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2010年12月07日(火)
東京都の青少年育成条例改正案の問題点を考える

 シンポジウムに行ってきました。
 「考える」って言っても、ほぼパネリストさんたちの発言で終わっちゃいましたけどね。あと、ゲストさん達のご挨拶。

 でも、おかげさまで、問題の要点が見えてきました。
 現在の都の「青少年の健全な育成」に関する権限って、警察の「治安対策本部」が持ってるんですってね!?
 ええ!? 警察が青少年を育成するの!?
 青少年の育成に実地で関わってるのは、保護者と教育者と児童福祉関連のお仕事されてる方達でしょ? 警察のお仕事って子育てじゃないじゃん。何この、畑違い感。
 あのね、どうも世間一般に勘違いされてる気がするのだけど、「子供を叱る」のは、特定の人に許された「権利」なの。教師だって免許商売でしょ? 教員免状持ってない人が先生として子供に接することはできないでしょ?
 痛みを伴う権利だけれど、これ、義務じゃなくて権利なんだよ? 選挙権を持った人が投票に行けるのと同じ。
 行政に「うちの子の躾お願いします」って言うのは、棄権するのと一緒なんだよ? しかも治安対策本部って、教育に関してはまるで門外漢。
 「がんじがらめに縛って楽にしてやるから、お前が持ってるその権利よこしな」と言われてるようなもんだよ? その口車に乗っちゃダメですよ! お母さん! お父さんも! 教職員の皆さんも! 児童福祉のお仕事されてる方も!!
 「それは、私たちの権利だから取り上げないで!!」って声を大にして言わなきゃ。

 それとね、「こんな物はあんたの為にならないから」って、有無を言わさず子供から取り上げるのって、最終的には「健全な育成」の為にならないと思うな。
 というのも、私の知ってる事例でこんなのがあってね―――。
 昔々、漫画が大嫌いな親のもとに生まれた漫画が大好きな子供が居ました。子供がなけなしの小遣いで買った漫画は、見つかるや全て破り捨てられました。子供が泣き叫んで止めてと懇願しても破り捨てられました。子供は自分の大事なものは漫画に限らず、親の目から隠すようになりました。親との信頼関係に大きく深い罅が入ったのです。
 そして月日が経ち、大人になった子供は、立派な漫画オタになり、アニオタになり、三食をもやしにかえても浮かせたお金で漫画は元より、アニメDVDや情報誌やグッズを買い漁るようになってしまったのです。
 つまり、子供を漫画から遠ざけようとした親の意図は全く実らなかった。むしろ、逆効果だったかもしれない。
 って、自分の話なんですけどね。
 今思い返してもあれは恨めしかったな。
 私の為を思って、というのは理解してるけれども「他に方法は無かったのかしら」と思っちゃうな。

 ただ、信頼関係に罅が入っても、親子関係が完全に断絶しなかったのは、今にして思うに、うちの親は私を叱る時に他人を介入させなかった。常に、親VS私で、正面から対決してくれた。「この子から漫画を取り上げてください」なんて行政にお願いしたりしなかった。
 だからだと思いますよ。

 子供ってね、親がちゃんと自分を見ていてくれてるか、気づいてるんです。
 親が自分の方を向いてくれない、自分のことを他人任せにしてしまう、そんなことされたら、親を愛せなくなってしまう。
 子育てってバトルだから、親御さんからしたら心理的にも肉体的にもキッツいんだろうな、と同情はするんですけど、戦わないで育つ親子関係ってありません。
 子供と「他人」になってしまいたくなかったら、向き合わなきゃ。
 他の人に子育て丸投げしちゃったらダメですよ。
 あと、悪さしない子供は居ないので、よっぽど社会に迷惑をかけることでなければ、「うちの子はおかしいんだろうか?」とか、「自分の育て方に問題があるのかしら?」とか、心配しすぎないでくださいね。反抗期もあるし、口ごたえするとか普通ですから、動揺しすぎないでくださいね。叱るのは親の権利なんだから、子供が悪さしたらその都度、その権利を行使してくださいね。ま、ものの程度というのもありますが。

 多分、今は、赤の他人が全く子育てに関われない(他人の子供に声かけると犯罪者扱いされちゃいますからね)時代なので、特にお母さん方は孤立しちゃって孤独なんだと思います。核家族化、もあるけど、地域社会もなんだかバラバラになっちゃってますし。
 気楽に相談できる窓口があったら、きっともっと子育てしやすくなるし、たかが漫画のことなんかでピリピリせずに済むようになるんじゃないかしら。
 そうっすよ。
 「たかが漫画」ですよ。
 子供にだって理性あるんですから、漫画に描いてあることまんま真似したりしませんよ。
 ちゃんと愛情と良識を持って育てられた子供は、そんな馬鹿なことしません。
 漫画なんかより、絵空事より、現実の方がよっぽど影響力大きいんですから!

 私、思うんですけど、「強化」しなきゃならないのは「規制」じゃなくて、親御さん達のフォローや心のケアですよね?
 でも、何故か、行政はそっちに力入れようとしないんですよね。
 「真面目に仕事してください!」と申し上げたいです。
 綺麗事ばっかり仰るけれども、ほんとに「青少年の健全な育成」について真剣に考えてらっしゃるんですか!?(いや、考えてないんじゃないかな〜)

 ともかく、短慮は起こさないでください、と親御さん達には言いたいです。子供を持ってない身で「勝手なことを」と思われるかもしれないけれど…かつて「子供」だった身としてのお願いです。
 「重い荷物」と思ってらっしゃるそれは「かけがえのない権利」なんですから、安易に手放さないで。子供たちを手放さないで。



2011年07月06日(水)
まどか☆マギカ―――「面白ければ好きになる」というわけではない件

※100%ネタバレです。作品内容についての説明は一切行いませんので未見の方は回避された方が吉です。記事タイトルの通りですので、「まどマギは神」「一点の非難・否定も許さん」という方も以下に進まれない方が良いと進言いたします。

 きっかけはtwitterだったんですけれども―――私のタイムライン内で大層評判、というか好評だったんですね。かなり熱烈に賛辞を贈ってらっしゃる方もいて、特に、最終回が放映された頃には「うわ、なんだろな」とい思う盛り上がりでした。
 とはいえ、深夜枠(寝てるし。録画するのもストレスなんすよ、コロコロ時間ズレるから)だったのと、途中から参入というのはあまり好きで無かったので、最初にまどマギの名を見てからTV放映終了するまではスルーしてました。
 しかし!
 幸いというか余計なお世話というか、もうだいぶ前になりますがニコニコが生放送で全話一挙放送を企画しまして、放送時間は遅かったんですが、幸か不幸かタイムシフト視聴できる身だったもので「これはもう、正体を見定めるしかないか!」と思い立ち、実行した次第です。
 で、結論―――。
 面白かった。
 クオリティ高いと思いました。

