Tonight 今夜の気分
去るものは追わず、来るものは少し選んで …

2005年10月12日(水) 遅すぎた名誉の回復



「 私に頼ってくる人々を見捨てるわけにはいかない。

  でなければ私は神に背くことになる 」

                               杉原 千畝 ( 外交官 )

I cannot forsake those people who come to me for help.
If I did, I would be turning against God.

                              CHIUNE SUGIHARA



昨夜のテレビでは、杉原氏の偉業を称えるドラマが放映されていた。

戦時中、このような “ 美談 ” が存在したことは、あまり知られていない。


ヨーロッパの各地でナチス・ドイツによる 「 ユダヤ人狩り 」 が始まった頃、リトアニアの日本領事館前には多数のユダヤ人たちが集まっていた。

彼らは、生き延びるための手段として、日本通過のビザを求めたのだ。

当時、リトアニアの領事代理であった杉原氏は、本国 ( 日本 ) 宛にビザの発給許可を要請するが、外務省の回答は 「 ノー 」 である。

戦時中、日本とドイツが 「 同盟国状態 」 にあったことを思えば、解せない判断ではなかっただろう。

平和な現代ならともかく、戦争という非常事態において 「 人道上の問題 」 などという倫理観は、けして優先されないのが世の常である。


もし、外務省の命令に逆らえば、外交官としての未来がなくなるだけでなく、下手をすると 「 反逆者 」 として国賊の誹りを受ける危険もある。

しかし、その代わりに、領事館の外で待つ人々は助かるかもしれない。

結局、杉原氏は自身の信条を貫き、勇気ある決断をもって可能なかぎりにビザの発給を続け、6千人にも及ぶユダヤ人の生命を救ったのである。

こういう人物こそ真の 「 英雄 」 であり、国や権力に逆らってでも己の正義を貫いた 「 勇気ある人物 」 として、誰もが認めるところだろう。

匿名の守られたネット上で、小泉政権のアラ探しをして、インネンをつけて批判している連中が、同じ気分に浸っているようだが笑止千万である。


ここまでは “ 美談 ” なのだが、後日談には理不尽な部分も多い。

戦後、帰国した杉原氏に対して外務省は 「 ユダヤ人から賄賂をもらったのではないか 」 という疑いを向け、それを理由に解雇してしまう。

また、命を救われたユダヤ人が杉原氏の消息を尋ねにくるのだが、外務省が協力しなかったために、「 再会 」 までには三十年の歳月が費やされた。

その後、杉原氏の偉業が広く世界に紹介され、イスラエルから表彰されたり、日本の民放で特番が組まれたりして、だんだんと知られるようになった。

そして杉原氏の没後、西暦2000年になってから、外務省が偉業を認め、過去の非礼を詫び、氏を 「 素晴らしい先輩 」 として顕彰したのである。


誰にも真似できないような勇気ある行動を起こしたにも関わらず、杉原氏は名誉を回復されることもなく、不遇な晩年を過ごしたと伝えられている。

あくまで憶測の枠を出ないが、私は、この背景には、外務省の面子だとか、手続き上の不手際以外に、もっと大きな策謀があったのではないかと思う。

日本の戦後教育、外圧、一部の思想団体、その他多くの人間にとっては、「 戦争中の日本にも、善い人間、善い行いがあった事実 」 は邪魔である。

学校教育でも、太平洋戦争について、「 とにかく日本は悪いことをした 」、「 無条件に反省しろ 」 の一点張りで、議論の余地も与えない。

内外の圧力を受け、いびつな歴史認識を植え付ける昨今の左翼カルト的な教師たちにとって、杉原氏のような偉人の存在は 「 洗脳 」 の妨げになる。


少し考えすぎかもしれないが、あながち 「 ない 」 とも言い切れない話だし、なんとなく陰謀くさい気がしないでもない。

杉原氏以外にも、立派な日本人は数多くいたと思うし、断片的に “ 美談 ” も聞くのだが、ほとんど脚光を浴びないというのも不思議な話だ。

たとえば、そういう “ 美談 ” を拾い集めて、終戦記念日なんかに 「 戦時中の偉大な日本人たち 」 なんてテレビ番組を作ったら、どうなるだろうか。

そりゃ、各方面から抗議はくるだろうし、脅迫、いやがらせの数々は、民間のみならず外交レベルにまで発展しそうである。

戦争中に 「 善い日本人がいた 」 ことを快く思わず、むしろ不都合に感じる人間は、残念ながら、日本人の中にも大勢いるのが実態のようだ。






