Tonight 今夜の気分
去るものは追わず、来るものは少し選んで …

2005年11月16日(水) 禁煙に至る道のり = その2



「 真理という大海原は、発見されぬままに、私の前にあった 」

                  アイザック・ニュートン ( イギリスの科学者 )

The great ocean of truth lay all undiscovered before me.

                                ISAAC NEWTON



禁煙に至るもう一つの大きな動機は、「 匂い 」 である。

これが気になりだしてから、禁煙を目指す動きは一気に加速した。


自分自身は誰からも 「 臭い 」 とか 「 匂う 」 などと言われたこともないが、だからといって、「 煙草臭くない 」 とは安心しきれない。

街中には 「 煙草臭いなぁ 」 と思う場所や、あるいは人物をよく見かけるが、あまり面と向かって 「 煙草臭いですね 」 と指摘することはない。

けっこう言いたい放題、豪胆に話す私ですらこのような有り様なのだから、世間のおとなしい人々が、ズバッと注意する場面など少ないはずだ。

数あるエチケットの中でも 「 匂い 」 に関しては、尺度が目に見えないこともあり、自分で意識して 「 発生を抑える努力 」 が必要となってくる。

だから人々は風呂に入り、歯を磨き、汗を抑えたり、香水を使ったりするのだが、「 煙草の及ぼす匂い 」 に関しては、意外と無頓着に陥りやすい。


煙草を吸う知人の一部に、「 強烈に煙草臭い人 」 がいる。

その人自身は、自分が煙草臭いのだという事実を認識していない様子で、そのことを気に留めることもなく毎日を過ごしている。

私が、他人から煙草臭いと言われないからといって、あるいは、自分自身の放つ煙草臭さを認識しないからといって、臭くないという保証はない。

それに、非喫煙者は喫煙者よりも 「 煙草の匂いに敏感である 」 と思われ、喫煙者である自分が感じるよりも数倍、非喫煙者は匂いを察知する。

その不安から自分を解放するのは簡単で、ただ 「 禁煙 」 さえすればよい。


煙草の是非を問う場合、まず第一に健康面に関する影響を議論されることが多く、それは喫煙者自身の健康だけでなく、周囲への害悪も語られる。

しかしながら、この論議は 「 煙草を吸っても長生きをする人がいる 」 とか、「 煙草より健康に悪いものがある 」 などの反論も呼ぶ。

事実、私自身もこのような反論をしてきた一人だったので、いまでも 「 健康のためという目的で禁煙を始めた 」 というわけではない。

たぶん将来的にも、健康が目的で禁煙しようとは思わなかっただろう。

だが、「 カッコ悪い姿を晒したくない 」 とか、「 自分は他人から、臭い奴だと思われたくない 」 という気持ちは、それよりも強いものだったのである。


それらの理由に加えて、「 時代はもはや、煙草を過去の遺物として葬ろうとしている 」 という潮流を、そろそろ認めざるを得ないという実感がある。

その昔、カッコ良い男の必須アイテムとしてもてはやされた煙草は、もはやその地位を失墜し、不快な害悪をもたらす怠惰な嗜好品と成り果てた。

ここで 「 吸う権利 」 を主張するには、それなりの根拠が要る。

しかしながら、残念なことに煙草には 「 吸わざるを得ない理由 」 というものが、実はまったく存在しないのである。

