Tonight 今夜の気分
去るものは追わず、来るものは少し選んで …

2006年07月31日(月) 500円で名作のオーナーになれる時代



「 ショーほど素敵な商売はない 」

                  アーヴィング・バーリン ( アメリカの作曲家 )

There's no business like show business.

                                   Irving Berlin



皆様は、映画の著作権における 「 1953年問題 」 をご存知だろうか。

オールドムービーファンには興味深い話で、推移が気になるところだ。


パラマウント社が、1953年に公開された 『 ローマの休日 』、『 第17捕虜収容所 』 の2作品について、廉価版DVDの販売差し止め請求を起こした。

旧著作権法では、映画の保護期間は公開の翌年から 「 50年 」 とされていたが、2004年1月1日施行の改正法で 「 70年 」 に延長された。

このため、1953年公開作品については、保護期間が50年か、70年なのかを巡り業界内で見解が分かれ、ついには法廷で争う事態に発展したのだ。

結果、1953年問題について、著作権は50年で切れたとする初の司法判断が下され、パラマウント側の敗訴で決着した。 

パラマウント社側は決定を不服とし、知財高裁に即時抗告する方針を示したが、とりあえず、廉価版DVDの販売は合法的に認められたのである。


ちなみに、1953年は 「 映画の当たり年 」 として有名で、『 ナイアガラ 』、『 シェーン 』 などの名作が、続々と公開された年でもある。

映画ファンとして、これらの名作が 「 500円 」 で所有できるのは夢のような話だが、著作権を保有していた側にとっては大変な痛手だろう。

好きなのを選んで、ちょこちょこと50枚ほど買い集めたが、ビデオと違ってパッケージが薄いので、さほど邪魔にもならない。

年代的には古い作品ばかりだけれども、「 不朽の名作 」 と呼ばれるものが多くて、繰り返し観ても面白く、その感動は色褪せない。

劇場で観る新作映画も楽しみだが、古い作品には別の愉しみがある。


たまに、「 昔の映画は良かった 」 といった具合に、古い映画や音楽などを、現代の作品と比較して、懐古趣味的に賞賛する人をみかける。

ロックやラップなどを見下し、「 クラシックこそ、本物の芸術 」 と評価する人、そこにこそ荘厳な価値があるように語る人もいる。

現代の映画や音楽より、昔のものが良いのかというと、それは、ある意味で正しく、ある意味では間違っているように思う。

正確に表現するなら、「 昔の映画 ( あるいは音楽 ) で、現在まで受け継がれているものは素晴らしい 」 ということだろう。

長年の風雪に耐え、文化の変遷にさらされてなお、現代でも価値を認められている作品は、どんな芸術でも、間違いなく素晴らしいのである。


現代人には知る由も無いが、モーツアルトの時代にも、カスのような曲や、膨大なクズ作品があったはずで、いまに残っているものは僅かだろう。

それらも、音楽のジャンルに分類すると 「 クラシック 」 であり、ジャズでも、ロックでも、ラップでもない。

古いモノすべてが良いわけではなくて、現代まで継承され演奏されている 「 ごく一部の 」 楽曲だけをクラシックと呼べば、それは名作に違いない。

現代の楽曲の中でも、今後、数十年、数百年と継承される作品が出てくれば、後の世で 「 昔の曲はよかった 」 と、もてはやされるだろう。

今の若者からすれば、たとえば 「 ビートルズ 」 なんかは、そういった音楽として捉えられているのではないかと思う。


最近は、500円シリーズ以外にも、690円、980円などの低価格DVDが発売されていて、こちらは比較的に新しい作品も含まれる。

大手家電量販店で、『 西部開拓史 (1962年 米 ) 』 を690円で購入して、久しぶりに鑑賞したが、実に 「 excellent ! 」 としか形容のしようがない。

制作費数十億円の超大作を、わずかな投資で 「 所有 」 できるのは嬉しいが、欲を言えば、やはり劇場の大画面で楽しみたいものである。

いくら高価なAV機器を揃えても、映画や、オーケストラの名演奏は、家庭で侘しく鑑賞しても臨場感が乏しい。

500円DVDも良いけれど、古い映画を500円で上映してくれる映画館が出来たら、何度も足を運ぶのになァ・・・と思う。






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2006年07月30日(日) 天下り幹部たち



「 背表紙や表紙のほうが、( 内容よりも ) ずっと良い本がある 」

                 チャールズ・ディケンズ ( イギリスの小説家 )

There are books of which the backs and covers are by far the best parts.

                                Charles Dickens



装丁を工夫し、見栄えを良くするのも、本を売る努力の一つではある。

ただし、内容が良くないと、購入者はガッカリするだろう。


人間の場合も、たとえば学歴や職歴から判断して、有能と思われる人物を企業が採用したら、結果はサッパリだったという話をよく聞く。

あるいは、外見や第一印象が良かったので、彼氏 ( または彼女 ) に選んだけれど、交際してみると欠点が多く、すぐに別れたという話も多い。

ただ、本と違って人間の場合は、「 選んだ側の責任 」 も大きい。

期待はずれだと言われた側が、学歴や職歴に自分の価値を置かれたり、外見の良さだけに惚れられて、不本意な思いをしていることもよくある。

学歴や外見などとは別にある 「 その人の真価 」 を理解し、そこに期待して活躍の場を与えれば、同じ人物が違った成果を挙げることもあるのだ。


景気の回復を反映して、新卒の求人倍率は 「 バブル期を上回る 」 ほどに好調だが、相変わらず中高年の再就職問題には厳しい面が多い。

前職を上回る高給で迎えてもらえる人は少なく、そこそこのスキルを持っている人でも、スズメの涙ほどのギャラで転職されているケースが珍しくない。

ありがたいことに、私の場合は、たいした考えもなしに勤務先を辞めたが、それなりに商売を始められ、それなりに所得を得られるようになった。

現在は、複数のクライアントに支えられ、法人コンサルタントとしての活動をメインにしているが、やっている仕事は勤め人とあまり変わらない。

一社あたりの時間拘束が短く、その代わり、いろんな企業の顔を使い分けて働いている私は、野球でいうと 「 代打のかけもち 」 をしている感じだ。


この仕事を始めてから、前職の関係やら、友人の紹介などで、様々な企業から依頼があったけれど、すべてを引き受けることはできない。

そこで、「 何を受けて、何を断るか 」 という判断に迫られることになった。

これは誰にでも当てはまることだが、その人に適した仕事とは、「 その人が、やってきたことで、やれることで、やりたいこと 」 だと思う。

この 「 やってきたこと ( 経験・実績 )、やれること ( 能力・資質 )、やりたいこと ( 情熱 ) 」 の三要素が揃っている仕事を、まずは引き受けた。

その判断は間違っていなかったようで、まずまず順調に推移している。


次に選んだのは、「 自分の真価を理解してくれている企業 」 である。

よく知らない相手の場合は特に、学歴、職歴、資格などの情報しかないので、どうしても、そのあたりで勝手に評価されてしまいやすい。

また、同じデータを参照しても、そこからインテリといったイメージを持つ人もいれば、タフな人物像を想像する人もいて、それぞれに期待も異なる。

仕事なんだから、あくまでも相手の要求に応えなければならないが、こちらの特徴を理解し、それを活かしてくれなければ、上手くはいかない。

代打とはいっても、かなりの報酬をもらうわけなので、契約社員とは違い、成果が 「 平均点 」 というわけにもいかないのである。


こちらが企業の舵取りを経営者と共に考え、その将来を担う重責を感じている一方、役人や大企業の 「 天下り組 」 は、いとも簡単にポストに就く。

尼崎の脱線事故による責任をとる形でJR西日本を退社した引責幹部が、いつのまにか子会社の社長などに天下りしていた事実が発覚した。

遺族らは強く反発し、JR側は 「 それぞれの手腕を買った 」 と説明したが、遺族からは 「 納得できぬ 」、「 辞めさせるべきだ 」 と厳しい意見が多い。

彼らを 「 外側 」 と 「 中身 」 で判断した場合、たしかに外側は、鉄道事業に長く携わってきたのだから、その仕事に適しているようにも見える。

しかし、中身から判断すると、もう、その事業からは足を洗ったほうがよいような気もするし、遺族の感情を考慮すると、適切な人事とはいえない。


私のようなコンサルタントも、執行役員などの肩書きを借り企業役員に名を連ねたりするが、それは外部スタッフとして各社員にも認識されている。

難しいのは、役人や、倒産した大企業の重役、大口の取引先を引退した人などを天下りとして幹部に迎えるケースで、こちらは問題が多い。

よほど仕事ができるか、人格面で優れているか、仕事にかける情熱が強くないと、既存社員のモチベーションを下げたり、足を引っ張りやすい。

特に、その起用を 「 肩書き 」 で判断すると、失敗することが多いようだ。

その人物の仕事を一冊の本に例えると、背表紙や表紙の豪華さではなく、読者に感動を与える物語で綴られていることこそが、重要なのである。






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2006年07月29日(土) 米国産牛肉の危険度とは



「 賢明であるためには、ひとつのコツがある。

  そのコツとは、なにを見過ごすかを知るということ 」

           ウイリアム・ジェームズ ( アメリカの哲学者、心理学者 )

The art of being wise is the art of knowing what to overlook.

