新知庵亭日乗
荷風翁に倣い日々の想いを正直に・・・

2003年03月29日(土) ユーロの原点、クーデンホーフ光子さん

 21世紀になって、僕達の価値観は変わるのでしょうか?戦乱の歴史だった20世紀の反省にたって戦争や飢餓の起らない世界を構築して世界的福祉を充実させようと、少なくてもヨーロッパの人達は考えてユーロを造ったと思います。
皆さんはこの方をご存知ですか?
そうテレビや舞台で知られている"青山光子さん"を母に持つリヒアルト・栄次郎・クーデンホーフ・カレルギー伯爵です。



Shinchanは中学3年生の時、クーデンホール・カレルギー伯にお会いする事が出来ました。

 ヨーロッパ統一思想の萌芽
 欧州統合の構想を提起した思想家には、サン・ピエール、カント等が挙げられますが、中でもクーデンホフ・カレルギー伯は1923年に「汎・ヨーロッパ」と題する書物において平和的世界統一の第一段階としてのヨーロッパ統一を呼びかけ、第一次大戦の傷跡の残るヨーロッパに一つの希望を投げかけました。
 
 この運動にはアインシュタイン、フロイト、リルケ、トーマス・マン、リヒャルト・シュトラウス、ブルーノ・ワルター他、欧州各国の政財界人、学者が名を連ね、銀行家が巨額の資金提供を行い、第1回会議が3年後ウイーンに24カ国、2,000人以上の代表を集めて開かれました。第3回会議で反ナチスを打ち出してゲシュタポに追われたカレルギー伯は、映画「カサブランカ」のモデル
となるアメリカ亡命を成功させ、戦後、運動を再開して今日のECへの道のりを作り上げた。70年余の道のりもヨーロッパの殺戮の歴史から見ると瞬時にすぎない。歴史が指数関数的に動いた瞬間と捉えることも出来ますね。
母は日本人で一家は九州・佐賀の出身。伯は日本で生まれ、栄次郎の日本名をもっていました。

伯のお母さん黒い瞳の伯爵夫人
青山ミツコは,明治7年,東京牛込の町娘として生まれました。明治25年に当時のオーストリア,ハンガリー帝国の代理公使クーデンホーフ伯爵に見初められて国際結婚をいたします。公式の国際結婚第1号でした。ミツコは日本で二人の子どもを儲けて,さらにヨーロッパに渡って5人の子どもに恵まれます。
 当時は,今とちがって日本なんて誰も知りません。東の小さな小さな国,日本から来た娘ということで,大伯爵家では蔑まれ排他されるという状況のなかで,彼女は本当に人々の気持ちを魅了してしまったのです。始めは反対していた親類たちも,みんなが「ミツコ。ミツコ」というようになりました。
 確かに彼女はたいへん美しい人でした。しかし,それだけではなく教養がありました。書道を嗜み,歌を作り,身だしなみ,身のこなしなど,日本的な美しさに溢れていました。
 日本的な美しさも卑屈になれば伝わらないけれども堂々としていれば伝わるということをミツコから感じました。そういうことから,日本の暮らしの文化をだいじに胸張って生きてきたミツコのことを考えるわけです。
 クーデンホーフ伯爵が早く亡くなって,ミツコは7人の子どもを一人で育てます。領主としてのミツコは7人の子どもたちを教養あるヨーロッパ人として育て上げるのですが,心配な周りの親類や貴族たちは,寄ってたかって,ミツコを管理しょうとします。
 ミツコは,その時,簪を手にとって「これ以上あなたたちが物事を言い出したら,これで刺しますわよ」と言ったそうです。それ以後,ミツコには誰も余分なことを言わなくなりました。それは言葉の強さではなくて,多分,言葉を発したミツコ自身の胸張っている強さ全体から出でいた強さだと思います。言葉というのは,イコール内容,生き方,心ですから,ミツコはそういう生き方をしたんだなあと感じました。
 その後,ハンガリー帝国は第一次世界大戦の後,小国になってしまいます。ミツコの次男であるリヒャルトは,ヨーロッパは,今,手をつながなければ駄目になると,汎ヨーロッパ論を発表し多くの知識人に迎えられるのですが,ちょうど,ファシズムが台頭してきて潰されます。彼はアメリカに亡命するのですが,実は,映画『カラブランカ』の主人公のモデルがリヒャルトだと言われています。
 ヨーロッパは第一次世界大戦を経てECとなり,EUに変わり,東京で生まれたリヒャルトの思いが半世紀かかってやっと実を結んだというわけです。リヒャルトのお母さんであるクーデンフォーフミツコの様子がまた鮮やかに甦ってきます。ミツコは,18歳で結婚して以後67歳で亡くなるまで一度も日本に帰ってきませんでした。
 簪を持って「刺しますわよ」といった一言は,ほんとうに小さな言葉なのですけれど,その後ろにある,言葉の重さというか生き方に,私はほんとうに心を動かされました。
 今,「国際」という言葉が人の口をついて出てきます。けれども,外国の人に日本の文化について,胸張って語れる人がどれ程いるのかと思います。ミツコの存在にあらためて考えさせられます。

Michael Coudenhove=Kalergi

<作家プロフィール>
1937年 クーデンホーフ光子の孫としてチェコのプラハに生まれる。
1945年 チェコからオーストリアに移る。グラーツの美術工芸学校を経て、ウィーン造形美術大学に進む。在学中に数多くの美術賞を総なめし、1964年に同大学を主席で卒業する。
1964年 エルンスト・フックスをはじめ、ウィーン幻想派を代表する巨匠たちからの助言を受け、同派の中心人物として活躍する。
1980年 美術界におけるオーストリア共和国芸術名誉十字勲章受賞。
1998年 芸術家組合 ザンクト・ルーカス=アントワープ賞を受賞。


彼女は、ゲランの香水『ミツコ』のモデルになったと言われています。
、光子はボヘミア地方のカレルギ家の領地にある、ロンスベルク城で生活を始めます。しかし、幸せは長く続かず、結婚生活10余年あまりで、ハインリッヒは急逝してしまいます。光子の苦労は大変なものだったようですが、彼女は夫の遺産を引き継ぎ、伯爵夫人として子供達をウィーンの名門学校に入学させ、社会的に活動を始めます。この頃からウィーンの社交界にも登場し、日露戦争で大国ロシアの負かした国の女性として注目を浴び、社交界の花形となりました。
やがて、パリでは「ミツコ」という香水が発売されました。

エピローグ
ミツコのお墓はウィーン市内・シェーンブルン宮殿西側のHIETZING墓地にあります。なお、夫のクーデンホーフ伯爵は、チェコのロンスベルグに埋葬されています。ミツコは「夫の墓に埋葬してくれるように」と遺言しましたが、現在まで、かなえられていません。






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2003年03月28日(金) 君死にたまうことなかれ

今、アメリカ、イギリス、イラクの父母、妻、夫、恋人達の思いはこの思いに尽きるのでしょう。

ああおとうとよ、君を泣く 君死にたまふことなかれ
 末に生まれし君なれば   親のなさけは まさりしも
 親は刃(やいば)をにぎらせて  人を殺せと をしへ(教え)しや
 人を殺して死ねよとて  二十四までを そだてしや

与謝野晶子
この詩は1904年の『明星』の9月号に発表された詩です。
旅順要塞を攻撃中の日本軍の総攻撃は失敗をくりかえし、多くの死傷者を出していました。その突破口を開くために日本軍は決死隊を組織します。弟がその決死隊に志願したらしい、という話を聞いてどうしようもない思いに駆られた晶子は、この詩を書いたようです。


 堺の街の あきびとの  旧家をほこる あるじにて
 親の名を継ぐ君なれば  君死にたまふことなかれ
 旅順の城はほろぶとも  ほろびずとても何事ぞ
 君は知らじな、あきびとの  家のおきてに無かりけり


君死にたまふことなかれ、 すめらみこと(皇尊)は、戦ひに
 おほみづからは出でまさね  かたみに人の血を流し
 獣の道に死ねよとは、 死ぬるを人のほまれとは、
 大みこころの深ければ もとよりいかで思(おぼ)されむ。