煙草を吸わないとストレスが溜まるとか、退屈だとか言うけれども、煙草を吸わなかったからといって、実際に死んだり、病気になる者はいない。


実際、アルコールや薬物に比べ、ニコチン中毒というのは禁断症状が軽く、何か別の 「 気晴らし 」 でもあれば、忘れてしまう程度である。

海外旅行で長時間、飛行機に乗って煙草が吸えない場面でも、他に楽しいことがあったり、美味しいものを食べたりしていれば苦にならない。

あるいは到着までの間、眠っていた場合も、煙草の世話にはならない。

また、煙草の 「 味 」 が美味いというのも説得力に欠ける話で、吸っていた私でさえも、それを心から 「 美味しいもの 」 だと言い切れない。

カッコ悪く、嫌な匂いがし、健康に悪そうで、美味いものでもなく、吸わないで我慢できないこともない、それが煙草なのである。


このように煙草は、本来なら不必要なはずのものを、何かの暗示によって必要だと信じこんでいる幻想から、世の中に成立しているものである。

だから、それなら 「 やめよう 」 と決めた。

当初の一週間ほどは、無意識にポケットまで手が伸びて煙草を探したり、「 ここらで一服 」 と、禁煙を忘れそうになったりもする。

それはけして 「 吸いたい 」 という欲求などではなくて、どちらかというと、「 習慣的 」 な動作の一部になっているだけのことだ。

この繰り返しが何度かあって、自分にとっての煙草は 「 切り替えスイッチ 」 だったんだという事実に、初めて気付かされた。


接続状態を 「 ON 」 から 「 OFF 」 に切り替えたり、「 右 」 から 「 左 」 に場面を切り替えるスイッチの感覚で、煙草をよく吸っていた。

現実の自分は、煙草の力など借りなくても、頭を切り替えたり、気分転換をはかることが可能なわけで、禁煙二週目からは、その問題もなくなった。

禁煙方法はズバリ 「 ただ、吸わないこと 」、これだけである。

代用品のガムなどを使ったり、徐々に本数を減らすなどすることは 「 禁煙とは困難なもの 」 と自分で認めることになるので、一切しなかった。

ただ吸わなきゃいいだけの簡単な話だと自分に言い聞かせて、「 根性 」 とか 「 気合 」 みたいな要素を求めなかったことも、成功の一因だと思う。


結論からいうと、煙草をやめたければ 「 吸わない 」 という4文字だけを守れば、誰でもやめられるのである。

周囲の 「 禁煙を失敗した人たち 」 の失敗例を聞くと、大抵は 「 気力でやめようと戦った 」 ことが敗因になっている。

禁煙を 「 たいへんなこと 」 と位置付け、精神力をもって立ち向かおうなどとする姿勢が、結果的には禁煙を困難な苦行に昇格させてしまうようだ。

そうではなく、「 煙草を吸わないだけのこと、赤ん坊にでもできること 」 だと意識し、煙草を吸うよりも、もっと楽しいこと、充実することを求めていく。

こんな感じで禁煙した結果、以前に比べて大きな変化はないが、たとえば、非喫煙者に対して、以前よりも堂々と接せられるようになった気がする。






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2005年11月14日(月) 禁煙に至る道のり = その1



「 老いぼれたら、老いぼれたことがわからなくなる 」

                              ビル・コスビー ( 俳優 )

When you become senile, you won't know it.

