風紋

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2004年09月24日(金) 泣いた後は疲れていた / 美容院に行った / 近況

前回、9月21日の日記で「泣いてしまった」と書いた。事実、その日は日記に書いたように、ものすごい勢いで泣き、少し落ち着いたと思われる頃に眠りに入ったのだけれど、どうやら、泣くということは、時と場合によってはものすごく体力を消耗することにもなる…ということをここ数日で実感した。

泣いた翌日、翌々日とどうも体調が思わしくなく、頭痛、耳鳴り、仕事も思うようにはかどらず、仕事が思うようにはかどらない私自身をもどかしく思う、という時間を過ごしていた。

なぜ泣くのかということに未だに答えはないけれども、どうやら、9月21日に私が泣いたことについては、それまで整理がつかずに抑え込んで悩んでいた想いを、泣くことで一気に爆発させたという側面もあるように思う(あくまで自己判断なのだけれど)。その想いをまた整理するので、疲れたのかなとも思ったりする。

「泣くのがいやなら さあ歩け」とは水戸黄門のテーマソングの歌詞だけれど、私は本当のところは泣くのがそれほど嫌ではないので、泣きながら歩きたい。泣いても闘うし、泣いても逃げないし、泣いても目の前のものと正面から向き合いたい。もちろん、現実に生きていれば、泣くのが不適切な場面もあるのだけれど、「泣きたい気持ちを私は持っているのだ」ということをせめて私が私には認めながら、一歩一歩歩いていきたいと思うのだ。素直な気持ちを素直なまま大切に持って、そしてできれば、適当なところで解放し、他の人の生き方にも触れて、再び私自身の気持ちに戻りたい。

なぜ泣くのか、なぜ泣きたくなるのか、なぜ泣いてはいけないという気持ちもあるのか、考え続けていきたいと思う。

ちなみに、文章を書きながら「泣くのがいやなら さあ歩け」というフレーズだけが浮かんだのだけれど、水戸黄門のテーマソング(「ああ人生に涙あり」)では、その前に「人生勇気が必要だ くじけりゃ誰かが先に行く あとから来たのに追い越され」という前置きがあったうえで「泣くのがいやなら さあ歩け」に続いているので、21日に私が泣いた状況とは少し違う。けれども、この曲はこの曲でいい曲だと思う(1番から3番通じて)。好きな曲である。

もうひとつおまけに書いておくと、なぜこれだけ水戸黄門のテーマソングの歌詞を憶えているかというと、中学1年の時に、吹奏楽部で“水戸黄門のテーマソングから大岡越前のテーマ曲に移るという曲”(曲名は確か「時代劇メドレー」だったような気がする。ミュージックエイト社の譜面だったか)を演奏したので、必死になって水戸黄門の曲を聴きこんだからである。当時はTubaを吹いていました。

話が飛んでしまった。…泣いたり泣かなかったりしながら素直に生きていきたい、と思う。


今日は美容院に行ってきた。ほとんどとれていたウェーブパーマをあてなおして、少し短めに切ってもらった。少し美容師さんと話すことにも慣れてきて、よい感じで仕上がった…と思う。

なぜ今日行ったかというと、都合がついたというのもあるけれど、来週から新しい人々に出会うことになるからだ(ぎりぎりまで行かなかったのか…??)。同時に、今まで出逢った人にももう1度改めて出逢い直すという気持ちも込めて。

少し、しゃきっと気合いが入ったような気がする。よし、進むぞ、と。


ここ数日は、しなければならないことがありながらも、目の前に大きな宿題があるような気がして、その宿題と同時並行で進めないと、しなければならないことにも取り組めないような気がする…という、何だか不思議な状況に陥っている。

周りの大切な人からたくさん支えてもらっているということを実感する。ありがとうございます、と思う。私が私を精一杯生きることが周りの大切な人へのお礼だと思い、生きる。

BGMは先日に引き続き「テレプシコーレ」(Terpsichore)(Praetorius/Margolis)よりIV(Gaillarde - Reprinses - Gaillarde - Volte)。


2004年09月21日(火) 泣いてしまった。そして、

泣いてしまった。

泣きながら、なぜ泣いているのかということや、なぜ泣くのをためらうのかとか、なぜ1度涙が出てしまうと一気にぼろぼろっと涙が止まらなくなってしまうのかなどと考えてしまった。泣き終わった今も考えている。