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2005年10月09日(日) 本当のリッチとはなにか



「 富を失う者は多くを失う。 友を失う者はさらに多くを失う。

  だが勇気を失う者はすべてを失う 」

       ミゲル・デ・セルバンテス ( スペインの小説家、戯曲家、詩人 )

He who loses wealth loses much; he who loses a friend loses more;
but he that loses courage loses all.

                         MIGUEL DE CERVANTES



セルバンテスの代表作といえば、『 ドン・キホーテ 』 である。

勇気と友情は富に勝るということを、優れた物語は我々に教えてくれる。


自分が裕福かどうかについて、多くの人が大きな勘違いをしている。

それは、「 お金を持っている ( あるいは、持っていない ) 」 かどうかという点に固執して、その評価を下してしまうところだ。

人の裕福度を判断するのに重要なのは、「 お金を持っているかどうか 」 ではなく、実際には 「 お金に困っているかどうか 」 という部分にある。

お金持ちの中にも、 お金持ちで、お金に困っていない人、 お金持ちなんだけど、お金に困っている人 がいて、その悩みこそ深刻なのである。

あるいは、 貧乏でも、お金に困っていない人、 貧乏で、お金に困っている人 もいるわけで、やっぱり、お金の有無よりも必要性が重要となる。


たぶん私は、上記の分類によると 貧乏でも、お金に困っていない人 のグループに属すると思うので、お金はないけど裕福なつもりでいる。

身の程に合った生活をして、普通に働いている人 ( つまり、大部分の日本国民 ) は、よほどの災難に遭わないかぎり、ここには属せるだろう。

贅沢や、見栄っ張りから浪費癖が抜けない人、真面目に働かない人、そういう人は、お金を獲得する方法よりも、使い方に気をつけたほうがいい。

あるいは、それなりにお金は持っているのだけれど、「 将来が不安なので、いくらお金があっても安心できない 」 などという人も、中にはいるだろう。

こういうタイプも、精神的には 「 お金に困っている人 」 と同じストレスを抱えているわけで、とてもじゃないが裕福な気分など味わうことはできない。


日本のお金持ちが後進国へ物見遊山に行き、貧しい人々の暮らしを見て 「 可哀想だ 」 などと呟いたりするが、実情はまるで違っている場合も多い。

現地の人たちは、昔からその生活しか知らないのだから、平和で飢えることなく、家族が仲良く暮らせる現状に、十分満足して幸せを感じている。

少しばかり余分なお金があるゆえに、もっともっとお金を欲しがり、家族仲や、あるいは自分の心まで汚れてしまう国の方が、よほど不幸である。

遠いアフリカや南米の国々に目を移さなくても、我々が幼い頃の、つまり今よりは貧しかったはずの日本と今を比較しても、それは同じだろう。

携帯電話もパソコンもMP3もなかったけれど、為替は一ドル360円という国勢だったけれど、人々の顔は平均して今より明るかったように思う。


もちろん、せっかく生活に便利な携帯電話やパソコンが出来たのに、それを活用しないのは賢明でないし、節約することのみが正しいともかぎらない。

たった一度の人生なのだから、悔いのないように贅沢を楽しみたいと願うのも一つの生き方であり、けして間違ってはいない。

ただ、そういう人は 「 平均よりも少し多く稼ぐ 」 という努力も必要なわけで、それが嫌な人は、つとめて倹しい生活を営むべきだろう。

まぁ、どっちにしても、「 お金があって、お金に困る人 」 と、「 お金がなくて、お金に困らない人 」 では、後者のほうが、かなり楽には生きられる。

お金の稼ぎ方、使い方、そして 「 ゆとり 」 についての気構えについて、バランスの悪い人は苦しい思いをするので、気をつけたほうがよろしい。






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2005年10月02日(日) 好敵手の存在



「 あいつをこてんぱんに殴ってやる。

  帽子をかぶるのに靴べらがいるようになるさ 」

                          モハメド・アリ ( プロボクサー )

I'll beat him so bad he'll need a shoehorn to put his hat on.

