Sports Enthusiast_1

2006年06月28日(水) 今度はオシム礼賛か

掌を返したとはこのことか。これまで「ジーコ礼賛」一辺倒だった大新聞が、こんどは「オシム礼賛」に鞍替えした。筆者のサッカー観からすれば、ジーコ礼賛者がオシム支持にまわることは絶対にあり得ない。日本の大新聞のスポーツ欄の現状は、鬼畜米英から、米国解放軍大歓迎に転向した戦後と変わらない。スポーツジャーナリストに己のサッカー観がないものだから、海外の代表監督を無条件で信仰してしまう。辛口サッカー解説者・越後氏は、日本の代表監督選びを「ブランド志向」だと看破したが、まったくそのとおりだ。「ブランド志向」「ブランド信仰」を支えるのが、大新聞からスポーツ専門誌による礼賛記事の氾濫か。ドイツ大会までは、「自由」「自主性」「個人」だといってきたスポーツライターが、今度は「『オシム語録』に感激した」「情熱の人だ」とオシムを崇め奉る。大本営発表からGHQ発表に代わったかのようだ。
オシムを支持するのなら、ジーコ在任中にジーコを批判してオシム支持を表明してほしかった。ジーコ礼賛を反省しないのならば、オシム就任に反対してほしい。それが筋というものだ。
オシムは監督業のプロだから、多分同業者批判はしないだろう。だから、あからさまな「ジーコ批判」はしないと思う。そこで、オシムとジーコは同じ路線だ、なんていう論理構成は、シロをクロというようなものだろう。
大新聞ばかりではない。肝心の日本サッカー協会は、オシムを選ぶ理由をどう理論付けるのか。そもそも、トルシエが限界だからジーコだったはずだ。トルシエがだめな根拠は、ジーコのトルシエ批判に基づいていたはずだ。ならば、今度はどうなるのだ。頭の悪い筆者には、トルシエ〜ジーコ〜オシムのサッカー理論における三者の関係が理解できない。トルシエはだめ、ジーコもだめ、いいのはオシムということか。サッカー協会に論理性が備わらない限り、日本代表監督選びは、海外ブランドを買い漁る「日本版セレブ」と同じレベルにとどまる。4年後、「オシム」は渋すぎたので、こんどは派手目の「ベンゲル」にするワ、なんてことになりかねない。
さて、「俄かオシム信者」は誤解をしていると思うので、頭の整理をしておこう。選手を鍛えるのはJリーグ等を構成するクラブチーム。オシムジャパンが誕生しても、才能ある選手を代表チームとして純粋培養するわけではない。代表とは、クラブから選手を借りるもの。オシムが代表監督になったからといって、彼が千葉の監督として、巻、阿部、坂本、羽生らを鍛えて一人前にしたような仕事をするわけではない。オシムはJリーグや海外リーグに所属する選手の中から自分の戦略戦術に合致する者を選び、短期間にチームにまとめる役割を担う。代表練習において、代表選手を死ぬほど走らせるわけではない。
言うまでもなく、代表は完成品を扱うのであって、基礎練習を繰り返す時間などない。代表選手は諸々の条件により流動的なのが普通だ。繰り返せば、所与の条件下で戦えるチームをつくるのが代表監督の仕事だ。代表監督は、世界中のクラブと調整をしながら、代表チームを形成する。それが代表監督の宿命だ。代表監督は極めて専門職であるため、経験が重要になる。特殊なスキルを売るのが代表監督業であり、オシムはそれができる者の一人であって、ジーコはそれができる者の一人ではない――というのが筆者の代表監督論の基本になる。
だから、オシムはジーコ後任の適任者の一人なのだ。いま、慌ててオシム、オシムと急ぐのは、ジーコを代表監督に起用してドイツで惨敗した川淵キャプテンが自らの責任を回避するための方策の臭いがする。筆者は当コラムでオシムを代表監督に強く押していたので、オシムジャパンが実現してほしいとは思うけれど、いまの川淵キャプテンのやり方は異常と思える。十分時間をかけて吟味した結果なのかどうか・・・
オシム礼賛記事を撒き散らすのは某大新聞のスポーツ欄だ。この大新聞と川淵キャプテンの間には、異常とも思える強い絆があるように思える。某大新聞のスポーツ欄と川淵キャプテンは一心同体?某大新聞は川淵キャプテンの広報紙?某大新聞はあくまでも川淵を守るということか?


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