遠距離M女ですが、何か?
井原りり



 叱られて……

彼女は「犬」である〜11〜


「K」からメールが来てからほぼ36時間経過。
一向に文面が決まらない。

家族と県内一泊旅行がすみ、また翌日は上の子どもの総合学習の取材に付き合って京都まで行くことになっていた。


あわただしい夏休み。


ついにしびれを切らしたいはらは、自分から電話をかけてよこした。

いつもなら、メールで「電話」というのがまず来て、わたしからかけるのに、だ。


「で、返事はしたの?」
「まだです」

「なぜ?」
「なんて書いたらいいかわからないんです」

「まだそんなことを言ってる。どうして?」
「だって、ほんとに何をどう書いたらいいかわからないんです」

「じゃあ、なぜ聞かなかった」
「え? そんなこと聞いて、また叱られるのがこわい」

「へ〜え、叱られるのが怖いと黙っちゃうの? 都合の悪いことはなかったことにするわけ? わからないことを聞くのは当然でしょう。そこで黙っててどうする」


まあ、これ以上具体的なせりふは省略するが、いはら本人が「ひさびさに怒ったな。初期のころ以来かもしれん」というくらいこっぴどく叱られてしまう。


そのあと気を取り直して、返信文の編集会議。


今回の件について判明したのは、たとえいはらあてのメールであっても、こういう基本的な「躾」にかかわる問題は、直接の飼い主であるわたしが返事をしてしかるべきだ、といはらが考えているということ。

いはらが返事を書くのは簡単だが、それではM女二人のためにはならない。

なんのためにこんなややこしい上下関係を構築しているのか、ということ。


わたし一人が、つまらない(かどうかは、ここではひとまず置く)嫉妬をして目標を見誤れば、そこから先、わたしの幸せは生まれないということ。


そう、だから
「りりだけのいはらだと思い込んでいるふしがある。それは幸せをうむのか」
ということになるのだ。


いはらとわたしの関係に「K」が介在したとして、それはたぶん、わたしの幸福を阻みはしない。


むしろ「K」を通していはらに享楽を提供できれば、かならず、何かもっと別の愉悦が還元されるはずだ。


いつだったか、まだ「K」を飼いはじめて間もない頃、いはらからの刺激的な課題にどきどきしながら「りりさんに対して心苦しい……云々」というメールが「K」から来た。

テキトーに返信した覚えがあるが、「いはらが楽しければそれで、わたしはいいじゃないか」と思いもし、いはらにもそれは伝えた。


屈折はしているが、ベクトルは常に一定であるはず。

なぜに、それを忘れる?


やはり、感情というのが、あるからな>人間。



編集会議終了直前。
「K」に送信後、いはらに転送される文面であるにもかかわらず、送信前の検閲を申し出て快諾された時は、正直うれしかった。


今、思うに「リアルなプレイがしたい」ならわたしらに判断をまかせず、即実行に移せばいい話。
近所に住んでるわけじゃないから黙っていれば、ばれることもまずない。

判断をまかせる、といいながら、やはりこの場合「否定され、たしなめられ、叱られる」ことを書いた本人は望んでいたのだ。



もっと早く気付けってばよ>自分





2002年10月06日(日)