                                  BILL COSBY



個人的な最近の “ 大きな変化 ” の一つについて、書いてみたいと思う。

たぶん一回では収まりきらないだろうから、今夜はその一回目。


私が禁煙を始めてから、約一ヶ月半ぐらいになる。

ヘビースモーカーの諸氏にはご理解いただけると思うが、この 「 一ヵ月半 」 という期間は、まぁ、禁煙成功と判断できる成果だろう。

しかも現在、まったく吸いたいという欲求もなく、煙草を吸う人たちの近くにいても、なんの誘惑も感じない状況にある。

おそらくは、今後一切、終生を通じて喫煙することはないだろう。

23年間も手放さなかった煙草だが、実にあっさりとやめられるもので、ほんの少し前まで 「 なんで吸っていたのか 」 さえ、思い出せないほどである。


煙草を初めて吸ったのは、大学を出て社会人になった頃である。

それまでにも、悪戯で吸ったことはあったが、学生時代はずっとスポーツに傾倒していたので、競技の妨げになることは必定だし、手を出さなかった。

当初は、1日に1箱 ( 20本 ) ぐらいの量だったと記憶しているが、しばらくすると2箱に増え、最大時には3箱を吸っていた時期もある。

気分や体調にもよるが、40歳までは平均すると2箱〜2箱半ぐらいで推移し、その後は1箱〜1箱半ぐらいを吸い続けてきた。

禁煙を決めた直前も、1箱以下ということはなく、同じペースで吸い続けた。


初期に吸っていた銘柄は、「 セブンスター 」 であった。

昔の煙草は、タール・ニコチンの含有量が多かったので、その当時にしては低タールだったセブンスターを、当時の若者はよく吸っていたのである。

その後、26歳頃から 「 ラッキーストライク 」 に変え、以降はずっと定着して同じ銘柄を吸い続けてきた。

約20年間に亘り、同じ銘柄の煙草しか吸わなかった人間は珍しく、周囲の知人たちからは、よほどその煙草が気に入っていたのだろうと言われる。

後から説明するけれど、煙草をやめるまでの間、銘柄にこだわった理由は 「 風味 」 だと思い込んでいたが、実際には少し違っていたようだ。


実際に禁煙するまでの間に、何度か禁煙しようかと思ったこともあったが、それはあまり真剣な決意ではなく、具体的に行動へ移すことはなかった。

それは、多くの人が禁煙を目指す理由の上位に挙げる 「 健康のため 」 という要因に、ほとんど関心を示さなかったからだと思う。

今もそうだが、煙草を吸い続けていても身体上の異常は見当たらないし、健康診断を受けても 「 年齢のわりに健康 」 という診断結果が出る。

もちろん、将来に向けても健康であり続けたいとは思うが、自分の場合は、さほど 「 煙草が身体に害をもたらしている 」 という実感がない。

この度、禁煙を始めた最大の理由も 「 健康のため 」 ではない。


今回、煙草をやめようと思ったのには複数の理由があるのだが、まず最大の理由としては、「 喫煙は、カッコ悪い 」 と思い始めたことが挙げられる。

逆にいうと、過去に煙草を吸い始めたきっかけや、手放せなかった理由の中に、「 喫煙は、カッコ良い 」 という錯覚があったように思う。

夜の空港で、昔の恋人がレジスタンスの指導者と外国に旅立つのを見守る ハンフリー・ボガート が、コートの襟を立てながら煙草に火を点ける。

あるいは、敵国の女スパイと一夜を共にし、自らの魅力ですっかり虜にした ジェームズ・ボンド が、ベッドの中で上半身を起こし、煙草をくゆらせる。

煙草会社のCMが問題になっているけれど、実際にはこのような 「 カッコ良い男は、煙草を吸っている 」 という映像の、視覚的洗脳効果が大きい。


冷静に考えてみると、彼らは 「 煙草を吸っているから、カッコ良い 」 のではなくて、それぞれに別の理由でカッコ良いのである。

日常的に見かける、その辺の貧相なしょぼくれたオッサンが、煙草を吸う姿がカッコ良いかというと、けしてそうではない。

むしろ、ヤニ臭い息で話し掛けてきたりして、「 ウザイ 」 存在である。

煙草をよく吸う人の車に乗ると、たまにヤニ臭さを感じることがあるし、そういう人の指が鼻先に近づいただけで 「 臭い 」 と感じることもある。

ふとした瞬間に、「 自分は違う・・・と言い切れるか 」 と自問自答したりして、喫煙による 「 不潔感など印象の悪さ 」 に気付かされることも多い。


最近では、カッコ良い男の大部分も煙草を吸わなくなってきているらしくて、「 煙草を吸うとカッコ良い 」 などという幻想は、壊れ始めているようだ。

極端に煙草を嫌う女性と付き合ったこともないし、現在の彼女も煙草を容認してくれてはいるが、彼女自身が吸うわけではない。

彼女を含め、過去に交際してきた女性の大半は、私への健康の気遣いも交え 「 できれば、吸わないほうがよい 」 と望んでいたはずである。

ある意味、好きな女性、大切な周囲の人たちに 「 我慢を強いてきた 」 わけでもあり、そう考えるとかなり 「 カッコ悪い 」 ような気もする。

この 「 カッコ悪さ 」 が気になり始めたのが、禁煙の最大の理由である。


老人が 「 自分は老いぼれている 」 ということに気付かなかったり、素直に認めようとしないのと同じで、自分の現況というものは捉え難い。

ましてや、何かによって洗脳されたり、呪縛を受けている場合に、それらの渦中から一歩外へ出て、冷静に自分の姿を見つめ直すことなど難しい。

その困難を打破し、「 喫煙習慣はカッコ悪いし、時代の潮流に逆らっているし、周りに迷惑だし、健康に悪い 」 と気付いたら、あとは禁煙あるのみだ。

そう考えた私は、9月の中旬に、「 10月1日をもって禁煙する 」 と決意し、さて、どのようにしてやめるかという難題に、取り組み始めたのである。

( つづく )






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2005年11月09日(水) 鬱とニート



「 活力と粘り強さがすべてを克服する 」

      ベンジャミン・フランクリン ( アメリカの科学者、政治家、文筆家 )

Energy and persistence conquer all things.