                               MUHAMMAD ALI



子供の頃には熱中した何かが、急につまらなく思えてしまったりする。

その 「 冷めた原因 」 は、自分にあるのか、あるいは違うのか。


阪神タイガースの優勝で、大阪の街は賑わっている。

テレビで優勝決定戦を観たが、周囲の 「 阪神も強くなったなぁ 」 という歓喜の声よりも、私自身は 「 巨人が弱くなったなぁ 」 という実感を強めた。

別に、巨人だけを特別扱いしようというわけではないのだが、どうしても昔の 「 常勝軍団 」 という印象が強いので、なんとも物足りなさを感じてしまう。

この日の試合も、投手がどうとか、打線がどうとか、采配がどうとかいう以前に、「 やる気あるの? 」 的な弱々しさが滲み出ていたように思う。

たしかに、敵地で、しかも相手の優勝が決まりそうな試合に臨むのは、けして愉快なものではないだろうが、まるっきり 「 気迫 」 が伝わってこない。


昔から、巨人と阪神の試合は 「 伝統の一戦 」 と呼ばれ、それは両チームの勝率に関係なく、人気カードとして観客を集めてきた。

王・長島が現役の 「 巨人 V9時代 」 には、運良く2位にはなれても、まるで阪神が優勝できる気配を感じなかったけれど、巨人戦は盛り上がった。

その理由の一つが、両軍の主力選手同士が競い合う 「 ライバル対決 」 という要素で、試合の形勢が一方的でも、ファンには別の楽しみがあった。

往年の、村山 対 長島、江夏 対 王、掛布 対 江川 などの対決は、試合の趨勢に関わらず、一打席毎に見応えのある好勝負が展開されたりもした。

好敵手を得たことで、彼らは互いに切磋琢磨して技術を磨き、体力を鍛え、死力を尽くして戦う 「 気迫 」 を、観る側の我々にまで伝えたのである。


最近の野球がつまらないのは、こうしたライバル同士の個人対決が盛り上がらないために、弱いチームにはまったく 「 見るべき点がない 」 ところだ。

継投のシステムとか、強力打線とか、各球団は勝つために全体的な強化を図っているが、評価されるのはあくまでも 「 勝っているとき 」 である。

どんなにチームが低迷していても、「 ○○と▲▲の対決が見たい 」 というような好敵手同士の白熱した戦いがあれば、それなりにファンは楽しめる。

先日の巨人対阪神戦などは、まったくそのような楽しみもなくて、ただ単に弱いチームが阪神相手にダラダラと 「 やられっぱなし 」 の体で終始した。

陣営が工夫して個人対決を盛り上げていかなければ、弱い球団には何の見所もないわけで、ただの消化試合としてしか成立しないのである。


勝つチームがあれば負けるチームがあり、どこかが強ければどこかが弱いのは当たり前で、いくら戦力を整えたところでそれは変わらない。

昔のように 「 面白い野球 」 を見せるためには、好敵手の存在を明確にして、個人対決の妙味を演出する必要もあるように思う。

たとえばイチロー選手のように、各選手が卓越した己の技量を高めることも重要だが、「 宿敵 」 の存在なくしては、全体が盛り上がらない。

これは、どんなスポーツでも同じことだが、感動を与え、人々の記憶に残るのは、たとえ団体競技でも 「 宿敵 」 との死力を尽くした闘いである。

そこに焦点を当てず、論理的に 「 強いチームづくり 」 をはかったところで、球界全体の人気回復には貢献しないような気がする。






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