 ああおとうとよ、戦ひに 君死にたまふことなかれ
 すぎにし秋を父ぎみに  おくれたまへる母ぎみは、
 なげきの中に いたましく わが子を召され、家を守(も)り
 安しときける大御代も  母のしら髪(が)は まさりぬる。


 暖簾(のれん)のかげに伏して泣く あえかにわかき新妻を
 君わするるや、思へるや 十月(とつき)も添はで わかれたる
 少女(をとめ)ごころを思ひみよ この世ひとりの君ならで
 ああまた誰をたのむべき  君死にたまふことなかれ。

与謝野晶子の歌は一部右翼により嫌がらせを受けましたが、当時の明治政府は一切の干渉はしていません、これも昭和の政治家との大きな違いですね。
 当時、203高地に屍を重ねたのを解っていて志願した若者が多くいました、昭和の戦争と違いは、自国を守らなければならないという思いが強かったのでしょう、これはイラクの人達にも当てはまると思います、米国は日本の戦後復興を誇りに思っているのでしょう、宗教、イデオロギーの違いはこの21世紀になっても未だ解決されませんね、世紀の変わり目から戦争が繰り返し起っているのは人間の性なのでしょうか・・・。


イラスト、倉橋ルリ子さん
万葉集の中で、防人の歌が最も整理されているのが、二十巻です。

道の辺(へ)の、茨(うまら)のうれに、延(は)ほ豆の、
からまる君(きみ)を、はかれか行かむ
・・・丈部鳥(はせつかべのとり)と言う男が防人に行くときに、道端に咲く
「うまら(ノイバラ)」の先に絡(から)みつく豆のように、妻がしがみつき
「行かないで・・・」と願います。
しかし、丈部鳥は悲しみをこらえ防人に向かいます・・・

白波の、寄そる浜辺に、別れなば、
いともすべなみ、八度(やたび)袖(そで)振る
・・・私は防人の任に付かなければならない。
もし白い波が寄せる浜辺で別れてしまったら、悲しくていたたまれない。
だから、あなたに何度も何度も袖を振ります・・・

このように時代、国の違いを超えて、出征する兵士の思い、残された家族の思いは普遍的だと思います。




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2003年03月26日(水) この国のこと

 ブッシュ大統領はイラクの戦後占領政策の参考に日本のことを考えているらしい、イラクのフセイン政権の生みの親はアメリカであり、あの冷戦時代のソ連との軋轢、イランの宗教革命からの影響から守る為とオイル戦略のため主権在民の国にしたかったのだ、しかしアメリカは古代メソポタニアからバビロニアのイスラム勢力下の伝統文化の研究が足りなかったのだと思う。


赤色は勇気を、白色は寛容を、緑色はイスラム教を、黒色はイスラム
教の伝統と栄光を象徴する。星は近隣国との友好を表わし、アラビア
文字の意味はコーランの一節で「アラーの神は偉大なり」。

 イラクの国歌の意味については不明なのだが、国営バクダートラジオからは勇ましい雰囲気の国歌が聞こえる。

♪イラク国歌

 イラクは王国だった、その時国歌があったのか不明だが、前政権を滅ぼしたが故に古代メソポタニア、バビロニアの伝統、イスラム音楽の影響は全くこの国歌からは感じられない、むしろ欧米諸国の真似のような感じがする。

では第二次世界対戦の三国軍事同盟国は戦前から敗戦後へと、どのように変化したのだろうか?

ドイツ国旗

ベートーベンの時代、フランス革命、ナポレオンの影響でこのような国旗の時代もあった。1819年9月20日、連邦は「カールスバートの決議」を採択し、ブルシェンシャフトの弾圧を図る事となった。当然、三色旗も禁止されて行った。
1848年2月22日、フランスで2月革命が起こり、立憲王制に代えて第2共和制が成立した。この年に起こったドイツ革命は、このフランス革命のあおりを食って起こった物だが、フランスのように統一国家の下で起こった革命とは違って非常に複雑な内容を持っていた。





泣く子も黙るナチス鉤十字
♪ドイツ国歌



旋律は、ハイドンの弦楽四重奏曲「皇帝」の第2楽章です。
1796年にオーストリア皇帝フランツ(神聖ローマ帝国最後の皇帝フランツ2世かつオーストリアの初代皇帝フランツ1世)に捧げたもので、オーストリアが共和国になるまで国歌として使われました。
歌詞は、Gott erhalte Franz den Kaiser(神よ、皇帝フランツを守りたまえ)ですので、この曲がドイツ国歌として定着したというのは少々奇妙な感じがしないでもありません。
大戦時の反省から一番は歌われる事が禁止されているので、
国歌斉唱の際には三番の歌詞が歌われるようになっています。
もちろん、サッカーの試合前の国歌演奏の際もです。
二番の歌詞でもいいのではないかという議論もあるようですが。
ドイツのイメージとしては三番の方がしっくりくるのでしょうか。
1
ドイツ、すべてに上回るドイツ
全世界に冠たる国であれ
国家の保護のために力を合わせ
マースからメーメル、エッチュからベルトまで
すべてに冠するドイツであれ
2
ドイツの女性、忠誠、ワイン、詩歌は
その古き良き評判で全世界に維持される
我々の優秀な行いは命の限り我らを陶酔させる
ドイツ人女性、ドイツの信頼、
ドイツワインとドイツの歌よ
3
団結、正義、そして自由を
我らが祖国ドイツのために
その為に我らは心と手を通わせ全力を尽くす
団結、正義、自由は成功の礎
幸運の輝きの中で栄え、祖国の為に栄えよ
2番の歌詞は現代でも革新的な詞に思えますが、きっとイスラエルがゲルマン民族単一優秀性だと言って、アメリカを動かして潰すのでしょう。

♪イタリア国歌

イタリアの国歌は "Fratelli d'Italia" またの名を "Inno di Mameli"
と呼ばれ1847年に作られた。
そして1946年共和国制憲議会において「マメーリの賛歌」
を従来の国王国歌だった「国王行進曲」から国歌として使用することが決まり、
現在までイタリア国歌として演奏されています。
イタリアの兄弟よ、イタリアは目覚めた
スキピオの兜を頭にいただき
勝利の女神は何処にあり?
うるわしき髪を捧げろ我イタリア女神は主の創ったローマの僕。
R 友よいざ隊を組み、死に臨まん
 イタリアに召されこの身をみをささげん
    (R繰り返し)
戦前は王家の紋章があった。




戦後


もし日本の国歌がアメリカの占領政策によりマーチのような西洋音楽に変えられていたら、それこそ国としてのアイデンティテーを失っていたと思う、アメリカでは我々日本人は中国人なのか韓国人なのか判らない、いくらアメリカナイズされても日本人は日本人なのだ。
 自由な国として国歌を歌うことを自己の責任において拒否するのは自由だと思う、ただし国旗を踏みつけたり、国歌斉唱の時騒いだりするのは論外だと思う。
 
 明治維新を経て国歌を制定した人達は国際感覚においては抜群に優れていたという事は作家の司馬遼太郎さんも言っているし僕もそう思う、あの昭和の政治家や陸軍軍人がマンネリ化して国を自国を滅ぼしたのだと思う。
 江戸時代の世界情勢、江戸末期の時代背景をよく考えて、何故明治維新があったのか、あの時代の日本人が丁髷を切ったというのは、凄い国際感覚においての取捨選択だったと思う。
 そのへんの国際的時代背景を考えないと、中国や韓国、北朝鮮のプロパガンダにやられてしまう、真の国際人というのは、堂々とこのことを言える人のことだ。

 Shinchanは韓国の友人P君と付き合い出してから2年ぐらいで、日清、日露戦争、あの203高地の奪回の話をした、閔妃暗殺、安重根(アンジュングン)ハルビン駅頭で、初代朝鮮統監だった伊藤博文を暗殺した韓国の英雄の話、そして彼を山口県の萩の松下村塾に連れていった、彼は深く考えてしばらくして、これからはもっと仲良く何でも言える友達になろうと言ってくれた、嬉しかった。





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2003年03月24日(月) 川は見てるぞ!


