Seakの日記
日々感じたことを書き留めていこうと思っています。

2003年09月30日(火) 突如訪れる幸運

今日は朝から絶好調!もう<strong>タグなんて使っちゃうよ♪なぜかって?ふっふっふ、なぜだと思う?(爆)

朝方、教授に2ページの資料を出したんだけど、昨日、1ページ目を作って、今日2ページ目を作った。1ページ目の所要時間はなんだかんだで約6時間。2ページ目は20分。いやはや、脳みそがトップスピードで駆け回ってるね♪しかも、6時間の1ページ目より20分の2ページ目の方が出来がいい気がするぞ♪まあ、60点取れるかどうか怪しい試験があったときにもこんなことがあって、そしたら95点取れたけどね♪脳機能が320%(当社比)アップなのさ。もちろん数字は適当さ。理系にあるまじき行為だね♪

世の中、そう悪いことばかりじゃないってね。早起きすれば三文の得とかあるわけよ。えっ?昨日までと文章が違う?安心したまえ、昨日の日記はこれから書く予定だ。いや、もう何?ハイテンションってやつですか?やっぱねー、たまにはそういう気分にならないとね〜。昨日は結構暗い気分だったから昨日の日記はくら〜い日記になる予定だけど、こんな気分で書けるのかいな?はっは、無理かもね。

実は今、10時半に教授のところへ行ってきて、3時までに資料を作って持ってこいって言われてるんだけどね。こーんな無茶を言われても気分はハッピーなのさ♪でも、教授のところで30分くらい話をしてて、たった4時間でどんな資料を作れと?もう適当にやっちゃうもんね。鉛筆書きでいいって?そりゃそうだ。パソコンなんかで清書してたら、清書だけで4時間かかっちまうよ。なんでそんなせっぱ詰まってるのに日記なんて書いてるのかね。ま、いいだろ。

次にこんなことがあるのはいつのことかな。それを考えると少しだけ気が重くなるな。1年前は当然のことだったのに、今はそれがこれほどまでに嬉しいなんて。いや、毎日当然ではないからこそ、嬉しいのかもしれない。

思い返せば不安が募る。僕は今日、教授に会わなければならないから急いでいた。さっき見かけたが、僕は何もできなかった。すれ違いか、勘違いか。かいま見た、らしくない弱い姿。しかし、それが本来の姿なのかもしれない。

今はもう、顧みることすら少なくなった遠き日の思い出。今はまだ、それが僕に力を与えてくれる。人それぞれに苦しみはあるだろう。しかし、人それぞれにその苦しみを乗り越えるすべもまた、きっとあるのだ。それを失う苦しみは、今はまだ、僕には理解できない。



2003年09月29日(月) Opera 7.20

月曜日ではなかったかもしれないが、Opera 7.20を導入した。管理者権限のないPCでもインストールできるらしい。

一般的な評価はよく分からない。ここでは、僕の個人的な感想を書いてみようと思う。

このコンピュータは、研究室のルータからプロキシサーバを介してインターネットに接続している。したがって、プロキシサーバが混みあうと通信速度が落ちるようだ。

しかし、ブラウザをOpera 7.20に変更してから、この混み方を感じることが少なくなった。インターネットエクスプローラでは重いと感じるので、混みあっていることはおそらく間違いない。つまり、そのような状況においてスムーズに動作するようになったということのようだ。この大学の環境は基本的にレスポンスが極端に悪いので、これは歓迎すべきことだと思う。ちなみに、レスポンスとは応答の速さのことだ。うちの大学の場合、この応答が1分以上返ってこないことも珍しくないのだ。しかも、それで接続に失敗しているわけではない。

もともとこの研究室のPCはかなり新しいので、ネットワーク以外にボトルネックはありえない。よほどひどいPCを使っていない限り、インターネットが遅いのは通信回線のせいだ。もちろん、5年前のPCを使ってFTTHなんてやったら光ファイバー回線の速さを十分に感じることはできないかもしれないが。しかしそれでも、それなりの速さを感じることができるのではないだろうか。光ファイバーの魅力はただ通信が速いだけではない。通信が安定しているというのもまた、魅力である。機会があったら導入することを勧める。僕はお金がないのでできないのだが…。まあ、それ以前に工事することになってしまうのだから、両親が嫌がるだろうが。



2003年09月28日(日) 君に心を奪われる

君に心を奪われる。僕は、とどまる必要があるのか?

君は僕を幻想の世界へと誘う。僕には、君を拒絶する理由なんて考えられないんだ…。

君はどうしてそんなに嫌われているの?僕には、理解できないよ。僕はもう、君に夢中だ。離れることなんて考えられない。僕はすでに、君のために多くを抛ってきた。そうだ、それだけの価値があると信じたからだ。君が何の見返りももたらさないことは分かっている。それでも、いや、だからこそ僕は、君に換えがたい魅力を感じるんだ。ただ僕は君といるだけで、それだけで楽しいんだ。君とともにある時間はすべて時間の浪費だ。それは分かり切っている。でも、僕は離れたくないんだ…。

僕は君の中で、違う僕になれる。君は君と、君に夢中の人々とで世界を作り出している。そうだ。僕は君の世界に夢中なんだ。どれだけ時間を費やしても決して何も生み出すことのない営み。でも、誰にも強制されることなく、自分の信ずる道を歩める喜び。君はこんなにもすばらしい、夢の世界を生み出しているんだ。

そう…。今さらここから足を踏み出すなんてことは、僕にはできないんだ。君と、君が魅了した僕を含む多くの人々は、何一つ生み出すことはない。僕たちはただ、人生の道でじっと立ち止まっているんだ。君に魅了されたのは人生において行き場のない人たち。救いを求める人たち。君は僕たちにとって、救いの神であり、カリスマなんだ。

僕を君から引き離さないでくれ。僕はずっと、君とともにありたいんだ…。



2003年09月27日(土) 思考の制約

最近、自分の考えがかなり制約されていると強く感じる。って、こんな書き出しばっかりだなあ…。

ほとんど無意識のうちに、あれはやっちゃいけない、これはやっちゃいけないといろいろ考えているのだ。特に卒業研究で顕著になっている。僕が書いた文が、読んでも理解できないとか言われて、あれもダメだ、これもダメだとかやっているうちに、自信を失って何もできなくなったのだ。

大学の構内を、デジカメを持って少し散歩してみた。このとき、本当に強く、自分が制約されているということを感じた。別に、大学の構内で誰がどこで写真を撮ろうと、問題はないはずだ。ましてや、ただ歩くだけなら自由のはずだ。にもかかわらず、建物の屋上に出たときは、建物の中から聞こえる物音にビクビクしていた。悪いことをしているわけではないはずなのに、何かとがめられるのではないかと恐れていたのだ。おそらく、生活のいろんな場面で、こういう思考は表れているのだろう。それも、自分の気づかないうちに。今回はたまたま、大学の構内を歩き回るだけでとがめられるはずはないという明確な矛盾点があったために気づいたが、そうでなければ自分が勝手に自分の行動を制限していたとしても、きっと気づかないに違いないのだ。いったい僕は、自分で自分をどれだけ縛っているのだろう。

もともと、ルールというのは嫌いではない。選択をする上での指標になるし、安全で快適な生活を送る上で欠かせないものだし。だが、どうやら僕は、自分で自分にいろいろなルールを課しすぎているようだ。なんでもないことができないし、なんでもないことが思いつかない。壁を破るような発想がまったくできないのだ。もちろんこれは、自分の思考を制限していることだけが原因ではなく、僕の独創性がそもそもないことや、壁を破るような発想法を訓練してこなかったことも原因だろう。だいたい、僕は独創的なことが好きではない。世の中には必要かもしれないが、大抵の場合、独創は異端だ。少なくとも、今まで僕はそういう教育をされてきた。みんなと同じであることが善であるという価値観の中にいたのだ。たぶん、今さらこの価値観は変えられない。それに、みんながみんなで間違っていない限り、判断は正しいのだ。もちろん、全員で間違った判断をすることはありうるわけだが。

