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2007年04月21日(土) アマチュア精神とは

日本では清貧とされるスポーツのアマチュアリズムの本質は、西欧の貴族趣味だ。西欧の貴族は、余暇に狩猟、乗馬、ポロ、ゴルフ等を趣味として行ってきた。彼らのスポーツは趣味であり、勝負は問題ではない。もちろん、彼らが中世の騎士道精神の後継を任じていたため、名誉としての勝利を目指していたことは実態として否定できないが、負けたからといって、生活に窮することはない。そこから派生したのが近代五輪で、クーベルタン男爵の「参加することに意義あり」という有名な言葉が、アマの真髄であるかのように日本では報道されてきたのだが、この言葉を発した人物の肩書き(男爵)が、まさに、アマの真髄を象徴している。アマ精神の根源は、貴族の趣味に求められる。

日本では、西欧の階級社会で育まれたアマスポーツの精神が学生スポーツに受け継がれた。その主因は、筆者の想像では、学生層(大学生)が近代初期の日本におけるエリート階層だったからではないか。庶民は、学生が学業に励みながら余暇のサークル活動であるスポーツに興じる姿をみて、憧れと尊敬の入り混じった感情を抱いたのではないか。日本の文武両道という概念は、西欧の騎士道に通じている。こうして、西欧のアマスポーツの伝統は、日本では学生スポーツに継承された。

西欧・日本のアマチュアスポーツの本質が、エリートの趣味であるということは重要だ。彼らは報酬、勝負、エンターテインメントという、現代スポーツがもつ要素を必要としていない。日本では六大学野球の人気が高かった時期があった。早慶両校は、英国のケンブリッジ大とオクスフォード大に置き換えられた。大学生がエリートだった遠い過去の出来事だ。

さて、スポーツが貴族の趣味である時代は終わり、スポーツ大衆化の時代を迎える。スポーツは金になるし、エンターテインメントであり、学生スポーツがミッションを帯びるようになった。スポーツが趣味から離れ、学校のため、地域のため、会社のため・・・「○○のため」という明確な目的をもつようになった。そうなれば、趣味=アマチュアではなくなる。

大学野球のミッションは、大学が学生を集める手段だ。敗戦後、人びとの嗜好は、大学生より若い高校生の野球に心惹かれるようになる。高校野球が人気を博するようになった理由は、『八月十五日の神話―終戦記念日のメディア学』(佐藤卓巳〔著〕)に詳しい。この書のサブタイトルが示すように、高校野球人気は、メディア主導による。

いま、高野連が野球特待制度の廃止を決め、特待制度を行った高校の野球部を解散させたと報道されているが、期限は夏の甲子園大会予選開始前までだという。偽装解散だ。高校生の野球は趣味ではなくなり、学校のミッションを担う限り、アマ野球ではない。アマとして高校野球を育むならば、マスメディアが一切報道しないことだ。高校生が自らのために、趣味として――西欧階級社会で育まれたエリート主義としてのアマ精神を時代錯誤的にひっそりと守れば済む。

A新聞の販売促進部である高野連が西欧貴族のアマ精神の後継者であるわけがない。彼らはスポーツエンターテインメント産業の経営者、すなわち、ブルジョアジーである。そこで、A新聞と高野連は、高校野球を教育の一環だと主張し始めた。商品コンセプトを教育にしたというわけだ。

だが、野球に限らず、学生スポーツが学校のための勝利というミッションを帯びる以上、それは強者のものだ。スポーツが教育になる理由がわからない。強いて探せば、相手のウイークポイントをついて勝利を呼び寄せる闘争技術や、進塁のためのバントを「犠牲バント」と称する全体主義が、富国強兵の「教育」に通じるかもしれない。チーム内では強者が敗者を補欠に追いやり、予選では相手高校を葬り、甲子園大会では一人の投手が200球も投げ、優勝旗を獲得する。それらを教育と呼ぶならば、高校野球は、まさに格差社会の象徴であり、勝組と負組の明確な現実を高校生に教えるという意味で、その教育効果は高い。さらに、指導者が裏金をこっそりとせしめる現実を高校生が身近に感じられることも、「教育的」かもしれないが。


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