 でも私、この話、嫌い。
 鬱展開することは、前以て断片的情報によって知っていました。残酷ととれる描写もあることも。だからそれは別にいいんです。ストレスフルな展開だなと思いながら「あー、うん、なるほど」と、当初はそれなりな見方してたんです。
 嫌悪感が高まっていったのは話が収束に向かった辺りからで、皮肉なことに大好評だった最終回において決定的に嫌いになってしまいました
 この辺りの経緯はね、私がこういう感情を抱いてしまったという結果については、まどマギを純粋に楽しんでらした人に対して忸怩たるものがある。申し訳ない気分にもなります。でもね、私の価値観において、あのラストはどうしても「良かったね」とは言えないものだったんです。
 だって、あれって何も解決していないよね?
 魔法少女は大人になることができない。
 魔法少女になったが最後、どこまでも魔法少女でいるしかない。普通の人が享受してる人間らしい営みに帰ることは絶対にできない。
 ただ「魔女」にはならなくなっただけ。
 彼女達はその存在の終わりまで「少女」であることに縛り付けられてる。―――そもそも、「成熟したら『魔女』になる」という設定自体、少女が大人の女になることに対して、何か含みあるんかいな、と勘繰っちゃうとこありますけど。
 確かに、ある年齢までの少年少女というものは、特にフィクションに於いては一種眩い輝きを持ちます。だからと言って例えば少女じゃなくて少年をですね「ずっと少年の時間に縛り付けたい」と願う……人もいるかもしれない世の中色んな人がいるから、でも私は願いません望みません。どんなだらしない男になっても、好きでいられなくなっても「うわ、どーしょーもね」って愚痴るだけです。「時よ止まれ」とは言いませんよ。
 例えばさやかが―――上条はほんとダメな男だなという描写でしたけど、あれはまあ、さやかを破滅させる為に用意されたツールみたいなもんだったので特に憎いとも思いませんでしたけど、さやかが、「あんな男に入れ込んじゃって、あの時の私、青かったよねw」と笑える未来を…、未来を手に入れられる可能性を、少しでも手にすることができてたなら…。あの性格じゃ、ずぶずぶにダメンズウォーカーになりそうな気もするけど、「ただ一人の男の為に破滅する」だけで終わるよりもマシな人生じゃないですか。
 でも、この話はそれ、許さないんですね。さやかは絶対的に「一人の男の為に人生の全てを捧げる少女」でなければならないんです。捧げた余りが有っちゃいけないんです。
 しかも、当初は「已むを得ない状況下」であったとしても各々が自身の意思で選択したように見せかけられた「魔法少女になる」という結果が、タイムパラドックスを織り込んだ為に、「実は選択の余地なんか与えられてなかった」「彼女達が魔法少女になることは最初から決定事項だった」と露呈されてしまった。世の中で何が残酷かって、一人一人の人間から「自分の人生を選択する権利」を奪うことですよ。その残酷が最終的に解決されるどころか、より強固に全てのキャラを縛ってしまった。まどかの「願い」によってですよ。
 キャラの行動を責める気はないですよ、物語の残酷性がダメだというんでもないんですよ。キャラを操る意図、残酷性の扱いに対して「何よ、それ!?」と言いたくなったんですよ!
 まどかは、というか作り手はまどかに全ての魔法少女の意を汲ませてないですよね?多少なりとも配慮したように見せかけた相手はほむらとさやかだけで。マミさんと杏子は?
 マミさんも杏子も何が起きたか知らされてない。縛られている自覚が無い。自覚が無いから解放される為に足掻く意思を持つことすらできない。という部分はあまり明確には語られてないけど。
 杏子は、そりゃ、まどかにとってちょっとばかり遠い存在だったかもしれない。けどマミさんは仲良くしてたでしょ?マミさんの事情を聞いてやるせないとは思わなかったの?どの時間軸でもマミさんとは一緒にいたじゃない。無視しちゃっていいの?それって自然な展開なの!?
 皮肉なことに、マミさんも杏子も、「魔法少女」の中では、年齢的に少女であっても精神的には半ば「大人」になりかけていた。気配を感じさせるキャラだった。
 マミさんの、表面を取り繕って、良い人を装って、でも自分の側に引き込む気満々だったあの欺瞞、こちらへ来てはダメと言いながら連れ歩いて二人の「選ばれた私達」という優越感をくすぐり続けたあの欺瞞、まどかとさやかだけでなく自分自身の良心も騙そうとした。優しい人だったのも本当で、哀しい人でもあったけれども嘘つきで、そういう矛盾を内包した人格って、一途な「少女」よりもずっと「大人」に近いじゃないですか。
 杏子の「自業自得にしちゃえばいいんだよ」という「諦観」と「達観」、「力は全部自分の為に使う」と言い切っておきながら、裏腹に崖を転げ落ちていくさやかを見捨てられなかった利他の心(さやかは杏子にとって、ただの他人よりも険悪な仲の相手だったんですよ?)その葛藤も、他の三人よりずっと「大人」じゃないですか。
 象徴的なことに二人とも「魔女」になる前に命を落とすことで強制退場させられてる。
 ソウルジェムをグリーフシードで浄化し続けたらどれだけもったか分からない。身体は果たして成長できたかどうか分からない。けれども「魔女」にならず、精神面だけでも「成熟」できたかもしれない可能性を、この話は潰してる。隠してる。その先を見られないようにしてしまった。
 一方で、他の魔法少女よりも何倍も長い時間を「経験」したほむらは、その経験にも関わらず一向に「成長」に向かわなかった。いつまでも近視眼的で未熟で包容力に欠けて稚いままだった(成長できてたら、まどかが主人公張れなくなってたでしょうけどね)。
 で、まどかには、ほむらの未熟、非寛容、稚さを愛でることを選ばせた。
 どんだけ『成長』を拒絶するのかと。
 そして、あれだけの犠牲を払ってなお、変わらず魔法少女は悲劇的な存在でなければならない
 何故「悲劇的でなければならない」かというと、これ、サディズムなんです。ま、私はそう解釈しますね。
 人間って、他者の悲劇を傍観する時に愉悦を覚える傾向を持っているんです。汚いやつ、嫌なやつを虐げるのは、もう安心してできるので無意識にやっちゃいます。でも、無垢で、好ましく見える対象が悲劇に遭う様は、また格別の快感をもたらすんです。
 私の中にもそういうサディスティックな要素ってのはあります。だから、まどマギに反応して、「面白い」と感じた。
 この物語は詰まるところ「サディスティックな欲求を充足させる」為に構築されている、と、私は捉えています。
 ヒーローヒロインものは元々サディズムと相性いいんですけれど、深夜枠だからブレーキ外して、思いっきりサディスティックな方向にふかした作品かな、と。少なくとも途中までは。
 最後まで徹底して、飾らず紛らわさずサディズム姿勢を貫いてくれたら、或いは私は好意を抱いたかもしれない。けれど最後の最後で「なんとなくイイ話」のように誤魔化してしまった。そうでしょう?誰も救われてない。皆「悲劇的な魔法少女」のまま縛られている。なのに何か良いことが成し遂げられたような口ぶりで語る。
 そんなの、DV男が後ろめたさから殴った女の青タンに湿布貼るようなもんじゃないですか!
 物語を綴る人は嘘をつくのが仕事ですよ。だから嘘つくのは全然かまわない。フィクションに触れる時はいつでも「騙される覚悟」完了してますよ。怒ってるのは、「その騙し方はお作法がなってないんじゃないの!?」ということですよ。「騙すならボロが見えないように騙しきってよ!」ということですよ。
 徹底的に壊すか、徹底的に救ってよ!中途半端はやめてよ!!そのいい人ぶった顔が仮面なのバレバレでキモチワルイのよ!!

 とはいえ、出来上がったものは今更どうにもならないし。
 そもそも、私は「私のオーダー通りの話を作って」と言える立場じゃないし。多分、私は失礼なやつなんですよ。すみません。
 ここまで読んで傷つかれた方、申し訳ありません。どうか私が何と言おうと、ご自身の感性を信じてください。
 まどマギの存在そのものを否定する意図はありません。
 ただ、こういう感想も存在してもいいよね?い?い?よ?ね?