燃える大統領府のユーフラテス川左岸
メソポタミアとは、ギリシャ語で「2つの川の間」という意味です。2つの川とは、現在のイラクを流れているティグリス川とユーフラテス川のことを指しています。ユーフラテス川はシリアも通って流れている。

中央を縦に流れるチグリスユーフラテス川(シャトルアラブ川)をさかのぼると、アバダンという都市が白く見える。

 アレキサンダー大王の遠征から米英軍の渡川まで悠久の流れチグリス・ユーフラテス川は幾度の闘い攻防を見てきた。この人間達の愚かさを又歴史に流す。



死んだ兵士の残したものは
こわれた銃とゆがんだ地球
他には何も残せなかった
平和ひとつ残せなかった

死んだかれらの残したものは
生きてるわたし生きてるあなた
他には誰も残っていない
他には誰も残っていない

死んだ歴史の残したものは
輝く今日とまた来る明日
他には何も残っていない
他には何も残っていない

谷川俊太郎・詩/武満徹・曲





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2003年03月22日(土) 卒業式の定番

「君が代」の論議はさて置き、卒業式や入学式、相撲、オリンピック、ワールドカップの表彰式にも演奏されるこの曲、この歌。
まーフランス、イギリス、アメリカ、ポーランド、ロシア等の外国の国歌の歌詞に比べれば、例えば・・・敵の血潮を!とか闘い取るのだ!とか物騒な内容は「君が代」にはなにひとつない。
君が代の歌詞は、古今集巻第七「賀歌」の題知らず、よみ人知らずの三四三番。

「君が代」の歌詞の原型は、十世紀の<古今和歌集 巻第七 賀歌>に「我が君は千代にやちよに さざれ石の巌となりて苔のむすまで」としてみられ、十一世紀の<和漢朗詠集>下巻「祝いの部」には今の「君が代」の形で見られる。近世には、慶祝の歌として、江戸初期の流行歌だった隆達節や琴曲、地歌、長唄などに歌われ、特に薩摩地方では琵琶曲蓬莱山や民俗芸能の歌詞として広く親しまれていた。
 で日清戦争の後、北京での義和団の乱、明治33年(1900〜)義和団に脅威を感じた列強八カ国(イギリス・ロシア・ドイツ・フランス・アメリカ・日本・イタリア・オーストリア)は、連合軍をつくり、義和団を攻撃した。⇒篭城55日に渡った義和団の乱は終結した。

この連合軍が紫禁城近くで国歌吹奏の交換式があった時、慌てたのが日本軍の大山巌司令長官だった、既に軍楽隊はあったのだが、大急ぎで国歌を作ったのだ、当時の祝い目出度歌だった。


その時演奏された楽譜

君が代は。ちよにやちよに。さざれいしの。巌(いはほ)となりて。
こけのむすまで。うごきなく。常盤(ときは)かきはに。かぎりもあらじ。

きみがよは。千尋(ちひろ)の底(そこ)の。さざれいしの。鵜(う)のいる磯(いそ)と。
あらはるるまで。かぎりなき。みよの栄(さか)えを。ほぎたてまつる。

この時の演奏の「君が代」はメロディを借りたのがおそらく「サミュエル・ウェブ一世」の作品であろうと思われる。
 このサミュエル・ウェブ一世は歌曲の作曲家で1760年代にロンドンで流行した「キャッチクラブ」の歌を作曲していた。
 貴族と紳士のための「キャッチクラブ」は世俗的な歌と卑猥な会話を楽しむ男性のためのクラブであったが、その退廃的な言動が非難の的となり、やがて健全な「グリークラブ」という組織に移行した。現在の日本で男性合唱団の代名詞として使われている「グリークラブ」という名称の発祥である。

この時の「君が代」


http://ten.tokyo-shoseki.co.jp/bunko/kimi.ram
宮内庁雅楽部と政府の西洋音楽取得委員会の国歌制定に対する敵対心から生まれた曲で、皆さんはどう思いますか?





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 色々な国に行って国旗や国歌を聞いてその意味を知ったとき、「君が代」は落ちついたのんびりした曲だと思う。




2003年03月21日(金) オーディション

 一昨日、Shinchanの所属する日本音楽集団の入団オーディションがあった。
日本音楽集団/プラハの春公演より








http://www.promusica.or.jp/index.html
受験者は打楽器、三味線、箏(十七弦箏)尺八の四人だった。
そのうち合格者は打楽器と三味線奏者で他は研修生として仮入団するという。
打楽器の受験者は女性で今年東京芸術大学打楽器科(洋楽)を卒業するYさん、課題曲の三木稔作曲「擣」を一緒に演奏した。基本的テクニックや洋楽的音楽性はさすが芸大だなーと思った、今後伝統邦楽を個人的に研鑚して現場で鍛えると言う事で合格となった、よかった。

そして合否の会議だけど、世の中には全く考えの違う人、生き方の違う異種の人間がいる、ようするに将来性のありそうな若者はいまのうち排除するという考えだ、そしてそういう奴(集団の困ったさん)に限って会議では理路整然と発言するのだ、Shinchanが絶対忘れないのは、彼が髄分前に演奏家として否定した人(Shinchanの出た桐朋学園大学音楽家の後輩)は現在、新日本フィルの打楽器奏者になっている。
 世の中にはこういう異種の人間がいて、毒を撒き散らし、若者の将来を殺す奴がいる、そして・・・自分は相手にされなくなっている現実がある。





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2003年03月19日(水) 疑ひの雲なき空や如月の〜

能 東北(とうぼく)
関東から京都へ上った旅僧が東北院の、和泉式部の住居跡を訪れ、折から花盛りの一本の梅の木に感じ入っていると、美しい里女が来て「この梅は今、和泉式部・好文木・鶯宿梅などと呼ばれているが、ここが上東門院の御所の頃、和泉式部が植えた“軒端の梅”だ」と謂われを語る。そして花も昔の主、和泉式部を慕い年々色香も増して咲き続けていると言う。僧が感心すると、自分こそこの梅の主、和泉式部だと花の蔭に消える。
 僧は門前の人から式部の話を聞き、よもすがら読経していると、式部ノ霊が在りし日の美しい上臈姿で現れ、昔、門前に車で通り掛かった御堂関白藤原道長が、車中で法華経を誦しておられた声を聞いて「門のほか法の車の音聞けば、われも火宅を出でにけるかな」と詠んだことが思い出されると言い、その功徳で火宅の苦しみを逃れ、歌舞の菩薩となったと語り、和歌の徳や東北院の霊地を讃え、美しい舞を舞う。


梅が香に おどろかれつつ 春の夜の 闇こそ人は あくがらしけれ

[春の闇夜、梅の香にあの人の衣の香りかと驚いてしまった。春の夜の闇こそ、人の心を魅入らせてしまう。]

この歌は、多くの恋に生きた和泉式部の歌。さすがだ!

正風(しょうふう)の 三尊みたり 梅の宿 (小林一茶)

一茶(当時33歳)は,寛政7年(1795)1月16日松山に来遊、 松山の豪商百済(くだら)魚文(当時51歳)を訪問,その邸内で素堂,芭蕉,其角の 三大宗匠の三幅対の「俳諧三尊画賛」を観て感激し,この句を詠んだ。
 
けしからぬ 桐の落葉や 笙の声 其角 (笙の画)


ちるはなや 鳥も驚く 琴の塵 芭蕉 (琴の画)

 琴の塵:妙音で梁上の塵が舞うという故事にならう。


青海や 太鼓ゆるみて 春の声 素堂 (太鼓の画)




これも筑波大学付属盲学校の吉澤先生に教わった、「ゆき」「残月」などで著名な峰崎勾当の曲、「梅の月」の歌詞。
http://members.jcom.home.ne.jp/wj2m-nrmt/public_html/diary/nikki.html
峰崎勾当(みねざき こうとう)
生没年不詳。豊賀検校に師事。大阪で活動。天明五年(一七八五)に没した師の追善曲として地唄端唄「袖香炉」を作曲。享和元年(一八〇一)「新大成糸のしらべ」の編集に携わった。作品はこのほか、端唄「雪」「こすのと」、手事物「吾妻獅子」「越後獅子」「残月」などがある。