                                 William James



英単語の [ overlook ] には、「 知らずに見落とす 」 の意味もある。

上文での訳は 「 知っていて見ぬふり 」 が適切で、「 許す 」 に近い。


関西には、「 アホの一つ覚え 」 という言葉がある。

ボキャブラリーの少ない人が、普段の生活であまり使わない難解な単語を覚えると、何度も、何度も、繰り返して使いたがる様子を嘲笑う言葉だ。

米国産牛肉の輸入は、BSE対策が十分でないとして、取りやめたり、再開したり、中止したりしながら、また再開されることになった。

牛肉を米国から輸入することが決まるたびに、なにやら難しい言葉を使って 「 日本政府には国民を危険に陥れる故意がある 」 と糾弾する人がいる。

面白い発想ではあるが、何度も使うと 「 アホの・・・ 」 となる。


自動車を運転していて交通事故で死ぬ人や、航空機事故、食中毒、煙草の害で死ぬ人のほうが、BSEの犠牲者よりはるかに多い。

あるいは、自殺、異常者による犯罪などを原因とする死者のほうが多い。

もちろん、「 転ばぬ先の杖 」 という言葉もあり、健康への被害が予想されるモノについて、事前に対策を練っておくのは重要なことだ。

では、なぜ、全世界的に有害性の認められている煙草は販売中止にせず、米国産牛肉にだけ特別な警戒を示すのだろうか。

人体に危険という点では、死亡原因との因果関係、過去の発病者数など、どれをとっても煙草の被害はBSEに比べて甚大であるとみて間違いない。


私自身、アメリカに行けば米国産牛肉を食べるし、当然、周囲のアメリカ人も普通に食している。

それを 「 危険な食物 」 と断定するのは、彼らからみれば、ずいぶん失礼な話で、ほとんどのアメリカ人が納得していない。

また、輸入反対を声高に叫ぶだけで、アメリカ人に対して 「 米国産牛肉は危険だから食べるのを止めなさい 」 と、教えてあげる人はいない。

これでは、「 自分たちは怖いから食べないけど、君たちは好きにしなさい 」 と言っているようなもので、自分さえよければいいという考え方だ。

それに、米国牛の不安要素を並べ立てるだけで、和牛は 「 100%安全 」 という保障を、できる人は皆無である。


一兆歩譲って、「 米国産牛肉は、和牛よりも、煙草より、自動車より、天災より、精神異常の犯罪者よりも危険 」 だと仮定しよう。

その場合、責任はすべて 「 原産地 」 にあるのだろうか。

あるいは、その輸入を認めた通産省、厚生省に、あるのだろうか。

過去に厚生省は、血液製剤を認可して失敗した経緯もあるが、アメリカ人が健康被害を訴えていない現状で、同列に判断することはできない。

同じ 「 容疑者 」 でも、オウムのとばっちりで冤罪の被害にあった気の毒な方と、鬼母の畠山を同列に扱うことができないのと同じだ。


前回、あくまでもビジネスの観点からみて、米国は 「 特定危険部位を取り除いて出荷する 」 という契約条項に違反したので、輸入停止は正しい。

しかしながら、輸出の際にアメリカで背骨を取るのも、日本に輸入してから加工業者が外すのも、効果としては同じである。

危険な部位が混じって入荷してしまった場合に、すべての責任が原産国にあり、まったく中間業者には責任がないというのも不自然な話だ。

また、「 日本政府は国民を殺そうとしている 」 などという常軌を逸した発想は、意見というよりジョークに近く、反論するのもバカバカしい。

政府は 「 輸入を認めた 」 だけで、「 食え 」 と言ってるわけではない。


たまに、「 アメリカ人は大雑把で、日本人は繊細だ 」 とか、見下した評価を並べる人もいるが、明らかに彼らのほうが優れている点もある。

その一つが、「 総体的にアメリカ人は、日本人よりも “ フェア ” を重んじる 」 というところで、この点について日本人に勝ち目は無い。

真珠湾を皮切りに、血みどろの戦闘を繰り返した相手の戦後復興を助け、目論見はあるにせよ、同盟関係を築いてくれたのはアメリカである。

かたや、世界が平和でないことを知りながら、自分たちだけは平和憲法を掲げ、涼しい顔で高みの見物をしてきた日本。

牛肉問題に関しては、日本の一部消費者が大騒ぎしている以上に、偏りすぎた安全評価に関して多くのアメリカ人は、激しく怒っているのである。


冒頭の ウイリアム・ジェームズ による言葉は、「 心の広さ 」 と関係のあることを言っている。

小さなことに目くじらを立てるような、そんな狭い心では賢明な人間になれないわけで、小さいこと、細かいことばかりを気にしすぎてはいけない。

けして 「 食の安全 」 を、小さいことだと言いたいわけではない。

しかし、世の中の様々な危険に比べて、米国産の牛肉が、日本人の生命や健康を脅かす存在であるとは、どう転んでも説明できない。

警戒をするのは悪いことじゃないが、まだ被害も報告されていない未知の不安に、バランスの悪い評価ばかりを下すのは、単なる愚行である。






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2006年07月26日(水) 巨人、大鵬、卵焼き



「 ねたみは、記憶のように持続し、鼻かぜのように治りにくい 」

                             ハリー・スタイン ( 作家 )

Envy is as persistent as memory, as intractable as a head cold.

