風紋

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2003年12月28日(日) 心に残る言葉(くり返すこと) / 呟き / 追記:さっき見た夢 / また夢

何気なくテレビをつけながら家事をしていたら、とても心に残る言葉が耳に入って、思わず家事を放り出してテレビの前に駆け寄ってしまった。

全文ははっきり覚えていないし、何気なくつけていたテレビなのできちんとチェックもしていないのだけれど、「だいたいのことはくり返すことができるけれど、命だけはくり返すことができない。だから『命はくり返すことができない』ということをくり返さなければならない」「他人の死はくり返すことができるが、自分の死はくり返すことができない」という内容だった(うろ覚えなので間違いがあるかもしれない)。最後に「詩集『はるかな国からやってきた』から」と書いてあったのだけは見たので、あとで検索をかけてみたら、「はるかな国からやってきた」(谷川俊太郎、2003年、童話屋)(詳細)のことかもしれない(これも確認していないので間違いかもしれない)。

なぜか私の心にすとんと落ちてきた言葉だった。そうなんだよ、命はくり返すことができないんだよ! 人の命でも、ものの命でも…。だから「命はくり返すことができない」とくり返し思い出したいんだよ! …と。

だから私は「今」を大切にしたい。と言いながらも、大切にできていないことも多くて、それは本当に取り返しのつかないことだと身を切る思いでいる。

私は「乗り越える」や「克服する」という言葉に割合抵抗を感じてしまう方なのだけれど、むしろ「溶かす」とか「抱えながら」という言葉を使った方がしっくりくるのだけれど、なぜなのかうまく説明できない。この言葉は、そのあたりの想いを言葉にするきっかけを与えてくれたように思った。

(場合によると思うので「乗り越える」や「克服する」という言葉を否定はしないし、私も場合によっては使う。単に私が引っ掛かっているだけ)


それでも私は書き続ける。私はとても大切なことを見落としてしまっているのかもしれない。大切なことを見落として、無神経に笑って、無神経に書いてしまっているのかもしれない。今もそうなのかもしれないと思うと、取り返しがつかないと思って、きゃああっと叫んでしまいたい気持ちになる。

…私は、どうしようもない人なのかもしれない。でも、どんな時でも、私自身と周りのことをきちんと見て、眼をそらさずに全身で向き合っていたいと思う。…無理な時もあるかもしれないけれど。できないこともあるけれど。できるだけは。

私にとって大切なことがあるのと同じように、誰にとってもそれぞれの人にとっての大切なことがあるということがわかった。それぞれの人の「大切なこと」を大切にしたいと思うと、どうしたらいいのかわからなくて、いろいろ考えて、どうしようかと思って立ち止まってしまう。そう考えるうちに、私自身にとっての大切なことをより大切にできるようになってきたような…気もする。

…だから、どうなんだろう…。


こんな話の後に書くのも何だかなと思うが。

実は、テレビをつけている時に「燃焼系『アミノ式』」の新しいコマーシャルが流れているのを見て、それも思わず家事を放り出してテレビの前に駆け寄ってしまった。

本当は「新しい」のではないのかもしれない。私は12月に入ってからはあまりテレビを見ることがなかったので。逆立ちをしながら進んでいる人のバージョンを見ました。私が知っていた最新版は「ピラミッドで大縄跳び」だったので。


追記。

↑この日記を書き終わった後、すぐ寝たら(確か寝たのは0:30前後だったような)、妙に疲れる夢を見てしまった。目が覚めて、あまりにあまりな夢の内容に救いようのない気分になってしまい、何だかなぁ…というところ。とにかく、夢の内容がすごく気になる。

夢の内容は、ここに書くのも気が引けるし、ここに書いて“私自身ではわからない私の部分”について妙にあれこれ推測されるのも、ちょっと嫌だな…と思っているので、詳しくは書かない。端的に表現すると、「修学旅行か何かのシチュエーションで、“もうついていけない。死んでやる!”という気持ちになり(そう思ったのに何かきっかけがあったかどうかは、何せ夢なので覚えていない)、食事の時間もお風呂の時間も無視して、刃物か何かを持って、とにかく1人になれる場所を探していたのだけれど、狭い宿なので、部屋という部屋がすべて誰かの使っている部屋になっていて、1人になれる場所がなく、困惑しまくっている。“死んでやる!”と言い、実際にそのための行動に移しかけているのだけれど、それは“私は死にたいくらい苦しいのをわかって下さい”ということを分かって欲しかっただけで、本当はそれが一番大きくて、先生か誰かに止めてほしかったのだけれど、止めてくれる人もおらず、仕方がないので、疲れた身体を引き摺って、目立たないように死ねる場所を探している」という夢だった(…「端的に表現した」割にはやたらと長いなぁ)。

いや、夢は夢で、現実は現実なので、そのあたりはわかっているし、実世界での私は決して自分からは死のうとは思っていない。命が続く限りは生きようと思っている。それは私自身に対してだけでなく、他の人にも、抱えている事情は様々であっても、私などが申し上げるのはおこがましいものの、生きていてほしいと思っている。…理由はよくわからないけれど、生きたいし、生きていてほしいのだ。

しかし白状すると、実際は実世界でも「私は死んでしまいたいほど苦しいんだよ」(それを実行するかは別にして)と他者に訴えざるを得ないほど、苦しく追い詰められた気分になることもしばしばある。もちろん、私の気持ちをわかってもらうために「死ぬ」という方法しか取れないのは哀れで惨めで愚かなことだと思うし、分かってもらうためには、別のもっと最適な方法があろうとも思うのだけれど。