ある意味、これが大人になるってことなのかもしれない。常識に縛られて、柔軟な発想をどんどん失っていく。にもかかわらず、柔軟な発想をしろと言われる。学校と社会で矛盾しているのだ。



2003年09月26日(金) 理念と手法

なんだかんだで今日が29日だから、4日分たまってるのか。本当にすぐたまるものだ。意外と日記を書くのにも時間がかかるし。

最近、実感しているのが、理念よりも方法が大事だということ。何か問題にぶち当たったとき、大事なのはなんなのか。今までは、がんばれば何とかなるとか、努力して解決するとか言ってきた。しかし実際には、問題を解決するにはそれなりの手順があって、その手順をこなすことで問題は解決するのだ。努力すればいいというものではない。がんばったって手順を間違っていてはダメなのだ。逆もまたしかりで、正しい手順さえ踏んでいれば、本人の努力なんてあまり関係ない。間違ったことさえしていなければ、問題は解決できるのだ。もちろん、問題の重大さにもよる。一人では抱えきれないほどの問題を抱えた場合、問題を解決する手段をもっていたとしても、そう簡単には解決できないだろう。しかし、それでも手段は大事だ。いや、困難な問題だからこそ、正しい手順で物事を進めるのが大事なのだ。そこで無駄足を踏んでいる場合ではないのだ。自分が成長するためには余計なことをするのもいいかもしれない。しかし、問題を解決したければ、努力するよりも先に、どういう手段で解決するのかを考えるべきだ。

問題を解決する手段と、それを実行する能力。これがあって初めて、努力が問題になる。逆は成り立たないだろう。手段が分からなければ、どれほど努力したって問題は解決しない。能力もしかりだ。能力とは、突き詰めれば問題から手段を導き出す力ではないだろうか。なんらかのシステムを構築しなければならないから設計やプログラミングを行う。設計を行うには設計手法を知っていればいい。プログラミングをするにはプログラミング言語を知っていればいい。この、設計手法やプログラミング言語こそが手段であり、手段を知っていることや選べることが、その人の能力と言えるだろう。

僕たちが住んでいるのは剣と魔法の世界ではない。ゲームなどで触れているからこそ、現実とファンタジーの世界は違うことが分かる。現実とファンタジーの決定的な違いは、人間の意志で物事が動くか、方法で物事が動くかの違いだ。どれほど強い意志をもっていても、現実にはそれを実行に移さなければ物事は動かない。重要なのは手段、方法であり、その次に、その手段や方法を実行するために意思が重要なのだ。どうすれば問題が解決するか、その手段がより重要なのだと僕は思う。



2003年09月25日(木) 久しぶりのまともな会話

今日は、教授と話をしてきた。それで、自分の方向性がずれていることに気づいた。これで何度目だろう。何度も何度もずれては軌道修正しているような気がする。研究室に来たら、最初にノートを見直すようにしたほうがいいのかもしれない。

教授と話をするときは、ずいぶんと緊張してしまった。内容がまとまっていないのもあったし、時期的に遅れているというのもあったし。しかし、教授は特に怒りもせずに、冷静に問題点を指摘してくれた。それこそ方向性がずれていたので問題点だらけなのだが、丁寧に指摘してもらえて助かった。ようやく目が覚めた気がする。とは言え、またすぐに眠ってしまう気がするが…。評判の悪い教授だが、指導力は確かなもののようだ。ただ、できればそれを積極的に発揮してもらいたいものだが…。まあ、それは贅沢というものだろう。卒論は、僕が自分自身で何とかしなければならない問題なのだ。基本的には。

あらゆる点で、問題は山積みになっているままだ。前学期にはJavaの勉強をしてきたが、そもそも卒論ではJavaを使わないし。ほかの研究室でみんなが基礎を学んでいる間、僕は完全に的外れなことをやっていたわけだ。その結果、船長の情報体系を整理しなければならないのに、そもそも船長とは何ぞや、ということを知らない。かと言ってそれを調べているひまもないから、自分で何とか考える必要がある。なぜか知らないが、教授もそう言っている。普通は自分の頭で考えるのではなくて、調べるものだと思うのだが。

それにしても、ちゃんと人としゃべったのは何週間ぶりだろう。22日に飲みに行ったときもそれなりにしゃべったが、頭を研ぎ澄ませて議論をしたわけではないし。昔は毎日嫌と言うほど先輩と議論していたのに。懐かしい思い出だ。考えてみれば、それがあったから当時の僕は、いつも割と物事をよく考えていたのだと思う。人間、きっかけがなければ物事を考えることなんてないだろう。ちなみにその先輩は、今はオンラインゲームにはまっていて、ほとんど会話をすることもなくなってしまった。その先輩自身、そんな状況が問題であることを認識しているようだが、解決する意欲を持っていないらしい。かと言って、僕には何もできない。僕だって同じような状況だし、世の中に希望なんて持ってはいない。今日は比較的明るい気分だが、それでもこの先の人生は転げ落ちるだけだという認識に変化はない。

それこそ僕の卒論ではないが、幸せのモデルが見えないのだ。ちょっと昔なら、結婚して、立派な企業に就職して、子どもを養ってという家族像があっただろう。しかし、現代においてそんな生活が幸せだとは思えないのだ。社会の制度的なものもあるし、第一、僕に複数の人間、特に子どもを養っていけるだけの能力があるとは到底思えない。

僕はともかくとして、その先輩は、今すぐ社会に出ても優秀な人材として活躍することができるだろう。頭がいいのは確かだが、何よりも行動力がある。考えるだけでなく、実行することができて、そして、実行することの価値を理解している。僕は、この点をまったく理解できていない。まあ、それは僕の能力の低さに大きな原因があるのだが。すなわち、僕が何かをしたところで、それに価値はないだろうという感覚がついて離れないのだ。何かをするのであれば、価値のあることでなければ意味がない。しかし僕の価値観において、僕のなすことに価値はないのだ。

また、先輩といろいろ話をしてみたいものだ。しかし、今後はもう、そんな時間はないのだろうな…。



2003年09月24日(水) 緊張感

人間、緊張感というのは大事なものらしい。ここ三週間ほど緊張感をまったく持てずに生活してきたが、気が張ったとたん、物事をスムーズに考えられるようになってきた。記憶力が極端に落ちていたような気がしたが、どうやら、単にボーっとしていただけのようだ。

にしても、結局のところ、緊張感を保つには人と話すしかない。自分ひとりでいつまでも緊張感を持続できるものではない。結局のところ、僕に本質的な解決策はないということを意味する。

とは言え、ここ三週間ほどの気分はひどかった。うつ病になってしまうのではないかと思うほどだったのだ。何らかの対策を考えなければなるまい。無理やり先輩を議論に巻き込むか、何らかのイベントを自分で用意するか。一人ではどうしようもないことは確かだ。講義がある日は、講義を聞くことである程度緊張感を保てるだろう。しかし、そうでない日はどうすべきなのだろうか。用もないのに教授に会いに行くのは少々不自然だし。友達と会ったってのんびり会話しているだけでは意味があるまい。

小説を書くなんてどうかな…。無駄な時間かもしれないが、それで緊張感を保てるのであれば必要な時間となることだろう。



2003年09月23日(火) 高校の友達

9月6日に同窓会に行ったが、昨日、そこで会った友人と、それからその頃やっていた英会話で一緒だった友人に会った。どっかにJRに就職してどうのこうのと書いた気がするが…。

最近、お酒の席というのに抵抗を感じなくなってきた。酒で問題なのは人間であって、自制さえすれば問題ないということを理解したのだ。自制できなくなったとき、僕は友人を失うことになるのだろうが。やはり、血というのは怖い。酒に極端に弱い母の血が、僕にも受け継がれているはずなのだ。だんだんルーズになってきているので、このままだと遠からず僕は問題を起こすのだろうな。やれやれである。

