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徒然
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2014年03月02日(日)

 あまりにテンションが変になってましたので、改めて。
 2月末日に、すぴばる小説部に新作をUPしました。

 こちらです↓
 『永遠の放浪者 とわのたびびと』

 ボリュームとしては中編。長編にはあと四百字詰原稿用紙100枚くらい及びませんでした。微妙に悔しい―――しかし二次創作としては、充分「長すぎる」くらいな長さかと思われます。しかも私の文章スタイルは基本ぎっしりみっちりですから……。
 えー……、二次というからにはジャンルというか原作が存在するわけですが、今回のジャンルというか原作は『吸血鬼ハンターD』です。はい、そこのお年を召した方、遠い目をしない。はい、そこのお若い方、「なにそれ美味しいの?」みたいな顔しない。「なにそれ美味しいの?」なお若い方でも吸血鬼は分かりますよね?ドラキュラやカーミラの名を目にしたり耳にしたことくらいは……え?無い!?
 「吸血鬼」というモチーフは、欧州で旧くから伝わる伝承が元になっていますが、かのブラム・ストーカーの著した『吸血鬼ドラキュラ』によって、一気に西洋妖怪界、アンデッド界のスターダムにのし上がりました。アンデッドくらいは分かりますよね?RPGにだって出てくるんですから。グールとかゾンビとかは、アンデッドピラミッドの底辺を支える下層アンデッドで、吸血鬼、或いはヴァンパイア、或いは、ノーライフキングと様々な名で呼ばれていますが、こちらは、アンデッドピラミッドの頂点に立つ存在で、つまり君主で、支配者なんですよ。派生作品が多数作られるうちに、いささか安っぽい扱いもされるようになってきていますが。といいますか、ドラキュラの元々のモデルであった実在したワラキア公ヴラドは一国の君主だったのに、『吸血鬼ドラキュラ』では「伯爵」まで格落ちしてますので、もう、ブラム・ストーカー時点から、そういう傾向はあったのかな、と、脱線しました。失礼しました。
 なお、カーミラの方は、レ・ファニュという、作者の名前はあまり知られてませんが、ブラム・ストーカーとは別の人が書いた百合耽美吸血鬼小説のヒロインですね。ええ、断固としてカーミラがヒロインですね!襲われる娘は別にいますが!それでやっぱりお貴族さまです。
 と、長い前置きになってしまいましたが、『吸血鬼ハンターD』は、こうした吸血鬼作品の系譜の中でも「吸血鬼を狩る者」というモチーフに焦点を当て、「吸血鬼ハント」ものという支流を生み出した、エポック・メイキングな作品なんですよ。ヴァン・ヘルシング教授もドラキュラを退治してますが、あの方は、それを専業とされてたわけじゃありませんからね。D(固有名詞)は「吸血鬼を狩る」のがお仕事です。
 エポック・メイキングってのは、例えばアニメで『BLOOD THE LAST VAMPIRE』からシリーズ化?した『BLOOD+』なんかも、Dが存在しなければ生まれなかった作品だと思うんですよ(『BLOOD+』は個人的にはイマイチでしたけれど)。そんなわけで、後の世代の主にポップカルチャー方面に影響を与えた作品です。
 私がDに出会ったのは、まだ紺色の制服に身を包んでいた頃ですから、今から二十数年前くらいになるでしょうか遠い目……。シリーズは、記憶違いでなければ現在も続いているはずです。Dは設定の上でも年を取らないけれど、私はすっかりおばさんになりました涙目。
 私が出会った当時は第一作『吸血鬼ハンターD』のみが刊行されていたのですが、その後、原則一年に一依頼一巻読み切りスタイルでシリーズが出るようになりました。このスタイルは後年、一つの依頼につき複数巻消費されるようになって崩れるんですが、とりあえず、今回、私が記しました作品のベースは、第一巻『吸血鬼ハンターD』と、第二巻『風立ちて―――D』と、天野喜孝画伯の画集『魔天』に寄稿されていた短編(もしかしたら掌編だったかも)をベースとしています。『魔天』の方は、現在入手困難かもしれませんが、本編の二巻までの知識があれば概ねネタが分かるはずです。ということなので、原作読んでね!?面白いからっ!!太鼓判押すから!!私が大!絶!賛!!!
 殊に第一巻は、スキヤキ・ウエスタンな胡散臭さと怪奇趣味とセンチメンタリズムが絶妙に融合したボリュームも過不足なく満足できる名作!です!!
 拙作の方を先に読まれてから原作を読んでいただくのもアリかな、とも思います。

