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2007年02月02日(金) 大相撲と八百長

またぞろ、大相撲の八百長疑惑が世間を騒がせている。このテーマは当コラムで何度も書いた記憶がある。自説は以前とまったく変わらないのだが、繰り返す。

相撲は国技だが「技」が何を表すのかといえば、筆者の解釈では、演技の「技」だと思う。たとえば、技巧的という表現は、多分に人を欺くニュアンスがこめられているのであって、本質は隠されていることを意味する。相撲が「国技」と言われるのは、格闘・戦闘を象徴的(技巧的)に表現するものだからだろう。相撲は、神前の儀式として、神に奉納される。そのことが、相撲が国技と言われる本質だ。

疑惑の横綱・朝青龍の品格が常に問題となるところから推測すると、彼の言動には、問題が多いのかもしれない。大相撲=国技という位置づけからすれば、そのことは良いことではないが、だからといって、この横綱に「八百長」の嫌疑をかけるのは間違っている。そもそも相撲はスポーツではないのだから、「八百長」という概念は存在しない。関取に「八百長をやっているか」と聞けば、「やっていない」と回答するに決まっている。その質問は、プロレスラーに向かって、「君は八百長をやっているか」と問うことと同じくらいの愚問だ。プロレスラーはあくまでも「強い」のであり、「世界チャンピオン」でなければならない。マットの上で演じられる「強者」であり「王者」でなければならない。

近年盛んになった総合格闘技において、大相撲最高位にあった曙は全敗である。ルールが違うものの、曙の弱さは相撲の弱さを象徴する。プロレスラーである高山、ドスカラス、ケンドーカシンも総合では勝てなかった。柔道出身のプロレスラー小川も総合では勝てなかった。このことは、プロレスラーと相撲取りが共に演技者であり、この二つはスポーツのカテゴリーに入ることはなく、筆者の分類では芸能に属すことを証明する。

純粋スポーツでありながら、カネで勝敗をやり取りすれば、八百長が成立する。競輪、競馬、野球、サッカー、ボクシング・・・等々のプロスポーツに八百長があれば、それは許されない。勝者は敗者より多額の報酬を得るのだから、不正で報酬を得れば犯罪となる。一方、大相撲、プロレスは劇団のようなものだ。横綱、大関、幕内という格付けをもった俳優たちが、それぞれの役を演じることによって、相当のギャラを得る。主演をはる看板俳優(横綱)のギャラは、端役(幕内)よりは数段高い。それだけの話だ。

大相撲に「八百長」があるという報道は愚かだ。日本人はナイーブ(うぶ)だから、大相撲を本気だと思っている、という人もいるかもしれないが、相撲ファンというのは、横綱という「強者」が常に勝つことで安堵し、相撲取りが演ずる定型の美を楽しんでいる存在なのだ。彼らは演技と本気を区別できない時代遅れの愚か者ではない。彼らの相撲の楽しみ方は、スポーツのそれとは異なっている。スポーツのもつ偶然性を排し、決められた筋を楽しんでいる。彼らは筆者のようなスポーツ愛好家よりは、はるかにしたたかであり、屈折しており、伝統の技=国技を楽しむ洗練された存在なのだ。

「八百長報道」は、多くの相撲ファンの安寧を邪魔する騒音のようなもの、無粋以外の何者でもない。


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