風紋

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2003年06月08日(日) 仕事と体調の因果関係 / 雨に不安 / 「風と海との対話」(ドビュッシー)を聴いて、対話について / 「そよ風」に写真

しなければならないことが多くあるから体調が悪いのか、体調が悪いからしなければならないことが多くあるのか、よくわからなくなってきている…と、とある人に相談すると、「前者でしょう?」と言われた。確かに、このように文章にしてみると、どう考えても後者はおかしい。ただ、後者であるという気持ちもどこかにあるように思う。

恐らく、正確には「もともと体調があまり良くないように思われるところに、しなければならないことが圧し掛かってきているから、余計に気が滅入るし、体調の悪さも改善しないように思われるし、しなければならないことの多さ・重大さも実際以上に大きく感じられる」というところだと思う。

もう少し軽やかにやっていけたらなぁと思うけれど、頑張らなければ…という圧力に押し潰されそうになっている。今月は、今後さらに無理のかかる状況になっていくような気がするので、どうなってしまうだろうと不安になっている。不安がっていても仕方がないから全力を尽くすしかないのだけれど。

土曜・日曜と、どこにも出かけなかったのに、ずっと身体がだるくて、食欲もなくて(というかお腹は減っているのだけれど食べ物を目の前にすると食べる気が起こらない)、眠ろうとしてもいろいろなことが気になって十分に休めなかった。どうしたら元気になるの?


来週(今週?)は、雨が続くらしいと週刊天気予報で知って、なんだかとても気が滅入って、あせって、不安になっている。たかだか天気予報でこんなに気分が左右されているのも自分でおかしいなと思うのだけれど。雨が続くと、私はまた大学や仕事に行きたくなくなるのではないだろうか、それでも気合を入れて行くしかないんだろうな…と思うと、正直なところ、ものすごくつらくなる。先のことばかり心配しても仕方がないのだけれど。今日は今日を大切にするしかないのだけれど。

…たぶん大丈夫です。頑張ります。


今日聴いた音楽
「海−3つの交響的スケッチ(I.海の夜明けから真昼まで,II.波の戯れ,III.風と海との対話)」/ドビュッシー作曲(ウラディーミル・アシュケナージ指揮/クリーヴランド管弦楽団)

「対話」ということについて、ぼけっと考えていたのだけれど、「対話」という言葉を聞いて思い出す曲がこの曲の3楽章「風と海との対話」(それとBill Evansの「自己との対話」というアルバム)だったので、まずこの曲を聴いた。このようにタイトルがついていると、本当に風と海とが対話をしているように思われる。弦楽器と管楽器、金管楽器と木管楽器といったような各グループのかけ合いがあまりにも自然であるからか。寄せて返す波。その上を吹きぬける風。ずっと対話が続いているような。

「対話」というのは、辞書的には「双方向かい合って話をすること。また、その話」らしい(インフォシーク国語辞典より)。それでも、風と海との間に対話が成り立つのだったら…と、考えていた。

風と海とが対話するのであれば、「双方向かい合う」のは、別に、生きている人間と生きている人間でなければならないということはないように思う。風と海とでもいいのかもしれないし、人間と自然とでもいいのかもしれないし、生きている人間と死んだ人間とでもいいのかもしれない。私は、「対話」のポイントになるのは「向かい合って」ということだと思う。別に位置的に向かい合う位置になくてもよくて、…何と言うのかな。心が向かい合って(?)いればいいように思う。

「話をする」と言っても、別に具体的に言葉のやり取りを行わなくてもいいのかもしれない。意味のある話を続けなくてもいいのかもしれない。どちらかがどちらかに一方的に話をして、黙って聞いてもらうというのも、あり…なんだろうか。

ここのところ、いろいろな人と対話をした。直接会ったり、会わなかったり、電話をしたり、メールをいただいたり。いっぱい助けてもらった。支えてもらった。言葉は十分でなくても、まるごと抱えてもらったという気がした。

だから、私も彼女と対話を続ける勇気を出してみようかと、そう思った。今まで逃げてきたところはあるけれど、いつかは「向かい合う」ことをしなければならないのだろう。返事は戻ってこないけれど、それでも気まぐれにふっと戻ってくるかもしれない。

…やっぱり、あんまりうまく書けた気がしない。技術的に上手く書けた書けないでなくて、伝えたいことをきちんと伝えられるように書けたような気がしない。それは、自分の中でも考えがまとまっていないことだからかもしれないし、この場所ではあまり具体的な事実を出して話をするわけにいかないことがあるからだということもある。“何となく伝わって下さい”というのは、あるいは、とても甘い考えなのだと思う。それでも、意味のつながった整然とした言葉ででなくても、対話を続けたくて…対話を続けたいという意志があることを示したくて、日記を書いているようなところがある。

読んで下さっているだけでも、随分助けられています。日記に依存してはならない、いつ日記をやめなければならない事態になっても大丈夫なようにある程度の覚悟は決めておかないといけないと思いながらも、今は、随分この場所に、そして読んで下さっている方に寄りかかってしまっているような気がします。

もう少ししっかりします。


そよ風」に、少しだけ写真を追加した。また空の写真ばかりですが。空と花くらいしか、ここには掲載できないですが。


2003年06月06日(金) 月が好き / とあるところから届いた、とある書類の、とある1行の記述

月が好きだ(夜に空に出る「月」)。特に理由などないが、とにかく好きだ。好き…というのとは少し違うかもしれない。この気持ちを何と呼べばよいのかわからないけれど。

帰りが夜になる時は、たいてい帰り道のどこかで空を見上げて、月を探してしまう。自転車をこぎながら空を見上げていて、フェンスにぶつかりそうになったこともある。月が見つかると嬉しいし、励まされるような気持ちになる。こんな素敵な月を見ることができるなら、もう少し生きていてもいいとさえ思う(別に明日死ぬとも思っていないけれど)。

何日に見るか、何時頃見るかによって、同じ「月」と呼べるものであっても、受ける印象が全然違う(受ける印象が違うのには、私自身の状態も反映しているに違いないが)。と言っても天文学の知識があるわけではないけれど(私は地学の天文分野は苦手だった)。

2〜3日前に見た月は、「そよ風」の方には「細い」と書いたけれど、ぱっと見たときの印象は「薄い」だった。触ってみたいけれど、うっかり触ると、ぺきっと折って壊してしまいそうな気がした。だから触れないと思った。

今日に見た月は、それよりも少し太く(?)はなっていたけれど、今度は本当に「薄い」と思った。少し濃い黄色、あるいはオレンジ色。そして形が「夢」という字に似ているように思った。


とあるところから届いた、とある書類の、とある1行の記述を見て、改めて悲しみを感じ、胸が締め付けられるような気がして、ぼろぼろと泣いていた(というか、それは、泣きポイント(?)では全くなかったのだが)。

誰かに助けて欲しい気持ちがありながら、この行き場のない気持ちをどこかで吐き出して誰かに受けとめてほしいと思いながら、一方で、そのことには決して他の人に触れられたくはないし、自分自身が思い出すのさえつらくて言葉にならない。それは私が弱いからなのかもしれない。でも、これからもこうして生きていくとしか、今は言えない。

この記述だけでは何が何だかわからないと思うけれど、これ以上のことはここでは書けない。ただ、こういう気持ちになったことだけは書いておきたいと思った。


BGM : Terpsichore (Margolis / Praetorius)


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浜梨 |MAIL“そよ風”(メモ程度のものを書くところ)“風向計”(はてなダイアリー。趣味、生活、その他)