風紋

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2003年01月27日(月) 自分のためのメモ / 音楽にかき乱される / かき乱されること

何だか悩ましい週末だった。昨日はほとんど何もしていないのに何だかとても疲れてしまい、早めにベッドに入ったものの、いろいろと考えてしまってなかなか寝付けなかった。寝たり起きたりをどのくらい繰り返していただろう。しかし今日は早く起きなければならなかった(と言っても世間一般の基準に照らし合わせると全然早くないが…)ので、かなり無理やり起きた。1日中調子が悪くて、頭痛もするような気がしたので、今日は少し早めに帰った。

って、ほとんど自分のためのメモですが…。



江國香織さんが、音楽について次のように書いてあるのを読んだ。

「音楽はある種のDRUGだと思う。神経をたかぶらせたり鎮めたりする。言葉では届かない場所に触られた気がし、心がかき乱される。
 音楽を聴きたい、と欲することは、多かれ少なかれ、かき乱されたいと欲することだ。
 なんのためにかといえば、おそらく、自分の振幅に耳を傾けるために。誰かに、あるいは何かに、かき乱してもらえない限り、どんな楽器も鳴ることはないのだ。
 何かを表現しようとすることは、つまり自ら楽器になることだし、それが安物だろうと玩具だろうと、音が悪かろうと壊れていようと、楽器である以上音を出す以外にすることがない。」
(江國香織「音楽について」/「泣く大人」,世界文化社,2001年より(pp.31〜32))

途中の部分だけの引用なのだけれど、このエッセイ全体を読んで、ああそうか、そうなんだなと思った。自分が言葉にできなかったことを言葉にしてくれたと思った。特に、「言葉では届かない場所に触られた気がし、心がかき乱される」という部分は、本当にそうだと思った。

だから私は、このごろ、音楽をとてもとても聴きたくて、反面、徹底的に音楽を避けていたのかもしれないと思った。何ものかに、かき乱されたい気持ちはある。とても。それは何かを表現したいという気持ちと同じものかもしれない。でも、一度かき乱されると、私はどうなってしまうかわからないという怖さにも似た気持ち。それが自分の心をかき乱してしまうと、もしかすると日常生活が営めなくなるのではないかというくらいになってしまうのではないかという感じ(←大袈裟か?)。

1週間ほど前に、CD屋さんの視聴コーナーで、中島みゆきさんの「地上の星」を聴いた。その時に、そういう感じ(「それが自分の心をかき乱してしまうと、もしかすると日常生活が営めなくなるのではないかというくらいになってしまうのではないかという感じ」)があった。私は今、この音楽を、頭ででも耳ででもなくて、みぞおちのあたりで聴いていると思った。みぞおちのあたりに意識が集中して、それ以外のところの力が抜けていくような気がし、そのうち足から力が抜けてがくっと座り込んでしまうんじゃないかと思った。

言葉にできないところを揺さぶられたと思った。これ以上この曲を聴くと、どんどん落ち着かない気分になるように思うのに、心はこの曲を求めていた。この曲について、それ以上の私の感想は、少なくとも今は書けないような気がする。もっともこうなったのは、その時の私の状態がかなり影響していたようにも思うけれど。その日その時に、その日その時の私が、この曲を聴いたから。

今日、この曲のCDを購入して聴いてみた。その日ほどの状態にはならなかったけれど、自分がとても強くなれるような気分と、自分がとても弱くなってしまうような気分の両方を感じて、落ち着かなくなった。なのに繰り返して聴いていた。

いろいろな意味で話題になった曲なので、人により、立場により、この曲への評価は違うと思うけれど、今、こういう私がこの曲を聴いた限りにおいての正直な気持ちが、これだ(あんまりきちんと書けていないけれど)。


かき乱されることを、今の私はとても望んでいて、反面とても恐れている。だから音楽も聴けたり聴けなかったりするし、日記も書けたり書けなかったりする。他の方の日記が読めたり読めなかったり…は、あまりないけれど。