                                   Harry Stein



全国に被害をもたらした雨も、そろそろ収束したようだ。

来週あたりからは、スカッとした青空も期待できるだろう。


最近は車での移動が多いけれど、この時期、たまに混んだ電車に乗ったりすると、「 強烈に臭い人 」 に遭遇することがある。

一昔前、大手の紳士肌着会社が、消臭効果のある素材を使った新商品を売り出すにあたり、ユニークなCMを展開した。

満員電車に通勤客が乗っているのだが、彼の体臭に耐えられない周囲の乗客が、ガスマスクを装着したり、苦しげに息を止めたりする。

面白いCMだったのだが、「 体臭のキツイ人に対する差別につながる 」 と、どこかの団体からクレームが入って中止になった。

たしかに、「 ワキガ 」 などは特異体質的な要素もあって、清潔にしていても匂う人と、不潔にしていても匂わない人などの個人差がある。


しかし、一方で 「 エチケット 」 や 「 身だしなみ 」 という観点もあり、体質的な欠点が他人に不快感を与えるなら、それを補う努力も求められる。

制汗剤を使うとか、朝からシャワーを浴びるとか、消臭素材の肌着を着用するとか、あるいは 「 体質改善 」 の処方を受ける方法もある。

それでも効果が無いなら、できるだけ人ごみを避け、空いてる電車に乗ったり、他人に接近しないように心がける必要も考えられる。

ずっと、「 私の一番、苦手な人 」 というのは、「 くちゃくちゃと音を立てて、食事をする人 」 だと感じていたが、体臭の臭い人もツライものがある。

外国人の中にも体臭の強烈な人は多いが、それと違う独特の臭気を放つ彼らは、夏場の 「 苦手な人ランキング 」 で、かなり上位に位置する。


苦手から、「 嫌い 」 という表現に変えると、ワースト1は 「 ねたむ人 」 なのではないかと思う。

人間には色々な感情があるけれど、「 ねたみ 」 は醜悪であり、その感情に囚われてしまうと、正しい判断ができなくなり、矛盾した結論を導き出す。

逆に、自分より優れた者、周囲が認めた者に対し、「 ねたみ 」 の気持ちを捨て、真摯に称えたり、そこから学ぶ姿勢を持つことからの収穫は多い。

できる人と、ダメな人の違いは、「 素直な心で、他人に一目置ける人 」 と、「 他人から一目置かれたくて、妙に必死な人 」 の違いだったりもする。

負けず嫌いで、向上心、競争心の強い性格は長所といえるが、他人の良い部分に目を向けず、あら探しばかりに奔走するのはダメ人間である。


たとえば、小泉首相の悪口ばかりを並べる人がいる。

私も、彼が 「 労働者派遣法 」 をフリーにして、その結果、派遣社員や契約社員が急増し、正社員の雇用が減ったことなどに対しては批判的だ。

しかし、良い部分も多く、昨年の総選挙で自民党が大勝した結果をみても、国民の大部分が彼に好評価を与えたことは明白であろう。

ナチスのように、自国益だけを追求して他民族に損害を与えたり、フェアな選挙も行えない国を除けば、国民に支持される首相は良い首相である。

もちろん、その業績は 「 完璧 」 ではないが、他の政治家よりも、ましてや、彼の悪口を並べ立てる野次馬よりも、首相に相応しい人物だった。


小泉首相に批判的な人物の中には、「 個人的な利害に悪影響がある 」 という人が多く、たとえば政権を奪取したい野党グループなどが代表的だ。

そんな利害は存在せず、「 ただ嫌っているだけ 」 という人たちをみると、彼の政治家としての資質や業績ではなく、「 人気 」 に嫌悪が集中している。

ねたみ屋は、とにかく 「 人気者 」 が嫌いで、ケチをつけたがるのだ。

北朝鮮による拉致問題は、たしかに進捗が停滞ぎみで、手ぬるい制裁政策や、政府、外務省の曖昧な対応には不満もある。

しかしながら、拉致問題解決のために、在職中に平壌まで出向いた首相は初めてであり、その成果として、一部の拉致被害者の奪還にも成功した。


その功績は、小泉批判派も認識しているのだが、とにかく人気が疎ましいので、「 拉致被害者に対して冷淡だ 」 などと、矛盾した論点を突く。

冷静に欠点を指摘すれば問題ないが、人気に対する 「 ねたみ 」 のあまり感情的になって暴論を吐くので、つい、ちぐはぐな主張に陥るのだ。

昔から日本人には、他人を羨ましがったり、ねたんだりすることを蔑視する傾向があるので、こういう人物には好ましくない印象を持ちやすい。

一部の 「 同類 」 は彼らに賛同するが、良識ある大多数は、その醜悪さに 「 ひいている 」 わけで、はた目には実に、みっともない姿だ。

我々が子供の頃にも、「 巨人、大鵬、卵焼き 」 といって、人気者に対する 「 ねたみ 」 を露骨に表す一派もあったが、それよりも陰湿である。






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2006年07月25日(火) 期待できない自殺対策法



「 私は、生きることが大好きだが、死は怖れない。

  ただ、できるだけ遅く死にたいだけだ 」

                          ジョルジュ・シムノン ( 作家 )

I adore life but I don't fear death.
I just prefer to die as late as possible.

                              Georges Simenon



質問1、「 あなたは、人間ですか 」

ノー と答えた人以外は、先を読んでいただきたい。


質問2、「 では、あなたは人間を殺してもよいと考えますか 」

イエス と答えた人以外は、次に進んでもらおう。


ほぼ全ての人が、「 自分は人間であり、人間は人間を殺すべきでない 」 と答ながら、自殺という名の殺人を 「 殺人 」 とは別問題として捉えたがる。

自殺者が多いことを受け、自殺対策法なんていう妙な法案まで成立した。

心の悩みを持つ人に対して、カウンセリングを施したり、精神病などの医療体制を整備するのは結構だが、「 やぶへび 」 な部分も多い。

たとえば、「 自殺者遺族への支援 」 という項目もあるが、そこらを拡充することは、「 後のことは安心して自殺して下さい 」 と言っているようなものだ。

自殺は 「 セルフ殺人 」 であり、自殺者の遺族を支援するのならば、他の殺人犯についても同様に、その家族の面倒を看なければ不公平である。


自殺するようなクズでも、「 家族に罪はない 」 という主旨は理解できるが、それは死刑囚の家族にとっても同じことだろう。

厳しいことを言うようだが、自殺志願者を甘やかし、優しく、猫なで声で諭したところで、身勝手に年間3万人以上が自殺する。

政府が本心から自殺者を減らしたければ、自殺を図った人間は重罪に処するとか、自殺を遂げた人間に 「 不名誉 」 の烙印を押したほうがいい。

これから自殺しようとする人間にとって、死ねば 「 いい人だったね 」 と言われるか、「 恥知らず 」 と罵られるか、どちらが死に易いか、明白である。

彼らにとっては、死にたい理由は山ほどあるのだから、自殺を美化したり、やむを得ないことのように扱っているかぎり、自殺者が減るわけがない。


死にたいという人間に、「 どうぞ死んでください 」 と言うわけにはいかないし、かといって 「 死ぬな 」 と諭しても、あまり効果が無い。

それより、「 死ぬの? カッコ悪〜い! 」 と、それは人として最低の不名誉なことであることを、世間が共通認識したほうが効果的である。

私が自殺者を嫌うのは、なんだかんだキレイ事や、事情を並べ立てても、結局は彼らが 「 自分のことしか考えていない 」 連中だからである。

唯一、治る見込みの無い病苦とか、それで家族が介護に苦慮している場合などは情状酌量の余地もあるが、それ以外は身勝手な理由しかない。

生きるための試練から逃れたいとか、生き恥をさらして傷つきたくないとか、すべては 「 いい格好をしたい 」 か 「 逃避 」 だけの自己愛である。


自分が死んだ後に、家族が困らないようにしたいのなら、命のかぎり働いて、どんな試練にも耐えるのが筋であり、それ以外に方法はない。

身勝手に自殺する連中は、「 自分が楽になること 」 しか頭にないわけで、家族がどうとか、生命の尊さとか、地球平和など語る資格などない。

こんな 「 自分のことしか考えていない 」 連中に対して、与えるべきは癒しや、いたわりではなく、正しい教育や、処罰や、治療である。

もちろん、頭が悪いだとか、性格が歪んでいることには原因があり、弱者や病人と同じように、救いの手を差し伸べることは間違っていない。

ただし、その場合、最初に 「 自殺は悪いことである 」 ということを、ハッキリと明示してから作業にかからないと、いつまでたっても性根は治らない。


カウンセラーには、精神科医のような 「 治癒的カウンセラー 」 と、私たちのような 「 産業カウンセラー ( キャリアカウンセラー ) 」 の二種類がある。

後者のカウンセリングは、病気を治療することが目的ではないが、相談者の多くは精神病や神経症を抱えていて、当然、知識は必要となる。

キャリアの問題に端を発する自殺問題とも無縁でなく、専門医と共同作業で再就職の手助けをしたり、仕事上の悩みを解決する場面も多い。

そこで気になるのが、「 専門医の対応の悪さ 」 である。

落ち込んでいる相談者に、いきなり苦言を呈する必要はないが、あまりにも甘やかせすぎたり、事実を捻じ曲げて伝えていることが多すぎる。


まず、「 なんでもかんでも “ うつ病 ” で片付けてしまう 」 のが、最近の精神科医の特徴であり、ここにまず大きな問題がある。

巷では、「 ○○な人に、悪い人はいない 」 という言葉の使い方をするが、実際、「 うつ病の人に、悪い人はいない 」 というのは当てはまっている。

なぜならば、本来、うつ病の人は 「 他人との争い事により、傷つけあうことが苦手 」 なため、言いたいことも言えず、ストレスが溜まるからだ。

しかし、たとえば 「 医師が “ うつ病 ” と診断した 」 と言う人が、ことあるごとに攻撃的だったり、争う姿勢を見せることがある。

医師の前では、違う人物を演じているためかもしれないが、そういう人は、実際には 「 抑うつ症状のある、別の精神病 」 である危険も考えられる。


自殺者を減らすということは、「 間違った方向へ進みかけている人たちに、正しい道を教える 」 という作業であり、生半可な仕事ではない。

悩みの相談室を増やしたり、もっと、彼らの悩みを聴く機会を増やすことも重要だが、それだけでは 「 目に見える効果 」 なぞ期待できないだろう。

もっと世間全般が、「 自殺はダメ! 」 という強い共通認識をもって、それを大前提として作業を進めなければ、自殺者が減少するとは思えない。

私を指して、「 自殺者、自殺志願者に厳しすぎる 」 と批難する人もいるが、優しく接する人たちが、心地よく彼らの自殺を助けているケースもある。

逆に、自殺願望のある人が、この日記を読めば、「 くそー、ムカつくなー! 死んでたまるか! 」 と反発してくれるのではないかと期待している。






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2006年07月24日(月) アメリカとイスラエル



「 私は理想を捨てません。

  どんなことがあっても、私は、人は本当は素晴らしい心を持っていると

  今も信じているからです 」

                アンネ・フランク ( 『 アンネの日記 』 の著者 )

I keep my ideals, because in spite of everything,
I still believe that people are really good at heart.

