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風紋 もくじ / この前 / この後
机の前に座ったままほとんど立ち上がらずに、窓の外から南の空をじっと見つめ、太陽が雲の中から現れたり雲の中に隠れたりしながら東から西へ移り行くのをじっと眺めていたら、いつの間にか空は真っ暗になっていた。 やっぱり「テレプシコーレ」をずっと聴いていた。IV(4楽章でよいのだろうか)の4分30秒以降の部分を繰り返し聴いていた。あともう少しすると、私はこの音楽をステージの上で演奏する一員となれる、そのことを嬉しく思った。まだ全然練習していないのに。 他の何を失っても私には音楽がある、と思った。 オルガン(パイプオルガン?)で奏でられたメロディは、心の中の一番敏感な部分に触れられるような気がする(私にとっては)。 結局、私に自信がないのが一番悪いんだろうと思った。いや、自信がないのが悪いのではなくて、自信がないことを言い訳にして、何もしようとしないこと、する前にあきらめてしまうことが一番悪いんだろうと思った。 完全に完璧にできなくてもかまわなくて、とりあえず動いてみることが大事なんだと頭ではわかっているのだけれど。できるところまででいいじゃない、やる前から諦めんなよとりあえず動こうよ、と自分に言い聞かせる。 泣きながらでないと自己主張できない状態からは脱出したいと思うのだ。 少しだけ待ってほしい、時間がほしいと思う。でもそんなことを考えていても、時間は過ぎていくということが、正直なところ、今はちょっときつい。 無理して浮上する必要はないと頭ではわかっていても、いつまでも浮上できないとさすがに焦り、でも焦れば焦るほど悪循環に陥っているような気がする。 沈み込むための時間さえないのか? 「理解される事実はあまりにも不幸だった そして理解されたために不幸となった けれど解釈されることなく、そのまま現実として耐えていこうとするとその現実はどうなるのだろうか 今日は十一月二十日 彼の講義が終わるのは十二月二日」 (「不幸について」 / 小野原教子「表面張力」,2000年,思潮社) 最後の2行はちょっとこの詩の背景を知らないので置いておくとして3行目まで。 本当に、どうなるのだろうか。 寝付けない夜。
夜明け前、机の前に座って窓の外を見つめ、南の空が急速に明るくなっていくのをじっと眺め、その後に少しだけ眠りの海の中に沈み込み、また起きて、机の前に座って、太陽が現れたり隠れたりしながら東から西へ移り行くのをじっと眺めていたら、いつの間にか空は真っ暗になっていた。 「テレプシコーレ」(Terpsichore)(Praetorius/Margolis)をまともに全部聴いてみた。 I(Bransle Gay - Bransle double de Poictu)とII(La Robine - Spagnoletta - Ballet des Amazones - Volte)は、文字通り、身を切られるような切なさを感じた。追いかけても追いかけても、手を伸ばしても伸ばしても、憧れのものに手が届かないかのような。それがIIIを経てIV(Gaillarde - Reprinses - Gaillarde - Volte)に入った時に、希望の芽を大切に大切に育てているという感じを窺うことができ、一番最後の部分で一気に飛翔するという感じがした(元々はこんなストーリーを持つ音楽ではない。あくまで私の勝手なイメージである。この曲の詳細は…また調べます)。 かなりの難曲であることは間違いないようだ。今、このような状態にある私が、他でもない今、この曲を演奏することになったのも、何かの運命かもしれないと思った(大袈裟かもしれないが)。これからこの曲と向き合う中で、私は何を失い、何を得ていくのだろう。 新井素子「ハッピー・バースディ」(2002年,角川書店)より。 「“書かない”のは確か、“書けない”のも、多分そうだろう、けれど……けれど、“書きたくない”のか? 違う。 おそろしいことに、それは、“違う”。」(p.276) 「うん。そうだ。 結局、判ったのは、たった一つのこと。 “自分がしたくないと思っていることをするのは、変だし、自分がしたいと思っていることを、しないのは、変だ”。 そう。 うん。 そんなくくりで言うのならば。 “書きたい”と思うことをやめる必要はないのだし、“書きたい”と思わない場合、何も書く必要は、ない。」(p.280) 「たとえどんなにそれが辛くとも。 実際、全然文章が書けなくとも。 “書けないし”、“書かなくとも”……それでもそれは、“書きたくない訳ではない”。 それは、言い換えれば、こういうことになる。 たとえどんなにそれが辛くとも。 実際、もう生きている必然性がなく、“死んだ方がずっといい”って状態になったとしても。 “生きているのが辛いし”、“生きている必要はないって思っていても”……それでもそれは、“生きているのをやめたい訳ではない”。−−言い換えれば、“死にたくない”。“死ぬのは、嫌だ”。」(p.281〜282) 私も書きたい。生きたい。書かない方がいいのではないかと思って、書くことを徹底的に避けていた時期も昔あったけれど、それでも書きたかった。だから書く。血を吐くような思いをしても(論文が書けたらもっといいのだけれど、ということで2月は頑張る)。 誰が何と言おうと、私は、自分が見、自分が感じたところの、自分の目の前にある真実を見据えて、それを大切にしていこうと思った。 自分が大切だと思うものは、それが何であろうが、誰に何と言われようが、大切だし、だから大切だという思いを守り続けるだけの気概を持ちたいのだ。
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