疑ひの雲なき空や如月の
その夕影に折りつる袖も 紅ひ匂ふ梅の花笠
在りとやここに鶯の 鳴く音折り知る羽風に
はらりほろりと降るは 涙か花か
花を散らすは嵐の咎よ いや、あだしのの鐘の声
  
   遠い記憶の中、冷えた手をとって 暖めようとしていた
 ・・・鶯はこんな綺麗な月夜なのに寝てるのかしら・・・
  いや・・・君の移り香に嫉妬してどこかに隠れて見てるんだよ
         風・・・荒荒しいのは・・・嫌い・・・
           桜が散るのはもっと嫌だ
        ・・・そう・・・散ったの・・・
         
           月天がじっと見てるよ
          ・・・いつから・・・
           古(いにしえ)の昔から
      ・・・私・・・胡蝶になるの・・・鐘が鳴ったら・・・
    丑寅勤行の鐘だ そう今日は君の三回忌だものね
                          Shinchanの詞





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2003年03月18日(火) 卒業式

Shinchanは小学4年生の時、音楽の先生が悪い風邪で卒業式にでられなくなり
かわりに「仰げば尊し」の合唱のピアノ伴奏をしました、その噂が隣の中学の
音楽の先生に伝わり、中学生の2年間、ピアノ伴奏をしました。
 最近の子供達はほとんどこの歌を歌わないそうです、日の丸、君が代の否定が仰げば尊しの歌禁止という意見があるのも知っています。
 僕は海外に出て常々思うのですが、歴史的他国から占領された国、地図から消えた国又覇権主義だった国の国旗や国歌の比較研究を教育に携わる先生方、専門家は、一度取り組むべきだと思います。

 最近の卒業式ではスマップの歌や武田徹也の「送る言葉」(なかなか良い)を歌う学校が増えているそうです、オフコースの「さよなら」なども良いですね。
 でも明治時代に作られたこの「仰げば尊し」はどうか歌い伝えて欲しいと思います。

♪仰げば尊し

あおげば とうとし、わが師の恩
教の庭にも、はや 幾年
思えば いと疾し、この年月
今こそ 別れめ、いざさらば

互にむつみし、日ごろの恩
別るる後にも、やよ 忘るな
身をたて 名をあげ、やよ はげめよ
今こそ 別れめ、いざさらば

朝夕 馴にし、まなびの窓
螢のともし火、積む白雪
忘るる 間ぞなき、ゆく年月
今こそ 別れめ、いざさらば

唱歌。1884年(明治17)3月発行の『小学唱歌集第三編』に教育用歌曲の教材として集録。作詞者不詳。「あおげば尊し わが師の恩 教(おしえ)の庭にも はやいくとせ……」という歌詞で、卒業生が恩師に感謝を表す歌として今日でも卒業式で歌われる。作曲者も不詳だが、スコットランド民謡によったものだそうです。
★残念なのは明治期に文部省の国策による作曲、作詞者不肖という事ですね、これがお仕着せの教育に対する現在まで続いている反感に繋がるのでしょう、いったいどなたが詞と曲をつくったのでしょうか?残念でなりません。

ではここで日本の歌曲をその素晴らしく美しい日本語で歌っておられるバリトン歌手「山本健二」の公式サイトをご紹介します。
http://bariken.com/recital.html
Shinchanの細君は文学座にいた役者さんで、山本健二さんの歌を聞いて、かなり日本語の発音を研究された方のようで、カ行やがの発音、お、ぅをなど細かく歌いわけていらっしゃるみたい、と言ってました。





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2003年03月16日(日) 筑波大学付属盲学校の校歌

 筑波大学付属盲学校の校歌が前のページで紹介した「故郷」「春の小川」の作曲で知られている岡野貞一さんであることが解りました。
1.広き世界の海山も、なずれば指に明らけし
  深き心を解く文字も 探れば胸に映り来ぬ
2.懸かる術なき時だにも 教えとなれる数の文
  著し集め今も尚 仰がるる人なからずや
作詞:尾上八郎 作曲:岡野貞一
http://www.enpitu.ne.jp/usr7/bin/day?id=72479&pg=20030312参照
 教諭の吉澤先生はポームページの日記にこのように書かれています。
。 * ゚ ・ 。 * ゚ ・ 。 * ゚ ・ 。 引用開始 。 * ゚ ・ 。 * ゚ ・ 。 * ゚ ・ 。
校歌の内容は、第一歌は点字の本を指で触れば大きな世界が見えてきて心を動かすことが出来る。点字を発案した石川倉次以降多くの点字本が生まれた。
第二歌は塙保己一(盲人の江戸時代の国学者。群書類従を編纂した。)のことを歌っている。
博士の「日本歌謡集成」は箏組歌の修論を書くとき随分お世話になりました。又、東京音楽学校の邦楽調査係嘱託となり、その後教授となられてからずっと邦楽科の設置に尽力されたと聞いています。
。 * ゚ ・ 。 * ゚ ・ 。 * ゚ ・ 。 引用終了 。 * ゚ ・ 。 * ゚ ・ 。 * ゚ ・ 。
教論の吉澤昌江さんのWEB
http://members.jcom.home.ne.jp/wj2m-nrmt/


校内にある日本の点字の普及に貢献した石川先生の銅像
不思議なのは4月11日の最終授業を終えて帰ってる時、地下鉄の中で何の脈絡もなく「故郷」のメロデイーが頭に鳴った事です、そしてその夜えんぴつShinchan日記に「故郷」の作曲家、岡野貞一 作詞者、文学博士 高野辰之のことをUPしました、その岡野貞一が盲学校の校歌を作曲した人だったのです、そして「春の小川」の歌碑はShinchanの事務所のすぐそばにあり何時も見ていたのです。

 以前盲聾のA君の事を書きましたが、卒業式の練習で盲聾の子がこのように歌っていたのです。(吉澤さんからの引用)
。 * ゚ ・ 。 * ゚ ・ 。 * ゚ ・ 。 引用開始 。 * ゚ ・ 。 * ゚ ・ 。 * ゚ ・ 。
歌の練習に入って、「あー、あー」という声が聞こえるので振り返ったら盲聾の小学生の子が先生の手をしっかり握って、先生の手から送られるリズムに合わせた歌詞の指文字を頼りに、大きな声で一生懸命歌っていた。
「あの子のための歌だ。」と思った瞬間、声がつまって歌えなくなってしまった。
江戸時代に点字がなかったように、盲聾教育に対しては現在も「かかる術(すべ)なき時」なのである。
。 * ゚ ・ 。 * ゚ ・ 。 * ゚ ・ 。 引用終了 。 * ゚ ・ 。 * ゚ ・ 。 * ゚ ・ 。
>盲聾教育に対しては現在も「かかる術(すべ)なき時」なのである。
というのは教育制度の問題であり、ヘレンケラーを育てたサリバン先生を養成することが困難なためなのです。
※才能のあるA君は今小学生ですが、中学になると一般の養護学校に入るそうです、一人に光を当てる教育とは・・・綺麗事では達成出来ないですね。
http://www.enpitu.ne.jp/usr7/bin/day?id=72479&pg=20021108盲聾のA君参照






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2003年03月15日(土) 同じ釜の飯を食った仲間

 筑波大学付属盲学校の卒業式がありました、僕にとってはたった一人を送り出しただけですが、クラスの先生や担任の先生にとっては感慨深いものがあったのでしょう、この学校は国立のため地方から来てる生徒のため寮があります、どうも育ち盛りの生徒諸君にとっては食事の時間やその量に不満があるみたいです。     Shinchanがパリで経験したような、宿舎を出たあとバゲット一つと水で1週間もたすような事態でなくて、贅沢な悩みですね。