 正直、この気持ちを書き綴っていいのかどうか、「嫌いだっつぅくせに、そこまで執着してるの!?」と思うと悔しくもあったし、時間の流れるに任せていればそのうちどうでもよくなるかな、とも考えたんですが、なかなか吹っ切れなかったので。失礼しました。
 これを憑き物落としとして、もう、まどマギについては言及しないようにしたいと思います。 



2011年08月13日(土)
送り迎えも水をさされててんやわんや

 ごぶさたでたまにしか更新できなくて、保守でもこういう話題は日記にしたくなかった。楽しい話題だけにしたかった。
 吐き出したかったけど、ずっと我慢してたけれども、我慢の限界。ゲロッといきます。


 今、京都はこういう騒動の渦中にあります(必見!URL)
 http://www14.atwiki.jp/kyoto-henkouhoudou/pages/13.html

 要約すると、京都とも岩手とも関係無い人が、岩手の被災松を送り火で焚いて欲しいと割り込んできてすったもんだ。
 ―――の揚句、京都が、殊に送り火保存会が悪者にされちゃってる。
 という話。

 この話、揉めだしてからニュースメディアでいきなり盛り上がって、京都市民は寝耳に水でいきなりバッシングにさらされてアワワワワワワワって感じですよ。何!?何!?知らないよ、そんな話!!
 当初は訳分かんなくて「保存会何やってんの!?」て思ったんだけど、まとめサイト読んだら保存会はちゃんとやるべき事やってたよ!
 そもそも彼らは有志の一般市民の集まりで、公的機関じゃないんです。自分の家の用事もあるだろうに伝統行事を守る為に貴重なプライベートの時間割いてきた人達なんです。仕事でやってんじゃないのよ!? 山まるごと使った一大イベントなんで、山の管理や消防との打ち合わせや、点火してない間も煩雑な作業いっぱいあるはず。そんな準備の段取り狂わせる割り込み申し込まれただけでもかなり迷惑だったと思われます。
 第一に「なんで今年なの?」って、思っちゃいますよね。
 被災松を薪として買い取ることに、私の個人感情においては否やは無いけど、「来年用」としてでも良かったじゃない。むしろ来年用の方がどの面から見ても良かった。元々、送り火の薪は伐り出した後期間を置いて乾燥させるものだったらしいし、来年用なら、もっと余裕を持って段取り組めたし、世間の風潮も今現在の時点よりは(放射能に対して)落ち着いてきてただろうし、検査だってちゃんと時間かけて正確なデータとれただろうし、仮になんか付いてたとしても半減期の短いものは基準値以下になってたかもしれないし、除染する余裕だって持てたと思う。
 私の仕事における経験則だけど、大きなプロジェクトの納期を近々に設定すると、それだけでトラブルの元なのね。なんかしら具合の悪いことが起きやすく、しかも対処する余裕が無くて事態悪化のスパイラルに嵌りやすい。
 なのに、この発案者(被災松を買い取ってもらうって部分はいいよ?)、初っ端から何故か「今年」を目標に掲げてゴリゴリ押してんの。何考えてんの。保存会の承諾得る前から「今年」にできる予定は決定みたいな感じでマスコミに言いふらして回ってんの。何考えてんの。
 その上、検査が必要となったら、なんだか訳の分からない検査やって時間無駄にして。ド素人だからですかね!?
 最初の検査で訳分かんないことしてないで、ちゃんとしたデータ出してたら、事態はこんなに紛糾しなかったんじゃないの?
 ―――思いつきは多分、「善意」だったんだと思う。責めちゃいけないとずっと思ってた。責めるの我慢してたけど。でも。
 私、この人のこと、大嫌いだわ。
 何が嫌いって、「責任」を持つべき場面で責任ある姿勢をちゃんと取らずにどこか逃げ腰で、そのくせ自分の要求だけは通って当たり前って顔してるとこですよ。その皺寄せが全部保存会に行ってるんじゃないの!?
 保存会の人は、自分ちのお盆の準備もほっぽらかして岩手まで、「迎え火」の行事を遂行しに行ったんですよ。
 伝統を守る人なら、自分の「家」の伝統だって大切にしてると思うんです。それを置いても岩手の人の気持ちを優先したのは、もっと評価されていいと思います。世間では全く評価されてないみたいなんですけどね!
 で、その「迎え火」の時、発案者が何してたかっていうと、連絡を待っていただけみたい。
 おおおおおおのれが陣頭指揮執らんかい!!!

 でも、一番ひどい仕打ちをしたのは市長です。
 「保存会は恥」と発言したとか!?
 おのれのが京都の恥じゃっ!!!
 迎え火まで保存会が面倒見た後でしゃしゃり出てきて(本来は地域行事なんで、市長の出る幕なんか無いんです)蒸し返したばっかりに、被災松から放射性物質検出されて、再びてんやわんやです。
 検査方法に疑問はあるんですけど(表皮で検出されたけれども、幹の内部ならば検出されなかったのではないかと。なんでわざわざ表皮で検査したのか、と)、一般人の集まりである保存会が何か企むとも思えない。大体、被災松から放射性物質検出されても誰も得しない。一度面子の潰れた京都の面子が元に戻るはずもなく、岩手は二重三重にがっかり、外野は「誰が悪いんだ」と犯人探しで息を巻き、まあ彼らにとってはいいストレス解消の娯楽なのかもしれませんが。それとマスコミは燃料補給できて嬉しいんじゃないかなっ!
 なんにせよ市長が蒸し返さなければここまで酷い事態にはならなかったのに、と、悔しくてたまりません。
 そして保存会に対する侮辱的な発言です。市民を後ろから刺すような市長なんか要りません! 京都から出て行っていただけませんかね!

 保存会の人達が気の毒すぎです。

 とりあえず、自分にできることとして、次の市長選では思い知らせてやる予定です。
 繰返しますが、市民を後ろから刺すような市長なんか要りません



2011年08月17日(水)
送り火後雑感

 終わった後でゴタゴタ言うのもなんだな、と思ったのだけど、先の更新をいつまでも最新にしておくのも嫌だったので、更新の為の更新みたいな。

 とにかく昨夜終りました。
 恒例行事で今まで行われて当たり前のものという認識だったのですが、今回揉めに揉めたので、ある意味今までで一番感慨深い送り火になりました。とにかく終わって良かった。

 バッシングはまだ終わってないみたいだけどね。
 あと、今度は成田山が揉めてるらしいけど、どうなとなれ。私ゃもう知らん。
 まあ、あの、京都市長が事態をこじらせた件だけは、ほんますんませんでしたと言わせていただきます(あいつが「改めて薪を取り寄せて」なんて余計なことを言わなければ、事態は迎え火で収束して、成田山は巻き込まれなかった)。

 知らんといえば、今まで知らなかったのですが、「保存会」って(鳥居を除いて)各山ごとに一帯の家(元はお寺の檀家など)で世襲なんですってね(鳥居のみは有志の集まり)。地域で受け継いでるイメージはなんとなく有ったけれども、その家に生まれたら山を守ること決定なのか、大変だなぁ。
 私は親が京都に漂着した結果ここに居る身なので、旧くからの人に対してはいささか引け目があるのですが、守らなきゃいけないもの、背負わなきゃいけないものの重さを思うと、ほんと、気楽な身分で良かったと><
 保存会の皆さんは、今回の騒動では一般市民の立場でありながら、常以上の非常な重荷を背負わされて、お辛かったことだろう、と思います。
 不手際が全く無かったとまでは言えないけれど、でも、渦中に居て完璧に振る舞える人間なんか居ませんもの。一歩離れた位置から見ても、あの騒動は「落とし所がどこにも無い」状態でしたもの;保存会はよく頑張ったと思います。お疲れ様でした。

 追記:市長は二度と祭事に口出しすんな!
 