今日は、………(しばらくの躊躇い、ゆえに少し「…」をはさむ)………、泣きたい気持ちになってその気持ちを抑え切れずに泣いたわけなのだけれど、「この場面で泣いてはいけない」「ここで泣くべきではない」「普通はこんなことでは泣かないだろうから泣いては駄目」とは思っていた。だがよく考えると「この場面で泣いてはいけない」などということは恐らくないはずで、となると「抑える」必要もないはずである。

しかし、現に私は泣いてしまったわけで、1度涙が出てしまうと、“あぁ、もう、緊張の糸が切れたからいいや…”という諦めにも似た気持ちになって、思いっきり泣いて、という一方で“早く泣き止まないといけない”とも思っていて。

最初は人前で泣き、耐え切れなくなってひとりになって、落ち着くまでティッシュで涙を拭きながら、感情の渦に翻弄されていた。

で、「なぜ泣いてはいけないと思ったのだろう」ということが気になった。現にこうやって「泣いた」ということを日記に書いているけれど、そのことにもかなりの躊躇いがあり、「あっ、泣いたって書いているけれど、大丈夫ですから。どうぞお気遣いなくご心配なさらず。はい」とフォローを入れたい気持ちがある。しかし本当に心配されたくないのかというと、どうも心配してほしいような気もするし、少しは気にして欲しいからこうやって書いているということもある。

泣いている人を見ると、「この人はどうしたのだろう。どうしようどうしよう」と思ってしまう気持ちが私にはある。そして周りの人を見ると、そのような気持ちを持っている人が多いようだ(程度の差はあるものの)。

「私はそう思われたくないし、そう思われてはいけない」という気持ちを持つことが、私には時々ある。つまり「放っておいてほしい。ひとりにしておいてほしい」という気持ち。しかし、泣いてしまうと「この人はどうしたのだろう。どうしよう」と、その場に居る人を戸惑わせてしまうことになる。だから、泣きたくないし、泣いてはいけない。

でも一方で、思いっきり泣きたい気持ちもある。1度涙がこぼれてしまうと、緊張の糸が切れた感じがして、「どうせだから、もう全部解放してやろう」とも思う。

もちろん、いろいろな場面で泣くことはあるだろうし、泣く原因もさまざまであろう。人前で泣くか、一人で泣くかということの違いもあるだろう。

最近の私は「人前で泣くのは嫌だ。ひとりにしておいてほしいから。でも一人で泣くのも嫌だ。寂しいから。そして私は泣いてはいけないと思っているのに、どうも泣くことが多い」という状態だ。…かなり矛盾している。ひとりにしておいて欲しいのに、ひとりで泣くのは寂しいから嫌だなんて。人前で泣いてしまった記憶の方が強く残るのでその方をよく憶えているのだけれど、よく考えてみると一人で泣いていることも割と多い。

…まとまりがつかなくなってきたけれど、せめて泣きたい時くらい素直に泣こうと思う。そして、「その場にふさわしくないだろう考えや気持ち」(例えば、泣いてはいけないだろう場面で泣きたい気持ち)を持ってしまったとしても、そう思う私自身を責めずに、私はそのように思っているんだということを、せめて大切にしようと思う(それを他者に向けて表明するかどうかは別の問題かもしれない)。

…ひとまず、泣きすぎて頭が痛くなってきて、おまけに耳鳴りまでしてきたので(なんということ)、続きは少しずつ書いたり書かなかったりします。

…泣いたり、笑ったりしながら、おおむね、元気に過ごしてはいます(近況報告)。



BGM:「テレプシコーレ」(Terpsichore)(Praetorius/Margolis)よりIV(Gaillarde - Reprinses - Gaillarde - Volte)

ドイツ初期バロック時代に活躍した音楽家、プレトリウス(Praetorius)によって編纂された同名の舞曲集を、現代の吹奏楽によって最大限に生かすようにオーケストレーションされたもの。…の、4楽章。


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浜梨 |MAIL“そよ風”(メモ程度のものを書くところ)“風向計”(はてなダイアリー。趣味、生活、その他)