イタリアの選手がジダンに何を言ったのか――世界中が関心を持っているらしい。人権団体が調査を要請したともいう。さすが、フランスの「英雄」、W杯で退場処分を食らった選手は多いが、彼ほど世界中から同情を集めた選手もいない。 ピッチの上の暴力行為が許されるはずがない。その一方、手を出さなければ何を言ってもいいのか、言葉の暴力は放置されるのか・・・かくも不毛な設問の結論としては、いまのところ、サッカーでは言葉の暴力は許される、ということになる。相手が汚い侮辱の言葉を発したとすれば、それには、それ以上の侮辱の言葉で返すしかないということだ。悲しいかな、それがルールということになる。 そもそも、今回の「事件」、舞台が決勝で退場者がMVPのジダンでなければ、そして、ジダンがフランス快進撃の立役者でなければ、退場者に同情が寄せられる余地のないものだった。相手の挑発にのった退場者は、フランス大会のベッカムがそうであったように、理性を維持できない「愚か者」と呼ばれたのだから。 ジダンが「愚か者」でない理由は、いまのところ、筆者には見つからない。相手の挑発の言葉がなんであれ、世界中に流れたジダンの暴力行為を正当化するものはない。ジダンが許されるのならば、これまでのW杯のみならず、すべての退場者が許されなければならなくなる。フランスの人権団体は、すべての退場者の調査をFIFAに要請すべきであり、FIFAもそれにこたえなければならない。 その一方、ジダンの事件を象徴的にとらえ、現状、サッカーでは、言葉による挑発が退場者を誘発する、つまり、試合に勝つための戦術の1つとなっている事実に目を向け、これを機に、FIFAがピッチ上における言葉の暴力に対する処分のガイドラインを明確に示す、というのであれば、それはそれとして推し進めてほしい。同時に、言葉の暴力をこれまで放置していた責任が、FIFAに対して問われることにもなるはずだ。
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