| 2006年06月25日(日) |
ジーコ擁護者はまず自己批判を |
不思議な人事だ。オシム就任は、ジーコの4年間が停滞だったことの証明だ。時計の針は4年前まで戻った。つまり、一から出直しではなく、マイナス4年からスタートということになる。 オシムのサッカーがジーコの対極にあることは、筆者のような素人にもわかる。選手を公平にみる。序列など存在しない。コンディションが悪い選手は使わない。チーム戦術に従わない選手は、ネームバリューが高くてもベンチに入れない。基本は「走る」サッカーだ。リスクを恐れず、攻撃を重視する。体力を必要とするマンツーマンで守る。伸び盛りの若手をチーム力に加味する・・・数え上げればきりがないくらい、両者の相違点は挙げられる。 最も好ましいのは、オシム代表監督の下では、マスコミが好きな「自由」対「規律」だとか「個人」対「組織」だとかいう観念的なサッカー論が消え去ることだ。勝つ条件としては、個人が優れていることは当たり前。でもナショナルチームでスーパーマンばかりが集まるはずがない。普段はクラブに所属する選手を短期間でチームにまとめ、戦力を高めること――それが代表監督の仕事だ。海外組が多くなったから代表チームがまとめにくくなった・・・なんて寝言は間違っても言うべきでない。W杯出場国で海外組のいないところなど存在しない。どこの国の代表でも、海外に散った代表選手を短期間で1つのチームに仕上げる。それが代表監督に求められる手腕の1つだ。 筆者はジーコ退任=川淵退任だと書いた。ジーコとオシムは基本的に同じ方向にある、なんて強弁は許されない。川淵キャプテンはまずもって、4年前のジーコ就任の誤りを認め、その路線を清算し、時計の針を4年前に戻し、自らの非を謝罪してから出直すという自己批判精神がなければ、トップの頽廃というものだ。 ジーコからオシムが、川淵キャプテンの政治性の現れであることが悲しい。川淵キャプテンは、ジーコ批判の火の粉が自分に降りかかる前に、だれもが納得するオシムを代表監督にもってきた。川淵キャプテンの自己保身の素早さよ。時間がたてばたつほどジーコ批判が過熱し、川淵キャプテンに責任追求が及ぶ。そういう流れを封じ込むために代表監督選びを急いだ。 責任は川淵キャプテンにあるだけではない。ジーコを擁護し、ジーコを賞賛したマスコミも反省してほしい。オシム就任を機に、ジーコの目指したサッカーは正しかった、なんて主張するマスコミやスポーツジャーナリスト、「自由」や「個性」が大好きな生半可な「知識人」は一掃される。サッカーと無関係な観念論が消滅し、純粋にスポーツとしてのサッカーを論じ合うようになれれば、これにこしたことはない。マスコミ報道が正常化すれば、代表が強くなることはあっても弱くなることはない。
|