                                   Anne Frank



人の手によって苦しめられた人間が、最後まで人を信じ続ける。

アンネ・フランクの言葉には、虐げられた憐れみより、強靭さが感じられる。


とはいえ、歴史を振り返るまでもなく、防衛の手立てもない弱小の民族は、領土を侵され、略奪され、耐えるだけでは根絶やしに滅ぼされる宿命だ。

紛争もビジネスも、「 共存共栄 」 などあり得ず、あるのは 「 強存強栄 」 か、「 競存競栄 」 だけで、競合との軋轢は避けられない。

問題は、できるだけ物事を平和的、紳士的に解決しようとするグループと、そうではないグループがあることで、そのあたりが戦争の火種になる。

イラク戦争の是非を問う人も多いが、戦争というものは、一度始まってしまえば否応無く巻き込まれるもので、良い側も悪い側もない。

アメリカがイラクに派兵するずっと前から、イラク戦争は始まっていたと考えるべきで、世界はそこに巻き込まれただけの話である。


22日、レバノンのイスラム教シーア派民兵組織ヒズボラとの戦闘を続けるイスラエル軍が、レバノン最南部のマルンラスという村を制圧、占領した。

今後、ヒズボラ掃討のため、さらに大規模な侵攻作戦が予想される。

複雑なのは、けして、レバノンとイスラエルの両国が戦争をしているわけではなく、イスラエルの標的はヒズボラという 「 テロ組織 」 にあるところだ。

傍目には戦争のようにしか見えないが、領土を拡大したいなどの目的などなく、イスラエル軍側は 「 悪い連中を懲らしめる 」 という認識しかない。

これを警察がやれば 「 悪者退治 」 となり、軍がやれば 「 戦争 」 となるわけだが、規模と、「 誰を巻き込むか 」 という点が、大いに異なってくる。


アメリカは総体的に 「 親イスラエル 」 という主義を貫いているので、今回も武器や物資など、側面的な支援をはたすことは間違いない。

状況によって戦渦が拡大すれば、直接的な派兵もあり得るだろう。

アメリカに長く住んでみると気付くが、アメリカで 「 反ユダヤ主義 」 といったレッテルを貼られるのは、かなり不名誉な印象を与えることになる。

イスラエル・ロビーたちは、かなり前から「 反イスラエル = 反ユダヤ主義 」 に繋がるとの広報活動を展開していて、それが効果を挙げてきた。

ユダヤ資本が財界の多くを占めているとか、ユダヤ民族が多いという単純な理由ではなく、一般的な米国民の大半が、その影響を受けているのだ。


アンネ・フランクも、おそらく本人が望みもしなかったことだろうが、現在でもイスラエル・ロビーたちに、「 ユダヤ人の象徴 」 として利用されている。

それは、恒久的に 「 正義と良心を誇りとする米国民が、守るべき存在 」 であり、他国から 「 余計なお節介 」 と言われても、揺るぎないものだ。

イラク戦争や、各地の紛争にアメリカが介入することに対して、各方面からの批判も多いが、そのあたりは 「 相手しだい 」 な部分もある。

第二次大戦では、むしろアメリカによるヨーロッパへの介入が遅れたことで、ユダヤ人、ポーランド人の犠牲が拡大したという批判も多い。

フセインが、もっと、ヒットラーのように 「 わかりやすい虐殺 」 を行っていれば、アメリカの参戦を正当化する声も多かったはずだ。


日本を舞台にして、ひとつのシュミレーションを考えてみよう。

たとえば、ある日突然、中国の後ろ盾を得た北朝鮮の軍隊が、日本海沿岸から上陸し、北陸の一部を制圧、占領したとする。

全国の自衛隊が応戦し、睨み合いが続く中、敵は地域住民を人質にとり、強制収容所に収監し、非人道的な処遇を与え続けた。

平和憲法の下、自衛のための応戦は可能だが、北陸の住民を救出するには、敵本国を攻撃し、戦争を早期に終結させる必要がある。

ここで、敵基地を攻撃できない日本に代わって、アメリカが軍隊を派兵したり、平壌に空爆を行うことになった。


間接的に加担している中国が常任理事国をつとめる国連は、「 あくまでも、話し合いで解決しなさい 」 と、アメリカの参戦に同意しなかった。

それでもアメリカは、同盟関係であることや、「 話し合いが通じない相手 」 であることなどを理由に、イギリスなどの支援を得て強行に派兵する。

毎日、北陸の強制収容所では、理由も無く地域住民が無残に殺されていく中、アメリカの一般市民の間では 「 戦争反対 」 のデモが相次ぐ。

イギリスの大衆は、「 アメリカのお節介に、なんで協力しなきゃいけないんだ 」 と、遠く離れた日本くんだりに派兵することを反対する。

空爆と地上戦で平壌を制圧したアメリカのおかげで、戦争は終結し、北陸市民の大多数は無事に開放され、日本には再び平和が戻った。


現在、イラク戦争はアメリカの暴走だとか、自衛隊員の派遣は違憲だとか騒いでいる人たちも、このケースでアメリカを批難することはないだろう。

逆に、このケースでアメリカが 「 あくまでも話し合いで 」 などと悠長に構え、その間に日本人がバタバタと殺されて、文句を言わない人は少ない。

前回も書いたが、それが人間の 「 二面性 」 というものである。

平和なときに 「 戦争とはなにか、平和とはなにか 」 を語る内容と、有事に語る内容が違うようでは、あまりにも身勝手であろう。

誰も戦争など望んではいないが、世界には独善的な勢力や、話し合いでは解決できない相手がいて、いつでも戦争に巻き込まれる危険がある。


強大な軍事力を持つアメリカという国は、動いては批難され、動かなくても批難されるという、独特の宿命を持っており、それが彼らの悩みの種だ。

日本の平和憲法を、とても素晴らしいと評価するアメリカ人もいる。

一方で、「 嫌なことは他国に押し付けておいて、自分たちだけが涼しい顔をするのは卑怯じゃないか 」 と、それを批判するアメリカ人もいる。

武器を持って戦っているのは他国の兵隊でも、世界を平和に保つ責任は、本来、地球上すべての民族に課せられた使命なのである。

アメリカが 「 好戦的だ 」 とか、イスラエルが 「 やり過ぎ 」 だとか批難しつつ、自分たちは優秀な平和主義者だと思うのは、ちょっと違う気がする。






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2006年07月23日(日) 二つの顔を持つ人たち



「 地獄の一番熱い場所は、重大な倫理上の争いの中にあって中立の

  立場を取り続ける人間のために用意されている 」

               キング牧師 ( アメリカ人公民権運動の指導者 )

The hottest place in Hell is reserved for those who remain
neutral in times of great moral conflict.