2011年11月08日(火)
18歳未満差別!? 同人イベントにおけるレーティング・ゾーニングを考える

・序
 twitterの方で流れてきた情報、「某イベントにおける一律年齢確認」から、衝撃のツイート「18歳未満差別じゃないか!」というやりとりを眺めた上で諸々思うところありまして、各問題及び、私の個人見解をまとめさせていただきました。
 私としては、「年齢確認は手段として好ましいものではない」が「仕方ない面もある」それよりも「頒布されている同人誌のR18指定が過剰になっていないか、そちらを見直すべき」という立場をとっております。
 以下、その理由を述べます。
 途中、気に障る表現があるかもしれませんが、まずは最後まで目を通してください。最後まで目を通した上で「異論がある」というのは構いません。中途半端に文章をつまみ食いして癇に障ったとこだけ異議申立て、というのはやめてくださいね。お願いします。

・R18(18禁)は「18歳未満差別」なのか?
 違います。
 いきなり結論で申し訳ないですが、「R18頒布物を18歳未満に渡してはならない」というのは、各自治体の条例に定められたルールであって、「『差別意識をもって』18歳未満に渡さない」わけではありません。
 具体的にはこういう例があります(京都府版)
 http://www.pref.kyoto.jp/seisho/resources/1300954947443.pdf

 ※何故京都府版を例に挙げるかというと、東京版は条文の判読が困難で、こちらの方が情報が整理されて見やすかったからです。各自治体毎に規定に差異のあることは、念頭に置いてください。
 この例に挙げた条例で重要なのは、条文内13条の2及び、第6章31条の4と6です。PDFファイルを直にあたっていただく方が好ましいのですが、時間の無い方の為に、ここに抜粋します。

****************以下抜粋*******************

第13条の2 知事は、図書類の内容の全部又は一部が次の各号のいずれかに該当すると認めるときは、当該図書類を青少年に有害な図書類として指定することができる。
(1) 著しく青少年の性的感情を刺激し、その健全な成長を阻害するおそれのあるもの
(2) 著しく青少年に粗暴性又は残虐性を生じさせ、又はこれを助長し、その健全な成長を阻害するおそれのあるもの
(3) 著しく青少年の犯罪又は自殺を誘発し、又はこれを助長し、その健全な成長を阻害するおそれのあるもの
2 前項の規定にかかわらず、次に掲げるものは、青少年に有害な図書類とする。
(1) 書籍又は雑誌であつて、全裸、半裸若しくはこれらに近い状態での卑わいな姿態又は性交若しくはこれに類する性行為を被写体とした写真又は描写した絵で規則で定めるものを掲載するページ(表紙を含む。以下この号において同じ。)がその総ページの3分の1以上を占めるもの※京都府は包括指定であることに注意。都は個別指定です。
(2) 映像が記録された磁気テープ、磁気ディスク、光ディスク又は光磁気ディスクであつて、全裸、半裸若しくはこれらに近い状態での卑わいな姿態若しくは性交若しくはこれに類する性行為の場面で規則で定めるものの描写の時間が合わせて3分を超えるもの又は映像が記録された磁気テープ、磁気ディスク、光ディスク若しくは光磁気ディスクの製作若しくは販売を行う者で構成する団体で知事の指定するものが審査し、青少年の視聴を不適当としたもの
3 第1項の規定による指定は、告示により行う。
図書類取扱業者は、第1項の規定により指定された図書類又は第2項各号の規定に該当する図書類(以下「有害図書類」という。)を青少年に販売し、頒布し、貸し付け、閲覧させ、視聴させ、又は聴取させてはならない。
5 図書類取扱業者は、有害図書類を陳列するときは、規則で定める方法により当該有害図書類を他の図書類と区分し、店内の容易に監視することができる場所に置かなければならない。
6 知事は、前項の規定に違反して有害図書類が陳列されているときは、当該図書類取扱業者に対し、期限を定めて、当該有害図書類の陳列の方法又は場所について改善すべきことを勧告することができる。
7 知事は、前項の規定による勧告を受けた者がその勧告に従わないときは、その勧告に従うべきことを命じることができる。

参考:有害図書(R18及び、R18同等に扱うように指定された頒布物)はこのような扱いを受けます。
 http://www.pref.kyoto.jp/seisho/resources/1291195163631.pdf


続いて罰則規定
第31 条
3 次の各号のいずれかに該当する者は、30万円以下の罰金に処する。
(1) 第13条の4の規定による命令に違反した者
4 次の各号のいずれかに該当する者は、20万円以下の罰金に処する。
(1) 第13条の2第4項の規定に違反した者
(2) 第13条の2第7項の規定による命令に違反した者
(3) 第13条の3第2項の規定に違反した者
5 次の各号のいずれかに該当する者は、10万円以下の罰金に処する。
(1) 第13条の3第3項の規定に違反した者
6 第13条の2第4項、第13条の3第2項、第14条の2第2項、第18条の2第2項、第21条から第24条まで(第23条第2項の規定を除く。)又は第24条の4の規定に違反した者は、当該青少年の年齢を知らないことを理由として、前各項(第3項第1号、第2号及び第4号、第4項第2号、第5号、第6号及び第10号並びに前項を除く。)の処罰を免れることができない。ただし、当該青少年の年齢を知らないことに過失がないときは、この限りでない。

*****************ココマデ******************

(可能な方は、PDF本体を参照してください)

 要するにR18頒布物を18歳未満に頒布すると条例で罰せられます。
 「R18を18歳未満にも頒布しろ」という要求は、「18歳未満の欲求を満たす為に、R18製作者・頒布者は処罰覚悟で条例に違背しろ!」と要求しているのも同然です。
 製作者・頒布者にしたら処罰されたくないに決まっています。「罰せられたくない」「罰金なんか払いたくない」「前科者になりたくない」と思うことが『差別』ですか? 私は、それは『差別』ではないと考えます。だって、他人の為に「前科者になれ」と要求されることの方がひどいじゃないですか。