分かっているのだから避ければいいのかもしれない。周りからは酒の席を避けるべきではないという意見を多く聞く。いったい、どちらがよいのだろうか。いや、答えは自明である。避けられる問題は避けるのがベストではある。基本的に僕もその考えだが、一方でそれは楽しみを失うことでもある。酒が好きではなくても、人と話す機会は僕にとって貴重なのだ。

彼は4年生になった今でも、それなりに大学生活を楽しんでいるらしい。一方僕は、何もしていない。研究室の方針の違いはあるのだろうが、悲しいものだ。研究が忙しすぎて、在学中にさまざまなスキルを身に付けるという計画もまったくうまく行っていないし。



2003年09月22日(月) 進捗具合

卒論、進んだり戻ったりしていて、結局のところ一歩も進んでいないような気がするなあ。

というのも、基本的に僕は放置されているので、自分で勝手に研究を進めているわけだ。しかし、去年まで大学3年生だったやつが、特に何も教わらずに大学4年生になっただけなので、研究と言っても、何をしていいのか分からないわけだ。

でもまあ、それならまだいいのだが、問題は、だんだんやることがずれてくること。教授の言っていることはとりあえず分かる。やらなければならないことも分かる。しかし、実際やってみると難しい。難しいと分からなくなる。そうすると、分かっていたことまで分からなくなって、何をやっていいのか分からなくなって、方向性がどんどんずれてくるのだ。普通はそうなれば誰かが気づきそうなものだが、あいにく、この研究室には僕しかいない。ほかの研究室の人たちといっしょにやっているが、彼らは僕の研究内容をまったく知らない。

今日は頭がすっきりしている。いつもと違って、教授と話をしたからだと思う。一日前か二日前の日記に書いたと思うが、やはり人間、ほかの人間と会話をしないことには脳みそが動かないのだと思う。日記を書く調子も極めていい。

なんにせよ、嫌でも何でも、やらないことには大学を卒業できないのだ。人間、避けて通れないことは克服しなければならない。こんなものは、世の中のほかの苦労と比べればなんと言うこともないはずなのだ。



2003年09月21日(日) 台風襲来?

どうやら、台風が来ているらしい。その影響からか、土曜から日曜日にかけてずいぶん雨が降った。そして、ずいぶんと涼しくなった。夏ではないかと思うほどに暑かったのが、一転して寒いと思えるほどになってきた。

というわけで、土日ともどこにも出かけなかった。知り合いに岡崎律子という歌手を勧められたので、ちょっとCDを借りてみようと思っているのだが…。お金はそれほど負担に思わないのだが、実際借りるとなると少々店に行くのが面倒だ。大学の行き帰りにあればいいのだが、残念ながら東京にも新宿にも、行きやすい場所には見当たらない。ツタヤでいいので、たぶん、東京にも新宿にもどこかに必ずあると思うのだが。

それにしても、昔よりもさらにキーボードを叩きなれてきて、ほとんどキーを叩いている感覚がなくなってきた。考えてることがだいたいそのまま画面に表示されている感じだ。まあ、ミスタッチは多いが…。慣れるとここまでできるようになるものなのかと感心する一方で、そうなるまでにいったい何年かかったのだろうと疑心も抱く。中学生の頃からやっているので、ざっと10年かかったことになる。おそらくは、我流でやっているのが原因なのだろう。



2003年09月20日(土) 人と会うことの価値

最近、人と会うことが少ない。最近、ではないか。4年生になってからか。たまに人と会うと、言葉に窮することも少なくない。普通の会話ができなくなってきている。ゲームなんかでコミュニケーション自体は取っているから、人間とかかわってはいる。しかし、直接会うこととそれ以外のコミュニケーションでは、天と地ほどの違いがある。

感情的な部分での違いもあるだろうが、1つ気になっているのは、時間的な速さだ。直接面と向かって行うコミュニケーションは、そのほかすべてのコミュニケーションと比べて、圧倒的に速い。そして、単位時間あたりの情報量がダントツに多い。つまり、会話に際して膨大な量の情報を処理しなければならないわけで、それだけで頭の体操になるだろう。そして、それだけの情報量を常に処理しつづけることが、人間の大きな能力なのだと思う。

人間の能力は、ほとんどの場合、使わなければ劣化する。僕のコミュニケーション能力も例外ではないだろう。コミュニケーション能力は今後ますます重要になると、いろいろなところで言われている。ビジネスの分野で言われることが多いようだ。その中で自分のコミュニケーション能力が衰えていくことには、強い危機感を覚える。とは言え、対策を打てる環境ではないのだが。

それ以外にも、頭を使う機会が減るというのも重大な問題だろう。人と会話するということは、ほぼ強制的に、大量の情報を処理することにつながる。そのことで、脳に強い負荷がかかることだろう。そうすれば目も覚めるだろうし、頭の回転もよくなるはずだ。逆もまたしかりで、人と話をしない場合、情報を処理すると言っても高が知れている。そもそも集中力が高かったり、何らかの危機的な状況にあれば別ではあるが。そうなれば当然頭の回転は鈍くなり、集中力だって失われる。それが長期間続けば、今の僕のような無気力な状態だって十分に予想できることだ。一人と言うのは想像以上に人間の気力を奪うものだ。そう、実感できた。

一人であるから制約されない。有り余る時間がある。忙しいという言葉は、今の僕には無縁だ。しかし、その多くの時間を費やしても、何もすることができない。それが、今の僕の状態なのだと思う。



2003年09月19日(金) 物事の考え方

何か物事を考えるとき、比較するというのはとてもよく行われる方法だ。そして、価値の判断をする。教育は詰め込みとゆとりとどちらがいいのか。ゆとりのある方が人間性が養われるからゆとりのある方がいい。詰め込まない限り学力は身につかないから、詰め込み教育の方がいい。意見はいろいろだが、比較していることは確かだ。

それはいいのだが、そのあとが気になる。意見を述べる場合は、大抵自分の支持する意見というのがあって、それについて述べる場合が多い。その場合、自分の支持する意見と違う意見を否定しようとするのだ。比較の対象になっているということはそちらにもよい点があるということだから、そうやって一概に否定するのは問題だと思う。ただ、そうでもしないと物事が先に進まないのも確かだ。それぞれが強く主張しあっている以上、止揚は期待できないのだと思う。どうせ、双方のよい点だけを採用するなんてことはできないだろうし。世の中にはトレードオフだとか二律背反だとか言われる事象がとても多い。みんな、そんな考え方に慣れきっていると言ってもいい。平たく言えば、「いいこともあれば悪いこともある」という考え方だ。事実、トレードオフの関係にあるかどうかということとは別にして、初めからトレードオフの関係を仮定している場合が多いと思う。そして、それは大抵の場合、正しい。間違っている場合もあるだろうが、大きな問題ではあるまい。

まあ、要するに、どうしてこう、物事に白黒つけたがるかなあ、ということだ。



2003年09月18日(木) 現実と虚構

ずいぶん長い間空いたものだ。今日が月曜日で、この日記が木曜日か。

一応書いてはいたのだが、操作ミスで消してしまってそれっきりだったりする。何を書いていたのかくらい覚えておけばよかったのだが、覚えていないものは仕方がない。

最近、また不調のようだ。書くことが思い当たらない。研究は相変わらずだし、特に変化も見当たらない。ゲームはやってて楽しいし、変化もいろいろあるが、日記に書くようなことでもない。

ということで、また別のゲームの話を。前からチョコチョコ書いていたファイナルファンタジータクティクスアドバンスなのだが、このゲーム、現実世界からの逃避というのがテーマになっているらしい。時代に合ったうまいテーマ選びだと思う。異世界に飛ばされた子どもたちがそれぞれどんな選択をするのかが物語の軸となっている。終盤になるまで誰も主人公に同調しないと言うのがおもしろい。話が進むにつれてストーリーに関連する人物が次々と仲間になっていく従来のゲームとは違い、基本的に仲間は最初に出会ったモーグリだけらしい。なかなかおもしろい試みだと思う。

公式ページに載っていたが、どうやらこのゲーム、ファイアーエムブレムを相当意識して作られたようだ。まともにやってもかないっこない、というような書き方だったのは少し笑えたが。おそらく仲間が増えないのも、ストーリーの展開によって仲間がどんどん増えるファイアーエムブレムを意識しているのだろう。

現実からの逃避か。もし、魔法の世界に行けたら、僕も戻りたいとは思わないだろうな。現実の世界の方がいいなんて言い出す奴がいたら、きっと邪魔をすることだろう。実際の役回りもそんなところかもしれない。誰かの踏み台になって、邪魔者として消えていく…。一生懸命なんてばかばかしいとか思うからなあ。これでは、きっと人生、うまく行かないだろう。運次第ではあるが。少なくとも、今までは運がよかった。これからは…?