 紺色の制服に身を包んで通学途上の痴漢に悩まされていたその昔、同好の士である友人と「Dで合同誌を作ろう」という話が持ち上がったことがありまして、諸般の事情により、その企画はポシャッたのですが、その合同誌用にかきかけていたネタを仕上げたものが、本作となります。こ……、構想二十ン年……いえ、筆力が無くて当時は仕上げられなかっただけです。といいますか、といいますか多いな、ンもう!最初は漫画で描くつもりでコンテ切りだしたんですよ。10頁切って本題に入れなかったので「こりゃヤバイ」と思って小説に切り換えたのですが、小説にしても「合同誌」に載せるには長すぎましたね!「個人誌でやれ!」ていう感じですよ。あぶないところでした。友人にものすごく迷惑をかけるところでした。企画がポシャッってよかったのかもしれません。
 (「書き上げたら、こちらで発表しちゃっていいか」という件は、了解を得ています)
 同人誌にありがちな日常のワンシーン切り取り、みたいなものではなくて、「ちゃんと起承転結のあるストーリーを書きたい」というのが、本作を書き始めた動機です。
 「起承転結のあるストーリー」と言いましても、実は、D(作品名)は、本編の登場人物を使ってそうしたものを編むのが非常に困難な作品です。というのも、原作で「解決してない事件」に同人が介入するわけにはいかないし、事件が解決してしまったらD(固有名詞)はその場から立ち去ってしまうので、他のキャラクターとの繋がりが希薄なんです。そして、致命的なことにDは喋らない。一人だと本当に喋らない。誰かと一緒に居たって積極的には喋らない。「どういう身の上のやつか」てのについても、職業と、まあ、お父さんはあれなんだろうな、くらいしか分からない。どこでどう育ったとかさっぱり分からない。主役なくせして、基本的な立ち位置が傍観者なんですよ。通りすぎてゆく過程で事件と若干絡むだけで。そういうの、木枯し紋次郎とか、昔の時代劇でありますけどね、様式美。左手と掛け合い漫才で一本、というわけにもいきませんし。結果、オリジナルな舞台を用意し、オリキャラを大量投入し、そこでどうにかしていただくことになりました。二次でオリキャラ投入は、本来、私はあまり好まない方なんですけれどね。
 漫画から「やっぱり小説でいくか」と切り換えた当初、「小説のパロを小説で、てどうなの?」みたいな葛藤は若干ありました。よく考えたら、漫画のパロを漫画でやってたりしてたので悩むようなことじゃありませんでしたよね。
 「せっかくだから、原作の文体を模倣しようか?」と、試みたこともありました。頓挫しましたが。えーと、そもそも、「菊地秀行(敬称略)文体」というのは、真似できるものでも真似してよい文体でもないんですよ。血迷ったばかりにえらく高く分厚い壁にぶつかってしまいましたが、最終的には「自分なりでいいんじゃない」と、自分なりの文章で仕上げました。ただし、お約束として「Dは超絶美形」という部分はくどいくらい押さえました。おかげさまで、自分のボキャブラリーの限界に挑戦する羽目になりました。「美形は絵で描くより文章で書く方が楽」とか昔言った人がいたような気がするけど!そんなことは全然ないからっ!「超絶に美形なんです!」と本文で書けるなら苦労しませんから!!
 それと、菊地秀行作品のお約束として「下衆」いやつを出さなければならないな、と。これに非常に苦しみました。原作に登場した下衆いやつというのは、基本的にそこで片付いてしまってるので引っ張ってこれないんですよ。自力で調達するしかないんですよ。オリキャラでわざわざ「下衆」いやつを書くなんて楽しくないじゃないですか。「下衆」書くの楽しくてたまらない、なんて変態じゃないですもの。しかし、ここは押さえておかなければならない、と、随分頑張りました。
 「下衆」を頑張りつつ、その、元はジュブナイル作品ですから、「全年齢」になるように、「有害図書」とか言われないように、と、その辺、非常に厳しい戦いがあったりしました。私の中で、ですけれどね(ツッコミ入ってから修正とかイヤですから)。昔は大丈夫で、今はアウトな表現などありますので、着想した当時とは色々、設定変えなきゃならない部分もありました。こういうの、つらいですね。高校生ごときが思いつくような設定が今、アウトなんですよ?色々あぶなそうなところを迂回して書いたら、逆に思わせぶりにジュブナイルから足踏み外しそうになってしまいましたよ!
 悔いの残るところとしては、「明るく終われなかった」というのと、「左手の活躍の場が、そういえば作れなかったな」の二点があります。原作のお約束では、基本、一件落着した後は、Dは微笑んで去るものなんですが、書き進むにしたがって、「ああ、無理だなぁ」「これは無理だなぁ」と、結論、無理でした。左手が活躍できなかったのは、所詮、私は一読者な立場であって、左手に何ができるのか知らないわけですし、「これができることにしよう」とでっち上げることだってできなかった、という理由もあったりします。
 ともあれ、やおいでもBLでもない、マジメな作品です。
 友人からは「またエロいものを書いて」と言われそうな悪寒がしますが……原作者がエロスとバイオレンスの双璧の一方をなす方なので、今回については私のせいじゃないわっ!(全年齢です)

 タイトル、「永遠」を「とわ」、「放浪者」を「たびびと」と読ませたかったわけですが、ルビが振れなかったので、このようになりました次第。

 原作と併せて楽しんでいただければ幸いです。

※2月末日のとっちらかった記事も一応残しておきますね……。



2014年04月04日(金)