 M女のねじれた幸福


彼女は「犬」である〜10〜



「りりだけのいはらだと思い込んでいるふしがある。それは幸せをうむのか」


よく読む。

ノックダウンしたアタマで何度も反芻してみる。


りりだけのいはらだと思っているかぎりは幸せにはなれない、というのだな。

いはらを独占しようとしないほうが幸せになれる、というわけか。


どういう思考回路に持ち込めば、ストレートに幸せになれる方法が見つかるだろうか。


ノーマルな女は、相手の男を独占できることと幸福とが直結している。

わたしらM女は必ずしもそうではなく、ひとひねりもふたひねりも屈折した思考回路を有する。


まずS男氏が何を以って幸福とするかが最優先される。

S男氏の欲望や満足度が充たされることが、M女の幸福である。

直接的に自分のカラダを使ってS男氏の欲望を充足しようとするのは、「縛ってなんぼ」のご近所SMのみなさまがただ。


うらやましいような気もするが、現実性がない。


遠く離れた場所で暮らすわたしたちは、どうしても「頭脳派」にならざるを得ない。



* * * * *



今更ではあるが、自分の家庭について述べる。

めんどくさがりの夫は縄も鞭も使用しないが、わたしに君臨している。


夫は貪欲で、欲しいものもやりたいことも多い。
そのかわり、権力や名誉には見向きもしない。
世間体も気にしない。


仕事、「飲む・打つ・買う」、浪費癖、若くてキレイなおネェちゃん、仕立てのよい洋服、趣味のよい靴やべルト……、誰もが乗りたがるクルマ。

それらはわたしにとって何の苦痛も与えない。
勝手におやりなさいな。

無関心なのではない。
出来る限り夫の言動には注意を払い、彼の意向に沿う努力を惜しまないし、いつでも彼の役に立てる妻でいたい。

それは、そう言われたから、そう行動するのでなく、わたしが望んでしていることだ。

話し合うまでもない。
命令されずともよい。

夫のやりたいことが実現している限り、わたしのやりたいことも必ず実現するからだ。


関心を寄せつつ、不干渉を通す。

世界史でいうところの「モンロー主義」だ。



* * *



いはらの云はんとするところはきっとこれとはいろんな意味で違うのだろう。

が、しかし「わたしの幸福や満足感を、わたしの嫉妬心はさまたげてしまう」という答えなら93点くらいは取れそうだな。



アタマでは、わかるんですけどね……。


感情は処理しきれないまま、もつれにもつれる。





2002年10月05日(土)



 最終パンチ


彼女は「犬」である〜9〜


とにかく何か案を出さねば……。


「好きにしなさい、というのは逃げでしょうか?」
「逃げだな」


うーわ。そうきたか。

いはらはわたしにどんな返事を書かせたいんだろう?
いはらの意向に沿った返事をなんとしても書きたいのに、書けないもどかしさ。

それって質問してもいいんだろうか?

そんなこともわからないのか、って言われるのが怖い。


「K」に対して「そういうなりふり構わぬ欲情ははしたない」と、たしなめてやるべきなのか?

思いっきり煽って地獄へでも落としてやればいいのか?

この際、相手がいはらだという前提で返信してはならないことだけは、なんとなくわかってきたが、それにしても、何にも浮かばない。


わからない。

欲望にまかせて好き勝手にしろ、というのが「逃げ」だというなら、たしなめる方向が正しいのか?

こんなふうに、文面を考える前の段階でつまづいてしまうなんて情けないし、初歩的な質問をして呆れさせたくはない。


いはらがわたしにどんな返事を書かせようとしているのか、彼の意図が読めない。

なんでだ?
いつもなら、とっくに読みとれてるぞ。


人々が帰り支度を急ぐ、宵の口のフードコートで子どもにジャンクフードを食べさせながら途方に暮れるわたし。


追い打ちをかけるように、いはらは最後のパンチを繰り出して、わたしをノックアウトした。


「りりだけのいはらだと思い込んでいるふしがある。それは幸せをうむのか」


いはらは、りりだけのいはらじゃなかったんだ!

ってことは「K」にもそのチャンスがあるの?

いはらもまた「K」との行為を望んでいるの?

だとしたら、わたしは奴隷として主人の意を汲まねばならない。


振り出しに戻る。

いつまでたってもあがれない。






2002年10月04日(金)



 悪い夢


彼女は「犬」である〜8〜



暗い部屋のすみで、わたしはしくしく泣いている。

雨音が聞こえる。

しゅるしゅるしゅるっと、縄がこすれる音がする。


「泣いてないで、ちゃんと見て……」


いはらの声がする。

陶酔したような、呆けたような、とにかく尋常じゃない様子の女がいはらと一緒にいる。

縛られて、嬲られて、イっちゃってる……「K」がそこにいる。



悪い夢だ。



ずっとこんな妄想がアタマから離れない。
もうアタマぐるぐるで、何にも考えたくない。

でも返事を出さなきゃいけない。

めったなことは書けない。転送されちゃうからな。

「K」はいったい誰とコトに及ぼうというのか?
いはらとか?
それとも誰か別のお相手をまた探すのか?


「K」がいはらに、コロっと参っちゃう日がいつか来るとしても、ちいとばかし早すぎやしないか?
このわたしだって3ケ月かかったのに……。


いっそ直接きいてみようか?
いはらにはゼッタイ転送しないでねって念を押して「誰とプレイしたいの? いはら? それとも別の人?」って。

この答え次第で返信の内容は逆になるからな。
そこが一番知りたいのに、そんなこと聞いたら飼い主の威厳はまるつぶれだ。

聞けない。
聞いちゃいけないよ、そんなこと。
転送しないでね、なんて言ったっていつかばれる。

ばれて困るようなら最初からするな、だ。


もしも相手がいはらじゃないっていうのなら、もう何だってやっちゃって、どんなに破廉恥な行為だろうが、どんなに淫らな痴態だろうが、どんどんさらしちゃってもうイクところまで、落ちるところまでとことんヤリ尽くしてくれてかまわないって煽って……。