・一律年齢確認の問題点
 私の聞き及んだところでは、一律年齢確認を言い出したイベントにおいては、参加者全員にタグ(年齢確認の為のリストバンド)を付けるよう要求したとのことです。この要求に対する不快感は理解できます。
 タグというものは、対象を効率的に分類する為につけるものですね。それぞれが単純な物体ではない人間を「効率的に分類」しようという試みは、なんだか「人間性の否定」みたいな感触がありますよね。付けられる側としたら「自分の人格を否定された」ような不快感。
 今回の、一律年齢確認に対する強い反発は、この不快感を源としたものだと推測します。そりゃ気分悪いです。
 ただし、「人間を効率的に分類する試み」が赦されるケースというものも、世の中にはあります。
 例えば、最近、病院では入院患者にバーコード付きのリストバンドを付けさせるんですよ。何故かって「投薬ミスがあってはならない」から、予防措置として、対象を誤らないようにデジタルデータで管理するようにしてるんです。
 同人誌即売会におけるタグ付けは「18歳未満にR18が頒布されることがあってはならない」と、ある意味、イベント側のそれだけ切羽詰まった危機感の顕れとも見ることができます。
 「当該青少年の年齢を知らないことに過失がないときは、この限りでない」とはあるものの、何を以って「過失がない」とみなすかが定かではないですものね。処罰されたくない側としては保険をいくらかけても足りない心理状態なわけです。
 不快な方法であることは確かですので、「より不快でない方法は検討できなかったのか」という議論の余地はあるかと思います。ただし、この方法が「絶対的」に「不当」であったり「悪」であるわけではないと、私は考えます。議論は大いに行われれば結構ですが、一方的な(イベント主催に対する)糾弾ではなく、ベターな方法を模索するものであって欲しいと望みます。

・同人誌におけるレーティング・ゾーニングの現状
 実は、私としては、イベント主催の年齢確認要求(イベント側の萎縮)よりも、こちらの方が更に深刻な萎縮状態にあると認識しています。
 私の青春時代―――というと二十年くらい前なのですが―――には、R18マークを付けて頒布されている本というのは、本当に、どの頁を開けても交接シーンが入っているような、まあ分かりやすく一言でいうと「おかず」になるような本に限定されていたのです。現在はどうですか?
 「これからそういうことをやりますよ」と仄めかして暗転(或いは数コマ空け)事後、というような描写のものでもR18マークを付けて頒布されてませんか?
 私はお訊きしたい。この程度の表現は商業誌でも全年齢で販売されています。同人誌だからと言って、これが「より有害」で「青少年の健全な育成を阻害する」と、ご自身で思われているんですか?
 私はむしろ、同人誌即売会場にまで自力で来る能力のある青少年がそんなヤワなはずはない、この自主レーティングは青少年の成長度合いをナメていると感じています。
 或いは、起きるかどうかも定かではない、青少年の保護者との確執を過剰に恐れているのではないかと勘繰っています。
 更に、この過剰な自主レーティング・ゾーニングが別の、より深刻な問題を引き起こすのではないかと懸念もしています。

・自主R18の落とし穴!?
 条例におけるR18含む有害図書については、先に述べていますが、皆さん、製作して頒布する皆さんも「R18」の意味をちゃんと把握していますか?
 「R18」のマークを付けたら、それはもう頒布の仕方に制限をかけなければならないものになる、という意味ですよ、理解していますか?
 「R18」は「18歳未満を追い払う呪文」ではなく、「18歳未満の手に渡ったら、製作・頒布者側が処罰される」という意味ですよ。解っていますか?
 同人誌の流通というのはカオスなところがありまして、どういう経路でR18同人誌が18歳未満の手に渡るか分からない、と、私は懸念します。
 そして「R18」と表紙に印刷されているからには、中身が「商業誌基準ではR18に相当しないくらい刺激の薄いもの」であっても、罰則から逃れられないのではないかと強く懸念します。
 R18のマークを付けていなければ、「個人的な揉め事にはなるかもしれない、けどそのレベルで済むかもしれない」ものが、R18の文字を入れたばかりに条例における処罰対象になり得るかもしれない。これは杞憂でしょうか?
 私は、同人誌が松文館事件のような無茶な法廷に引っ張り出されて欲しくありません。だからこそ、余計に懸念するのです。
 また、みなさんに考えていただきたいのは、今なお続く「有害図書排斥運動」です。かつては「おかず」レベルくらいにしか付かなかったR18を、この有害図書排斥運動はさらに多くの更に幅広くの、自分達の潔癖な気持ちの満足のいく(いつ満足するのかな)領域まで貪欲に広げようとしています。自ら「商業誌ではR18に指定するには及ばない」頒布物にR18のマークを押すのは、この「有害図書排斥運動」の片棒を担うことになっているのではないでしょうか?
 いつか、「自費出版である同人誌ですらこれほど厳しいレーティングを行なっているのに、商業誌のレーティングは緩すぎる」と、同人誌レーティングを『実績』として踏み台として、商業誌に圧力がかけられる日が来ないとも限らないのです。
 過剰な自主規制は私達自身の首を絞めかねません。「流行りだから」「そういう空気になってるから」と言って、安易に「R18」の指定を入れると、却って危険な事態を招くんじゃないでしょうか。
 よく考えてください。自分の作ってる、頒布してる本が本当にR18相当のものなのか、慎重に考えてください。

・何をR18とすべき? また、すべきでない?
 有害図書を個別指定している自治体では、実は「何を以って有害とみなすか」の基準が明確ではありません。心許ないですが商業表現媒体を目安とするしかないでしょう。
 一方で、今回例に挙げた包括指定の自治体においては、性描写が規定の割合を満たさないものは有害図書にはなりません(現時点)。
 ただし、局部を描いて修正を入れたもの(逆に言えば修正無しではイベントでの頒布が許されないもの)は、割合如何にかかわらずR18にしてください。なお、局部を描いて修正を入れないものは「猥褻物」となりますので、レーティングとは関係無く違法となります。

・18歳未満はどう振舞ったらよい?
 とりあえず「18歳未満差別」という発言は取り下げていただきたいな、と、個人的感慨として思います。
 この言葉は、どういう心情によって発せられたにせよ、言葉面だけを見ると「18歳未満だけど18禁見たい!」と要求してるように見えるんです。「そういうつもりじゃない!」って、言われるかもしれませんね。ま、そういうつもりでは無かったんだろうな、と今は私も解釈してるのですが、この言葉を最初に見た瞬間には「なんて我侭な!」「自分さえ良ければ他人が前科者になってもいいというのか!」と、思っちゃいました。
 そういう風に見られるとどうなるか。「18歳未満はやはり感情的に幼い」「未熟だ」「より強固に保護しなければならない」という風に逆効果になる恐れの方が強いんです。
 むしろ、こう訊いてください。「それ、本当に18歳未満に見せられないような『ひどい』内容のものなんですか?」
 意図して「おかず」を描いている人でなければ、こんなことを言われて「はいそうです」とは、答え…られないんじゃないかなぁ?
 また、製作者・頒布者が何を恐れているか理解してください。行政も怖いけれども、第一に怖いのは、保護者からのクレームなのです。同人誌を手にする時には、その本の作者・頒布者を、自分が守る堤防になる覚悟を決めてください。もし同人誌が好きなのなら、愛があるなら、だからこそ自分のものにしたいのだと言うのなら、愛している対象を守ってください。それが…陳腐な言葉になりますけど、「愛の背負う責任」というものではないでしょうか。