 ちょっと前ですが、『アナと雪の女王』観てきました。
 そんで、pixivの方に二次小説うpしました。よければ読んでね!『十三番目の真実』

 こっから先はネタバレ(リンク先もネタバレ)
 実は私、『アナと雪の女王』観て、「真実の愛すばらすぃぃぃ」とか感動できなかったんですよ。映像と音楽は素晴らしかったですけれども、あと、動いてるアナは予想外にキュートだったけれども、こう、ちょっと時間を置いて反芻すると、やっぱり彼女たちには思い入れられない。エルサがもっと雪の女王然として大暴走してくれたら印象変わったかもしれないけれども、「これからはありのままの私になるわ☆」なんてちょっとワル顔してみせても、結局、本質全然変わってないわけですよ。ただのヒッキーで、引きこもり先をお引っ越ししただけだったんですよ。「化け物だ」「殺せ」と押し寄せて来た相手に対しても「ふっふっふ、きさまら全員氷人形にしてやる!」とはならないわけですよ。キャーキャーパニクってるだけでね。挙句の果てには、自分で築いた自分の城も守れず自分で作った氷のシャンデリアに潰されかけて囚われて悲運を嘆くだけ!うわっ!カタルシスねぇぇええええええええ!!!!!そして、アナは、徹頭徹尾無自覚エゴイストだと思うんだけど、彼女のエゴイズムは許されちゃうのね。つまり「天然ちゃんだからしょうがないね」「純粋なんだから許しちゃおうよ」な感じ。彼女、やってることったらビッチすれすれ、尻軽っつーか、おつむも軽いっつーか、褒められたもんじゃないっていうか、ハンスとのことにしても、アナ、君だって、ハンスを真実愛してたわけじゃないじゃないか。「キスしてちょうだい」って前に、もう、吊り橋効果全開でクリストフに心移りしてるし(この尻軽めっ!)なのに「もらえるものはもらっとこう、死にたくないし」で一方的に「ハンス、私の婚約者よね、『真実の愛』ちょうだい」は虫がよすぎると思うんですよ。あの時点でアナの中に「真実の愛」が無い時点で、仮にハンスが真面目にキスしたところで効かなくて「どぉしてぇぇぇ!?」って大ショック展開になったにきまってるんですよ。ハンスにしたら、どっちに転んでも罰ゲーム。大体、最初にねーちゃん追いつめたのアナだし!ねーちゃんがあんな自虐的卑屈っ子に育っちゃったのアナのせいだし!アナの頭が空っぽだったせいだし!子供の時はしょうがないにしても、からだ成長してもおつむ子供のまんまだし!実のところ、姉妹が軽率でもなく自棄っぱち暴走もしなければ、劇中、「悪役」を演じさせられたキャラも、普通レベルの「俗物」でいられたんじゃないか。無事に祖国に帰れたんじゃないか。ハンスに至っては、理想の王子様でいつづけることだって可能だったんじゃないか、そんな気がしたりも。けれども、ディズニー的にはヒロインの立場は絶対死守するわけですよ、神聖不可侵なんですよ、少なくとも劇中でヒロインdisったら「悪」の烙印を押されちゃうわけですよ。すばらしいディズニークオリティだなぁ、と思いました。
 で、pixivに上げたのはハンスの話なわけですが、ハンスが特に好きだったわけでもなかったんですが、ちょっと引っかかってたことがあったので書いてみたところ、色々、自分の釈然としなかった気分に腑に落ちたものがあって。要は、一見非常にシリアスでセンシティブな話のようであって、結局は「影が無い」話だったんだなぁ、と。書いてるうちに「あ、そうか」と思ったのだけど、アナは全く怖いもの知らずだし、本当の意味では孤独ではなかったんですよね。アナの味わった寂しさってのは、「友だち遠くに引っ越しちゃったさびしー」とか「友だちからメルがなかなかこないさびしー」とかいうレベルの幼いものであって、「孤独」ていうほど深刻ではなかった。
 エルサにしても、これが、「自分はこんなに苦しんでいるのに……無邪気なアナが憎い」とか嫉妬してたら話の毛色も展開もまるで違ったわけだけど、そういう「影」は、まるで持ってなかった。
 姉妹とも、キレイキレイなんですよ。実に陰影に欠く造形なんですよ。
 すっごく非人間的ですよね!
 ……乗り越えるべき影も闇も無く「真実の愛」って言われてもさぁ……。
 比べたら、エルサを怖がって騒いだおじさんや、結局南極当て馬扱いで放り出されたハンスの方が、「影」を持つ分、よほどに「人間」してるんですよ。彼らが「真実の愛」に目覚めた方が感動的だったんではないか、と、私なんかは思っちゃいますね(絵面として華が無いことはななだしいけど)
 いや、ハンスの人間性は……書いてるうちに私が自分の中で付与しちゃったのかもしれないけれども。
 えっとですね、今回これ書く前に、「ハンスの本質は鏡である」解釈など読んだり、自分では「第十三王子」て設定に引っかかりを感じたりで。「十三」てのは知ってる人は知っている、欧米じゃ不吉な数字ですよ。裏切り者を示唆する数字ですよ。敢えて、そんな設定を付けるって何か意図があったのかな、とか勘ぐっちゃうじゃないですか。でもまあ、名前は「ユダ」ではないわけで、じゃあ「ハンス」って名前にはどんな意味があるんだ?と由来を調べたら、「主に最も愛された使徒」とか出てきちゃったりしたわけです。こいつぁ、見た目以上に複雑なやつだな、という気分になっちゃうでしょ!?
 そういうのをぶちこんで仕上げたところ、ハンスのがれりごー歌いそうな感じになっちゃいましたよ!
 それと、アンデルセンの原作では、雪の女王に魅入られるのは少年だったわけで、『アナと雪の女王』では、少年はいないし、エルサははた迷惑な能力はともかく、邪悪な雪の女王ではないし、もう、見た感じ全然違う話になってるんですけど、もしかしたら、雪の女王の魔力に囚われた少年はハンスだったのかもしれない、そして、彼を救う少女は現れなかった、ということなのかな?ということは、一見ハッピーエンドのようで、とってもバッドエンド!どころか、被害者を救おうという物語が始まってもいなかったんですね。被害者を生み出したところでエンド!陽気にスケートしてる場合じゃないよっ!!
 ……まあ、ヒロインもので百合ものなんで、男は立つ瀬無いって話なんですね、これは。

 クリストフにしたって、あれだ。いいところまで行ってたけれども、アナは百合を選んじゃったわけだし!!橇と名誉と感謝をもらえたんだから喜べって、ちょっとナメてるよね。
 ダブル「恋人候補」として見たハンスとクリストフの対比は、あれです。
 映画観てた間はクリストフの方が男前に見えたもんです。
 でも、クリストフは、これまた全く影を持たないキャラなんで、見た目も中身もいいやつだけど奥行きは感じないかな、と。ハンスと直接対決あったら話の流れは変わったかもしれないけれど、ハンスはアナが自力でぶっとばしちゃったし。
 あ、クリストフの名前の由来もキリスト教の聖者ですね。響きからしてそれっぽいけど。wikiを信じるならば「キリストを背負う者」だそうで。じゃあ、アナを助ける配役を意図してのネーミングなのかな?でも、アナは絶対、キリストではないよね。だって、ミニマムな家族愛って全然キリスト的じゃないもの。