                            Martin Luther King,Jr



中立は報道の大原則であり、それを貫けないものは報道機関ではない。

ただ、終始、中立に徹することは、想像以上に困難なことでもある。


個人でも組織でも、それぞれの哲学や、思想や、好き嫌いがあるわけで、たとえ目的が同じであっても、主義主張は異なる形となって表れる。

残念ながら、本来、中立であるべき報道機関も、例外ではないようだ。

最近、昭和天皇が 「 靖国神社にA級戦犯を合祀したことは不愉快だ 」 と発言した記録が見つかり、様々な論議に発展している。

朝日新聞は社説で、この問題を 「 賢明な判断 」 と評価し、天皇の発言は国政に影響力を及ぼすものとして、大きく取り上げた。

この時点で 「 中立 」 の姿勢は疑わしいが、問題はそれだけではない。


彼らは今年2月の同社説で、寛仁親王殿下が女性・女系天皇に異議を唱えられたことに対し、「 憲法上、皇族は国政に関われない 」 と批判している。

さらには、「 皇族の発言は、政治的に利用される可能性がある 」 などと、言論封殺的な理由まで付け加えていた。

自分たちの都合により、皇室の発言に対して、明らかに 「 二面性 」 のある評価を下しているわけで、報道機関としての資質を問われる失態だ。

彼らの言う 「 政治的に利用 」 をしたのは、他ならぬ彼ら自身であり、日頃の偏った報道姿勢が、露骨に表面化した格好となった。

論調が右翼的でも左翼的でも、それ自体は自由だと思うが、事実に対する評価の仕方が、その時点ごとに変化するようでは、中立性など望めない。


朝日新聞だけを攻撃したのでは 「 中立性 」 に欠けるので、他のマスコミも報道姿勢に 「 悪質な二面性 」 があることを追記したい。

お笑いタレントの一人が、未成年との淫行で吉本興業を解雇された。

少し前には、日本テレビのアナウンサーが盗撮事件で解雇されている。

同じような性犯罪を犯し、同じようにテレビに出ていた二人だが、タレントは大きく実名報道され、アナウンサーは匿名で報道された。

犯した罪は軽くないが、いづれも将来ある若者で、顔写真と実名を全国に晒しだすか、伏せるかによって、実質的な制裁の重みは違うものだろう。


千葉では教育委員会が、下着泥棒をして懲戒免職処分となった市立小学校の教諭を、最後まで匿名公表として通した。

同市教育委員会は、その理由を 「 被害者の希望 」 としていたが、実際は被害者側が、実名公表を再三求めていたことがわかった。

彼らは 「 身内をかばう 」 ために、被害者や、あるいは市民全員を裏切る嘘を繰り返していたわけで、その責任と罪は重い。

この犯人が一般人で、単に学校に侵入した下着泥棒なら、彼らは躊躇なく実名公表に賛同していたはずである。

この国では、マスコミばかりでなく、教育の現場に携わる者たちまで、己の保身のため、身内をかばうために、中立的な裁定を下さない。


個人の多くも、日頃は 「 戦争反対、軍備拡大に反対 」 と唱えながら、北朝鮮からミサイルが発射されると、迎撃ミサイルが無いことにうろたえる。

アメリカとの協調に憤りを示しつつ、米軍の支援が薄いことに不安がる。

豪雨で各地に被害が出ると、「 自治体による日頃の防災準備 」 の不足を指摘するが、平時には防災対策の予算を出し渋る人も多い。

このような 「 二面性、反中立性 」 が顔を出すのは、皆、確固たる信念など持たず、常に自分の利害を最優先している人たちの傾向といえる。

どんな状況でも、何が良くて、何が悪いのか、冷静かつ中立的に判断でき、己の利害など後回しにして考えられることが、本当の 「 善 」 であろう。






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2006年07月20日(木) 民衆の声は神の声



「 売れないものは発明したくない。

  売れることが実用性の証明であり、実用性が成功を意味する 」

                  トーマス.A.エジソン ( アメリカの発明王 )

Anything that won't sell, I don't want to invent.
Its sale is proof of utility and utility is success.

                            THOMAS.A.EDISON



エジソンは偉大な発明王であると同時に、物理学者で、企業家だった。

鉄道の新聞売子から身を起こし、1,000 以上の特許を獲った人物である。


あまり露骨に私利私欲を主張するのも下品だが、「 無報酬で、世のため、人のために尽くします 」 などと自己宣伝する人よりは信用できる。

事実、「 自分は儲けないで社会の役に立つ 」 ほうが、「 儲けながら、社会の役にも立つ 」 よりは、特別な能力も要らず簡単である。

それに、まったく儲けが要らないという人は、何か別の収入源か、生活維持に必要な貯蓄があるわけで、無報酬の仕事を本業とは呼べない。

もちろん仕事の目的は 「 お金を稼ぐこと 」 だけではないが、適正な報酬を得ることで、また、情熱と責任感が湧いてくるものだ。

エジソンが産み出した発明品の大半は、実は 「 お金になる発明 」 であり、その経緯は、彼の創造性よりも、ビジネスマインドに依る所が大きい。


アダムスミスが提唱した、「 神の “ 見えざる手 ” 」 という理論がある。

これは、個人のお金儲けなどに代表される 「 利己的本能 」 が、結果的には 「 社会の発展や、公共の福祉 」 に役立つという説だ。

なぜかというと、たとえば、仮に、ある人物が新しく開発した自動車を販売することによってお金を儲けたいと考えたとしよう。

先達に負けないように儲けたいのならば、性能や安全性が高く、デザインに優れ、快適で、なおかつ価格に見合う価値の商品を開発する必要がある。

販売の方法も工夫しなければならないし、アフターメンテナンスにおいても消費者の満足を得られるサービスにつとめなければならない。


このように、お金を儲けたいという利己的本能が、資本主義社会の競争の中では、質の良い商品やサービスを発生させる源になる。

良質の商品やサービスが、粗悪なものを淘汰していけば、結果的に世の中は良くなり、社会の発展や公共の福祉にもつながるという構図だ。

これが 「 神の “ 見えざる手 ” 」 なのだが、何が良質で、何が粗悪なのかを判断するのは、消費者の手に委ねられているのが実態である。

つまり、評論家や指導者ではなく、大衆が求めるもの、欲しがっているものが 「 良質 」 で、それは同時に 「 売れる商品 」 なのだ。

生産者側は、その点をよく考えたうえで、自らのエゴを押し付けることなく 「 消費者が価値を感じ、満足するもの 」 を提供することが使命となる。


生産者側は、正義の法を侵さない限りは、自由に自分の考えたやりかたで、利益を追求しながら、大衆の支持を集めるための競争に参加できる。

それを 「 大衆への迎合だ 」 と批判する人もいるが、社会の大部分を構成し、支えているのは、一部の学者や評論家ではなく 「 大衆 」 である。

昨年の総選挙で自民党が圧勝したとき、野党議員や、支持者の一部から 「 国民はバカだ 」 と批判する声も挙がったが、それは間違った考えだ。

世界から孤立した独裁国家でもないかぎり、選挙を経て、広く大衆の望んだ政党が、他の何よりも責任政党としての地位に相応しい。

彼らは他の政党よりも、国民の望んだものを提供したか、あるいは、今後、提供するであろうという期待感を、大衆から得る競争に勝ったのである。


日本のマスコミについて、「 彼らは視聴率や発行部数ばかりを気にしていて、報道すべき内容の軽重を理解していない 」 などと言う人もいる。

日本のマスコミの 「 質が悪い 」 という点については同感だが、この 「 報道すべき内容の軽重 」 という点は、ピントがずれていると思う。

視聴率や発行部数が、大衆の支持を数値化したものと考えるなら、視聴者が望むもの、興味を示すものに優先順位を高く位置付けることは正しい。

大衆がさほど興味のないものを、「 これを見なさいよ、これが大事ですよ 」 などと誘導したり、洗脳するほうが、報道の姿勢からも外れている。

個人も、報道機関も、世間から孤立し、「 自分は正しいが、大衆は間違っているから何とかしなければ 」 などと妄想し始めたら、かなり危険である。






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2006年07月19日(水) 鬼畜に人権など認めない



「 幸せとは、自分が考えていること、言っていること、そして

  やっていることが調和している時のことを言う 」

                     マハトマ・ガンジー ( インド独立の父 )

Happiness is when what you think, what you say,
and what you do are in harmony.