2003年09月17日(水) 過去の知見と新たな開発

題名の部分、tableタグを使用していたが、CSSによる記述に切り替えた。たぶん、ほとんど変わりないと思うが…。そんなことで睡眠時間を削ってどうなるのだろう。

昨日から今日にかけて、両親が富士山の方へ旅行に行ってしまった。おかげでまともな食事をしていない。自分で作る気になれば作れるのかもしれないが、それはそれで面倒だし…。コーンフレークだけでも食べた気にはなれるし。栄養価を考えると問題がありそうだが。コーンフレークは栄養バランスがいいと言っても、それは既知の栄養素だけだし…。

世の中はずっと動きつづけているが、その中で取り残されたような感覚を感じる。単なる錯覚なのだろうが、僕だけでなく、世の中全体が冷めてきているように感じる。そんなに一生懸命やってどうなるんだよ、という思いを感じる気がするのだ。実際は、一生懸命やること自体に価値があるし、それで十分満足できるとは思うが、だからと言ってそんな風に取り組める対象など、今のところない。あったとしても、そんな時間なんてないのだ。好きなことに対して多くの時間を費やしたいと思うが、今の世の中では贅沢な願いだろう。誰もがやりたくもないことを、長い時間をかけてやっているのが今の世の中なのだ。みんなが少しずつ犠牲になって、子どもたちやほかの人のためにと尽くしているのだ。でも、それが見えにくくなっている。新しいものを作ればそれで満足だったのも昔の話。今はもう、多くが開発され尽くして、行き詰まっている。これから先、どうすればいいのだろう。こう考えていくと、新聞に載っているような漠然とした閉塞感というのは当たっている気がする。でも、歴史上、こんな状況は何度となくあったに違いない。そんな時、人はどうやってそれを解決してきたのだろう。過去から学べることは多いのではないだろうか。

人類には、長い歴史があるし、その歴史の中で積み上げてきた知見がある。そのすべては手に入らないとしても、今の時代、多くの情報が手に入る。この情報を手に入れたり、利用したりするすべを見につけることは重要なのではないだろうか。それは、新しく何かを開発するよりも重要だと、僕には思えてならない。誰にも把握できないほど、過去にはさまざまな知識があり、経験がある。そして、その中には数え切れないほどの失敗もあるだろう。そんな失敗を積み重ねないことが、幸せな生活への第一歩だと思うのだ。確かに保守的かもしれない。しかし、ここまで人類は確実に歩みを進めてきた。過去を振り返り、取りこぼしてきたものを見つめなおすのもいいのではないだろうか。

ところで、近日関東地方で大地震が起こるといううわさを聞く。私設天文台の台長が主張しているらしいが、その根拠は結構怪しい。これから、どうなるのだろうか。最近あまりにも代わり映えのしない生活だから、地震が起きて一変してもいいかもしれないなどと思ってしまう。しかし、少しじっくり考えてみると、その生活が良くなるとはとても思えない。多くの人が苦しむことになるだろう。自分だって苦しむことになるだろう。それに不安を感じないのは、やはり大地震という天災に対してリアリティを感じていないからに違いない。関西地方の人であれば、きっと地震の怖さを感覚的に理解しているのだろう。



2003年09月16日(火) 特にこれと言ったことは

久しぶりに彼女を見かけた。なんか少々警戒されているような気がしたが…。気のせいだといいが。

結局、大学のサーバでサーブレットを動かすのは無理だと言うことが分かったようだ。したがって、何とか研究室内で準備しなければならないことになった。しかし、そうは言ってもサーバの設定というのはなかなか難しいようで、普通のWWWサーバの設定をできずに助教授の教官は帰ってしまった。まあ、そもそも情報工学が専攻ではないようだし、しょうがないのだろう。しかし、そんな教官がなぜ、この研究室に来たのだろう。よく分からない…。大学の組織とか力関係というのは、いまだによく分からないことが多い。

それだけかな。一日中大学にいても、何も書くことがないというのもさびしいものだ。



2003年09月15日(月) ものを考えない大学生

昨日、2ちゃんねるの話を書いたが、ここであまり下手なことを書くと、リンクを張られたりするのだろうか。そうなったらどうなるかな。掲示板は閉鎖するとして…。楽しいかもしれないが、今まで見に来てくれていた人たちには不愉快な思いをさせることになりそうだな。

相変わらず、家でゆっくり過ごした。さすがにもう、休みの日に大学に行こうとは思えない。まあ、今は今で、大学に来ていながらこうして日記を書いているのだが。

なんと言うか…。ここのところ、本当に考え事をしなくなった。余裕がないと言うのは悲しいものだ。だいたい、数日に一度はいろいろ考えて、それを溜め込んで日記に書いていたりしたのだが…。ものを考えない大学生なんて高校生と変わりないと思うが…。

なんだか疲れた…。なんなんだろうなあ。何にもないのに、徐々に気分が落ち込んでいくような気がする。



2003年09月14日(日) 陰で語る人たち

2ちゃんねるにうちの大学のスレッドが立っていると、友人から聞いた。こんな規模の小さな大学でよく成立するものだと思うが。どうやら、一部の三年生たちから結構書き込みがあるらしい。しかし、見ていると不慣れなのがすぐ分かる。いつも2ちゃんねるに出入りしているわけではないのだが、あまりに言葉遣いがワンパターンなのだ。2ちゃんねるはひねりの聞いた風刺と単なる頭の悪い書き込みが同居しているようなところがあるが、その後者しかない感じだ。もっとも、最近はどのスレッドを見てもそうらしいが。まあ、自分で見ていないから、詳しいことは分からない。

とにかく、そいつをちょっと読んでみた。なんか彼女のことが書いてある。…本当に三年生なのかどうかがそもそも分からないが、もし三年生だとすると、どこで四年生の彼女の存在を知ったのだろう。教官の手伝いでもしていたのだろうか。かなり好き勝手に書いていたが、思ったより腹は立たなかった。2ちゃんねるというのが無責任なものだという感覚があったからなのか、彼女が僕にとってもう他人だからなのか、よく分からない。

それよりも、その後の話が気になった。うちの研究室の教授が話題になっていたのだ。どうやらかなり難しいらしい。僕がやったときはそんなに難しいとは感じなかったのだが。まあ、レポート2本を出して、それがOKと言われて初めて試験を受けられるという形をとっているから、僕が受けたときよりも難しかったのだろうが。実際、その形を取り始めたあとは、それまでよりも難しくなった。教官自身は選択式にしたいと言っていたが、どうなるのだろう。ちなみに、選択式にする理由は、採点にあいまいさがなくなるからだそうだ。記述式だとどうしても採点基準が明確ではなくなる。確かにその通りだろう。もちろん、記述式には記述式の利点がある。特に、大学の試験には記述式の方がふさわしいことは確かだ。でも、それはそれとして、公平な試験という観点からはなかなか難しい問題もあるようなのだ。