                            BENJAMIN FRANKLIN



最近、ニート ( NEET ) の人たちと話す機会が多い。

ニートとは、34歳以下で、学業にも仕事にも就いていない人たちである。


現在、彼らに労働意欲を湧かせ、職に就くまでの手助けをする公共事業 ( あるいは民間への委託事業 ) が複数あり、私もちょっと関係している。

原因は様々で、鬱病などメンタル面の不安を抱えている人、就業を困難とする問題のある人、あるいは単に 「 働く気が起こらない人 」 もいる。

彼らに話を聴くと、大抵は 「 働かなきゃいけないとは、思うんですけど 」 という答が返ってくる。

そこで私は、「 えっ、どうして働かなきゃいけないの? 」 という質問をする。

ここで、「 日本国憲法第三章第二十七条に“ すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負う ” と書かれているからです 」 などと答える人はいない。


一番多い答は、「 将来が不安だから 」 というものである。

次いで、親兄弟がうるさいからとか、近所に体裁が悪いなど 「 世間体 」 に関する問題、現状の自分を変えたい 「 自己改造願望 」 などが続く。

では、「 今まで、どうして働かなかったの? 」 という質問を投げかけるのだが、ここで 「 明確かつ誰もが納得できる理由 」 を答えられる人は少ない。

そこで、学生時代までさかのぼって話を聴いてみると、ほぼ全員が 「 自分は働かない 」 と決意したわけでも、望んだわけでもないことがわかる。

つまり、なんだかわからないまま時間が過ぎ、ある日、気がつけば周囲から 「 お前はニートだ 」 と呼ばれていたというのが実態なのである。


最近、この 「 ニート 」 と呼ばれる人たちと、働いた経験はあるが 「 鬱病 」 が原因で再就職が困難になっている人たちを支援する仕事が多い。

なかには 「 ニートで鬱病 」 というダブルパンチみたいな人もいるのだが、その場合は鬱の原因が仕事上の問題ではないことが多いようだ。

面白いことに、必ずといっていいほど、「 ニートの人は、鬱の人を非難しない 」 のだが、「 鬱の人は、ニートの人たちを非難する 」 傾向が強い。

彼らの意見によると、ニートの連中は 「 面白そうな仕事、やりたい仕事が見つからない 」 ので働かないようだが、「 とんでもない 」 のだそうだ。

自分たちは、嫌な仕事、辛い仕事をさんざん経験して、仕事を一生懸命にやり過ぎたので 「 病気にまでなったんだぞ 」 と、たいそうお怒りである。


しかも、日本国憲法には 「 勤労の義務 」 が謳われているし、働かないのだから 「 納税 」 も果たせず、結婚したり、子供をつくる可能性も低い。

そんな調子で将来、もしも生活に困ったら生活保護などの適用を受けることも危惧され、それでは税負担を増やすだけの 「 お荷物 」 になりかねない。

この 「 言い分 」 は、たしかに的を得ていると思うが、では、そう非難なさる鬱の人たちは、それほど自慢できる立場なのだろうか。

ストレスの負担が強い仕事が勤まらずに、途中で役目を放棄したとしても、その仕事が消滅したわけではなく、結局、誰かにやってもらっている。

国民の義務は果たしていても、自分以外の誰かに負担を強いるのならば、会社単位でみると 「 お荷物 」 だったりするのではないだろうか。


働かない分、ニートの側に分が悪いような気もするが、おそらく、ニートでも鬱でもない人たちの大部分からみれば、所詮は 「 五十歩百歩 」 である。

ニートという立場を 「 一時的な現象 」 と捉えれば、嫌々働いている人たちよりは、「 情熱を燃やせる仕事をじっくり探す 」 ほうが正しい気もする。

さらに言えば、彼らが 「 面白そうな仕事がない 」 と思い込んでいる原因の一つは、鬱の人たちが伝播させている 「 マイナス思考 」 にもある。

仕事とは本来、やりがい、達成感を感じられ、お金だけではなく、自分を高め、人生を豊かにしてくれる意義深いもののはずだ。

それが面白くもないとか、嫌だとか、辛いとしか感じられないのは、職業の選択を誤ったか、自分自身の能力や性格にこそ、実は大きな問題がある。


鬱の悪い部分を書くと、大抵、掲示板やメールで批判される。

現代はストレス社会であり、鬱症状に悩む人は多いし、それを改善しようと治療に励んだり、克服する努力をされている方の多いことも知っている。

それでも、「 鬱の害悪 」 はたしかに存在し、たとえば被害妄想的に 「 仕事なんて面白くもない 」 とネットに書き込めば、閲覧する若者に有害である。

約百名近いニートの人たちに、「 仕事は工夫次第で、こんなにも楽しくて、価値あるものなんだよ 」 と伝えてきたところ、多くの人が適職に就けた。

鬱の害悪に触れることを 「 偏見 」 と批判し、マイナス思考をさも当然だと野放してきた結果が、ニートの大量発生にも少なからず影響している。






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2005年11月07日(月) 個人の責任、組織の責任



「 厳しく自己管理ができていれば、部下を管理する必要はない 」

                              石坂 泰三 ( 財界人 )

If you can manage yourself strictly and with integrity,
you don't have to manage those under you.