 なんしか観てる間と直後と、観終わってしばらくした後で、ずいぶん印象変わっちゃう映画だなと思いました。

 ともあれ、あんまりハンスの見捨てられっぷりがひどかったので救済してみました。読んでいただけると嬉しい。



2014年09月05日(金)
『江戸しぐさの正体』斜め読み

 最初にお詫びを申し上げます。
 実は私が本書を購入したのは「自分自身の興味」のためではないということです。同居している騙されやすい老人が「なんとなく印象の良い気がする」言葉に騙されないよう、読ませることが目的でした。私は「老人に読ませて差し支え無いかどうか」チェックするために目を通した程度です。熟読とはとうてい言えたものではなく、振り返ればかなり読み飛ばしている箇所がありました。
 こうした姿勢での読書は、本に対しても著者に対しても、はなはだ礼を失するものかと存じます。ましてや、こうして感想めいたものを記す人間としてはいただけないにもほどがあります。まずは、その点、平にご容赦いただきたく、ここにお詫び申し上げるものです。

 感想ですが、結論から申し上げると、本書は「江戸しぐさがガセであると既に知っている人」だけが満足し、そこで完結してしまう書物です。
 私が求めていたのは、「江戸しぐさ」にハマってしまいかねない人達のためのワクチンとしての書物です。そういった面では全く不満です。
 「江戸しぐさ」を糾弾する書は、本書がおそらく初めてかと思われますので、今後の同じ著者の手による書なり、他の文筆を生業とされる方の書なりに期待したいところです。
 重ねて申し上げますが、欲しいのは、「江戸しぐさ」という一種の自己啓発カルトの影響力に対抗し得るワクチンとして機能する書物です。「江戸時代にこんな習慣無ぇよwww」と笑いものにする書物なら要りません。むしろそういった嘲弄的な書物ですと、逆に「江戸しぐさ」支持者の結束を強固にして、洗脳解除不能にするおそれを感じます。彼らを一層過激にするおそれを感じます。

 以下、雑感です。
 まず『江戸しぐさの正体』を私自身が読んで引っかかった―――本書の機能を損ないかねないと感じられた部分、二箇所。
 著者、原田氏にTwitter上でも申し上げたのですが、改めて挙げておきます。

 一つは初読で引っかかりました。現在の教育現場における「掛算の順序への固執」を「腐女子のカップリング」に喩えられた部分です。
 この部分の問題点は二つありまして、一点には、「腐女子のカップリングと掛算がどう関係しているのか、一般には解らないだろう」通じない滑ったギャグと化しているというところです。
 二点目として、「腐女子」という言葉の背負っている悲喜劇(当事者にとってはかなり笑えない事態)に対する理解に欠けている、無頓着であると感じられました。
 「腐女子」という言葉は、字面だけ眺めると、なかなかにおぞましい印象がありませんか?最近では実際に、「気に食わない女」を片端から「腐女子」呼ばわりする、つまりかなり程度のひどい罵倒語として用いられる例が多く見られます。この言葉の本来の成り立ちは、少しばかり変わった趣味を持った女性たちが、自らの趣味を「腐っている」と自虐的に言及し、「婦女子」という既存の言葉に引っ掛けて「私達は腐女子よね」と、ユーモアを交えて名乗ったことに端を発します。この出発点のユーモアは、後に周辺で湧き上がった誤解と偏見と嫌悪と憎悪に呑み込まれてしまいました。
 そうした来歴を持つ言葉を、主に「来歴を知らない人」が読む書に、来歴を知らせずに言葉だけをポンと投げ出すのはいただけません。下手をすると「江戸しぐさ」への興味がどこかへ行ってしまって、「この『腐女子』って何だよ?」と、いらぬ興味をかきたててしまいかねません。そして、この危惧のために、私は、同居の老人たちにこの本を読ませられません。