まあ、いいや。2ちゃんねるはまた、しばらくやめておこう…。ここまで不真面目にやっていて気分が悪くならないものなのだろうか。今の世の中ならこんなものかもしれないな。この2ちゃんねるが一つの真実を反映しているのなら、それを直視できなければならないのかもしれない。



2003年09月13日(土) 新しいものか、古いものか

今日は、ADSLの調子が悪い。自分の家のどこかが悪いのかと思ったがそうではなく、プロバイダが原因らしい。人間のやることだから完璧など望むべくもないが、それでもやはり、こういう事態が起こるとなんだか悲しくなる。早く復旧して欲しいものだ。動かないわけではないのだが、通信速度が70〜100kbps程度になっていて、オンラインゲームはまともに動かない状況になっている。

新しいものを創るのも難しいのだろうが、すでに作り上げたシステムを維持するのもまた、難しいようだ。きちんとしたシステムであればあるほど、維持管理は楽らしい。とは言え、時間の制約もあるし、なかなか理想通りには行かないだろう。システム管理者というのは、多少退屈かも知れないが重要な仕事だと思う。誰かがやらねばならなくて、みんながやりたいと思わないのなら、僕がやってやりたいと思う。今まで人類は多くのものを創ってきたし、これからも多くを作り続けるだろう。これから必要なのは、創ったものを維持、管理し、後世に受け継ぐことだ。

歴史学という学問がある。人類の過去を探る学問だ。その領域はかなり広く、政治や経済だけでなく、文化、民衆に関してなど、社会全般の事象を対象としている。そしてこれらはいずれも困難な仕事であり、やり遂げた人間は高い評価を得ている。しかし、これは無駄なことではないだろうか。そのときどきで、きちんと受け継いでいけば、後世の人間が一生懸命調べる必要もなかったはずなのだ。新しいものを探して作り続けていくのも大事かも知れないが、過去を顧みて反省し続けることもまた大事だと思う。歴史は繰り返すという経験則だってある。多くの新しいものが創られる今だからこそ、過去を見て、歴史を繰り返さないようにするべきなのだ。もちろん、懐古主義でもダメだ。古ければよいのではない。新しければよいのでもない。古くても新しくても、良いものはよいのだ。だから、新しいものも大事だが、新しいものにこだわらずによいものを探して行かねばならないと思うのだ。そして、どんなに古くてもよいものであればそれは大事にして、世に知らしめ、受け継ぐべきなのだ。



2003年09月12日(金) 史学概論

今日は、試験を受けた。史学概論の試験だ。試験問題は皇帝の由来について説明するものと、科挙について説明するものだった。いずれも講義中にあったものがそのまま出題されたのでそれほど難しい問題ではなかったのだが、最近、論文などで文章にやたらと気を使っているせいか、思うように書けなかった。十分に気を使えばよい文章になるのかもしれないが、中途半端に体裁などを気にした文章は、何もしないほうがマシな文章になってしまう。あまり良くない癖がついてしまったのかもしれない。

それから、最近会っていなかった友人に会った。昔から会うと割と話の盛り上がるやつだったが、今回も結構話が弾んだ。やはり共通の話題があるからなのか…。

んで、その友人とは研究室で少し話をしていたのだが、研究室で同室の人が来たら帰ってしまった。その前もほかの人と話し込んでいたし。まあ、また機会はあるだろう。

それより、その同室の人と話したことのほうが怖かった。女性なのだが、彼女は「清純な女の子なんていない!」と言い切っていた。まだまだ僕も21歳。もうちょっとだけ夢を見ていたい年頃なのだが、あっさりとぶち壊してくれた。いや、まあ、分かっちゃいるさ。本当は…。でも、あと少しだけ夢を見させて…。

当然と言えば当然なのかもしれないが、やはり相手が金持ちだったり顔が良かったりすると、態度を変える女の人は多いそうだ。まあ、女に限ったことではなく、大抵の人間はみんなそうだと思うが。僕自身、そう言う部分はあるのだろう。実際、金持ちの人と知り合いになれる機会なんて今のところはないから何とも言えないが。あまり欲望は強くない方だと思っているが、実際にそういう状況に巻き込まれて見なければなんとも言えないし。

みんな打算とかいろいろ考えて判断しているようだ。でも、もしかしたら深く考えない方が幸せになれるのかもしれないと思えてしまう。余計なことを考えるから悩むわけで、悩むからつらいわけだ。つらいから不幸だと考えるのは短絡的かもしれないが。でも僕は、つらいよりはつらくない方がいいかな、と思う。

ちょっと投票ボタンを設置してみようと思う。面倒でなければ続けるが…。どうだろう?


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2003年09月11日(木) FFT-A続編

大学に行って研究室にいた。…だけだ。9日に書いたWWWサーバへの接続をあれこれ試してみたが、結局できないということが分かったくらいだ。

というわけでまたファイナルファンタジータクティクスアドバンスの話でも。まさか、これほどの出来とは思わなかった。ずっと同じソフトばかりやっていたら飽きるからと、ただそれだけの理由で買ったのだが、十分に4200円程度の価値はあった。電車の中での暇つぶしのために買ったつもりが、家に帰ってもやっているくらいだ。と言ってもまあ、長時間やっていたら睡眠時間を圧迫するので、せいぜい30分と言ったところだが。

話が進むにつれ、やはりだんだん難しくなってきた。最近のRPGはどれもみんなそうなのだが、それなりに考えて育成していかないと、進むにつれてだんだん苦しくなる。しかし、僕はこのソフトをプレイするのは初めてなので、先のことを考えるにもその材料がない。どうやったらどうなるかということが分からないのだ。そう考えて見ても、やはりRPGというのは2回、3回とプレイするものなんだなあ、と思う。もともとがかなり簡単なのでそれほど苦労することはないと思うが、成長の指針が立てられないというのは少々不安ではある。かと言って、まだ一回もクリアしないうちに情報収集するのもどうかと思うし。そんなことを考えてみてもやはり、ゲームは簡単に限ると思う。難しければ難しいほど攻略法が限定され、プレイヤーの自由度が制限されるような気がする。

プレイヤーの自由度が制限されると言えば、ロウは失敗のような気がする。なんか法律のようなものがあって、いろいろと行動が制限されるのだ。開発者自身が不十分とか言っているから、問題視しているのは開発者側も同様なのだろう。その法律をプレイヤーが駆使して、相手をはめたりする戦略を楽しむのが本来の目的だったのかもしれないが…。いきなり戦闘から消えてしまうとか、主人公が違反すると一発でゲームオーバーとか、罰則が厳しすぎるのが原因のような気がする。

そういや、今日は同時多発テロから2年目か。犠牲者は今のアメリカを見て、どう思うのだろう。アメリカのやり方にはいろいろ問題はあるのかもしれないが、結局、理屈が通用しない相手は力でねじ伏せるしかないのかもしれない。世の中は結局強いものが勝つのだ。必ずしも強い者が勝たない場合もあるのかもしれないが、それはより強い力で秩序が構築されているからに他ならない。その秩序を構築する力よりももっと強い力があれば、結局その力が勝つことになるのだ。現代は最強の力が核爆弾だから、力の強さが拮抗していて秩序が成り立っている。しかし、どこかの国が反物質砲を完成させたりしたら、一気にこの秩序は崩れ去るに違いないのだ。



2003年09月10日(水) 東京駅で働く知り合い

9月6日に高校の同窓会に行ってきた。当然、高校の頃の同級生に会った。そこで、高校の頃の知り合いが、東京駅で働いているということを聞いた。僕は、大学へ来るために毎日東京駅を利用している。それなのに気づかなかったのかと、少々びっくりした。しかし、よく考えてみれば東京駅は広い。気づかないのも当然だ。