旧パリ国立音楽院
Shinchanはリヨンの国立音楽院、スイスジュネーブ音楽院で客員講師として呼んでくれている友達は、音楽院時代、腹減った夜中、こっそり宿舎の調理場の倉庫から玉葱、ハム、チーズ,ワインを失敬(時効成立?)して玉葱スープとパンをセ・ボンなんていいながら食べた悪友で、今では教授なんです、ナンパもしたし最古の商売のお姉さんにどっちが先に交渉する?なんて二人でウダウダ言っていたっけ・・・その「同じ釜の飯を食った」という意識は卒業後30年たってもその友情は続いてます。
 もう課題が沢山あって時間がないないなんて言いながら、夜中中話し込む、そしたら腹が減る、しかたないから(鼠より先に)倉庫から食料を調達する、
ばれない様に出来るだけ少量に押さえる・・・
�―票砲琶△�減る→�∩匕砲�ら失敬する→��ばれて注意される(今度やったら放校だと脅かされる)→�そ�学生は沢山食料を貯蔵している→�テ雲海垢襤�やがてパパママになるか悲しい別れをする。
この腹減る五段活用が将来の友情、愛情を育む重要な要素になるのだ。

永井荷風翁は」(「ふらんす物語」 明治四一年八月の著書で
汽車は巴里サンラザール駅に着いた。この界隈はスリが多いと聞いてそのつもりで出たが紐育の中央停車場とはまるで異なる。人間が皆ゆっくりしている。米国で見る鋭い眼は一つもない。旅の赤ゲットを突き飛ばす無慈悲な男もいない。ローム通りの角に廉価の宿があった。いかにも巴里の町の女房といった内儀に出迎えられ、三階の一室に入った。自分は巴里には二日しかいられない。銀行に雇われた自分はリヨンへ行けねばならなかった。再遊の機会はあろうが、今のうちに見られるだけは見ておきたい。

 永井先生が訪れた100年前と変わらない雰囲気がいいですね、同じ釜の飯を食ったローム通り界隈、青春の尻尾を置き忘れた町です。





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2003年03月14日(金) Shinchanの事務所のそばにある歌碑

 Shinchanの事務所クオレディベロップメントは渋谷区の代々木八幡の近くで小田急線のそばです、そしてすぐ近くにこのような歌碑があります。


春(はる)の小川(おがわ)は さらさらいくよ
岸(きし)のすみれや れんげの花(はな)に
すがたやさしく 色(いろ)うつくしく
咲(さ)いているねと ささやきながら
 
2 春の小川は さらさらいくよ
えびやめだかや 小ぶなの群(む)れに
きょうも一日(いちにち) ひなたでおよぎ
遊(あそ)べ遊べと ささやきながら
 
3 春の小川は さらさらいくよ
歌(うた)のじょうずよ いとしき子(こ)ども
声(こえ)をそろえて 小川の歌を
歌え歌えと ささやきながら
作詞者 林 柳波   作曲者 岡野貞一 (文部省唱歌)
「春の小川」を作詞した「高野辰之」は明治9年(1876)に長野県で生まれ、
明治42年(1909年)から、この地代々木に住んでいました。
当時はまだ、小田急線も開通しておりません。
http://www.enpitu.ne.jp/usr7/72479/diary.html参照

♪春の小川






原歌詞   高野辰之
 1 はるの小川は さらさら流(なが)る
岸のすみれや れんげの花に
においめでたく 色うつくしく
咲けよ咲けよと ささやくごとく
 
2 春の小川は さらさら流る
えびやめだかや 小ぶなの群れに
きょうも一日(いちにち) ひなたに出(い)でて
遊べ遊べと ささやくごとく
 
3 春の小川は さらさら流る
歌の上手(じょうず)よ いとしき子ども
声をそろえて 小川の歌を
うたえうたえと ささやくごとく
代々木5丁目バス停と、踏切りの間に細い道がある。この道が、川の跡。
 悲しい現実ですが、ふと目を閉じるとそれぞれの春の小川があるのではないでしょうか、え!今の子供達はこの歌を知らない!




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2003年03月12日(水) 「打楽者日記」故郷(ふるさと)

今日、地下鉄に乗っていて突然何の脈絡もなく「故郷」のメロディーと詞が頭に浮かんだ、僕の故郷は神戸なので都会だった、田畑の思いでは幼稚園の時ぐらいで後は外国から東京に住んでいるので、何故又このような歌を思い出したのか解らない、でも小学校の時歌ったから覚えていたんだろう。
 勿論、兎が美味しいという意味だと思っていた。

兎(うさぎ)追いし かの山
小鮒(こぶな)釣りし かの川
夢は今も めぐりて、
忘れがたき 故郷(ふるさと)

如何(いか)に在(い)ます 父母
恙(つつが)なしや 友がき
雨に風に つけても
思い出(い)ずる 故郷

志(こころざし)を はたして
いつの日にか 帰らん
山は青き 故郷
水は清き 故郷


イメージ画像(このような風景も知らない)
大正3年(1914年)
高野辰之作詞・岡野貞一作曲/文部省唱歌

故郷
をクリック!
ここでは掲載できませんが、これを歌で聞くと、何故か涙がこぼれます、父母も元気でしょっちゅう故郷に帰っているのに何故でしょう。

作詞者、文学博士 高野辰之
明治九年(1876年)長野県北部の豊田村の農家にうまれた高野辰之は、幼少時代を豊かな自然の中で育ちながら学問の道を志し、苦学の中からわが国近代の国文学に大きな功績を残した人物です。
 辰之は国文学における偉大な教育者でありながら、「故郷」「紅葉」「朧月夜」などの日本のこころのふるさとを歌う文部省唱歌の作詞者としても名を残しました。

作曲家、岡野 貞一
明治十一年、鳥取市古市に生まれる。吉方小学校(現修立小学校)を経て、二十四年因幡高等小学校(現久松小字校)を卒業する。
 明治二十六年、キリスト教系の薇陽学院に入学し、米人宣教師アダムズに楽才を認められ、音楽への道を志す。
 明治二十九年、東京音楽学校(現東京芸術大学)に入学、三十三年に卒業し同校の研究科生となる。その後助教授を経て、大正十二年に教授に昇任し、昭和七年に退官する。
 この間、文部省唱歌の編集、作曲委員として多くの唱歌を作曲する。
 音楽教育の発展に大きく貢献する一方、熱心なクリスチャンであり、四十年間、本郷中央教会で毎日曜日には礼拝のオルガンを弾き、聖歌隊を指導するなど信心深く、誠実な人格者であった。
 昭和十六年に没する。主な作品
ふるさと 春が来た 春の小川 おぼろ月夜 もみじ
日の丸の旗 桃太郎 夜の梅 三才女 七つの卵 紫煙る
夕やけ お日さまが見つけたもの 行く春 銀杏散る
雲の秋 雪の上の鴉 




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2003年03月11日(火) 「太鼓叩きを叩け!」フランキー堺さんの思い出

 先日やった筑波大学盲学校の卒業演奏会に来ていただいた、はつみさんよりこのような書きこみをいただきました。
「音楽的なことは音痴なので解りませんが・・・
吉澤さん(盲学校の先生)にもお話したのですが、何かエネルギーの波が押し寄せてきた。そんな感じでした。」ありがとうございます、やはり誉められると嬉しいです・・・木にも登るか?
 打楽器は世界最古で一番単純な造りをしています、その辺の廃物やガラクタを並べてもハートのある打楽器奏者はすぐ音楽にしてしまいます、Shinchanがニューヨークに行った時、かなり危険な地域だったのですが、ご機嫌なリズムが聞こえてきて知らないうちに、そこに引き寄せられて行ってしまいました。
 
黒人の子供達がリーダーだろう青年の叩くカンカンに合わせ、ドラム缶や木で出来た箱を叩いてサルサを演奏してました、それは今まで聞いたどのレコードのキューバ音楽よりもご機嫌でした、本当に一つとして本物の楽器は使っていませんでした。