・後記―――読み飛ばしてくださって結構です
 なんだか固いことをいっぱい書いてしまいましたが、実のところ、私個人の価値観においては若い子がエッチなものを見たからといって、別に大して害にもならないだろう、と認識しています。薄い本ごときに、そんな誰かの人生を破綻させるような力なんて無いと思っています。薄い本でなくても普通の本でもね。フィクションは所詮フィクションです。
 人間の人生を左右するのは、圧倒的に、周囲を取り巻く人達であり、環境であり、直に交わす会話であり、行為であると考えます。
 刺激的なフィクションに触れた人は刺激に触発されて何か「普通じゃない行動」をしてしまうか? 刺激を受けた瞬間には、そりゃアドレナリンとか出て興奮状態になりますよ、一時的にはね? でも実際の行動をどうするか、は、その人がそれまでに経験してきた事柄や教育や、また持って生まれた資質によって決定されるんです。答えは「人によるんじゃない?」しかありません。万人に絶対的に有害なフィクションなんかありません
 にもかかわらず、ここまで綴ってきたような「お固い」ことを言うのは、私が一方では「既存のルールには従う」スタンスの人間だからです。
 何故、ルールに従うか? ルールに違反するとリスクを背負うことになるからです
 私は出来る限り、無用なリスクは背負いたくありません。他人にもリスクを背負うことを推奨しません。自分が好ましく思っている対象がリスクを背負わされる様は見たくありません。
 だから「ルールは守りましょう」と言うのです。
 一方で、表現規制反対の立場でもあるのですが、これは「過剰なルール拡大は、ルールを守ることを困難にする」からです。守ることが困難になるようなルールは設定しないでください、と、そうお願いする立場です。「ルール」には、あくまで「容易に守れるルール」であって欲しいのです。
 都条例は(悔しいことに)既に設定されてしまったので、表現する者、頒布する者は向こうの顔色を伺いながら出したり引っ込めたりしなきゃなりません。本当に無念です。でも、相手が要求する以上にこちらが引き下がる必要は無いと思うんですよ。むしろ引き下がりすぎると攻め込まれるかもしれない、やばい、と思っています。
 とはいえ、同人というのは個人活動なので、駆け引きの見極めが困難なのがつらいところですね。他力本願はなんですが、どなたか、この駆け引きを優位に運ぶ為の情報共有の場や、相談窓口を作ってくれないかしら、なんて思ってしまいます。私は…この記事を書き上げるだけで息も絶え絶えなんで…、ほんとは、自分では書きたくなかったんですよ。だって、ほら、リスク背負うのは嫌なたちでしょ。チキンなんです。それでも、同人は私にとって守りたい大切なものの一つですし、見渡したところ、問題を整理して提示してくださってる方が、私の視野にはいらっしゃらなかったので、清水の舞台から飛び降りる気持ちで一石を投じてみました。
 どの方面からもフルボッコくらうんじゃないかと戦々恐々ですが、文責として、異論・反論も承ります。
 ただし、私はイベントの運営にも、PTAにも、ましてや行政になど影響を与えられない小市民ですので、「ご意見を承る」以上のことはできません。ご了承くださいませ。
 …何の反応も無いくらい、誰にも届かなかったら…それはそれで、血涙ですね…ふふふ…TT
 ここまで、長々とお付き合いありがとうございました。読んでくださった方には心より御礼申し上げます。



2011年11月10日(木)
続・18歳未満差別!? 同人イベントにおけるレーティング・ゾーニングを考える

 先に記事を起こしました「18歳未満差別!? 同人イベントにおけるレーティング・ゾーニングを考える」で、取りこぼした事柄が有りましたのと、幸いにしてご意見もいただけましたので、返答も兼ねて、補足部分をまとめさせていただきます。こちらは補足ですので、前記事未読の方は、恐れ入りますが、一つ前に戻って、そちらから読み始めていただけますでしょうか。

 では、取りこぼし部分から。

・同人は「業者」なのか?
 まず、先に抜粋引用した青少年健全育成条例(京都府版)の内容を振り返りましょう。
 【 図書類取扱業者は、第1項の規定により指定された図書類又は第2項各号の規定に該当する図書類(以下「有害図書類」という。)を青少年に販売し、頒布し、貸し付け、閲覧させ、視聴させ、又は聴取させてはならない】(【】内、http://www.pref.kyoto.jp/seisho/resources/1300954947443.pdfより引用)
 「私たちは『趣味』の範疇でやってるんだから『業者』じゃないでしょ」という意見の方、おそらくいらっしゃると思います。しかし、この部分には不安要素が少なくとも二つ存在します。
 一つ、「『業者』でないものは免責する」という文が見当たらないのです。
 ルールが明確化されていない部分については、判定を下す側の胸先三寸に任せられる、という恐れがあります。そして、現在の社会情勢において、同人という文化はけして尊敬されたり好意的に見られたり優遇されたりするものではありません。比較的マシな認識で「何か変わったことする人達がいるみたいね」程度であり、一方でオタク嫌悪やオタクバッシングの風潮は未だ根強く残っています。この状況下での「胸先三寸」が、同人にとって好意的にはからわれるという期待は、私には持てません。
 二つ、現在の同人活動は100%素人の作り上げた文化とは言い難い状況になっています。
 「業者」は、同人活動のそこここに介在しています。印刷業者は言うに及ばず、一定規模以上の同人誌即売会の主催も「業者」の形態をとっているのです。例えば、代表的なイベント主催者であるコミックマーケット準備会は『有限会社』です。Cityの赤ブーブー通信社も企業ですね。今回リストバンドで物議を醸したイベント主催などは、『同人ショップ』の経営者です。大規模イベントでは歴とした「企業」が出品も行なっているわけですから、同人誌即売会は外部からは商業イベントのようにも見做され、実際に商業イベントとしての要素も兼ね備えてしまっています。もはや商業性を否定できない状態にあるのです。
 この状況で、各サークルが「『業者』ではない、『個人』だ」と主張できるでしょうか。
 私たちの認識においては、勿論「個人」です。しかし、部外者はそうは見ないのではないか、と危惧されます。
 各サークルが「販売業者の本を納品する個人事業主」と見做されるかもしれないのです。
 ここで更に大切なのは「判定を下すのは我々ではない」ということです。
 一つ事が起これば、同人の事情に無知な、同人に対して好意的でもない誰かの胸先三寸に任されてしまう恐れがあります。
 前記事の全体の流れにおいて、私は、同人作家・同人サークルが素人個人・素人団体であることに敢えて触れず、「業者」に課されたルールを強く意識するように促しました。何故、敢えて「素人」であることに触れなかったのか、上記の恐れが、私の中に、【前提】として存在するからです。
 理解したくない、納得いかない、かもしれません。けれども、このような視点があることは頭の片隅に置いていただけますでしょうか。

・ご意見に対して
 この項目の内容は、主にはいただいたご意見に対する返答です。
 失礼ながら、発言の前後関係を明確にする為に、URL記載、及び内容の転載をさせていただきます(不都合があればご連絡ください)。
 http://twitter.com/#!/honeyhoney13/status/134233135813627904
※以下転載
 「@ochagashidouzo 基本的におっしゃっていることはその通りだと思いますが、一点だけ。ご自分でおっしゃっているように「性描写が規定の割合を満たさないものは有害図書にはなりません」なので、「R18をつけたら即、有害図書認定される」ということではないです。そこだけご注意を。」
※転載終リ(@ochagashidouzoは私のアカウントです)