で、9日にどこにいるのか探してみた。いないとは思うが、このページを見てその知人を探す人がいないとも限らないので一応詳細は伏せる。その人の勤務先は東京駅のそこらじゅうにあり、そのどこなのかは分からなかった。だから、東京駅をグルッと一回りする羽目になった。結局、9日は出勤していなかったそうだ。これぞまさに、骨折り損のくたびれもうけである。

で、その経過を友人に報告したら、なんだかおもしろそうだから俺も一緒に行こうと言い出した。そしてその友人は、知り合いが10日は出勤しているということと、正確な勤務場所を確認した。僕に探せとか言う前にそういうことをきっちりやっておいてくれよ、と思ったが、そもそも尋ねなかった僕が悪いのだから非難はできない。

で、行ってみたらあっさりと見つかった。まあ、居場所を確認してから行けば、見つかるのも当然と言えるが。しかし、見つけたのはいいが、その人は勤務中だった。当然、声なんてかけられない。写真をとろうかとも思ったが、東京駅のど真ん中で従業員に向かって写真なんて撮る人は、普通、怪しい人である。だから、記念撮影っぽくその人がかろうじて入るように僕の写真をとるという苦肉の策で終わらせた。それでも東京駅の構内で写真を撮っているのは確かなので、かなり恥ずかしかったのだが。携帯電話のカメラでなければできなかったと思う。ちなみに使ったのは友人の携帯電話で、D505iである。なかなかいい携帯電話だ。ずっとPHSを使っていると、時代の流れに取り残されるような気がする。それでも、PHSを手放す気はないが。

結局その写真には、目的の人の姿はドット数個程度しか写らなかった。もちろん、顔の識別など絶対に不可能である。色の情報を考えても、情報量は100ビット程度だろう。この情報量で人間の顔の識別を可能にしたら、ノーベル賞も夢ではないと思う。

で、僕は毎日利用しているからなんてことはないが、その友人にしてみれば東京駅はとても遠い場所だ。僕も、大学に入学するまでは、東京駅なんて地の果てだと思っていた。だから、わざわざ東京駅までやってきた。ドット数個分の写真を撮っただけで帰るなんてあまりにさびしい。ということになって、僕の大学へ行くことになった。見せるものなどないのだが、それなりに楽しんでもらえたようだ。別の知人を連れてきたときもそうだったのだが、その友人も一番驚いたのは学校机らしい。確かに、大学に小学校と同じ机といすがあるのはかなり珍しいと思う。ただ、シンプルだが悪くないと思う。慣れていると言うのもあるし。一応、軽くてコンパクトという利点もある。

帰りにも寄ってみたが、そのときにはもう、いなくなっていた。で、帰りはロマンスカーに乗ってみた。僕は普段、新宿から町田まで小田急線を利用しているが、その運賃は360円である。しかし、このロマンスカーはその間の特急料金だけで400円もするのだ。なんと、特急料金だけで運賃よりも高いのである。学生にとって、このような贅沢は本来、してはならないことである。しかし、僕たちはやってしまったのだ。さらに、そのロマンスカーの車内でバニラアイスまで買ってしまった。何の変哲もない普通のアイスクリームである。しかし、その値段は300円もするのだ。ロマンスカーは、運賃と特急料金に車内販売のものを一品買うと、1000円を超えるという贅沢な乗り物なのである。…いや、まあ、僕は普段、そんなにお金を使わないから、こんなに強調するほどお金には困っていないのだが。

その知り合いとは、22日に会う予定になっている。就職してどう変わったのか、なんだか楽しみだ。ちなみに、僕の写真を見たらしいのだが、その感想は「高校時代と変わってないね。」というものだったそうだ。まあ、確かに変わってはいないが…。



2003年09月09日(火) 研究用WWWサーバ

さてさて。しばらくサボっているうちにまたたまってしまった。やれやれである。家にいると書く気がしないんだよなあ。本来は大学で書くようなものじゃない気がするのだが。

火曜日…。確か大学に来ていたな。そして助教授に、大学のサーバでサーブレットが使えるかどうか、試してくれと言われたのだ。そもそもこの大学の研究用WWWサーバって使えるのか?ということすら知らなかった僕には少々難題だった。が、使い方を丁寧に教えてくれたので、その点は問題なかった。

結論から言えば、サーブレットが使えるかどうかは分からなかった。そもそも、研究室から研究用WWWサーバに接続することはできなかったのだ。原因は、ルータの設定である。僕のいる研究室では以前、WinMXを利用して不正行為をした学生がいたらしい。

WinMXというのは、一言で言えばファイル共有ソフトだ。ほかの人が持っているファイルを探して、ダウンロードすることができる。普通のインターネットは、サーバにファイルがあって、サーバに要求することでファイルをダウンロードするようになっているが、WinMXは相手のコンピュータに直接ファイルを要求することができるようになっている。…まあ、実際はどっかのサーバが仲介しているはずなのだが。詳しいことは知らない。このWinMXは、当然ではあるが、共有しているファイルが合法かどうかなんてことはチェックしない。ファイルなんてのはすべて0と1のビットによるデータであり、それが合法かどうかを判断することは相当難しいはずだ。だから、WinMXを利用して違法なファイルの交換をする人が多いらしい。ちなみに、WinMXに限ったことではないが、このたぐいのソフトは持っているだけでは違法ではない。極端な話、ナイフを持っていても違法ではないのと同じだ。ナイフで人を刺すから違法なのだ。WinMXを嫌う人は、ナイフは人を刺せるからナイフが嫌いだといっているのと同じような主張をしていることになる。まあ、そういう考え方もあるとは思うが。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いという言葉もあるし。

で、話を戻す。WinMXを利用した学生がいたことからルータの設定が変更された。きわめて強い制限をかけるようになったのだ。具体的には、許可されたサーバの許可されたポート以外には一切接続できないようになっている。そのサーバは大学のプロキシサーバだ。と言っても、内部のネットワークを隠蔽する機能はなく、実質キャッシュサーバとしての役割しかないようだが。とにかく、このサーバが扱えない機能は一切使えない。そして、そもそもそのサーバはFTPのアップロードができないらしい。したがって、WWWページの公開もできないわけだ。そんな環境でサーブレットの動作をチェックしてくれと言われても無理な話である。

まあ、普通にFTPによる接続ができたとしても、Javaサーブレットを利用できる状態にするためには、サーバアプリケーションがJavaサーブレットに対応していることと、そのサーバアプリケーションを設定してやることが必要だ。そして、詳しいことは知らないが、常識的に考えて、外から接続しただけでその設定ができるとは思えない。結局、直接サーバのある部屋に行って、システム管理者に言って、Javaサーブレットが動作するかどうか尋ねるしかないのだろう。

ところで、その研究用WWWサーバだが、自宅からアクセスしたら使うことができた。ということで、テストページを作ってアップロードしてみた。9月11日現在、たった一行しか記述されていないが。ただ、妙なこだわりということで、一応XHTMLで記述されている。…何の意味もないが。とりあえず、この大学のサーバの使い方でも書いておこうかと思う。



2003年09月08日(月) 忘れ物

土曜日と日曜日、ゆっくり休んで大学へやってきた。やはり、頭が冴えている。ちゃんと休まないとダメだと実感させられた。夏休み中はろくに休まなかったが、教授にしかられても休みを取るべきだったと思う。命をかけて研究を進めているわけではないのだ。心の余裕というのはどうしても必要になるだろう。そして、余裕を作り出す最も簡単な方法は、時間を空けることだ。ほかの事をしている時間を長く確保すること。これで、忙しい生活の中でも多少は余裕を持つことができるだろう。

と思っていたら、ファイナルファンタジータクティクスアドバンスを忘れた。やれやれ。今日は電車の中でつまらない時間を過ごすことになりそうだ。疲れるんだよな。そうすると…。

