風紋

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2003年10月30日(木) 一山越す / 1回限りの演奏 / 頭の中でメロディー / 故障中の上りエスカレーター / 呟きいくつか

や、やっと、ひ、一山越えた…。まだまだ山があるけれど、とりあえずひとやすみ。


所属している楽団の演奏会が近づいている。普通に過ごしていても、演奏会で演奏する曲のメロディーが自分の中で流れていることが多い。家では何度も参考演奏を聴いていたりもする。練習に参加している時は、何度もその曲を演奏し、メロディーの中に身を任せている。

けれど、よく考えてみると、聴きに来て下さるお客様にとっても、演奏している側の私たちにとっても、本番での演奏は「1回限り」のものだ。そこでどれだけのものを作り出せるか、お客様に何を伝えることができるか、演奏する側の私達が何を得ることができるか。1度限りの勝負だ。

お客様にとって、その曲は初めて耳にするメロディーだという場合も少なくないと思う。そんなお客様にも、この曲はこんなにも魅力的で素敵な曲だと感じていただきたいと思う。そんな演奏をしたいと思う。そのためには、私自身が私なりにこの曲に向き合っているのだという気持ちを持たないといけないのかなと思う(たぶん、メンバー全員が…)。


私の中では、いつも何かのメロディーが流れているように思う(そういう方は他にもいらっしゃるかもしれない)。

どうも、私に関しては、緊張している時や混乱している時には、一気にたくさんの曲のメロディーが短い時間で代わる代わるに、くるくると流れるということに最近気がついた。

ちなみに今日の仕事前は、私の頭の中では、ピアノソナタ「熱情」の終楽章(ベートーベン作曲)や、「be master of life」(aiko)、「motto」(JUDY AND MARY)、「カルミナ・ブラーナ」(オルフ作曲)、「百万本のバラ」(加藤登紀子)などのメロディーが流れていた。…ジャンルがばらばら。


上りエスカレーターの前まで来たら、故障のためかエスカレーターが止まっていた。階段に回るのも面倒だったし、エスカレーターの方が段の数が少ないので楽だろうと思い、そのまま故障中のエスカレーターを歩いて上ったのだけれど、何ともいえない違和感があった。きょとん、という感じ。

恐らく、エスカレーターというのは動いている状態が普通の状態である(人の目に触れ、人が使うときには)。だから、「動いているはずのものが動いていない状態だった」ことが違和感の原因だったのかなと思う。

しかし、あの時のあのエスカレーターについては、動いていないという状態が現実の状態で、そういう状態でしかあり得なかったのだから、あの時のあのエスカレーターはああいう状態であったのだし、ああいう状態でしかあり得なかったということを大切に思いたいと思った。

故障中の下りエスカレーターを歩いて降りる時の気持ちについては、今はよくわからない。


肩凝りがやや解消した代わりに、腰痛が再発?


何かをずっとさがし続けているような気がするのだけれど、何を、なぜ、さがそうとしているのかよくわからない。

「さがす」が、「探す」なのか「捜す」なのかもわからない。


「よくある話」であっても、当事者にとっては「よくある話」では済まない気持ちがあるというか、“確かに「よくある話」なんだろうだけれど、今は今で、私は私なんだよ”と言いたくなることがある。

逆に「よくある話だよ」と言われて救われることもあるのだけれど。

私については、という限定つきでの話だけれど。


2003年10月29日(水) 近付いて来て欲しくて、近付いて来て欲しくなくて / 武器 / 泣く資格? / へぇ…。

“腫れ物に触るように私を扱わないでよ。普通に接してよ”と、言いたくなることがある。

一方で、“そんなに踏み込んで来てもらうと困ってしまうよ。そっとしておいてよ”と、言いたくなることがある。

たぶん、私はその両方の気持ちを抱えながら、バランスを取りながら(時にはバランスを崩しながら…?)生きていっているのだと思う。

私の心にとまっている詩に、吉原幸子さんの「祈り」(詩集「魚たち・犬たち・少女たち」より)という詩がある。


祈り

わたしを解き放ってください
わたしは スティンドグラスの影にそまった
床のうえの 小さなしみをみつめているのです

愛がこわい やさしさがこわい
かみつぶす思いの悔いがこわい
わたしをいのちに誘わないでください
わたしはどこへも行かない 笑わない
ここに このじっとしたひとりの場所に
わたしを解き放ってください

わたしの肩に手を置かないで
ふりむかせないで
わたしのみつめている小さなしみを
親切な 大きな掌で
ふいてしまわないでください



(『続 吉原幸子詩集』(現代詩文庫 2003年,思潮社)(詳細)、p.53〜p.54より引用。本文3行目、12行目の「しみ」には傍点がついている)

この作品の背景などを全く知らずに、詩を読んで思ったことだけを書くのだけれど(吉原幸子さんの詩は私は好きなので、いくつかは知っているけれど)。

確かに私の中にこれに似たような気持ちがあることはあるのだけど、一方でそれとまったく逆の気持ち…つまり「肩に手を置いて」欲しい気持ち、「ふりむかせて」欲しい気持ち…も、私は持っている。しかし、時々は「肩に手を置かないで」「ふりむかせないで」と思うこともある。確かに。

また、私自身が、相手が「小さなしみをみつめている」時に、「肩に手を置かないで」「ふりむかせないで」という相手の切実な気持ちを無視して、「肩に手を置いて」しまっていたり、「ふりむかせようとした」り、「親切な 大きな掌で ふいてしまおうとした」り、ということをしてしまっているのではないかと振り返ると、申し訳なくてならなくなる。

少なくとも私自身については「肩に手を置いてほしい気持ち」と「肩に手を置いてほしくない気持ち」が、同居している(吉原幸子さんについてはどうだったのか、私にはわからないのだけれど)。

今、言えるのは、自分についても、自分でない人についても、「小さなしみをみつめている」時はそれを壊さないように大切にしたいということ…かもしれない。


私は私でしかないし、私以外の誰でもないし、私であることだけを武器にして闘っていかなければならないのだな、と最近思っている。


“私には泣く資格などない”と思ってきたけれど、よく考えると泣くのに資格など必要なんだったっけ…?


「トリビアの泉」を、初めてテレビで見た(でも少しだけ)。これが、あの「へぇ」か…と思うと、へぇ…と思った。へぇ…。


やや肩凝り。


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浜梨 |MAIL“そよ風”(メモ程度のものを書くところ)“風向計”(はてなダイアリー。趣味、生活、その他)