                            MOHANDAS GANDHI



自分の予想が当たったからといって、必ずしも嬉しいとはかぎらない。

できれば外れてほしい予想だって、この世にはあるのだ。


やはり畠山容疑者は、実娘をも殺害していた。

それは、豪憲くん殺害容疑で逮捕された時から、多くの人が予想していたことだが、ようやく本人も殺害を認めたようで、再逮捕に至った。

これで 「 胸のつかえ 」 が取れるかと思いきや、殺されたあどけない幼女の写真がテレビに出るたび、なにやら、別のいたたまれない気持ちになる。

幼女にとっては、信じていた実の母親に殺されるよりも、不注意による事故で命を落としたほうが、よほどマシだったに違いない。

気のせいだろうが、テレビで観る同じ幼女の写真が、母親の犯行と露呈した後には、なんだか悲しそうな表情に変化しているような気さえする。


放送業界などでは、「 キチガイ 」 という言葉は差別用語とされる。

その根拠は、知覚障害や、精神病の患者に対する差別や偏見を増長するというものだが、その点がどうも腑に落ちない。

その意見からすると、知覚障害者や精神病患者を 「 キチガイ 」 とみなしていることになるわけで、それこそが差別ではないかと思うのだ。

私自身、畠山容疑者を 「 キチガイ 」 だと思うが、その気持ちは、何の罪も犯していない知覚障害者や、精神病患者に向けられるものとは違う。

カウンセラーの資格がどうだろうが、こういう輩には 「 キチガイ 」 だとしか言いようがないし、それを改める必要などないと思っている。


中には、畠山のような凶悪極まりない鬼畜に対しても、「 けして “ キチガイ ” などと言ってはなりませんよ 」 と諭す人もいるだろう。

犯罪者にも人権があり、「 罪を憎んで人を憎まず 」 の言葉通り、犯罪者の人格を貶めるような発言は控えるべきだと説く人もいる。

そういう人たちは、「 たとえ鬼畜でも、生きるために慕うしかなかった実母に殺された何の罪も無い9歳の幼女 」 に、同じことが言えるのだろうか。

実際に幼女を殺したのは畠山だが、こんな輩に 「 市民権 」 を与えて、好き放題にさせた罪は、そういう人たちにもあると思う。

普段から異常な行動や、育児放棄ともみられる生活習慣があった畠山を、周囲が 「 キチガイ 」 として対処していれば、悲劇は防げたかもしれない。


普段、日本の武装について、「 軍備拡大反対 」 とか、「 日米安保反対 」 だとか、「 イラク戦争は違憲 」 だとか、常に反対意見を唱える人がいる。

ところが、北朝鮮からミサイルが発射された途端に、「 迎撃ミサイルがないぞ 」、「 米軍が守ってくれない 」 と、まったく逆の心配に走り出す。

これと同様に、「 犯罪者の人権を守ろう 」 とか、「 “ キチガイ ” と言ってはいけません 」 と唱える人間が、鬼畜に殺された幼児の死に涙する。

あるいは、「 アメリカ人は人種差別をする 」 と言いながら、アメリカ人に 「 アメ公 」 とか、ライス国務長官を 「 くろんぼ 」 などと侮蔑する。

冒頭の言葉通り、こういう人たちは 「 自分が考えていること、言っていること、やっていること 」 がバラバラで、不幸なうえにポリシーも何もない。


他人の身におきること、自分の身におきること、理想と現実、この世の中のキレイな部分、汚い部分、そのすべてが 「 社会 」 を構成している。

誰もが口を閉ざして 「 キチガイ 」 と言わなくなっても、「 キチガイ 」 がいなくなるわけではなく、単に目を逸らしているだけだ。

もちろん弱者に対するいたわりは大切だし、罪も無い人々を傷つけるべきではないが、罪のある者まで過剰にかばいだてるのは問題である。

綾香ちゃんと同じような不幸に、他の子供たちが遭遇することを防ぐほうが、「 キチガイ 」 の人権などよりも、はるかに重要なことではないか。

一日の日記に 9回も 「 キチガイ 」 と書いたので、削除依頼が来るかもしれないが、どうにも 「 キチガイ 」 と連呼するしかない事件であった。






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2006年07月18日(火) 引越しは面倒くさい



「 私は、自分のやっていることが大好きです。

  自分のやっていることに、とても誇りを持っている。

  そして物事を半分だけとか、4分の3、10分の9で終わらせることは

  できない。

  一度やると決めたら、最後までやり通すのが私です 」

                        トム・クルーズ ( アメリカの俳優 )

I love what I do. I take a great pride in what I do.
And I can't do something halfway, three-quarters, nine-tenths.
If I'm going to do something, I go all the way.

                                 TOM CRUISE



映画監督の役割というのは、「 調味料 」 みたいなものかもしれない。

同じような作品でも、監督によって味付けが変わってくる。


映画 『 MI−3 』 は、J・J・エイブラムスというTV出身の監督を起用したことで、過去のシリーズ二作品とは、微妙に趣の異なる仕上がりになっている。

とはいえ、少しマンネリぎみになってきたことも否めず、次回作を予定しているかどうか不明だが、そろそろ飽きられてくるかもしれない。

高層ビルの壁をよじ登るシーンなどは、本シリーズでは初めてでも、一連のトム・クルーズ作品で観たような気がするし、どうも新鮮味に欠けている。

同じ魚を刺身で食べ、翌日は塩焼き、その翌日は煮付けにしても、徐々に飽きてくるのと同じで、味付けの変化だけでは限界がある。

十分に上映時間内は楽しめるが、さほど印象に残る作品ではなかった。


最近、特に意図しているわけではないが、なぜか立て続けに主婦の友人と映画を観る機会が多く、 「 人妻と映画を観る会 」 みたいになっている。

もちろん、旦那とも友人だったり、長い仕事仲間だったり、けして 「 劇場 」 には足を運んでも、「 激情 」 に走る関係ではない。

この1ヶ月前後で、『 ダヴィンチ・コード 』、『 カーズ 』、『 MI3 』、『 ゴール 』 と4本の映画を観たが、うち3本は、それぞれ別の主婦と観ている。

年老いて、若い女性が相手にしてくれなくなったせいか、近頃、古い友人と会う機会が多かったせいか、なぜか、そうなっているのだ。

年と共に色気が失せ、「 安全 」 な印象を醸し出しているのかもしれない。


人妻と映画を観ていないときは何をしているのかというと、大抵は、仕事をしているか、暑気払いに酒を飲んだりしている。

少し前までは、若年層相手のカウンセリングの仕事が多かったのだけれど、今は一時中断して、昔馴染みの企業のコンサルに注力している。

軽い気持ちで引き受けたのだが、これが結構に忙しくて、サラリーマン時代と変わらないほど時間に拘束され、出張の機会も多い。

ちょっと 「 格安 」 で請負ってしまったことに後悔しつつも、中途半端な仕事もできないので、もうしばらく頑張らないといけない。

この先、ロスと上海に行く機会が多くなるようだが、東京にも隔週で行くことが義務付けられている。


逆に、大阪でやれる仕事が少ないので、出張がないと暇である。

クライアントからは、東京に移転することを勧められており、特に断る理由もなく、そのほうが仕事の効率も良さそうな気配だ。

大阪に次いで東京近郊には友人も多いので、オフに退屈もしないだろうし不都合はないのだが、なかなか 「 引越し 」 が面倒くさい。

荷物はさほどでもないが、二台の車を預ける駐車場の確保とか、移動させる手間とか、そういうのが面倒くさいのである。

特に一台は、「 盗難されやすい車 」 というレッテルを貼られている車種なので、屋根付きじゃないと保険に入れなかったりして面倒なのだ。


都内で ( 格安で ) 二台を泊められる住居を探すのも大変だし、そう思うと、普段は気にもしていないが、住み慣れた家は良いものである。

結局、引越しはせずに、頻度が多くなっても、しばらく東京は出張ベースで勘弁してもらおうという結論に達した。

学生時代も含め、東京には何度か住んだこともあり、嫌いな土地ではないが、そのたびに様々な 「 別れ 」 も経験している。

いまさら東京に住むのなら、別れなければよかったとか、妙な未練が再燃しても自分らしくないし、そういうのも面倒なのである。

東京に行くと、「 人妻と映画を観る会 」 も会長不在で解散になるし ( それは別にいいけど )、しばらくは現状維持とした。


冒頭のトム・クルーズの言葉は、彼らしくバイタリティに溢れ、仕事や生活の全てに関する一途さ、ひたむきさが現れている。

私も、そう生きたいと願っているし、住居をいづれに定めるかということも、それを成し得るための手段として、結構、重要に考えている。

特に何もないところだけれど、静かで、車が二台置けて ( 格安で )、近所にゴミ屋敷も、嬌声を上げる住人もない、現在の住まいが気に入っている。

いつかは出て行くだろうけれど、今は、その時じゃない気がする。

誰か、自分の代わりに、「 面倒くさいこと 」 をやってくれる人が現れないかぎりは、しばらくここに住んでいるのだろう思う。






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2006年07月12日(水) 愛しにくい隣人たち



「 すべての人を良く言う人間を信頼してはいけない 」

                    ジョン・C・コリンズ ( イギリスの文学者 )

Never trust a man who speaks well of everyone.