そのくらいか。また、変化のない日々が始まる。後期も何か講義を取ろう。でないと、まったく変化のない毎日が続くことになってしまう。何でもいいから変化がほしい。講義を聞いて、誰かほかの人に会えればそれで十分だ。



2003年09月07日(日) 生きる道とは

「お前の生きる道はなんだ?」と母に聞かれた。前置きも何もなく、唐突に、である。僕は「知らない」と答えた。大学でさんざん言われたことが頭をよぎる。物事は「相手が知っていることから知らないことへ」説明しろと。確かに、知らないことを突然言われると分からないなと思った。細かいことをいちいち…、などと思ったが、確かに必要なことだ。

話はいきなり横道へそれるが、僕はここ数年、なるべく物事を素直に見ようと努力してきた。世の中の影響なのかなんなのか、ものの見方がいちいちひねくれていたのだ。良いものを素直に良いと認めない傾向にあったのだ。今でも、そういう人は多いのではなかろうか。原子力発電所のように、大きな問題を抱える場合によく見られる。何か1つ問題を起こすと、原子力発電所のすべてが悪いように言い、何もかもを否定せずにはいられないのだ。マスメディア自体に何もかもを否定する傾向があるために、世の中全体がすべてを否定している気がする。何もかもを認めないのに、どうして取引先を認める気になれるだろう。何も信じていないのに、どうしてビジネスの取引だけを信じられるのだろう。現代のすべてを疑ってみる見方では、景気が悪くなるのは当然だ。そして、そうやって見る見方が間違っていないと言うなら、景気が悪くなるのもまた、間違っていない。

今、その場にあるものを素直に認める。人の言うことをなす事を肯定的に捉える。これは、大事なことでもあるし、必要なことでもあると思う。それが信頼を勝ち得る第一歩だと思うからだ。そして僕には、ずっとこの視点が欠けていたのだ。すごいものはすごいと認める。素直に人を尊敬する。

でも、科学の世界はそれを認めない。過去の業績を素直に尊敬していたら、そこから先がないからだ。過去の知見から問題点を探し出し、この点について不十分である、この点は考えられていない、この点は議論に問題があると言い、自分の正当性を主張するのだ。過去を否定し、自らの正当性を主張することで、新しい知識を積み上げていく。科学とは、そうして進歩してきたものらしい。もちろん、建前は教授を尊敬している、などと言うわけだが、その本質は過去の研究者がしていないことを、足りないことをする、というものなのだ。

自然保護を主張する人たちあたりが言っていたことだと思うが、僕も同じように思う。「人は、どこまで行けば満足するのか。」と。現代の科学は、十分すぎるほどに進歩している。これ以上、何を望むと言うのか。数多くの研究者たちが築き上げてきた、ほぼ完璧な研究の塔に、今さら何を築こうと言うのだろうか。まあ、一部の研究者たちが自らの正当性を主張するために、過去の研究と比較して、自分の研究がより優れていることを述べるのはいいだろう。人は何かと比較しなければ物事の価値が分からないからだ。しかし、研究をするために大学に入ったわけではない学生たちに、無理矢理過去の研究の問題点を探させてどうしようと言うのだろう。

話を最初の問題に戻す。生きる道とは、何を言いたかったのだろう。人生の目的だろうか。お前はなんのために生きているのか、と問いたかったのだろうか。何のために生きて、そして今、その目的のために何をしているのかと問うていたのだろうか。

何のために生きているのか?そんなことは知らない。死にたくないから生きているだけだ。生きる目的など、僕にはない。あえて言うなら、楽しく生きたいということだけだ。これは目的ではないだろう。生きるという過程の問題だ。

死にたくないから生きている。どうせ生きているなら楽しい方がいい。じゃあ、そのためになにをしているのかと言えば、よりマシな人生を送るために必要な技術、知識を身につけようとしているに過ぎない。こうして生きていることで、どうしてもしたいことなんて何もないのだ。小説を書いてみたいとは思うが、人生を賭けてまでやりたいとは思わない。そもそも、僕はものを創るということにあまり興味がないのだ。人間はすでに、多くの人が多くのものを創ってきた。もう、僕にできることなど残されてはいない。過去に誰かがやったようなことを、さも自分が初めてやったかのように自己満足するくらいだ。

絶対の価値なんてない。自分にとって一番大事なものがないのだ。だから、そのために努力しようという発想もない。でも、世の中の多くがそう考えているのではないのか?人生の目的を定めて、そのために生きている人間がどれほどいると言うのだ?

絶対に正しい考え方なんてない。科学は1つの方向性を示すが、それが正しいとは限らない。結局、人生の目的なんて問題に答えを出すことはできないのだろう。きっと、どこかの偉い哲学者が言っていることだろう。「人生で何をすべきかを知ることが、人生の目的だ」と。

何のために生きるのか。そのために何をするのか。真剣に生きている人間にとっては、永遠の命題なのだろうな。僕だって、人生の岐路で道を一歩違えていれば、こんな問題を一生懸命考えていたかも知れないのだ。いや、そんなこともないか。結局、現代の大学にいたら、自分の研究に手一杯になって、こんな答の出ない問題を考える余裕なんてなくなってしまうのだ。こんなことを考えることが、人間に深みを与えるのだろう。言葉や外見に現れない人としての魅力を作り出して行くに違いない。そして、こんな命題を考える機会を失った若者たちは、人生の目的を考えることすらせずに、ただ流されるがままに生きているのだろう。それでいいのか?確かに、1つのことに打ち込んでいる姿は外から見ていて良いと思えるだろう。しかし、それが本当にその人のためになっているのかと言えば、はなはだ疑問に思える。



2003年09月06日(土) 同窓会

高校の同窓会に行ってきた。相変わらず、過去のことを覚えていない。時間が経つに連れて過去のことを思い出すとなると、それはそれで危険な気もするが。高校の頃の友達に会っても、顔を見ても分からない人が結構いた。まあ、だいたい顔を見れば思い出すのだが、名前を思い出せなかったりした。

その頃の担任の先生も来ていた。こちらの名前を覚えていたからびっくりだ。さすがである。ちなみに、まだ50歳にはなっていないはずなのだが、もう校長先生になるらしい。普通の教諭として数学を教えている印象しかないので、それが校長先生になるというのはなんだか不思議な印象を受ける。その高校でのボランティアを募集していたが、おそらくそんな時間はないだろうな。時間のない生活なんてうんざりなのだが。

研究の話を聞いたりもしたが、やはりみんなそれなりに苦労しているらしい。やりたくもない研究をしている人も多いようだ。あと、少しびっくりしたのは、大学院へ進学する人が多いこと。僕よりもできのいいやつが多い、というのもあるのだが、そもそも高校のクラスの雰囲気が割とまじめな感じだった、ということが少なからず影響しているようだ。僕が大学院進学をしようと思ったのは、単にイメージの問題なのだが。イメージだけではなく、もう少し勉強する時間が欲しかったとか、将来を考える時間が欲しかったとかいろいろあるが、いずれにせよ決定的ではない。最後、決めたのはやはりイメージだろう。

他の大学の話はおもしろかった。自分の大学と共通するところ、違うところがいろいろと見えてくる。自分の大学が特殊なところは、やはり人数の少なさだろう。一学年が全部合わせて200人、研究室に配属されるのは教官一人当たりで4人まで。この少なさは相当異様らしい。少人数教育はいいと言われるが、それにしたって1人は相当問題だ。

結局、なんだかんだ言ったって、孤独にさいなまれる生活そのものが変わることはないのだ。



2003年09月05日(金) 中間発表終了

ようやく中間発表が終わった。今にして思えば、何をあんなに焦っていたのかという気がする。じぶんのできることをやるだけなのに。できないことはどうがんばったってできない。自分のできる最善を尽くすことが一番だ。