今から随分前の事ですが、某TV曲の新春隠し芸大会の収録の為に11月(実際はこの時期に明けまして〜なんてやっている)だったか打ち合わせで僕は〜トリオの某君に和太鼓を教え、フラさん(フランキー堺)が某マッチにドラムを教えてセッションするという企画でしたもう一人の某はギターだったかな?
 そして何回か目にフラさんが怒ってたのです「君ね、ドラムとか太鼓はパッションがいるのだよ、元はアフリカから連れてこられた奴隷達がガラクタ集めて唄って叩いたんだよ、ハートが大事なんだ!格好じゃない!」
 そしてみずからご機嫌なJazzビートを叩きだして「君は他のメンバーの音を全然聞いていない、ドラマーはニコっと笑ってどんな事があっても底辺から上の音を支えるのだよ、わかる?」
「そして仲間が喜んでくれて、お客さんが喜んでくれて初めて自分も嬉しくなるのだよ」その時のマッチ君の目は・・・ッセーナ―・・・という目付きでした。
 僕は心の中で・・・はい解りました、胆に命じて決して忘れません・・・ありがとうございました・・・と言いました。 
 
 その後某マッチ君はF1レーサーに弟子入りして顔を打たれながら成長したそうです、だから太鼓叩きを叩かなくてはいけないのです、でも打楽器奏者は自分に厳しく他人には優しい人が多いので、弟子や仲間に手を上げることはありません。
フラさんあなたは素晴らしいアーティストであり俳優でした
あの映画「写楽」「私は貝になりたい」は名作です。そしてフランキー堺とシティ・スリッカーズ、後にハナ肇とクレージー・キャッツを結成することになる、植木等、谷啓、桜井センリらがこのバンドにいたのですね。あなたは名ドラマーであると共に、人を喜ばせる名人でしたね・・・今でも声が聞こえます(合掌)





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2003年03月10日(月) 打楽者日記「太鼓叩きを叩け!」

 来月のバレー団のための仮題「日本の音源風景」で作曲をしていて無性に田さんに会いたくなった。
田さんは和太鼓演奏グループ「鬼太鼓座(おんでこざ)」創設者で代表の田耕(でん・たがやす)さん(69)=本名田尻耕三さん。2001年4月11日交通事故によりお亡くなりになりました。(合掌)
僕の田さんとの出会いは指導していた先輩にくっ付いて佐渡まで行った時です、Shinchan二十才代の時です「おーなかなかスバシッコイ体型してるね」なんて言われました、あの頃は空手をやったりしていて一応逆三角形でした(ウッソー?)鬼太鼓の人達は一に走り二に走るそして太鼓を打つという修行をしていました、林英哲さんもいましたよ。
 「先生、何故走るのですか?」という僕の質問に「まだまだ芸がないから、今は走って練習するしかないんだよ」とおっしゃいました。
 僕の小鼓のお師匠さんは「芸のためなら〜も泣かす」という指導を身をもってやっいた方なので、田さんの言葉には驚きました。たしかに鬼太鼓座にある四尺の大太鼓を打つには、頑丈な足腰と長距離ランナーのような心臓が求められます。
打楽器を演奏するには力を抜くとずーと教わってきたので田さんが実行されている事に驚くと共に反発もしました。
 そして鬼太鼓と鼓童に分裂して田さんは佐渡から出ていきました。その後ヨーロッパで鼓童のメンバーと会ったり、太鼓の本を書いたり、京都のプロの太鼓グループ「祭衆」の音楽監督をしたり、和太鼓の世界との接点が増えました。
僕の書いた「現代和太鼓入門」
 
 その後何度がお会いしましたが、鬼太鼓座の中国遠征公演の前(五反田ユーポート)のコンサートの時、終わって田さんとお話した時「君頑張ってるね、今度内の若いもんを揉んでくれよ」と言われました、その時も[何故走るか?]という事を聞きたかったのですが、お客さんが多くて、話せませんでした。それが残念ながら・・・最後でした。
 今、僕の頭の中には四尺の大太鼓があり、能や歌舞伎囃子ではなく、大昔の猿楽のようであり、民謡の馬子唄の尺八、笛、すり鉦で表現したい・・・遠い子供の頃聞いた盆踊りの太鼓、笛、お神楽、チンドン屋、お祭りの屋台・・・これってあの五反田ユーポートで鬼太鼓座がやったことなのにと今気がつきました。





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2003年03月08日(土) 筑波大学付属盲学校卒業演奏会

昨日はShinchanの教えている筑波大学付属盲学校の音楽科と普通科の生徒の卒業演奏会がありました。
 昨年の定期演奏会でお披露目したShinchan作曲の「東の海の風」に和太鼓、締太鼓、小鼓を入れて演奏しました。

 音楽科の学生はクラッシックのピアノ=ショパンエチュード「黒鍵」モーツァルト作曲二つのヴァイオリンソナタ、楽しめる曲として、リチャード・クレーダーマンの曲、ピアニカの二重奏、そして普通科の学生の「月光」ソナタ、最後にShinchanの「東の海の風」に僕一緒に演奏しました。

普通科のK君
彼は普通科の学生で見てのとおり良いガ体をしていて、この1年根気のいる基本的な事を教えました、プロの太鼓グループのオーディションに推薦するよと言ったのですが、キッパリ、僕は福祉関係の勉強をしたいのですと言って、見事上智大学に受かりました。

卒業して家業を継ぐK君(コンガを演奏) 
残念ながら音大受験におっこったTちゃん(ガムランのゴングを叩いている女の子)
ショパンの「黒鍵」を弾いたH君(高1、G君と向かい合って大きいガムランを演奏)
リチャード・クレーダーマンの曲を弾いたUちゃん(高1、鳥笛とマラカスを演奏)
ピアニカを吹いたG君(ピアノ科で専攻科に進学する、H君の対面で大きいガムランを演奏)
ヴァイオリンを弾いたN君(弦楽器科で専攻科に進学する、小さいガムランとカバサを演奏)
リーダー格のM君(声楽専攻科ボンゴを演奏)
今日は出席できなかった声楽専攻のYさん、彼女はこの後イタリア留学のため旅立ちます。







 昨年の定期演奏会の時は音楽科の学生のみでしたのでK君の和太鼓を新たに入れる構成のためShinchanは小鼓と締太鼓も演奏しました。

 彼等のご両親の気持ちになってみると、ハンディーを持って生まれた子供を遠い東京にやるのはさぞかし不安で心配だったろうなーと思います、それをハッシと受け止めて日夜奔走しておられる教諭の先生方には頭が下がります。
 この学校からプロの音楽家として第一線で活躍されている先輩達もいます、音楽の道は現在ハンディーのある人達を大目に見ることはありません。普通でさえひと一倍努力してもなかなか世に認められません、しかし音楽とは偉大なもので、時間をかけて追求する人には必ず音楽の女神が微笑みます、それはプロもアマも関係ありません。 

 学生諸君の言うには筑波大学付属盲学校の入試は大変難しいそうです、その関門を突破してきたのだから、負けてはいけない!
 これからも艱難疾駆の道が待ちうけていると思います、人生で何か悩みや困難にぶち当った時には”同じ釜の飯を食った”仲間に気楽に相談出来る環境を是非造っていって欲しいと念願します。




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2003年03月07日(金) 素晴らしい!

 昨日は太鼓の稽古日だった、江古田にあるスタジオに生徒より早く着いたのでオーナーの加藤さんと色々話しをしてました、そしたら素適なヴァイオリンの演奏が聞こえるのです、地下のスタジオから音が漏れるはずはなく、加藤さんとの話は適当に聞いていて、そのヴァイオリンの演奏にえも言われぬ感動をしてたのです。
 今まで聞いたことのあるJ.S.バッハの無伴奏ヴァイオリンパルティータ第2番とはまったく違う暖かい音色と優しい演奏だったのです。
 「いい音だなー」と一人呟いたら「それはここ(スタジオ)に時々練習に来る桐山健志君だよ、彼のCDをかけてるんだ、気が休まるからね・・・。
CD「Chaconne」桐山健志


伝 T.A.ヴィターリ:シャコンヌ ト短調
attr. Tommaso Antonio Vitali:Chaconne in g

J.J.ヴァルター:"カプリッチョ" ハ長調 「ケリュスの園」より
Johann Jacob Walther:Capricci (HORTULUS CHELICUS)

J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリンパルティータ ニ短調 BWV1004
Johann Sebastian Bach:Partita fuer Violine d-moll BWV1004
1.Allemanda
2.Corrente
3.Sarabanda
4.Giga
5.Ciaccona