 二つ目は「江戸しぐさ」の中にある「心肥やし」なる表現への言及についてです。「肥やしと言えば肥料」「江戸時代には人糞が肥料として用いられていた」「人糞肥料のために大根まで糞臭いと外国人に忌まれた」くだりです。この部分は、本来「心肥やし」の胡散臭さを知って納得してもらわなければならない層の反発を、逆に招いてしまう危険がある旨、これもTwitterに投稿しました。が、何しろあそこは流れるので、改めてここに記します。
 江戸時代に人糞を肥料として用いていたのは本当です。
 外国人が日本の大根を糞臭いと嫌って食べなかった記録もあります。
 ただし、本当に日本の大根が糞臭かったかどうかは定かではありません。
 人糞を肥料として用いていたのは江戸時代のみではなく、実のところ、これが廃されたのはつい最近、太平洋戦争が終結した後のことです。廃止された理由は臭いではなく、寄生虫の感染源になるから、でした。
 私の母は昭和一桁生まれの農家の娘で、人糞を肥料として用いた畑で採れた大根を、おそらく食べたことがあると思われる人物です。彼女に尋ねてみましたが、大根はうんざりするほど食べたが、戦前戦後で特に風味が劇的に変わったという印象は無かったそうです。
 また、昭和初期まで人糞肥料が用いられていたからには、明治大正の大根も、もちろん糞まみれ(実際には発酵熟成の過程を経るので、そのままの糞ではありませんが)のはずで、近代に来日した外国人も言及していなければおかしいのですが、寡聞にして、こちらは存じあげません。
 江戸時代に来日した外国人といえばオランダ人ですが、当時の欧州人は白人至上主義であり、極東の黄色い人々を見下していたことは想像に難くなく、また、通商のために訪れたカピタン以下の面々は日本に来たくて来たわけではありませんから、彼らの耳目に分厚い偏見フィルターがかかっていた可能性は大いにあります。大根そのものも、西洋大根(ラディッシュ)と日本の大根は見た目も風味もかなり違いますし、聞くところによると味噌醤油のにおいは、慣れない人にはかなり悪臭に感じられる、とのことですので、大根が本当に糞臭かったか、には、疑問が残ります。カピタンらの鼻をひん曲げた犯人は調味料(味噌等)の可能性もあります。
 しかし、ここで一番の問題点は、大根の真実がどうであろうと「江戸の庶民が『江戸時代来日した外国人』と接触できる機会はおそらく無い」という部分です。江戸時代の外国人は長崎の出島に閉じ込められ、江戸城に訪れる時も厳しく護衛が立てられ、庶民とは、まず言葉を交わす機会があるとは思われません。言葉を交わしてもまるで通じない可能性が高いですね。長崎の、出島出入りの業者なら別ですよ?でも、問題は「『江戸』しぐさ」であって「『長崎』しぐさ」ではないんですよ。
 江戸時代来日した外国人がいくら大根が糞臭いとぼやいたところで、それは江戸の庶民には届くはずがないんです。届かないクレームに江戸っ子が振り回されるはずもないでしょう。
 ここを突かれると、せっかく「心肥やし」の胡散臭さを説くために割いたこの章が、逆に「心肥やし」という言葉を強化しかねないのです。
 また「肥やし」といえば「肥料」というのも短絡的な言及で、「天高く馬肥ゆる秋」という言葉があるように(この言葉は紀元前の漢籍に由来するそうです)、「肥ゆる」とは「栄養状態が良い」ことを意味し、肥料としての「肥やし」は、「痩せた」土に栄養を与え、「肥えた」土にするために撒かれるものです。「心肥やし」とはそういう意味だ、と反論されてしまえば、肥料の話をいくら聞かせても無駄です。
 ただ、問題提起として、「商人哲学」であるという触れ込みの「江戸しぐさ」が、なぜ、「肥やし」という言葉を使ったのか?という切り方ができなくもないように思います。「肥やし」といえば「私腹を肥やして云々」という慣用句もあり、商人と「肥やし」が結びつくと、時代劇でよく見る『越後屋』と悪代官の「山吹色のお菓子」が連想されて、実にいただけません。教養を指すのに「他に表現のしようが無かった」とも考えられません。例えば「心養い」とすれば、「心肥やし」よりよほど文字の印象もスマートで、悪いイメージもありません。なぜ「心養い」ではなく「心肥やし」なのか。
 あくまで憶測ですが、「江戸しぐさ」の最初の提唱者、芝三光氏は、実際には伝統的な商家と無縁の人だったからではないか、と、私は考えます。「肥やし」で栄養をつけるという思考がまず商人らしくありません。かといって、農村の育ちならば、「肥やし」はそれこそ「糞尿の加工品」であり、必需品であると同時に臭いものであり、肥溜めの罠として夜道で待ち構えるものであり、日々肩や背を痛める憎い天秤棒にぶら下がる肥桶の中身です。そんなものを良い喩えに使うだろうか、と、これまた疑問です。
 氏の来歴が気にかかったので該当の頁を読み返してみましたがGHQでバイトする前がはっきりしませんね?横浜生まれ、ということらしいので、もしかしたら漁村の出身ではなかろうか、と思い巡らしたりします。ちなみに、食えない類の魚も、肥料の素として使われます。こちらが着想の元であった可能性もあり得そうです。
 更に「心肥やし」に問題提起するとすれば(現代で言う「教養」を指すそうですので)、そもそも江戸時代に「教養」という概念が存在したのか、と問いかけることもできるかと考えます。
 「教養」という概念の日本における成立については、言語史を調べなければなりませんが、おそらく、「教養」という言葉は、近代において、西洋思想を輸入するために造られたものではないかと推測いたします。
 「教養」と言いますと、江戸時代からさらに遡って平安時代には、殿上人は漢籍・古典(萬葉集・源氏物語・諸々の日記群・勅撰和歌集等)を諳んじて、それらの膨大な知識の蓄積をなんと、ラブレターをしたためるために駆使していました。庶民の方はかなり時代が下るまで明確な記録というものが無いのですが、萬葉集に多くの詠み人知らず(名を残すまでもないと判断されたのだろう位の低い人達と推測される)による歌が採られ、時折発見される落書きなどからも、けして知的程度の低い人達ではなかったと推測されます。
 江戸時代には三味線、踊り、唄等、様々な芸事が嗜まれ、貸本屋が繁盛しました。芸事を嗜み書物を読み芝居や落語で物語を愉しんだ庶民は、「心を豊かにするため」に、それらを嗜んだのでしょうか?おそらくは「ただ、そうしたいからした」にすぎません。それらは後世から見れば教養ですが、当時の人々にとってはそんな御大層な看板など必要としない、遊興だったと思われます。
 これらに「教養」なんて看板を押しつける方が野暮というものです。そう、粋じゃないんです。無粋なんですよ、「江戸しぐさ」は。
 先に、「心肥やし」について「商人らしくない」と言及しましたが、商人どころか「都会人らしく」もないんです。都会人に特有の垢抜けた洗練が、「心肥やし」に限らず「江戸しぐさ」全般から感じられないのです。どこか野暮ったいのです。
 このあたり、私のような浅学の輩では「と感じられる」止まりですので、ぜひ、研究者の方々に深く掘り起こしていただきたいと期待しております。