最近、夢のことをここに書いたり書かなかったり、「そよ風」の方にはちらりと書いたり、あるいは一切外には出さないように書いたり、とにかく何かの形で残そうとは思っているのだけれど、この内容はさすがにきつい。苦しい。それに、ずっと「何かを自分の想いを伝えようとしているのだけれど、伝えられなくて、声が思うように出なくて全然伝わらない」という夢や、今日のように「気持ちをわかってもらえないので、自ら死ぬという方法いう派手な方法を取ってわかってもらうしかない」という夢を見ることが多いので、さすがに疲れるし、なんだかなぁ…とも思うのだ。

というわけで半分くらい白状する。私は、時々“死んでしまおう”という方法でしかわかってもらえないと思うほど、苦しく悲しい気持ちになることがある。最近、そのような“苦しく悲しくつらい気持ち”になることが増えた。けれど、できるだけそれを現実にはしないし、なにがあっても生きていこうと(少なくとも自覚的には)思っている。

…眠くなってきたので、タイプミスも増えたことですし、もう1度、寝ます。早く“疲れる夢”から解放されたい…。

(2003/12/29,午前4時20分記)


どうでもいいことだが、また追記。

そしてまた夢を見た。

今度はあまり覚えていないが、「修学旅行に行っていて(また?)帰ってきて、学年集会があり、何か先生や学年代表が喋っていたのだが、何を指示されたのかさっぱりわからなかった。そして上履きのないまま教室に行ったが、よく考えると、下足箱で上履きを探してくればよかったのだった。しかし、自分の下足箱もわからないほど“学校”から離れてしまっていた。上履き無しで靴下だけで廊下を歩くと、釘などを踏んでとても痛かった」という夢。

さっきの夢ほど不快ではなかったが。

(2003/12/29,午前6時30分記)


2003年12月27日(土) 比較的元気で楽団の練習に行った / メモ:悲しい気持ち

今日は、私は比較的元気に過ごすことができた。なぜだかわからないけれど、体調が良いのは素直に嬉しい。

あまりに元気だったので、夜に少し楽団の練習に参加した。午後5時頃までは今日も欠席するつもりでいたのに、午後5時頃になって何故か“今日は行こうかな”と思ったのだ。

年末で忙しい時期にも関わらず、割と出席者が多かったのは、合奏の予定が入っていたからだろうか。私は少し遅刻して合奏に入った。今度の演奏会のプログラムのメインとなる曲を合奏していた。この曲は私は以前から知っていて、ずっと演奏したいなぁ演奏したいなぁと思っていたので、今回この曲をすることになって嬉しい。この曲を次の演奏会で演奏することが決まったというただそれだけの理由で、もう少し楽団を続けてみようかなと思い直したほどだ。そんな曲の合奏だったので、楽しかった。わくわくした。

…が、難曲だった。難しい。この曲をきちんと仕上げるのはかなり難しい。…とは、事前にある程度予測はしていたのだけれど。普段からよく聴いている曲なのだが…。譜面を前にして、おたおた(おろおろ)していた。…きちんと吹けていた箇所の方が少なかったような気がする…。…いや、練習しても完璧に吹けるかどうか…?

今までにも“これは難曲だ”と思う曲には何曲か遭遇したことがあるけれど。←ささやかに駄洒落のつもり。

しかし、譜面を見て、実際に合奏に参加して、“絶対にこの曲を最高の形で仕上げたい”とも思った。たとえて言うなら、「ずっと欲しかったプレゼントを受け取って、まさにリボンに手をかけようとしている時のような気持ち」。リボンを解いて、包装を外して、何が得られるかは私たち次第。

差し当たり次の演奏会までは、頑張ろう。皆と。

帰りに空を見上げると、たくさんの星が輝いていた。冷えきった空気の中で見る星たちは、とても美しく見えた。あぁ、と思った。


今日はあまりうまく言葉にすることができないので、メモ程度の曖昧なものになってしまうのだけれど。

悲しいという気持ちについて、考えていた。

「悲しい」という気持ちはどんな気持ちなのだろう? 
どういう時に「悲しく」なるのだろう? 
「悲しい」と思う時は、「悲しい」という気持ちとは少し違う気持ちも同時に持っていることが多いような気がするのだけれど、それも含めて「悲しい」というのだろうか? 
「悲しい」だけではないとしたら、どんな気持ちが一緒についてくるのだろうか? 
私の「悲しい」気持ちと、あの人の「悲しい」気持ちと、その人の「悲しい」気持ちは、同じなんだろうか、違うのだろうか? 
違うところがあるとすれば、どこまでお互いの「悲しい」という気持ちは重なり合うのだろうか? 
絶対にぴったりとは合わない気がするのだけれど(根拠はないけれど)、それは「悲しい」ことなのだろうか、それとも「悲しい」とは少し違う気持ちもあると思ってよいのだろうか?

…別に「悲しい」に限って考えなくても、「嬉しい」で考えても「楽しい」で考えても良いようにも思うのだけれど、今日は「悲しい」という気持ちについて考えざるを得なかった。


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浜梨 |MAIL“そよ風”(メモ程度のものを書くところ)“風向計”(はてなダイアリー。趣味、生活、その他)