                              JOHN.C.COLLINS



聖書には、「 汝の隣人を愛せよ 」 という一節がある。

その実行が困難なのは、「 隣人を選べない 」 からだろう。


たとえば、近所の子供を誘拐して働かせ、経済的に困窮すればミサイルを撃って脅してくる隣人を、愛することは難しい。

その問題に対して町内で抗議しようとしているときに、団結の輪から外れ、個人的な利害のために善悪の判断ができない隣人も同様だ。

その様子を眺め、「 騒ぎすぎだ 」 と批難しつつ、近所の家長が神社に参拝すると大騒ぎするような隣人も、困ったものである。

愛とは 「 見返りを期待しないもの 」 であることも事実だが、隣人にも少しは 「 愛される努力 」 をしていただきたいと思う。

お互いの気持ちを思いやれない中で、愛など生まれるはずもない。


東京都中野区で、自宅の庭にゴミを放置し悪臭を漂わせていた男が、区の改善命令に従わなかったとして、都環境確保条例違反容疑で逮捕された。

庭や敷地内にゴミを溜める輩はたまに居るようだが、この男は自分の排泄物を放置したり、魚や残飯を鍋で煮炊きまでしている。

また、早朝に怒鳴り声を上げたり、異常な行動が多かったようだ。

警視庁の調べに対して男は、容疑を認めながらも、そこに至る動機については口を閉ざしているらしい。

こんな隣人を持つ町内の方々は、さぞやお困りだっただろう。


精神鑑定を施すと、おそらく 「 正常ではない 」 という診断結果が出るだろうし、都条例に違反したぐらいでは重罰に処せられない。

事実、若い人などに多い 「 片付けられない症候群 」 の中にも、ADHD = 注意欠陥多動性障害 という脳の障害を抱えた人がいる。

この男の場合は、自分の排泄物を処理しないで溜めていたことなどから、自己愛性人格障害の可能性が高く、そのような診断が下るだろう。

悪臭の中心にいて、本人は何も感じないという点も、重病である。

生まれつきゴミを溜める人間などいないのだから、精神病にしても、神経症にしても、当然、これは後天的な病気である。


有罪になる場合も、彼らを罰する法律はなく、「 公害 」 と同様に条例違反として扱われ、最高でも一年以下の懲役か、50万円以下の罰金になる。

こういった事件があるたびに、「 病気なんだから仕方がない、ここは暖かく見守ってあげましょう 」 といったコメントをする人が、必ず現れる。

それは、「 隣人ではない 」 からである。

この男の家の前で店舗を経営していた人は、悪臭が原因でお客さんが寄り付かなくなり、閉店、廃業を余儀なくされた。

不眠などの身体的苦痛や、精神的苦痛に悩まされていた人も多い。


もし、隣家のゴミ屋敷が原因で、自分の子供が皮膚疾患や、あるいはもっと深刻な病気で苦しめられたとしても、隣人を愛せるだろうか。

受験生がいて、勉強が手につかずに落第しても、悪臭で神経を病んだ奥さんが家事をしなくなっても、ご主人が帰宅しなくなっても、平気だろうか。

それでも隣人を放置するという人は、「 嘘つき 」 か、「 異常者 」 か、「 自分や家族を外敵から守る責任感のない人 」 である。

隣人の罪を許し、愛すること自体には問題ないが、放置することは、自分のためにも、相手のためにも、地域、社会全体のためにもならない。

罰するか、隔離するか、改めさせるしか方法はないだろう。


悪いのは、ゴミ屋敷ではなく、そこに住む住人であり、病気ではなく、病人のとる行動なのである。

映画やテレビドラマでは、精神病患者や障害者は、皆、「 いい人 」 であり、悪い人間であることはない。

実際には、良い病人もいれば、悪い病人もいて、そのような事件が起きるたびに、「 キレイ事の世界 」 との間のギャップに戸惑う。

また、隣人を選ぶことはできないのに、無条件に 「 汝の隣人を愛せよ 」 という教訓を、無理に押し付けようとする人が現れる。

そして環境は、また住みにくい状態に陥っていくのである。


患者への配慮からか、精神病をソフトに 「 心の病気 」 と呼んだり、うつ病になった人に 「 心が風邪をひいたね 」 などと言う人がいる。

現実には、「 心の病気 」 などと言っても、心臓が悪くなったわけではなく、それは医学的に言うと 「 脳の故障 」 である。

実際、神経症の場合は心理療法を主体に用いられるが、精神病の場合は薬物投与がメインで、心理療法は二次的に用いられるものだ。

病気は、それ自体が悪でも、恥でもないが、感染させたり、他人に危害や迷惑を与えないように配慮するのは、病人としてのつとめである。

何も悪いことをしていない精神病患者まで差別する必要はないが、それが犯罪や、公害などに結びつく場合は、強制的に治癒させるべきだろう。


ゴミ屋敷をつくる人間は、周囲に馴染めなかったり、閉鎖的な環境の中で、「 自分に注目を集めたい 」 ケースが多い。

自己愛型人間が、すぐに 「 自殺するぞ、死んじゃうぞ 」 と周辺に言い放つのと同じ傾向で、「 自分を大事にしてもらいたい 」 心理である。

地域のコミュニケーションが疎遠になった昨今、往時の勢いを失い自信を喪失した中高年や、ひきこもりの若者の間で増え続けている。

ぬるま湯の中で甘受し、慈悲を向けるだけでは解決しない。

逸脱した隣人には、模範的な隣人になるための指導や、矯正が不可欠であり、そこで初めて 「 隣人を愛せる 」 ようになるのだ。






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2006年07月11日(火) 最終テスト



「 怒っているときは4つ数えろ、とても怒っているなら、ののしれ 」

                      マーク・トウェイン ( アメリカの作家 )

When angry, count to four; when very angry, swear.

                                 MARK TWAIN



大抵の場合、怒りながら何かをすると失敗しやすい。

自制心を保つことも、成功に不可欠な条件なのである。


今大会最高のプレイヤーと賞賛され、フランスを決勝戦まで導いた英雄が、現役最後に見せた 「 ヘディング 」 は、ボールが相手ではなかった。

いくらムカついていたとはいえ、世界中が、未来を夢見るサッカー少年たちが注視する中、「 頭突き 」 はあり得ない話だ。

長年に亘り積み上げてきた栄光が、たった一つの、つまらない行いで崩れ散る瞬間を、目の当たりにしたようで、その瞬間、失望と憤りを感じた。

ベルリンでは、「 決勝戦を汚す行為 」 として重く捉える人も多いようだが、開催地の市民として当然の心情だろう。

やってしまったことは取り返しがつかないが、真摯に謝罪し、MVPの授与を返上するなどして、名誉挽回に努めてもらいたいものだ。


正念場の試合、重要な会議、楽しみにしていたデート、それぞれに期待が大きい分だけ、変なトコロに力が入り過ぎたりすることがある。

そんな 「 余裕のない状態 」 のときに、他人から水を注されたり、妨害されたりなんかすると、頭に血が上りやすくなるものだ。

はたして、どのような態度をとるのか、それこそが試練であり、その人物の人間力を試される機会となるのである。

最後の最後で、ジダンはそのテストに落ちてしまった。

これからの彼の人生で、必ずや待っているだろう 「 追試 」 に挑戦し、今度こそは人格的にも認められ、模範となる人物に大成することを願う。


真の 「 一流 」 と呼ばれる人々は、それがスポーツの世界であっても、芸能の世界、医科学の世界、その他なんであっても、共通した使命がある。

彼らは、単に一芸に秀でているだけではなく、あらゆる面において模範的であって、人々の信頼に応え、尊敬されなければならない。

そうでなければ、ただの 「 サッカーが上手な人 」 で終わってしまう。

衆人環視の中でプレイをし、頂点を目指す中で、「 専門分野を研鑚することによって学んだ、人生にとって大事な何か 」 を体現しなければならない。

偉大な先達の仲間入りを果たすには、それが重要なのである。






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2006年07月10日(月) 最後の一瞬のためのスタミナ



「 チャンピオンというものは、ジムの中で作られるものではない。

  チャンピオンというものは、彼らの奥深くにある何か − 強い願望、

  夢、理想像 − から作られるのだ。

  彼らは、最後の一瞬のためのスタミナを備えていなければならず、

  他者よりもほんの少し俊敏さにまさっていなければならず、技術と、

  意志力を備えていなければならない。

  そして、その意志力が技術にまさっていなくてはならないのだ 」

          モハメド・アリ ( アフリカ系アメリカ人の元プロボクサー )

Champions aren't made in gyms.
Champions are made from something they have deep inside them
- a desire, a dream, a vision.
They have to have last-minute stamina, they have to be a little faster,
they have to have the skill and the will.
But the will must be stronger than the skill.

                               MUHAMMAD ALI



世界の頂点に立つためには、誰よりも強い意志と技量が求められる。

それは、どのスポーツでも同じことだろう。


この数週間、私をはじめ世界中を寝不足にしたワールドカップの王者が、数時間後に決定する。

今回はイタリアに分があるような気もするが、ジダンを擁するフランス陣営も力関係では互角で、どちらが勝ってもおかしくない対戦だ。

ルールからいうと、予選から勝ち進んできて負けなかったチームが決勝に残り、そのゲームに勝利したほうがチャンピオンの称号を手にする。

しかし実際は、アリの語ったように 「 強い願望、夢、理想 」 の集積こそが、チャンピオンを作るのではないかと思う。

その瞬間は、観る者に勇気と感動を与え、歴史に名を刻まれる。


大舞台で雌雄を決する決め手は、冒頭の文中にある 「 最後の一瞬のためのスタミナ = last-minute stamina 」 によるところが大きい。

これまでの試合でも、それが勝敗の分かれ目になったケースが多い。

それは、ただ 「 手を抜いてスタミナを温存せよ 」 ということではなく、相手を上回るスタミナの備蓄に心がけねばならないという意味だ。

また、肉体的に消耗し尽くした後でも、強い意志によって新たなるスタミナを産み出す強靭な精神力が、チャンピオンには求められるのである。

日曜なので、たっぷりと昼寝をしたが、最後の瞬間を見逃さないスタミナが自分に残されているのか、それもまた心配なところではある。






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2006年07月09日(日) 自宅に放火する子供たち



「 憎しみが混じる愛は、愛より強く、ただの憎しみよりも強い 」

                           ジョイス・C・オーツ ( 作家 )

Love commingled with hate is more powerful than love. Or hate.