                               TAIZO ISHIZAKA



第一生命の社長、東芝の社長などを歴任し、経団連の会長も努めた。

大蔵大臣へと吉田茂に請われ、断ったというのも有名な逸話である。


毎回、著名人の名言を取り上げているが、財界出身者の名言の中には、明日からでも現実的に使えそうな教訓が含まれていることも多い。

冒頭の名言は、古臭い 「 管理 」 という概念について疑問を投げかけているように思え、石坂氏の 「 先見性 」 みたいな部分に脱帽してしまう。

一般的に 「 管理 」 といえば、序列階級の上に立つ者が、目下の者を管理するような図式を思い浮かべることが多い。

それに対して 「 自己管理 」 というのは、誰が誰を管理するという問題ではなく、自分自身が誠実に、真摯に生きることを指している。

部下を正しく導くのには、己が率先して範を垂れれば足りるという発想で、お互いが人間として誠実に生きることを出発点にしようという戒めである。


巷では、「 NHK記者による連続放火事件 」 なんてことが起きている。

どこの企業や団体でも、それを構成するメンバーすべてが善人であるという保証はないし、犯罪に加担するような愚か者が生まれる危険もある。

そのため、「 組織から悪人が出るのは防ぎようがない 」 だとか、あるいは、「 個人の犯罪に、所属する組織は責任がない 」 とする考え方もある。

たしかに企業というのは、利益追求など忘れて、個人のモラルを高めたり、聖人を輩出することなどを第一の目標にしているわけではない。

そのうえ、四六時中すべての社員を見張っているわけにもいかないので、ある程度の割合で犯罪者が出ることは、仕方がないかのようにもみえる。


しかし、この 「 組織人の犯罪は個人の責任であり、企業に過失はない 」 という概念は、一昔前の発想であり、現代には通用しないのである。

たとえば、「 セクハラ 」 に関しては企業内の防止対策が問われ、エッチな社員一人が悪いのだからクビにすれば済むという話では収まらない。

あるいは、「 食肉偽装表示事件 」 が起きた際にも、企業は個人の責任だと主張したが、司法も、民意も、「 企業悪 」 であるという判断を下した。

学校を出て職に就き、働いている人間を 「 社会人 」 と呼ぶが、大部分の人が企業や組織に属したり、あるいは社会に係りながら暮らしている。

つまり殆どの人は、「 一個人 」 であると同時に、「 組織人 」 であり、社会を構成する一員であることが、犯罪の面でも認識されてきている。


それに現実問題として、有名な企業や団体に属している人間が悪いことをすれば、所属する企業や団体の印象が悪くなるのは自然の摂理である。

テレビで顔の売れている芸能人が、道端で立小便したり、格好の悪いことができないという悩みと同じで、いわゆる 「 有名税 」 みたいなものもある。

私自身も、若い頃に 「 有名企業に勤め、有名ブランドを扱う者は、あらゆる事柄について模範的であらねばならない 」 と、よく注意された経験がある。

名刺を渡した相手に対しては、自分の能力や態度を基準に、企業全体の評価が上がったり下がったりするのだから、個人の問題では済まない。

そんなプレッシャーを 「 誇り 」 と感じて受け止める人は伸びるし、「 苦痛 」 にしか感じない人の多くは、ストレスを抱えて潰れやすい。


事実、たとえばNHKの例をみると、問題の記者に対して企業側 ( NHK ) が常に 「 模範的な姿を示してきたか 」 というと、どうにも共感し難い。

前会長の問題やら何やらで、かなりの失態が暴かれたばかりである。

こういうときに、「 企業の思想、哲学がいい加減だから、ろくな社員が育たないのではないか 」 と揶揄されても、強くは否定できないだろう。

日頃から評判の良い企業に、ある日突然犯罪者が出た場合と、普段から批判の多い企業から出た場合では、世間の反応が違って当然なのだ。

こういう 「 バカ 」 を出さないためには、がんじがらめに管理することよりも、経営陣、幹部社員などがこぞって模範を示すほうが、より効果的である。


また、「 NHK だからといって特別に非難するのはおかしい 」 みたいなことを言う人もいるが、この考え方も違う気がする。

たしかに、NHK だろうが民放だろうが、悪いことをしてはいけないのだが、日頃から 「 品行方正 」 を売り物にしている分だけ、前者の罪は大きい。

単なるレイプ犯より、教師や聖職者のレイプ犯のほうが 「 悪い奴だなぁ 」 という印象を強く持つ人が多いはずで、批判が集中するのも当然だ。

それを同じように判断せよというのは、公平、不公平などの問題ではなく、「 対象者への倫理観に関する期待度 」 の違いが大きすぎて難しい。

NHK以外でも、現在、「 うちの会社も、模範的とはいえないなぁ 」 と感じている経営者の皆様には、早めに対応されたほうが望ましいだろう。






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2005年11月06日(日) 予想を裏切る快感



「 人生の最大の喜びは、できないと言われたことをすることだ 」

 ウォルター・バジョット ( イギリスの政治学者、経済学者、ジャーナリスト )

The greatest pleasure in life is doing what people say you cannot do.