 長々と重箱の隅つつき、まことに失礼いたしました。が、こうしたことは、敵につつかれる前に味方につつかれた方が良いと思うのです。
 私は「江戸しぐさ」批判の敵ではありません。「江戸しぐさ」は嫌いです。消えて欲しいと願っています。私が様々なメディアに触れて知った歴史と異なるだけでなく、野暮ったく、欺瞞と偽善の悪臭を放って、「江戸しぐさ」の五文字を見るだけで吐き気を覚えます。虚偽を以って「道徳」を教えるなど、笑い話にもなりません。腹立たしいかぎりです。しかし、だからこそ、重箱の隅をしつこく突きました。「江戸しぐさ」を打ち砕く決定打となって欲しいからです。
 「江戸しぐさ」というものの怪しさ、きな臭さに危惧を覚えていらっしゃる方は、本書を「こんなものを読みたかったんだ!」「自分もこう言いたかった!」と賞賛するよりも、これが敵を斃す武器たり得るか、検討され、弱点を洗い出し、改められ、さらに鋭く研ぎ澄まされた矛を鋳造された方が良いかと思います。

 また、「江戸しぐさ」に限らず、自己啓発カルトに相対される方の常として、「こんなことも理解できないのか」という、高圧的な教師めいた姿勢で相手に臨む癖があるように見受けられます。高圧的な教師というのは、生徒と教師の関係を正式に結んでいても、良い教師のあり方とは言えませんね?生徒と教師の関係でないのなら、なおさらいけません。相手を萎縮させようとしたり、自尊心を傷つけるようなことはしないであげてください。無意識にそういう態度に出る危険もあります。客観的に、自分の姿勢をチェックして、抑制してください。この落とし穴は、物事をよく知り、理解されている人ほどはまりやすいのです。お気をつけください。
 Twitter上で見て心痛めた意見に「江戸しぐさにハマる人ほど、日本の歴史はどうでもいいと思っている」というものがありました。彼らは「どうでもいい」とは思っていません。自分の帰属する歴史が「こうであってほしい」と夢見ているだけです。夢から目覚めさせるのに乱暴に小突き回さないであげてください。見下さないであげてください。
 彼らは本来は、善良な、善良であるからこそ、嘘にも騙されやすい人達なんです。

 繰り返しますが、今回は、「江戸しぐさ」の嘘を最初から見抜いている人のみが喜ぶにとどまる出来で、これからハマる危険のある人へのワクチンたり得ていません。今後に期待したいと思います。



2015年03月06日(金)
絵描きを巡る憂鬱な事象の一つ

 ご無沙汰です。Twitterに入り浸ってて、こっちの方はすっかり放置になってました。人間、一日、いや、一生に打てるテキスト量って上限があるものなんですね。
 それはさておき、Twitterに入り浸っていると絵描きさんたちの悲喜こもごもなつぶやきが流れてくるわけですが、その中で気にかかるものもあったり、あったり、で、今回言及するのは、ずっと以前に遭遇して自分個人の胸にしまっておこうかと思ってたトラブルなんですが、「プロになりたいアマチュア」の人に「こういう事例には気をつけてくださいよ」と警戒を促した方がいいかな、と思い直しまして、どうあがいても長文になるので、久々こっちのエントリーを更新することにしました。

 まず、自分の経歴について記載しておきます。
・過去にギャラの発生する絵仕事を請負っていた経験があります。
・現在は仕事では描いておらず、趣味で気が向いた時に気が向いた絵を描いています。
・以前は個人サイトを持っていましたが、現在は時流もありまして、イラスト投稿SNSに絵を掲載しています。

 そんなこんなで―――

 数年前、伏せるのもあまり意味の無い某大手イラスト投稿SNSが某企画で企画応募者の絵の無断流用があったとかなんとかで炎上した際に、あまりにキナくさいのに嫌気がさして新天地を求めて何箇所かSNSを放浪ししました。その放浪中に一時、身を寄せていたSNSでのことです。結論から言えば、そこは安住の地にはならなかったわけですが、その理由が以下となります。

 そこは当初は普通のイラスト投稿SNSに見えました。時々お知らせで掲載されているコンペとかは、よくある「著作者人格権不行使契約」に許諾して応募してくださいね、というのが概ねで、その辺はイヤだったんですが「無料でスペース使わせてもらってるし」「SNSも広告料とか入らないと困るんだろう」ということでスルーしていました。
 そんなある日、そのSNSで新企画が立ち上げられました。
 要約すると、イラストを投稿している利用者に対して「SNSが絵仕事紹介してあげるよ」企画です。
 もちろん、仕事を紹介してもらうには一定の条件がありまして、SNS運営が、投稿されてる絵を審査して「この投稿者の能力なら仕事を紹介しても大丈夫」と認定された人のみが絵仕事を斡旋してもらえる、ということでした。まあ、斡旋される仕事に見合った能力の無い人に仕事が来ないのは普通だよね、と、この時点では思いました。
 過去に「普通の仕事」の求人サイトや派遣会社に出入りしてたこともありましたので、「絵描きに特化した求人サイトを構築したいのかな?」というのが第一印象でした。で、そういう解釈で「ニーズが(無いと思うけど)あったら声かけてね」と、わりと気軽に登録してしまいました。これが間違いでした。
 普通は、「普通の仕事」の求人サイトや派遣会社では、クライアントの要求にマッチしない人材にはそもそもお声はかからないのです。この件も当然、そういうスタンスだろうと思っていたら、しばらくして、私の「担当編集」を名乗る人物からメッセージが届きました。

 初っ端が
 「そこそこ描ける方のようですが、ラフばかり投稿されていますね。きちんとした絵は投稿されないのですか?」

 私
 「全部クリンナップして彩色してますけど?」

 (自称)編集氏
 「絵板で描かれた絵ばかりでしたので」

 私(絵板絵と「ラフ」は意味が違うわクソッタレ、と思いながら)
 「これは絵板絵ではありませんよ」

 (自称)編集氏
 「綺麗な絵ですが、解像度が低いので、もっと解像度の高い絵をお願いします」

 私(???)
 「こっちはどうですか?」

 (自称)編集氏
 「塗りムラがあります」

 気が短いなと思われるかもしれませんが、実際気が短いもので、私、ここでキレまして、当該SNS運営に(自称)編集氏が失礼である旨のクレームと「この企画からは抜けさせてもらいます」というメッセージを送りつけて、そのSNSそのものから脱退しました。