私をかき乱してみてください…と、言いたいような、言いかけてやめたいような気持ち。

あんまりにも激しくかき乱されると、もしかすると何も書けないのではないかと思ったり、それを望んでいたり、望まなかったり。

…よくわからないな。


2003年01月25日(土) 私はここに居ます / 自己嫌悪 / 屋根の色 / ほんとうにごめんなさい

今から書くことは、あまり上手に書ける気がしない。でも思い切って。

多少長くなるのだけれど、以下、引用。

「グラウンドにならぶ六百人の生徒。
全員そろいの白いシャツを着て、紺色のスカートとズボンをはいて、黒い髪の毛。そういう人間が六百人も整列して、だまって立っている。
一瞬、六百人がみんな、同じ人間のように思えた。男と女のちがいがあるだけで、クローン人間のように、みんなそっくりなのだ。
でも、ほんとうはちがう。
わたしがこうやって頭のなかでゴタゴタ考えているように、あの六百人もそれぞれべつべつのことを頭のなかで考えているはず。
だれがどんな悩みや気持ちをいだいているのか、ぜんぜん、わからない。でも、たしかにあそこには、六百通りの考えや気持ちや悩みがあるのだ。
まためまいがおきそうだった。
前をむくと、増村みずえは机につっぷしていた。よく見ると、肩が震えていた。
また泣いているのかもしれない。
あそこにもひとつ、わたしの知らない悩みがある」
(魚住直子著「非・バランス」,講談社,1996年刊。第36回講談社児童文学新人賞受賞作だそうだ)

引用したのは、主人公の「わたし」(中学2年)が、朝礼中に気分が悪くなって教室に戻ってきて、教室の窓から朝礼の風景を見ている部分なのだけれど、これと似た気持ちを、私は、満員電車の中で、あるいは満員電車を抜けて大勢の人と一緒に改札を出る時に感じることがある。同じ方向へ行く同じ電車の同じ車両に乗っていたとしても、皆が同じことを考えているわけではない。新聞を読んでいるあの男性にはあの男性の事情(?)があって、携帯電話でメールの文面を打ち込んでいるその女の子にもその女の子の事情(?)がある。

大勢の中に居ると、自分がなんだかどうでもいい存在のように思えてきて、大勢の中に自分が埋もれて消えてしまいそうな気がして、不思議な気分になることも多い。私がすごくすごく悩んでいる時でも、世の中の大多数の人はそれを知らないし、そもそもそれは大多数の人にとってはどうでもいいことだろうし。逆に、私はあそこに座っているあの人がもし苦しんでいたとしても、その苦しみの内容はわからないし、そもそも苦しんでいることさえ知らない(ことが多いだろう)。

それでも、自分の存在がどうでもいいものであることを知っていながら、なお、何となく、「こんなことを考えているこんな私がここに居ます」と言いたくて(それにどんな意味があるのかわからないけれど)、それで私は日記を書いているのかもしれない。フロッピーの中ではなくて、わざわざこの場所に。

そして、私以外の他の人が、どんな考えや気持ちや悩みを抱いているのかは、「わたし」と同じく私にもぜんぜんわからないのだけれど、確かに、他の人にもその人その人の考えや気持ちや悩みがあるということを感じたくて、それで私は他の人の日記を読むのかもしれない。なぜ感じたいのかはわからないのだけれど、あえて言うなら、独りでないことを実感したいからなのかもしれない。私とは違う考えや気持ちや悩みを持っていても、何らかの考えや気持ちや悩みを持っている人がそこにいるということを。

ごめんなさい。なんだかまとまらないわ。


あまりこの場所で嘘をついても仕方がないので正直に書くと、「こんな状態を調子の悪い状態だとは客観的には言ってはいけないと思うけれど、主観的には調子が悪いような気がする」という感じ。不適切な行動や発言が増えている。

本来しなければならないことや頑張らなければならないことに対して、どうしてもやる気が起きなかったり、本来は愛想よくにこにこと笑っていた方がいい場面で、どうしても笑えない時は、どうすればいいのでしょうと途方に暮れる。

いや、今日そういうことがあって、自己嫌悪にはまってしまったので。ほんと駄目だわ私、と思った。


前の家の屋根の色と同じ色の屋根の家を見た。色としてはそれほど突飛な色ではないものの、屋根の色としてはあまり見かけない色で、私も「あ、あの屋根は前の家の屋根と同じ色だ」と自覚したのは初めてだった(本当は他にもあるのに、私が見落としていただけかもしれないが)。前の家を思い出す手がかりになるものを見ると駄目だなーと思う。気持ちが、うわーっとなる。

毎日のように、前の家の跡地を通って帰ってきている。昨日、ふっと振り返ってそこを眺めて、“恨みなんて別にないよ”と一旦は思ったけれど、“恨みなんてない”と言っている時点で自分の中に恨みがある程度は存在する(もしくは存在したことがあった)って言ってるようなものじゃないかと、苦笑する。

いや、誰も何者も恨んでないし、仕方のなかったことではあるのだけれど。ほんとに。


やたらめったら言い訳が多い。ごめんなさい。ついでに今日の日記は下向きで(という自覚はある程度はあるので)ほんとうにごめんなさい。もう少ししっかりします。


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浜梨 |MAIL“そよ風”(メモ程度のものを書くところ)“風向計”(はてなダイアリー。趣味、生活、その他)