                              WALTER BAGEHOT



何かをやろうとして、他人から 「 できない 」 と宣告される。

そんなとき貴方は、どう反応するだろうか。


弱気な人の中には、他人からの 「 できない 」 という一言を天の助けのように受け入れ、自ら未達成の口実として有難く利用する人もいるだろう。

強気な人は、もともと無理かなと思っていても、他人からの 「 できない 」 に触発され、むしろ意地になって挑んでくることも考えられる。

他人が 「 できない 」 と断言するような難易度の高い仕事を押し付けられ、そのプレッシャーに負けて精神を病むことが 「 責任感 」 ではない。

本当の責任感とは、不利な立場や窮地にも黙って耐え、ひたすらに最善を尽くして 「 できない 」 と言われたことをやってのける力と勇気である。

経験上、それはリスクを伴うし、とても難しい事と知っているが、やり遂げた際の達成感、充実感は格別で、喜びに満ちた瞬間になることもたしかだ。


1993年にサッカーJリーグが発足して以来、千葉 ( 発足当時は市原 )、ガンバ大阪の2チームは、いづれもタイトルに恵まれず無冠が続いていた。

その両チームが5日、ナビスコカップの決勝戦で対戦し、激闘の末、千葉が大阪を下して、初の栄冠に輝いたのである。

今年はプロ野球も千葉 ( ロッテ ) が31年ぶりに頂点を制し、なんとなく 「 千葉イヤー 」 的な機運が高まっているのかもしれない。

野球もサッカーも、強豪とはいえないチームを鍛え上げて、「 できない 」 の下馬評を跳ね返して覇権を掴んだ人々の熱意には、拍手を贈りたい。

ちなみに、よく考えてみると、どちらも決勝で千葉が勝って、大阪勢が負けたわけで、地元ローカルでは芳しくない結果に終わったのである。


彼らの活躍に比べようもない些細な話だが、私が 「 禁煙宣言 」 をしたときも、周囲には否定的な観測をする者のほうが多かった。

皮肉っぽい笑みを浮かべながら、「 いつまで続きますかね 」 みたいな調子で聞き流され、こちらの決意とは裏腹に、あまり真剣には受け取られない。

実際に禁煙を始めてからも、「 まだ禁煙中ですか? 」 などと尋ねられて、「 “ まだ ” じゃなくて “ ずっと ” 禁煙中なんだよ 」 と言い返す始末である。

禁煙の意気込み、あるいは成果を周囲に知らしめ、彼らの 「 できない 」 という声に一矢を報いるには、とにかく継続的に禁煙していくしかない。

いつまでで、どこがゴールなのかといえば、「 周囲が完全に認めるまで 」 ということになるわけで、しばらくは黙って耐えるしかないのである。


禁煙して1ヶ月少し経った近頃、周囲から 「 本当に吸わないねェ 」 とか、「 貴方はやめれそうだねェ 」 なんて声が掛かるようになってきた。

むしろ自分の場合は、周囲が 「 できて当然 」 と言うよりも、「 できない 」 と言ってくれたことが、禁煙の継続を支えているのかもしれない。

他人が 「 できないよ、難しいよ 」 と言うぐらいでないと、なんとなく目標としての価値、ハードルの高さを感じられないという物足りなさもある。

そして、禁煙が続いている近頃は、当初、懐疑的な視線を送っていた知人に会い、誇らしげに禁煙席へ手招きすることにも喜びを感じる。

喫煙中も健康だったので、まだ体調面での恩恵は実感していないが、禁煙にはこういった 「 楽しさ 」 もあったりするので、なかなかに面白い。