 「絵描き特有の気難しさ」というのも否定はしませんが、それを差し引いても、このやり取りには(自称)編集氏側に問題点がいくつかあります。

・暗に「完全新作を描き上げて投稿する」ことを要求している。

・(自称)編集氏の望む方向性の絵を描くように要求している。

・にもかかわらず(自称)編集氏の望む方向性を明示していない。

・上記の要求が、正式な契約の締結されていない状況下で行われていた。


 私も、「オーダー通りの絵」を描く仕事を請負ったことがありますから、契約下でならば、クライアントの要望を汲み取る努力を払います。
 また、絵仕事を受注するために、発注者の求めるサンプルを提出したこともあります。
 普通は、サンプル段階で気に入らなければ、ご縁はそこまでで、発注受注関係にはならないんです。また、「まともな発注者」ならば、サンプルの形式を指定してきます。少なくとも、私が過去に受注したケースではそうでした。

 この件において、(自称)編集氏と私の間には発注受注の契約は存在していません。絵描きに「自分の望む通りの絵を描かせたい」ならば、きちんと契約を締結して発注者になっていただく必要があります。逆に言えば、契約関係に無い人には、絵描きに「自分の望む通りの絵を新たに描き起こしてもらいたい」と要求する権利はありません。
 「高解像度」の絵を要求してくるというのも解せない話で、単に巧拙を判断するためだけならば、高解像度である必要は無いはずです。問い詰めてもいないものは断言できませんけれども、解像度が高いものは色々使い回しがききますから、「何かに流用する意図があったのではないか」と、要求される側としては疑念を抱きます。それもどうも欲しい絵の方向性が要求する側の頭の中である程度定まっていた気配がある、となれば、一層、疑心暗鬼に陥るというものです。
 この疑念が「誤解ですよ」ということならば、この(自称)編集氏は、誤解を招く態度を反省し、改めるべきです。金銭・契約の絡む企画であるだけに、「曖昧」に「暗」に「要求を通そう」とするのはやめていただきたい。絵描きを不機嫌にさせてモチベーションを下げるだけです。モチベーションが下がって上がるクオリティなど存在しません。「クオリティまたは絵の方向性が条件に合わない」ということならば、そもそも声をかけてこないでください。「普通の求人サイト」では、クライアントの出す条件にマッチしない人材にわざわざ声をかけて「この条件に合う人材になれ」などとは要求しません。
 絵描き側も、こうした場面に遭遇した際には、相手の要求に応じないか、或いは「契約等の関係を明確にすること」を逆に要求した方が良いかと思います。少なくとも、契約を結んでいない相手の要求に従う義理は一切無いことは念頭に置いておく必要があるでしょう。
 さらに追記しますと、発注受注の関係は、間に仲介者をはさまずに直に結んだ方が対応すべきトラブルが少なく済むのではないかと思います。営業は面倒くさいですけれどね。結局、面倒くさいと思う方向に動いた方が結果として面倒が少ないんですよ。

 最後に、言うまでもないことではありますが、受注の際には契約内容をきっちり確認された上で引き受けてください。



2016年12月23日(金)
第一回文アル読書会

お題:徳田秋声「新所帯」

 まず、文体に関して―――「読める」―――私にとっては比較的読みやすい部類の文体ではあったけれども「読ませる」―――ぐいぐい引き込むタイプではありませんでした。地味……、そう、地味というか華が無いというか……。徳田秋声との出会いが文アルなので、頭の中であのキャラがちらついてしょうがなかったですね、本来の徳田秋声像とはだいぶと違うんでしょうが。
 本文中、「美しい」「美しく」という形容が何度も現れるけれども、それが実際に美しく印象づけられたかというとさにあらず。主人公である新吉も美形設定されているはずなのに、ともすれば「美しい」はずの容姿を忘れ去ってしまう。美が表現できていない。美の表現は苦手?なのに「美しい」という形容を少なからず用いるところに足掻きのようなものを感じてしまいました。

 内容については、「結婚て就職と似てるよねぇ」という感慨が最初に。アタリの雇用主を引けば幸せだけどハズレを引くと後々までしんどい思いをする。作にとって新吉は「大ハズレ」とまではいかないにせよ「アタリ」ではなかった。以前奉公に上がっていた先では随分可愛がられていた、という断片的描写からして、作は褒められてこそよく働く、働けるタイプだったのではないかな?けれど、新吉は「褒めて使う」のは、おそらく下手だよね?叱りつけてしまう。よくない組み合わせですよ。

 まあ、これは横道だけど、私自身の仕事遍歴でも何かと褒めてくれるところではミスも少なくシャキシャキ要領よく片付けられた気がするし、欠点をあげつらわれる所ではどうにもミスが増えて自分のことがひどいダメ人間に思えた。そんな記憶とも重なって、この辺の作の心情はいたましく思えました。

 一方で新吉の苛立ちもわからないでもなく、共に何かの事業を行う(結婚て突き詰めれば「家庭」経営だし)というのは難しいことだね、と、しみじみ。伴侶はいわば共同経営者だから、期待するところも失望するところも大きいのだろうね。ただ、新吉は、外見のわりには内面は器の小さな俗物だな、と、愛せない印象でした。

 作が「実家に帰らせていただきます(離縁する意味で)」できなかったのは、作の気が小さかったから?当時の「夫婦」というものが概ね、こういうもので、夫の暴力(精神的にも物理的にも)も「普通」だったから?新吉が金銭的には甲斐性のある方だったから?多少なりとも新吉の外見に惹かれていたから?などなど、現代に生きる多少気の短い方な私は色々勘繰ってしまいます。
 新吉が作を捨てなかったのは、先に書いたとおり、器の小さな俗物で、世間体を気にするところもあったからかな、と。思い切りはあまり良い方には見えません。作のこともだけれども、国のことも、結局相手が動かなければ自分からは動かない。気の小さいやつだな、と思います。
 新吉の「容姿が美しい」と何度も言及されながら、読んでいて美形が想像できないのは、こういう要素によるのかも。チグハグなんですよね。かといって「ギャップ」を描写したいわけでもなさそう。だから「美しい」形容が、秋声の何かの足掻きのように感じられてしまうんです。

