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風紋 もくじ / この前 / この後
もともと、手帳に予定や覚えておくべきことを細々と書く性格ではなかったのだけれど、最近はさすがにいろいろと覚えておかなければならないことも増えたから、ここ2〜3年くらいは手帳によく書き込みをしていた。図書館の本の返却期限、何日の何時にどこそこへ行かねばならないという約束、研究会の予定、いついつまでに提出しなければならない文書あるいは書類…などなど。しかし、最近、“これ手帳に書いておいた方がいいよね”ということもなぜか書く気が起こらない。「○月下旬までに論文を仕上げる」「○月上旬までに調査計画を立てる」と頭ではわかっているものの、そこに向かっていく気力が湧かない。というか、5月6月のカレンダーを見ていても、何だかすごく他人事のように感じて、距離感を感じるというか、どうでもいいような気がするくせに焦りばっかり募っているというか。 「あれ」からx年経ったのだけれど、「あれからx年」ということを覚えている人が私の他に何人いるのだろうかと思うと寂しい気分になると同時に、自分が果たして覚えていてもいいのかという気持ちにもなって申し訳なくもなる。自分自身も思い出すと胸が裂けるような悲しみを覚えるから。でも「あれ」が何かは、ここではちょっとだけ内緒。そして、xの値がいくつであるかも、内緒。 覚えているうちに,覚えておきたい記事(いつまでリンクが有効かわからないけれど) *こちら(14歳携帯の「遺書」 残った未送信メール) 本当に本当にこの女の子は苦しかったんだろうなと。でも生きていてほしかった。生きる意味なんて私にだってわからないけれど、「生きていたらそのうちいいことがきっとある」とも言えないけれど、でも生きていて欲しかった。知らない子だけれど。「死にたいという気持ちは救って欲しいという願望の現れ」というのが、そうなんだろうな、と思った。それ以上のことは、私にはうまく言えないけれど。 *こちら(とっておきの場所 震災の傷忘れぬように 神戸大アカデミア館のバルコニー ) 「街を見渡す場所に立つと、犠牲になった6400人を超える人から問いかけられている気がする。「私たちのこと、忘れていませんか」と。」というのが心に残った。私も問い掛けられているのかもしれない。問いかけに気がついていないのかもしれない。たまには、のんびりとしないと、忘れたくなかったことや忘れてはいけないことを忘れてしまうような気がする。私はそれが怖くてならない。自分が忘れてしまう存在であるということが。
ろくでもない日記しか書けない(もともとそうだったけれど、最近は特に)。いっそ書かない方がいいのではないかとも思う。けれど結局忘れられたくなくて、寂しくて、何かを伝えたくて、気がついて欲しくて、だから書いている。(書いているだけではなくて、いくつかの日記を読ませて頂いています。この場をお借りして、ありがとうございます) そういえば楽団の練習だった…と、夜遅くになってから思い出した。こんな感じで練習日を忘れていたことはなかった。ちゃんと届を出して休団すべきかどうか結論が出せないままずるずるきている。今は日常がかなり苦しいので、練習どころではないとも思うが、逆に練習に参加した方が自分を取り戻せるかもしれないとも思う。もう何年も、音楽を演奏することは自分の芯にあったから。演奏会のたびに、私の帰る場所はここだと思うから。 今はもう二度と会えない遠い場所に行ってしまった友人が、以前に私の演奏会を聴きにきてくれた時に差し入れにつけてくれたカードを見つけた。 「まだこれからもステージにのるチャンスがあること、私にはうらやましいです。忙しくなるだろうけど、こんな感動味わえるチャンス大事にしてね」 猛烈に申し訳なくなる。大事にできてなくてごめんね。こんな私でごめんね。 今、聴いている音楽。混声合唱組曲「方舟」(大岡信作詩/木下牧子作曲) 合唱をはじめた年にやった曲なので、ところどころで「ここで○○さんがこんな指示をしてたなぁ」とか「ここでこんなブレスを取っておかないといけなかったなぁ」というのが自然に思い出される。聴いていてある箇所でふっと腹筋に力が入ったり、喉の奥が広がる気分を味わったり、口が勝手に開いていたり。楽譜への書き込みも、今から見ると、あぁ1年目の書き込みだなと思ったりする。 当時はあまり歌詞の意味を考えて歌うということをしていなくて、ただ目当ての音に対して音程とリズムを外さないように声を発するということしか考えてなかったなと今になって思う。「ゆふべのかいちょうはうみをすべり」と、本当に何の気なしに歌っていた(というより「レソソソ ソソラーラー ラララララファーソー」(←アルトのパート)と音程をなぞっていた)のだけれど、後で詩を読んで「かいちょう」が「諧調」だったんだと気付き、それを知ろうともせず歌っていた自分を恥ずかしく思ったりもしていた。 今、聴きなおすと、1の「水底吹笛」の うっすらともれてくるひにいのろうよ がらすざいくのゆめでもいい あたえてくれと うしなったむすうののぞみのはかなさが とげられたわずかなのぞみのむなしさが あすののぞみもむなしかろうと ふえにひそんでうたっているが という箇所が、胸をぎゅうと掴まれたような気分になる。 しかし ひめますのまあるいひとみをみつめながら ひとときのみどりのゆめをすなにうつし ひょうひょうとふえをふこうよ くちびるをさあおにぬらしふえをふこうよ と、この曲は終わる。のぞみがはかなくてむなしいものであると知っていても、それでもふえをふこうよ、と終わっているところに希望を感じる。 しかし、4の「方舟」も好き。5拍子に慣れるのに時間はかかったが。 余談だけれど、この楽譜の裏表紙に、私は「逃げも捨てもしない」と走り書きをしていた。確かに私の字なのだが、いつどういう経緯で何に対してこんな走り書きをしたのか、今では全く覚えていない。
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