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2005年11月05日(土) いろいろありました



「 胸をときめかせるものの後を誠実に追いかけよ 」

                                     作者不詳

Follow what excites you with integrity.

                                 ANONYMOUS



いろいろあって、およそ1ヶ月ぶりの日記となった。

こんなに更新が滞ったのは、初めてではないだろうか。


更新が遅れた理由の一つは、海外に出かけていたためである。

もう少し早い時期に、もう少し短期で予定していたのだが、仕事の調整やら何やらで遅れてしまい、むくれた彼女への穴埋めとして、期間を延長した。

アメリカとカナダの好きな場所をのんびり廻って、2週間の半分づつを知人宅とホテルに泊まって過ごした。

その後、帰ってからは当然のごとく、溜まっている仕事の処理が待ち構えているわけで、帰国後の1週間はかなりのハードワークとなる。

息抜きも、「 ちょっとした覚悟 」 を必要とするもので、そう甘くはない。


日記を休んでいた1ヶ月間には、旅行以外にも、ちょっとした変化というか、事件というか、いくつかの個人的なトピックスがあった。

その一つが、「 禁煙 」 を始めたことである。

タバコとの付き合いは長く、23歳ぐらいから吸い始めたので、およそ22年ほど喫煙習慣を続けていたのだが、本格的な禁煙は初めての体験だ。

時間をかけて徐々に本数を減らすとか、代用品 ( ガムなど ) を使うとかではなく、ある日を境にバッサリと断つことにし、現在も禁煙は続いている。

最近は巷で 「 禁煙セラピー 」 という本がベストセラーになっているけれど、私の禁煙エピソードも、後日、この日記上で書くことにしよう。


もうひとつ、「 世間様にとっては、どうでもいいことだけれど、ささやかだが、個人的にはとても大きな事件 」 があった。

この歳では少し恥ずかしい気もするが、指輪を買って 「 プロポーズ 」 をし、申し出を彼女も受理してくれたので、めでたく 「 婚約 」 となった。

来年にかけて結婚の準備で慌しくなりそうだが、冒頭にある 「 胸をときめかせるもの 」 を見つけたと確信したので、追いかけることにしたのだ。

この件についても、別の機会に書こうかなと思ったりするが、ごく個人的な内容の話なので、詳細については語らないほうがよいかもしれない。

取り急ぎ今回は、皆様に結果報告だけお知らせした。


1ヶ月ぶりの日記を再開するにあたり、「 禁煙 」 と 「 婚約 」 という二つの話題を避けては語れないだろうと思った。

日記の再開が遅れた 「 もう一つの理由 」 は、ある女性に病気の疑いがあり、検査入院をされているという情報を聞いたことにある。

彼女は、現在の婚約者と交際する以前に、あるいは 「 指輪を渡す可能性もあった 」 女性で、彼女の安否を知るまで、日記を書く気になれなかった。

無事に退院され、彼女にも新しい 「 大切な人 」 が居て、共に過ごしておられると知り、そろそろ、自分の婚約話を書いてもいいかなと判断した。

進む道は違ったけれど、お互いに健康で、良い相手に恵まれ、必要とされる仕事、活躍する舞台が与えられ、喜び合えることを幸いに思う。






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