J.H.シュメルツァー:ソナタ第4番 ニ長調
Johann Heinrich Schmelzer:Sonata quarta in D

以上が収録されてます、しかもパロックヴァイオリン、さっきからノンストップで繰り返し聞いてます、頬を涙が伝う・・・





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 これは筑波大学付属盲学校の生徒さん達にも是非聞かせてあげよう。
桐山健志さんのURL
http://www.02.246.ne.jp/~uzura/index.htm



2003年03月06日(木) 創作バレー組曲「日本の音源風景」

昨日スタジオ・ベラームというバレースタジオにいって来ました、作品を作るために振付士の多胡寿伯子さんとバレーリーナさん達の踊りと音楽のイメージ合わせのためです。
多胡 寿伯子さん
多胡さんとの出会いは約22年も前です、今合唱界で著名なブルーアイランドこと青島広志さんの編曲ピアノ演奏と僕の打楽器に室内楽でミュージカル「サウンドオブミュージック」をやった時、バレー及びダンスの振付士として颯爽と現れた時です・・・す、凄い綺麗な人!と吃驚しました。
 そのご縁でたしか五作品ぐらい創作バレーの曲を作曲させていただきました。その後僕が長期にわたって海外に行ったためと多胡さんが大変重い病に倒れられた事もあって、お会い出来ませんでした、それが昨年突然電話があり、2003年度の創作作品発表の作曲演奏のお仕事を頼まれました。

※多胡さんは重い病で入院されている時、ふとトンネルのような所を通って、川の前に立ったそうです。誰かの声が「戻りなさい」と言ったそうです、そして今ではお元気にバレーの振付をされています。
この川の情景はShinchanの子供の時の体験と同じです。


「The Scarlet Letter A〜緋文字」で文化庁芸術祭優秀賞を受賞

僕は雅楽とロックそして能楽とセミクラッシックの曲を作曲しています、台本なんてないので多胡さんの持ってるイメージをその場で音にしています、最終的にどのような音楽になるか未だ解りませんが、簡単に言うと、今風?の音と日本の古典音楽がコラボレーションします、雅楽の古城大納言君にも作曲してもらっています、皆様お楽しみに!

総合舞台芸術スタジオ・べラーム
http://www3.ocn.ne.jp/~belleame/create.html"target
2003年4月13日(日)
午後2:30開場
午後3:00開演
全席指定
A席(一階) 3,000円
B席(ニ階) 2,000円
お申し込み
03-3309-5002 スタジオ・べラーム





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2003年03月05日(水) 筑波大学付属盲学校の生徒達(普通の日記)

 昨日、筑波大学盲学校の音楽科のアンサンブルの授業を終えて、皆で卒業生を送る会をフランス料理レストランで行いました。
 今まで校舎の中でしか彼等と接した事がなかったのですが、今日、初めて引率として街に繰り出しました。
 レッスン中でも「こうだよ」なんて打楽器を演奏して見せるのですが、彼、彼女達には見えてないのですね。僕はすぐそういう事を忘れてしまうのです。でも生徒さんはそういう先生が良い・・なんて言ってくれるのです。
 今日初めて引率して、都心は本当に不親切な所だというのが実感しました。大急ぎで小走りに歩く人が盲目の生徒にぶつかりました、その人は・・・このやろう・・・という目をしていました。一瞬極真空手魂が過ぎったのですが、ここは引率者・・・我慢、我慢。
 
 この3月でイタリアに留学する生徒、音楽大学の受験におっこった生徒、家業を継ぐ生徒、高校から専攻科へ上がる生徒・・・人数が少ないので、思い入れが強くなります。
 その中で上智大学に受かったK君は普通科の生徒です、クラブで和太鼓を叩いてました。まーが体がいいせいもあって、食べる食べる、ほとんどの時間食べてた。

 今回の卒業演奏会ではガムランの楽器、アフリカンパーカッションとK君の和太鼓、そして僕の小鼓と締太鼓が入ります「東の海の風」という曲で、昨年の定期演奏会でお披露目をしました。
 今回の卒演では音楽科の生徒に普通科のK君が入るので、新たに和太鼓が入るように再構成しました、やっているうちに小鼓と締太鼓も入れたくなって、僕も彼等と一緒に演奏します。

筑波大学付属盲学校
http://www.nsfb.tsukuba.ac.jp/index_def.html
校内にある日本の点字の普及に貢献した石川先生の銅像










僕をこの学校に引っ張り入れてくれた教論の吉澤昌江さんのWEB
http://members.jcom.home.ne.jp/wj2m-nrmt/





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2003年03月04日(火) 想像を絶する演奏構築と準備

クリスティアン・ツィマーマン(ピアノ&指揮)ポーランド祝祭管弦楽団
 
たかがCD、ショパンン二十歳の作曲、オーケストレーションが幼稚で単純・・・全て覆された・・・これは正に本物、本当にショック・・・。



。 * ゚ ・ 。 * ゚ ・ 。 * ゚ ・ 。 引用開始 。 * ゚ ・ 。 * ゚ ・ 。 * ゚ ・ 。
これはおどろくべき名演奏だ。今までに聴いたいかなる名ピアニスト、ロンもフランソワも最新盤のアルゲリッチさえ、このツィマーマン盤に比べれば太陽の前の星のように光を失うであろう。何よりすばらしいのはオーケストラ・パートである。
ツィマーマンは自ら指揮を兼ねるため、新しいオケを組織、普通のコンチェルト演奏では考えられない長時間のリハーサルを敢行、すみずみまで自分の意志を通した。甘美なポルタメントや表情たっぷりなルバートの多用はメンゲルベルクも顔負けの濃厚さだが、しかも新鮮さを失わず、楽器の変更から新たに八小節にもおよぶ楽節を挿入するなど、大げさにいえば歴史上の大事件といえよう。もちろんソロも最高! 過去のどの演奏よりも見事なテクニックと鮮やかな音色を持ち、強弱の対比、ニュアンスの無限の変化、悲しみと切なさと艶やかさとしゃれっ気の入り混じった雄弁さが比較を絶する。 [宇野功芳]
。 * ゚ ・ 。 * ゚ ・ 。 * ゚ ・ 。 引用終了 。 * ゚ ・ 。 * ゚ ・ 。 * ゚ ・ 。

 このオーケストラの練習はギネスブックものだ!
・・・最初のリハーサルはな・なんと朝の8時から明け方の5時まで21時間続けたのです・・・とツィマーマンはインタビューで言ってます。





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 なお1965年には中村紘子さんが4位に入っている。1970年は内田光子さんが2位ですね。

ツィマーマンはデビューしてから何年か後に1年以上にわたる休息をとり、ロンドンに住んでピアノ調律・調整および製造技術について学び、音楽のみでなくすべての面からピアノを理解しようとつとめました。実はこの「すべての面から」というのがどうも彼の基本的な考え方のようで、録音についても機材やホールの音響について徹底的に調べ、自分の納得のいく場所や方法であることを常に心がけていたようです。したがってそれが満足できなかったとき、彼は妥協せずエンジニアやプロデューサーと話し合い、それでもだめなときは録音のキャンセルまでしたことがあったようです。
 
 これにいてのエピソードがあります。映像の作品を収録しようとしたときです。場所はウィーンのムジークフェラインザールで曲がなんであったかは忘れましたが、ともかくリサイタル・プログラム。収録の前日彼はホールでリハーサルを行い、響きをチェック、ピアノをあちこち動かし、音響的にもっとも曲にあう場所を探しました。もっともその場所はかなりセンターからはずれた場所ではあったそうです。
 さて翌日にホールにきてみると、なんとピアノはステージのセンターに引き出され、おまけにその周りには花まで飾られていました。びっくりしたピアノを元に戻すように要求しましたが、映像プロデューサーはそれでは絵にならないと拒否、これに対して彼はこの場所の音響では弾けないと演奏拒否、ついに収録キャンセルになってしまいました。

 これは日本の音楽界ではクラッシック、邦楽界とも絶対に不可能な事ですね、彼は演奏する国にピアノを運び、そのホール空間に出来るだけ綺麗に共鳴するように自ら調律するそうです。んー、見習えと言われてもなー、いや自らを律するしかないか・・・。