と言っていられるのも、二日間、ゆっくり休んだからだろう。こんなにゆったりした気分で休んだのは本当に久しぶりだ。夏休み中にもサボったことはあったが、とてもゆっくり休んでいられる気分ではなかった。やはり、ちゃんと休まないと頭もまともに動かなくなるものらしい。

ファイナルファンタジータクティクスアドバンスという長い名前のゲームを買って、大学への行き帰りにやっているのだが、どうやらこれ、当たりらしい。意外とおもしろくてびっくりした。ただ、難度は低いので、きちっとやりたい人には不向きかも知れない。あと、多少面倒なので、慣れていない人にはきついかも知れない。プレイステーション版のファイナルファンタジータクティクスと比べると、多少扱いづらい感じはある。プレイステーション版は、あちこちにプレイヤーを助けるための工夫が凝らしてあったが、ゲームボーイアドバンスはそもそも操作するボタンが少ないので、なかなかそうも行かないようだ。



2003年09月04日(木) 中間発表の準備

中間発表の準備で死んでました。以上。

としか書きようがない一日だった。書いて、家帰って、寝て、起きて、大学来た感じだ。

なんかもう疲れた。



2003年09月03日(水) 中間発表

さてさて、だいぶ作業は進んだ。でも、これでいいのだろうか。内容にはまったく自信がない。

あわよくば今日ですべて終わらせて、明日は遊んで金曜日に発表しようとか思っていたが、やはり甘かった。明日中に終わるかどうかも怪しいところだ。いや、終わるのだろうが、内容がちゃんとできるのかどうか。

んで、今日は飲み会である。バイトはやめてしまったが、そこの人たちが誘ってくれたのだ。携帯哀歌の評判が良かったのだろうか。しかし、僕はこれしかネタがないのだが…。ほかにもいくつか確保しておくべきだろうか。

本当にいいバイト先だったのになあ。実に惜しい。なぜこうまでして卒論をやらなければならないのかと強く疑問に思う。何とかならないかな…。本気で方策を考えてもいいかもしれない。とは言え、どうあがいたって卒論を書かねば大学を卒業できないのだし、指導教授を変えるというのも現実的ではない。ただ、別にこの教授でなくてもできるような気はするのだが。いや、むしろこの教授じゃない方がいいような…。情報が専門なんだから、船舶のシミュレータって少し的外れだろ、という気がする。

ところで、ファイナルファンタジータクティクスアドバンスを始めた。ずっとタクティクスオウガ外伝をやっていたのだが、さすがに同じゲームを1回クリアしてそのまま2回連続でやっていたら飽きてきたのだ。で、結構いい感じだ。子どもっぽいと思ったが、それが逆に親しみやすい印象を受ける。ゲームとしての評価はなんとも言えないところだが。ストーリーの展開も、Webページ上などで前振りを見ていたので、突拍子もない割には違和感を感じなかった。突然異世界に紛れ込むと言う話にはなれているのかもしれない。よくそういうことを考えるし。変化を望まない割には、突然魔法が使えるようになったらいいなあ、と考えることが多いのだ。最近は、なぜか剣を振り回している姿をイメージすることが多い。何なのかよく分からないが…。

さて、飲み会に行くか。



2003年09月02日(火) 希望は見えるか

今のところ作業は順調に進んでいる、気がする…。とりあえず中間発表の構成を決定し、内容の整理を始めた。で、大雑把な内容をどうするかはほぼ決定した。残るは、実際にその中身を作っていく作業だ。

中間発表はPowerPointによるプレゼンテーション形式で行う。したがって、準備するのはPowerPointのスライドということになる。本来は文書も準備すべきなのだろうが、要求されてもいないものを準備するほどこちらには余裕がない。そんなものを準備するとなったらもう、すでに間に合わないだろう。

実際の作業となるとどのくらい時間がかかるのだろうか。30分ものプレゼンテーションはやったことがないから、とうぜんスライドを作ったこともない。だいたい、PowerPointの操作自体、それほど慣れてはいない。問題は山積みだ。ずっとこの調子だと狂ってしまいそうだが…。今後、もう少し余裕が出てくることを願いたいものだ。一応、その中間発表に載せる予定としては、実際に卒論が形になる12月くらいまで、ずっとシミュレータとにらめっこすることになる。まだ設計の段階で、具体的なプログラムはできていないからだ。実際にプログラムを書いて動かして、検証して評価すると言う作業が必要になるのだ。基本的にプログラムを書くのは好きなので、そんな作業をしている限りは問題ないと思うのだが…。だが、教授の意向でどうとでも変わりうるから、これから先、どうなっていくのか実に不安である。まあ、僕が頼りないからあれこれ言いたくなるのかも知れないが、それなら初めからきちんと指導してほしいと思ってしまう。うちの大学の卒論指導は比較的評価が高いのだが、この研究室に限ってはそもそも指導というのをしないらしい。

まあ、未来のことをいくら語っても、今の問題が片付かない限りはどうしようもない。きっと、多くの人がこんな状況の中、何とか暮らしているのだろうな。これでは、長期的な見方ができないのも仕方がない。政治に興味がもてないのも当たり前である。本来、政治に興味を持ち、関与し、意見を言うべき人たちが、日々の生活に追われて未来を考える余裕なんて失ってしまっているのだから…。

悩み多き人々は、いったいいつになれば救われるのだろう。その悩みをすべて解決してしまったら、後にはきっと何も残らないのだ。それがきっと、今の子どもたちの姿なのだ。なすべきことを失い、目標も持てず、ただ闇雲にそのエネルギーを発散しつづける。結局、どれだけ目の前の問題を解決しても救われることはないのだ。かと言って、今の余裕のない世の中では、多くの人が未来を考えることなんてできないのだ。そして、余裕があったとしても、みんなが未来を考えるとは限らないのだ。

僕だって余裕があったとしても、未来のことなんて考えたくもない。現状を省みれば、先が暗いことは目に見えているのだ。希望をもてる世の中にしなければならないのかもしれないが、この世の中に希望を見出すことなんてできやしないだろう。できるとしても、その希望のためにえんえんと努力するなんてうんざりだ。



2003年09月01日(月) 問題と対策

昨日、重大な事実が判明したので、あまりのんびりしていられる状況ではないのだが、過去の論文をじっくり洗ってみた。やはりまだまだある。これは極めてまずい状況だ…。でも、やるしかない。似ているのだから参考になるのは確かだ。それで何とか自分の研究を仕上げていかなければならないだろう。そんなちゃんとした研究なんて興味はないのだが…。しかし、過去の人との重複があっては話にならない。研究はあくまでも新しい内容でなければならないのだから。

どう考えていくかな。じっくり考えて書き記しておこうか。まずは主眼をそらすことだ。過去の研究者と同じ手法を使っていても、目的と結論が違っていれば問題はないはずだ。あくまでも手法が同じだととらえればまだ何とかなるはずだ。にしても、自分で考えた目的ではないのが痛い。いろいろ考えた末に出てきたものではなく、与えられたものだからな…。ここを練り直す必要もあるだろう。あとは教授と話し合いかな。いったいどこまで教授の意向を反映しなければならないのかは分からないが、そもそも教授の意思を受けて作業に取り組んでいる以上、ある程度は教授の意図が反映されなければならない。

教授が知っていてこんな事態になっているのかどうかは分からないが、自分の研究と類似した研究が多くある以上、それは示していなければなるまい。参考文献がやたら連なることになるが、どれも重要であることは間違いない。

なんか助教授の先生から内線で電話がかかってきた。MS Blastの亜種に感染していないか、とのことだ。パッチを当てたので大丈夫だとは思うが…。とりあえずさがしてみたが、亜種の一覧ってのが見当たらないのでそのまま放置しておいた。まあ、たぶん大丈夫だろう。この日記を上げたら電源を切ってしまえ。

さて、そろそろ帰るかな。


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