 国は、新吉の家庭に蒔かれた「波乱の種」で、これが芽を出し順調に(?)育てば生臭い話になるけど大いに盛り上がったのではないかと。なのに、芽が出かかったところで刈り取っちゃうんですね。摘み取るというよりザクッと刈り取られた感じ。
 女房の留守に色っぽい女に上がりこまれて、泊まり込んでもいたようだし、普通ならすることしてるとこじゃないのか?みたいなもんなんですけど、「いや、新吉には無理なんじゃないかな」という気もします。それができる男だったら、とうの昔に自分とは性が合うとはいえない作にも離縁を申し渡していただろうし。作をキープし続けるのも「情がある」というより、「別れるほどの能動性を持っていない」からというふうに見えます。
 国が男に馬乗りになるほど能動的な女だったなら、そこでおそらくそういう関係になってしまって切れるに切れなくなっただろうけれども、そんなふうでもないところを見ると、国も案外受け身で「さりげに誘ってはみたけど乗ってこないから、やってらんなくて愛想をつかした」のかな、とも。

 逆に国と小野の馴れ初めから別れを書いた方が話としては面白かったのではないかと思うのですが、そうではなく、あくまで小さく波風をたてられない新吉を中心に据えたあたり、主要登場人物が皆どこか受け身な姿勢なあたり、秋声の限界なのか趣味なのか。

 総合して言えば、美しくもなく醜くもなく、綺麗でもなく汚くもない話でしたね。

 あ、オチには、「なんだ、こいつら、やるこたぁ、やってたのか」と思いましたw



2017年01月05日(木)
第二回文アル読書会

お題:幸田露伴「観画談」

 タイトルからして「絵を見る話だな」「展覧会にでも行くのかしら」と、てっきり「絵を見る」ところから始まる話かと思いこんで読み始めたら、これがどうして、主人公は一向に絵を見に行く気配がありません。そもそも絵に興味のある人物でもなさそうです。さらにあろうことか、展覧会などには縁の遠い田舎へと山の中へとどんどん分け入ってしまうじゃありませんか。え?絵は?絵はいつ見るの??と、戸惑ってしまいました。
 終盤、さる場所にたどり着いたあたりから、「ああ、これは」と、さすがにピンときまして。そう、「絵を見る」のはスタート地点じゃなくてゴールだったんですね。
 まさしく、絵を見ることによって話に終止符が打たれました。

 全体としての雰囲気は、喩えて言うなら、漫画に喩えるのもどうかと思うのですが、諸星大二郎あたりが描きそうな話だな、て、露伴の方が大昔なんですけれども!そういう感じです。
 ことに、山の中でどんどん雲行きが怪しくなってゆくくだり以降は、情景描写も絵画的になってゆきます。それまで漫然と「という話で〜」という観念的な流れだったのが、具体的になり、写実的になり、真に迫った映像として見えて来そうになるのです。で、気持ち盛り上がってくるのもこのあたりからで。
 クライマックスは、謂うまでもなく「絵」が登場した部分なのですが……。

 「世にも不思議な物語」なんかだと、晩成先生、帰ってこれないところでしょうが、しかし待てよ、それなら誰が晩成先生の消息を語り手(誰かはしらないけれども、誰かによって「こういう人がいて」という語りで始まっていたので)に伝えたんだ?と、怪しんでいましたら、晩成先生、ギリギリセーフで帰ってきました。
 表向きは。
 
 実際どうだったのか……。絵に見入るところまでは確かに連続した一つの人格だった晩成先生だけれども、その後、人づてに語られる姿から推測するに、どうも絵の一件以来、重大な何かが変わってしまったらしい……。
 もしかしたら、灯りが揺らめいたあの瞬間にはもう、魂の半ば以上、呑み込まれてしまったのかも……。
 そんなことを考えたりしました。

 この話そのものが、一幅の絵のような、「観画談」ならぬ「怪画談」でした。



2017年01月24日(火)
第三回文アル読書会

お題:芥川龍之介「雛」

 いきなりですが、これ、私、昔読んだことがあります。多分、読んだことがあります。
 なぜ「多分」なのかというと、詳細なストーリーは全然覚えてなかったのですが、お母さんの面疔、面疔の描写が「あ、あれ!」て、トラウマ掘り起こされる感じで蘇ってきまして。「面疔」という言葉も当時は知らず、謎の怖い病気と認識してガクブルしてた記憶があります。
 面疔の描写、痛々しいですよね。
 タイトルが「雛」で、ヒロインもひたすら雛人形にこだわってああだこうだ言ってるわけですが、私にとっては「面疔」の話で、お母さんは結局、全然容態良くなりそうにないし、雛を売ったお金で医者にかかれた的な展開も無いし、そのまま悪くなって死んでしまったのかしら、と、改めて「面疔」でガクブルしてしまいました。
 断片的に「そののち、こういう時にも」云々、と、お兄さんについての不幸な未来像も描写されてましたが、結局、この話って「死」の影について語っていたのかなぁ?という印象です。

 最後に付記のように書かれていた「物語を書くきっかけ」の出来事―――精魂込めて作られ、愛と祝福に迎えられた雛人形も、時代の容赦ない流れに呑まれて無残な姿になってしまう。
 そのことを考えると、おもいもかけず願いの叶った夜の光景も、また、蝋燭の消える前の一瞬の炎のゆらめきのように思えます。