロリと転がすプレーが日本人を永遠に魅了し続けるのだろうか。そこで三振しようが併殺を食らおうが、はたまた、満塁本塁打を打つのかどうかわからないけれど、結果を恐れず潔く勝負する場面を望んでいるのではないのだろうか。少なくとも、筆者が望むプレーは後者である。少なくとも、代表選手ならば、投手と打者は常に、真っ向勝負ではないのか。
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