 私からの返答は次の通りです。
 先生は同人活動に内情についてご理解があり、温情もおありですから、そのように仰ってくださるのでしょう。
 しかし、有害図書認定を行うのは先生ではありません。
 私でもありません。同人活動の内情をよく知る当事者ではまず有り得ないでしょう。
 有害図書認定を行うのは、十中八九「同人に対する知識の不足した部外者」となると推測されます。その「部外者」の目に『R18』の文字が印刷された図書はどう映るでしょうか。
 シミュレーションしていただけますでしょうか。「どうしてR18ってつけたの?」という問いに対して「18歳未満には有害な図書だと思ったからです」以外に部外者を納得させられる返答があるのかどうか。
 実際には「みんなやっているから」「流行りだし」「自分だけやらないのもなんだか悪いし」という気持ちから付けられているのが大部分でしょう。しかし、「みんなやってる」「流行り」などという気分的な言葉が言い訳として通用するとは、残念ながら思えません。
 有害図書認定をする人が、今まで既に有害指定された図書に対して「あ、これは過剰だったね」と、指定を取り下げたことがかつてあったでしょうか(寡聞にして存じません)。「作者・頒布者が自分で有害だと思うのなら有害なんだろう」で通ってしまう危険の方が高いです。
 前記事では包括指定に主に言及しましたが、例に挙げた条例ですら、包括指定のみを行なっているわけではありません。次の文言が条文の中に含まれます。
※以下抜粋
(1) 著しく青少年の性的感情を刺激し、その健全な成長を阻害するおそれのあるもの
(2) 著しく青少年に粗暴性又は残虐性を生じさせ、又はこれを助長し、その健全な成長を阻害するおそれのあるもの
(3) 著しく青少年の犯罪又は自殺を誘発し、又はこれを助長し、その健全な成長を阻害するおそれのあるもの
※抜粋終リ

 非常に曖昧な基準です。拡大解釈可能です。包括指定に準じた方が事務的に処理できるから作業側も楽な方に流れているきらいがあるのではないかな、と、思われるのですが、指定して良さそうなものが目の前に飛び込んでくれば指定することを躊躇いはしないのではないでしょうか。
 包括指定の割合に満たなくても「上記3項に該当するんだね。作者がそう思ったのなら間違いない」と認識されてしまったらおしまいです。更には、自治体によっては有害図書を個別指定している地域もあります。その場所で「R18と書いてますけど、有害ではありません」と主張してそれが通るでしょうか?
 また具合の悪いことに、『R18』という指定表示は商業表現媒体の倫理指定の流用です。同人独自の表現ではないのです。同人独自の表現であり規定ならば「これは同人誌におけるローカルルールです」と、まだしも言い抜けられる余地もあったかもしれません。しかし、既存の倫理指定を流用してしまっているからには、同人当事者でない部外者の思考においても既存の倫理指定が流用されてしまう恐れは非常に大きくなると思われます。
 より恐ろしい事態として、そこから「これで有害指定していいなら、商業表現媒体に対する締め付けももっと厳しくしていいだろう」と、同人の萎縮が蟻の一穴となって表現の自由の堤防を瓦解させてしまう危険さえも想定し得るのです。
 この点、切にご理解願いたいのですが、私はR18同人誌の存在そのものを否定したいわけではありません。排斥したいわけではありません。無闇に糾弾する者ではありません。同人という存在に情愛があるからこそ警句を発しているのです。
 まるで『R18』のマークが、性表現を含む同人誌の「安全を保証する」ものであるかのような認識、その誤解を解きたいのです。同人活動がより自由となり、商業表現媒体の妨げとならない為にも、危険な誤解と幻想から、皆に目覚めていただきたいと願うものです。

 釈迦に説法になってしまう無礼をお赦しください。
 松文館裁判について先生はよくご存知のはずです。あの裁判は無茶苦茶でした。法律も業界倫理も被告の真っ当な倫理に従った努力も踏みにじって、「潰すと決めたらどんな無理を言っても潰す」と、本来無実であった人を処罰してしまいました。
 私たちが対峙しているのは、そういう危険な存在です。私たちの言い分に耳を傾け理解に努めてくれる優しい隣人ではないのです。
 私は、私達に攻撃をしかけてくるかもしれない人達の思考をシミュレーションして発言しています。かなりひどい事態までシミュレーションしています。理解のある優しい人の視点では危険を見逃すかもしれないからです。ここまでの文章の中には「どうしてここまで攻撃的になるのか」と思われる部分もあるかもしれません。しかし、私は同人を攻撃したくて書いているのではありません。守りたいのです。
 多々、失礼な発言があったことと存じます。まことに申し訳ありません。ですが、私は先生に反発したいわけでも攻撃したいわけでもないのです。頼りにさせていただいているからこそ、ここにいる一人の、同人の片隅で生きている人間の抱える不安を知っていただきたいのです。

・自主R18は誰のせい?
 私の同人活動は、仕事の都合で何年かのブランクをはさみ断続的です。
 私が初めて同人誌即売会に足を踏み入れたのは高校の頃でした。やおい本、いっぱいありました。R18のついた本などほとんど見かけませんでした。手にしたのは現在の即売会では殆どがR18を付けているだろう本でした。しかし、現在の商業表現媒体でもR18は付かないだろう程度の本でした。
 学生の頃をそうした本の中で過ごし、就職して同人どころでは一時なくなり、10年くらい前にまた戻ってきた頃には、まだR18が会場を席巻しているというようなことはありませんでした。
 しばらくネット同人として引き篭って、久しぶりに会場に足をはこんだら、そこら中にR18の文字が踊っていました。いったい何があったのでしょう。
 私の知るあるイベントでは、パンフレットで「猥褻物を頒布しない為の修正の入れ方」を丁寧にレクチャーしていました。R18頒布物の適切な展示・頒布の仕方についてもレクチャーがありました。しかし、修正を必要とするもの以外について特に「これをR18と指定してください」という表現は見えませんでした。「R15指定をしたいんですけれど」という質問に対しては「あなたの判断で行なってください。イベント側としては新たに指定枠を作る予定はありません」との返答が載っていました。つまり、裁量は殆どサークル参加者に任されていました。
 私の見る限りでは、少なくともそのイベントにおいては、「不当」に「過剰」にR18が強要されているようではありませんでした(「これはR18にしなくていいよ」という逆指示もありませんでしたけれど)。
 一方で、(内容的には別に指定要らないんじゃないの、という緩い本だったんですが)フリートークの中で「R18デビューしちゃった♪」みたいなはしゃいだ空気があって、これは流行? ファッション的な? R18がおしゃれだとか格好良いと思ってペタペタ付けてるの? と、ちょっと目眩がしてしまいました。
 前記事で私は、18歳未満の方に「18歳未満差別と叫ぶのは控えてください」と書きました。しかし、正直な気持ち、今の同人の世界には「18歳未満差別」が存在すると思っています。差別しているのは、同人作家であり、同人サークルです。「若い人は面倒くさいから」? 「親からクレーム来たらいやだし」? 「R18って付けないと仲間はずれにされるから」?
 そんな情緒的な理由で「本来は18歳未満が読んでも差し支えのない内容」の本にまで、ペタペタとR18マークを付けているんですか?
 若い人は面倒くさいって気持ちは私にもあります。保護者からのクレームなんて見たくもありません。仲間はずれにはなりたくありません。
 でも私は、アイタタだった高校生の頃、サークルの机の向こうにいらした先輩方の寛容と忍耐に受け止めていただいて、それとなくマナーも教えていただいて、少しはイタいのもマシになって、その時代の同人の世界に育てていただいたんです。
 自分ばかり恩恵を受けて、自分が若い人を受け止めなければならない側になったら「面倒だから」って拒否するって、ひどいじゃないですか。怠惰が過ぎるじゃないですか。
 過剰なまでのR18の濫発、無用なR18濫発は、一に同人そのものにとって危険であり、二に若い人達に対して不誠実だと感じます。
 18歳未満の方は、同人作家やサークルに対しては、「自分達が読んで差し支えない内容のものにまでR18マークを付けないで欲しい」と要求する権利があると思います(もう印刷済みのものについては、ルールの都合上、お渡しするわけにはいかないのですが)。
 頒布する側の「できれば何歳くらいから上に読んで欲しい」という気持ちも分からないではありません。でも、それは、危険な『R18』マークを付けるという形ではなく、「何歳以上推奨」という表示に置き換えるとか、できれば、何故推奨年齢を定めるか説明を提示するなど、18歳未満の人にも交渉の機会を与えていただけませんでしょうか。
 私のように18歳未満から同人を始めた人なら、年上の人から色々と指導していただき、面倒をみていただいた経験があると思います。どうか、そうした交流を自分たちの代で断絶させないでください。
 私は、私自身が描く人間で、書く人間でもあります。もう少し同人界が平和だった頃にはやおいを描いたこともあるんです。現在のような状況になってからは、自分の本にどうしてもR18って付けたくなくて(R18な内容ではないという確信もありましたし)でも現場の同調圧力が怖くて、やおいそのものを描くことも書くこともできなくなっていました。
 今後は、描いたり書く機会がありましたら「12歳以上推奨」や「15歳以上推奨」などという形で出していきたいと考えています。自らの怠惰な気持ちを戒めたいと思います。