                              JOYCE.C.OATES



人格障害者は、身近な者、大切であるはずの者を攻撃対象にしやすい。

配偶者や家族に対する暴力も、人格に障害があると出現しやすい。


このところ、子供が自宅に火を放って家族を焼死させる事件が多く、まさに語呂合わせではないが、その傾向は全国に 「 飛び火 」 している。

攻撃対象者に面と向かって対峙しない放火という手段は、小さい者、無力な者が力の強い者に立ち向かう術として、よく使われるものだ。

見ず知らずの場所に放火をする愉快犯を除けば、捕らえてみると、対象に恨みを抱く小心者か、当家の子供であることが多く、珍しいことではない。

しかしながら、これだけ全国的に連続することは異例で、本来あるべき親子関係というものが、崩壊しつつあるのではないかという危惧を感じる。

相互のコミュニケーションが、うまく行えない親子が増えているのだろうか。


子供に問題があるケースばかりではない。

幼児を虐待し、あげくの果てに死に至らしめる親や、育児放棄、あるいは逆に極端な過保護など、子供の成長を妨げる親も多い。

環境と生い立ちが人格形成に大きな影響力を与えることを思えば、子供に問題のあるケースも、「 親の責任 」 ということになるのかもしれない。

先日も、国立大学に通う学生が母親を殴殺したが、いくら立派な教育を施しても、親が身をもって体現しなければ、子供には伝わらない。

たとえば、口先で命の尊さを教えても、安易に自殺を図ったりするような親のもとでは、人命を尊いものだと実感できる子供は育ちにくい。


自己愛性人格障害者は、未熟な 「 自己対象 」 にどっぷり浸かっている。

自己愛を映し出す鏡のような 「 自己対象 」 は、自分でない存在だが、自己の一部のように感じられる身近な対象である。

わかりやすく言うと、たとえば幼い子供にとって 「 母親 」 は、自己対象の最たるものであり、常に自己の一部としての一体感を求めている。

正常に成長する者は、この 「 自己対象 」 の段階を経て、本来の対象との関係が発達し、自分と他人を区別できたり、相手を思いやれるようになる。

人格障害者は、未熟な段階の 「 自己対象 」 が、依然、幅を利かせる。


大きく成長しても、母親や、その他の家族や、あるいは配偶者、自分の子供などを 「 自己対象 」 から切り離せず、自己の一部と捉える者がいる。

相手も 「 独立した一つの人格 」 なのであるという概念に馴染めず、自己の一部だという意識が強すぎるため、思い通りにならないと気がすまない。

そのため、満足や願望が裏切られたときに、激しい失望と自己愛的怒りを引き起こし、自分を映す鏡を叩き割るように、破壊に走るのである。

育児困難や虐待も、家庭内暴力・殺人も、大切なはずの存在を害し、ときには殺してしまう心理は、こうした 「 自己対象 」 の病理に答がある。

たとえ家族間であっても、他人の自主性を認め、相手を思いやることで問題は解決するが、まず、危険な兆候があれば医師に診せるべきだろう。


世の中の治安が悪くなり、外で遊ぶ子供が少なくなってきている。

それが、母子融合的な子供時代が長く続く状況を増やし、さらに、現実の 「 対象 」 との関わりを発展させる機会を乏しくしてしまう。

対人関係は希薄になり、そうした人々にとっては、生身の人間を殺すという行為も、ゲームやアニメなどファンタジーな世界の出来事と差がなくなる。

自己愛性人格障害者が多い世の中になったのは、あるいは、これから先も増え続ける背景は、社会秩序や倫理観の変化とも関係が根深い。

社会全体を変えることはたやすくないが、まずは、各人が、自分の大切な人とのスタンスを、見直してみることから始めることが望ましいだろう。






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2006年07月07日(金) 北の脅威と、内なる敵



「 恐怖から交渉をしてはいけない。

  しかしまた、交渉するのを恐れてもならない 」

             ジョン・F・ケネディ ( アメリカ合衆国第35代大統領 )

Let us never negotiate out of fear.
But let us never fear to negotiate.

                              JOHN.F.KENNEDY



どこかの愚か者が、海に7個の不法投棄をしたという。

その目的が何で、次に何を企んでいるのか、世界で話題になっている。


昔から 「 弱い犬ほど、よく吠える 」 という。

弱い者ほど虚勢を張りたがり、威嚇したり、大声を上げたりする。

強い者は、実際に戦いが始まったら勝てるのだから、戦う前に相手を威嚇したり、脅したりする必要などなく、悠然と構えていられる。

弱い者は、強い者に屈するか、戦って負けるか、あるいは戦いが始まらないように何らかの手を打つ必要がある。

それには、平和的、理知的、紳士的な手段もあれば、粗暴な手段もある。


少し前に、東大阪大学の学生が、岡山の同世代の若者とトラブルになり、生き埋めにされて殺された事件があった。

もちろん加害者の罪は重いが、事件の発端は被害者側が 「 暴力団に知り合いがいる 」、「 生き埋めにするぞ 」 などと脅したことが原因のようだ。

結果、威勢よく威嚇した側はリンチに遭い、生き埋めにされ殺された。

大阪に住んでいると、そういう 「 ガラの悪い言葉で相手を威嚇する 」 連中を目にする機会も多いが、大半は 「 口ほどにもない 」 弱い人間である。

私自身、そのような台詞を吐いたことはないが、吐かれたことはあり、その結果は、無視したか、あるいは返り討ちにしたか、どちらかである。


本当に暴力団に知り合いがいて、その威力を行使するつもりなら、いないところで脅し文句など吐かずに、最初から連れてくるのである。

相手を生き埋めにして殺す覚悟ができているのなら、「 予告 」 などせずにいきなり埋めたほうが成功率は高い。

殺された被害者たちは 「 口だけ 」 で、加害者たちには 「 殺意 」 があったので、威嚇などせずに殺害を実行した。

自殺者も同じで、本気で死のうと思っている人間は、周囲に言いふらしたりせず周到に計画を練り、一人静かに実行して死に至る。

誰かれなしに 「 死にたい 」、「 死んでやる 」 などと言う連中は、本心では死にたくない臆病者で、周囲の関心を集めたいだけの甘えん坊である。


本気で戦争を始める気があるなら、誰もいないところにミサイルを打ち込むようなバカな真似はしないものである。

太平洋戦争で日本が真珠湾を攻撃したように、「 本当に戦う覚悟 」 があるなら、交渉のための威嚇でも、見せかけではなく実際の攻撃を仕掛ける。

もちろん、そんなことをすれば現状に後戻りはできないわけだが、遠く離れた場所にミサイルを落としたり、口先で脅すだけでは相手が怯まない。

むしろ、「 弱さ 」 を相手に露呈させるだけで、不利に陥るだけだ。

それでもミサイルを放ってきたのは、過去において日本側が 「 極端な弱腰外交 」 を展開してきたことと、強気に転じさせない勢力の存在が原因だ。


今回のミサイル報道においても、コメンテーターの一部に 「 不良少年を追い込むことが解決策ではない 」 などの間抜けな発言をする人間がいる。

あるいは、「 あくまでも話し合い、外交努力をすべき 」 などと発言する馬鹿な解説者もいる。

もちろん、対話の余地を残すことは必要だが、「 ミサイルを発射した側 」 が謝りもしないうちに、日本側から積極的に話し掛ける理由などない。

彼らが謝罪して、今後の方策を話し合いたいと申し入れてきた場合には、意地を張らずに耳を傾けてよいだろうとは思う。

しかし、こちらから 「 貴国はミサイルを打ちましたけど、本心では平和的な解決をしたいんじゃありませんか 」 などとフォローするのは馬鹿げている。


威嚇され、脅されているにもかかわらず、「 このような事態に陥ったのは、外交努力が足りない日本政府の責任 」 などと語るキチガイもいる。

日本側にとって本当の敵は、「 標的にミサイルを当てられない弱小国家 」 よりも、内に潜む 「 善悪の見境もつかない非国民 」 のほうかもしれない。

彼らが、「 近隣諸国との対等な立場での外交 」 を阻害し、人権を盾にとり 「 凶悪犯罪者 」 の刑期を短縮し、巷に異常者を野放しにする。

日本の治安と秩序を混乱させ、安全な暮らしを脅かしているという意味では、テポドンより、工作員より、彼らの存在こそが害悪になっている。

もはや北の某国は脅威でもないが、そろそろ 「 内なる敵 」 を排除していかなければ、野犬除けに思わぬ出費を強いられる危険があるだろう。






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