でも、いいのか? 
奥さん、それでほんとにいいの? 
無責任ながら少し不安にもなったりして……。


問題はいはらが対象だった場合だ。

いはらから誘うようなことはないから、いはらが「K」の誘いに応じるかどうかも気になるのだが、それは次の段階だからさておくとして、相手がいはらならば、だ。


1 ゼッタイに許さない

2 内緒でやって

3 あたしもまぜて


あああ、情けない。
この3つしか思い浮かばない。
ばっかみたいでくだらない。
でも何度自分に問い掛けても、こんな答えしか出てこない。

悪い夢が、ぐるぐるアタマをかけめぐる。


もしも、いはらから「返事かけたか?」って聞かれた時、この3つを見せたらもう減点もいいところだな。

なんで減点されるとわかっているような答えしか思い浮かばないんだ?

あまりにも通俗だ。


今、思うと、もっと冷静に朝のメールの内容を分析すれば、なんとなく答えは見えていたようにも思う。

あの時はダメダ〜メで、ぐるぐるだった。



あたし抜きで二人が会うようなことになったら、「K」の自宅に電話して夫に密告しかねないくらいに、あたしはフツーの女の感情でしか、モノを考えられなくなっていた。



チェックアウト後、夫は出勤し、わたしは子どもたちとイルカを見に行った。


夕刻。
「で、どうよ」
あ、いはらだ。


どうよって……。





2002年10月03日(木)



 怖れていたこと

彼女は「犬」である〜7〜


8月下旬、家族全員の遅いお盆休みがわずか1日だけとれる>なんて家だ。

電車で30分の県庁所在地にあるちょいと高級なホテルで、ぼけーっと夏休みの一日を消費したあと、眠る前にZaurusでメールチェック。

「K」からのメールを読んだわたしはベッドの上で固まってしまった。


再度受信トレイを開けて確認したりすると、アタマが痛くなりそうだから、引用などはしないが、だいたいこういう文面だったように思う。(抜粋)


>実際のプレイに対しての誘惑に抗えないと、いはらにメールを送ったところ、その返事はりりからもらうようにとのことだった。

>りりから返事が来たら、いはらに転送することになっているそうだ。


おい。どうする!
もう、来たよ。
来ちゃったよ。


うわーっと叫び出したいところだが、家族旅行(?)の最中だ。


どうするどうするどうするどうするどうしたらいいんだあああああ。


がたがたがたがたふるへだしてもうものがいへませんでした。(宮澤賢治『注文の多い料理店』より)


やっとの思いで、まずはいはらに宛ててなるべく短かめにメールを書いた。

>ついに、おそれていたものが来ました。

なんちゅうむちゃくちゃな書き出しだ! と今なら言える。
相当に動揺していたんだな。


とにかく、わたしでさえ滅多には逢えないいはらとプレイしたいだなんて、とんでもないことを言い出したものですね、みたいなことを書いてしまったわけだ。



翌朝、いつもは昼近くまで寝ている夫が早朝から目を覚まし、窓枠のでっぱりに座って(「あいれん」さんが正座してたりする窓のところです)眼下の街並みや駅のプラットホーム、線路を行き交ういろんな電車たちを飽かず眺めている。

実在の列車たちがまるでNゲージサイズに見下ろせるのだ。
本物なのに、Nゲージ! だなんて。

これにはハマる。

もしもまた高校生になれたなら、今度は鉄道研究会に入るのもいいな、と思うくらいだ。


そうこうするうち、いはらから着信。
メールじゃなくて、着信?! あ、すぐ切れた。


「着信でしたか?」とメールする。
「です。話すか?」
「家族旅行中でホテルにいます。このままお願いします」


わたしの返信には誤解があるらしい。

「K」はいはらとプレイしたいとは言っていない、という。


そんな……。
だって……。


ただリアルなプレイをしたがる自分=「K」を、われわれがどう見るか、と聞いているだけなのだそうだ。

そんな、バカな?


いはらと「K」の間では、逢う会わないという話題すら上がってはいない、という。

そりゃあ今まではそうだったかもしれないが、りりさえ許すなら、これからその話を進めて行きたい、ということじゃないのか?

メールをぷちぷち打つのもまどろっこしい。


いはらのいらいらが、怖いくらいに伝わってくる。


「最近、浮わついてないか?」
「何が順番か。何が一番大事なのか。よく考えよ」


どうしてわたしが「浮わついて」いるなんていわれなきゃならないんだ。
それは理不尽というものだ。

こんなにも、苦しいのに……。
泣くことさえできないのに……。


いはらも仕事が始まったとみえて、メールのやりとり@朝の部 は、ここで途切れた。






2002年10月02日(水)
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