※実際にR18が必要な創作物もあります。それについては前記事にて触れております。参照ください。

・蛇足的に…
 件の、一律年齢確認で物議をかもしたイベント主催について、どうも本業の同人ショップ業務の方でも芳しくない評判を聞きました。どちらかというと私は、この「業務がまともにできていない」状態の方に嫌な印象を受けます。
 業務がまともにできていない、ということは、スタッフの質が落ちているのではないかと推測できます。
 質の低いスタッフの運営するイベントというのは、年齢確認がどうのこうのを置いても、何か不始末が起こりそうで心配になります。
 地方では参加できるイベントの種別が少ないとも聞き及びますが、イベント参加は義務ではありません。イベントに行けないというデメリットよりも、危険を回避する、ということの重要性の方が或いは上回るかもしれません。

 最近はコミケも不定期にドサ回り的ミニイベントを開催したりしています。
 頑張ればコミケ以外も招致できるかもしれません(資金やスケジュールの問題や色々ありますが)。
 どうか、特定イベントに執着して気落ちしたり危険な目に遭ったりしないように、より良い同人ライフを送ってください。



2012年07月18日(水)
残念ながら「いじめ」は本当に「あそび」なのです

 この件について、Twitterで自分の体験も絡めてかなりしつこくツイートしてしまったので、せっかくなのでまとめます。ややこしい話なので気長にお付き合いいただけるとありがたいです。やってられっか! て方は、まあ、しょうがないネ☆彡

 最初に、いきなり釣り全開タイトルですが嘘ではありません。「いじめ」は加害者にとって遊戯の一つです。
 例として、私の体験を挙げましょう。私は小中と、まあ、ゴニョゴニョなことがあったのですが、その中に、「階段から突き落とされる」という事件がありました。素晴らしいバランス感覚に恵まれた私は頭から宙返りなどはせず、足から段の角を滑るが如く最下段まで至って骨が丈夫だったおかげで骨折もしませんでしたが衝撃はそれなりに痛かったものです。最下段から見上げた階段の上には、笑っている連中がいました。「そうか、これは彼らにとって娯楽なのか」と、その時得心したものでした。
 娯楽に加えて、おそらくは、「群れの結束を確認する」「群れの中のヒエラルキーを確認する」という儀礼的な意味合いもあったのではないかと、今にして推測いたします。つまり私を突き落とすという一種の肝試しを行うことで、「群れ」の一員であることを示し、同時に群れの中で優位な地位を維持することが、実行者にはできた、そういう意味合いも持つ行為であったとも思われるのです。
 と言いますのも、「いじめ」という行為は通常、多数によって一人に対して行われますが、その多数の間も、けして平和な友人関係ではないようなのです。「ヒエラルキー」がある、というのは先に述べました通り。表面仲良くつるんでいるようでいて、誰がより優位に立つか、劣位に蹴落とされるか、という確執に鎬を削っているように私の目には映りました。つまり、「いじめ」を行う集団というのは、内実かなりストレスフルで、ターゲットを狩るという行為は、娯楽であると同時に、集団にとっての祭祀であり、ストレスの捌け口でもあったのであろう、と考えられるのです。ターゲットにとってはいい迷惑ですぐゎっ。
 しかし、実はこの構図が、「いじめ」を行うやつ=悪、と言い切るのを躊躇わせる要素でもあったりするのです。
 彼らは表面上仲間であるように見えて絆は無く、信頼は無く、実質は優位劣位を競い合う敵手です。
 私を階段から突き落とした実行者は、その「英雄的な行為」によって群れの中で優位に立ったものと思われますが、それができなければ集団の中の階層をずり落ちていく危機感に苛まれていたものとも推測されます。
 そんな風に彼らは自身のヒロイズムを逐一仲間に対して証明することを強いられ、快楽と不安の入り混じった遊戯を延々と続ける地獄に堕ちていたわけです。遊戯は期間満了を迎えるか、何らかの形で劇的終止符を打たれるまで続きます。私の場合は、主に私の強運のおかげで致命的な事態に至らず期間満了を迎えました。まあ、刑事事件的に「傷害」レベルの事はあったんですけど、内々に無い無いにされました。
 では、加害者は悪魔のようなやつらであったか、というと、そうではなく、負のパワーゲームに取り憑かれた只の人間でした。私は小学校の途中で転校し、転校先でこいつらと遭遇したわけですが、うち一人は最初に接触した時にはむしろ友好的で、笑顔がちょいと可愛いやつでした。二度と会いたくはありませんが。
 始まりは、ほんの些細な戯れで、「いじめ」というより「いじり」だったのです。それがエスカレートしてどんどん歯止めが利かなくなってしまうのです。
 Twitterで何度も書いたのですが、加害者と被害者を分けるのは些細なきっかけ、運命のいたずらみたいなもんです。それが無ければ「いじめ」は発生しなかったかもしれない。或いは、加害者が被害者になったかもしれない。被害者が加害者の立場に立っていたかもしれない。
 私は先に、「階段から突き落とされた時に、これが彼らの娯楽であると得心した」と書きましたが、なぜ得心したか。理解できたからですよ。気に食わないやつを階段から突き落とす、確かに面白そうだ。その思いつきに私も同意しました。そういう黒い欲求は私の中にも存在しました。ターゲットが私でなければ、私自身が加害者になったかもしれない。本気でそう思います。

 ですから、私は、加害者を「人の心を持たない化物」のように見做す事に反対します。
 彼らは、たまたま道を踏み誤った「普通の人間(の成れの果て)」にすぎません。

 被害者も、特別に劣った、或いは優れた、もしくは「聖痕を負った」存在ではありません。
 たまたま貧乏くじを引いてしまった、これまた「普通の人間(の成れの果て)」です。

 よって両者を「特別な眼」で見るのは止めていただきたいと、願う所存です。みんな危うい綱渡りをしている不器用で弱い人間で、綱を渡り切る前にしくじるヤツもいる。そういう話なんです。

 思いの外に長くなったので(こんだけ書くのでもうヘロヘロなので)、稿を改めます。
 次回以降は、「保護者や先生、学校関係者だって只の人間だぜ」の予定です。
 可能ならば「じゃ、どうすればいいの?」まで、書けるといいなぁ(願望)