1999年のショパンコンチェルト第一番二番をひっさげての世界ツアーの後援にはフランス大統領ジャック・シラク ポーランド大統領、ベルギーの国王と王妃、ドイツの元大統領ヴァイツゼッカー氏なども含まれている、ヨーロッパの芸術に対する懐深い事、尊敬に値しますね、聞いてる?ブッシュさん・・・。








2003年03月03日(月) 我輩は鼓太郎である。

拝啓
 我が主人Shinchanが「チャレンジ」コーナーから「旅/浮浪」に引越しを完了した故、ご挨拶がたら参上いたしました。
我輩は鼓太郎である、身も名前もある猫であって苦沙弥先生の書かれた名前のない猫よりかは幸せ猫であると思う。
 我輩は苦沙弥先生(近々千円札から自分の顔が消えるとのことで、大変機嫌が悪い)と水島寒月君、正岡子規先生とも時空を超えて通じ合っているの故に蔑叙することなかれ。
 つらつら新痴庵日乗なるものを掲載するが我が主人Shinchanの文章を見るにつけ、情けなくなるのである、仏蘭西、独逸、波蘭(ポーランド)に徘徊したおりの事をさもカミューの「異邦人」が如く書いておるが、そのボキャブラリーの乏しさに呆れるのである。





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ここで少々我輩のプロフィールとやらを紹介いたそう、我輩の遠い先祖は英国の倫敦に生息していたと聞く、生まれは仙台故に自他とも認める伊達猫チンチラペルシャである。
 我輩の父母もそっくりの顔をしておる、我が兄弟姉妹六匹はやがて仙台や東京に貰われて行ったのである。
 我が主人、新幹線なるものに筺入りの我輩を乗せ、大人しく東京にきてやったのである、その所以はShinchanの所属するクオレという事務所の社長の斡旋であった

従姉妹には女優の高瀬春奈さん宅で生きている、又我輩幼少の頃は社長宅にて叔母のポン子、祖母のトミー婆さんと少しだけ暮らした。

Shinchanの所属する株式会社 クオレ・ディヴェロップメント
http://www.cuore-dv.com/index.html

最近事務所には犬と猫が暮らしておる、右上の西洋の青年と一緒にいる犬は健太という名前で、あの水掛?国会議員の松浪健四郎氏よりもらったワン公である故に"健太"という名前がついたそうな。
 左の松本画伯は我輩の良き相談相手であり、我輩を美しく描いてくれる、少し強面であるが良き人である。皆Shinchanの所属する事務所のタレントでもある。
 我輩の名は主人が小鼓(コヅツミではないぞ)奏者なので鼓太郎という名前がついた、しかしながら小鼓はポンと音がする故に"ポン助"などと呼ばれ甚だ不愉快なのである。
 今後えんぴつShinchan日記の内容にあきれ果てた時に登場すると思われるので、以後宜しくお願い申す次第である。
                                  敬具



2003年03月02日(日) 星のシンフォニー

八ヶ岳で夜中ずーと星を眺めていると、ふと違う次元に亡くなった祖父母や友がすぐ身近にいるのではないかという想いに囚われる。
 現代科学が解明している宇宙観と古代エジプト、中国、インド、マヤ、オーストラリアのアボリジ−の伝承と酷似している、宇宙空間に散らばる物質は条件さえそろえば生命を誕生させる場としての、ある意味での"愛""慈悲"に満ち溢れているような気がする。
 僕が子供の時、伊勢湾台風による増水で溺れた時、確かに「はやく戻りなさい」という(実際は鹿児島弁だった)声を大きな川を船で渡ってきた立派な老人と西郷隆盛のような人から言われた。
 その頃の僕は自閉症で言葉が単語を繋ぐぐらいしか出来なかったのに、今でもその記憶は見てきたかのように鮮明に残っている。





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 現代の宇宙物理学と量子力学に生命の因果論が加わってくると、面白いのではないかと常日頃から思うのだけれども、生命の終焉後の事はミミズの事でさえ解っていない。

星のゆりかご(星生成領域「S106」(はくちょう座の方向約2000光年)
何億年もかかってこの地球に届く光、超新星爆発による星の死は必ず新たな星を誕生させている、しかし、このような天体の誕生のしかたは、依然として謎のままという。
 そして僕の記憶は卵型の乗り物に向かって、子供(赤ちゃん?)が並び、何か画像のようなものを見て母親を選んでいたのだ、それを案内していたのは古代ギリシャの白い服を来たお姉さんだった。そしてその卵型の乗り物は眩い光の中に物凄いスピードで飛んでいった、そして暗闇に突入する刹那きらめく星星を見ていたのだ。
 これは僕が言葉を覚えて色々勉強したり経験したり見聞きしたものに、良く似た物事があったので、今こうして説明している。
 でも5歳の時はその記憶を絵に描いたり、ピアノをめちゃくちゃ叩いて音を出して表現していたように思えるのだ。

 死は休息のようなものであって、けして恐れることではないと感じている。今世界で起ろうとしている戦争や起っている殺人は、この大宇宙のリズムからは狂っているように思われる、しかしその当事者は人の為であり正義であり愛の行為であると信じて疑わない。
 僕が三途の川に立っていたとき、確かにうな垂れて寂しくノロノロと歩いている集団を見た、暗い世界にその足取りは重く、顔の表情までは覚えてないが、皆同じような顔をしていた感じがする、その時・・・あそこには絶対行きたくないと思った・・・
 ということはその人達の眷属(グループ)は宇宙に存在するブラックホールのようなものなのか?解らないが、直感的にそう思う、とにかく暗くて寂しい世界なのだ、うまく説明できないのけれども、そういう暗黒の世界に所属している人達もいるような気がする。宇宙にもそういった場が存在している。

 川のほとりでその老人達に今度は別の惑星で音楽するのだという事を言ったような気もする、その時はるか向こうのお城から、壮大で説明できない綺麗な音楽が聞こえていた、それは宇宙のシンフォニーとも言えるような音楽だったのか・・・



2003年03月01日(土) 雨だれの窓に映った哀しい涙


僕のアパートは地下鉄のローム(ローマ)駅で降りて2,3分でつく5階だ、ソーニャはパリ国立音楽院の伴奏法という講義とレッスンを受ける為、毎日ピアノを練習していた、初めての巴里だというのに、あまり観光をしようとしない。
「ねー美術館に行かないの?せっかく巴里にいるんだから・・・」
「・・・・」
 ソーニャは日に日に無口になっていく、僕は無神経にもカナダの彼女の物を隠したりしまったりはしなかった、ソーニャには、経済的に半々の契約をしている友達と住んでいるんだ、恋人ではないし、将来の事も話もしていない、ディプロ−ムを取得したら、かってに国に帰ると約束しているという、少し嘘の入った話をした。
ソーニャはただパリオペラ座バレー団の練習を見たいと言った、コンサートガイドに問い合わせたところ、ガルニエでリハーサルがある事が解り、彼女は一人出かけた。

 雨がしとしと降りはじめて町並みが灰色に沈む、その夜ソーニャは帰ってこなかった・・・僕は夜の雨の中オペラ座界隈をソーニャを探してさ迷った。

雨だれ
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 朝になっても雨はやまず、うな垂れて部屋に戻った、寒い、熱が出てきたようだ、昼すぎ、未だ雨がふっている、アパートの管理人から電話があると知らされた、熱のある体でふらふら降りていった、ソーニャはオペラ座バレー団に母親の弟子がいてそこに泊まるという、ピアノはバレーの稽古場で練習するので「あなたにはこれ以上迷惑をかけられないの・・・色々ありがとう」
「待てよ、ミスナカムラにレッスン受けたいのだろう?どうするの?」
「手紙かくから、その時はお願いします、お達者で・・・」

 その時はどんなにソーニャが苦しんでいたか解らなかった、ポーランドの森の妖精はやがて静かな森へと帰っていった。
 ソーニャとの短い旅はFinとなった。

 雨だれの窓に写る僕の虚ろな顔、水の流れと僕の涙が、ショパンの「雨だれ」と融合して、哀しみを・・・流してはくれなかった。
・・・ごめんねソーニャ・・・



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