「隙 間」

2011年07月28日(木) 大森の楽しむ

なくしたときにそれが目立つ痛みになるのだから、手に入れなければいい。
ただし、それが目の前を通り過ぎて遠く見えなくなるまで、目を離さずにじっと見送るように。
手に入れられなかったのではなく、手に入れなかったのだというように。



群青に墨を流し込んだような夜空から、ぽつりと滴が落ちてきた。

ところにより激しい雷雨に気をつけてくださいと言われたような気がしたので、長傘をきちんと朝、持って出てきたのである。
万が一のための折り畳み傘は、常に鞄の底に畳み込まれている。これだけ準備万端、さあいつでもやってこい、というときに限ってやってこないのが世のあゝ無情である。

「お腹は、まだ痛いですか?」

そろそろと心配そうな田丸さんの声が、わたしに訊いてくる。

大森の一室であった。
お腹の痛みというと、腹がくだっていると思われているのではと心配してしまうが、そのことではない。
肋骨の裏に鈍く差し込む痛みのことである。

腰痛にかまけてしばらく口にしていなかったが、じつは抜け目なくしくしくと痛んでいたのである。あまりにも抜け目ないため、普段は見逃してしまいがちなのである。

「腰痛ていうか、坐骨神経痛じゃないの?」

どうやら痛む箇所がずいぶんと下であった説明をするとイ氏が首を捻った。

けっしてそればかりが原因というわけではないのだが、神経という文字がくっつくと何やら精神的な薄弱さのようなものを思い浮かべてしまう。

百ケン先生も然り、また先生の師である夏目漱石先生もまた、神経衰弱と縁があってこられたのである。
そこの仲間入りをする前に、文壇のはしにかかるようになるのが先決である。

「小説は、書けましたか?」

コロコロと毬と戯れるのが何より大好きな茶虎のような目で、田丸さんがわたしに向かってくる。

ノラなら迷わず抱き抱えて帰ってしまっているだろうその様子に、わたしは少しでも長くそれを見ていたい気持ちに襲われそうになってしまったのである。

いやいけない。
百ケン先生のノラではないのである。

「前に書いた作品でもいいので、今度ぜひ読ませてください」

これはなおいっそう恥ずかしくない作品を書くように努めなければならない。
今度持ってきますよ、とお愛想で流してもらうつもりでいったら、「楽しみにしてますから」と受け止められてしまったのである。

むむ。
むむむ。

わたしから「読んでください」と頼んだのではない。しかしせっかく「読ませてください」と興味に好意を添えていただいたのである。

書きかけの日記も梅雨を待っていたら梅雨らしくないうちに明けてしまい、入谷の朝顔市は取り止めですでにもう夏休みである。
待ってばかりではなくそろそろ絞めてしまわなければ、干からびて風化してしまいかねない。

そんな諸々のこともあり改めて思案しつつもイ氏と久し振りに本の話をしていたのである。するとイ氏が、退室しようとしたわたしに「久し振りに本の話ができてよかったよ」と。

そういえばたしかに最近、イ氏とは「人生の岐路」と「腹部の痛み」についてしか話していなかったのである。

本の話といっても、今夜は今読んでいる作品とチェスについて少し話しただけであったが、それでも確かに、イ氏とのいつも通りの会話はずいぶんと久し振りだったのである。

付き合いが長いのもあるが、こうして楽しみにしたりされたりするのは、なかなか得難い貴重な方々であり、今後もよりいっそう、したりされたりの間柄でいたいものである。

まずは早い内に一作。

はじまれば早いもので、はじめるまでが長い。
限られた中でならば、なお一層。
どれか迷う道なら、迷うほどの叉路がない道を。

思うほど複雑じゃあない、と明日の一歩を進められるように。



2011年07月24日(日) 「somewhere」それはきっと

枠からはみ出した生き方を、
自分には真似できない、
と目を細めてみるのは感心と心配からで。
はみ出したくてそうしたものは実はひと握りで、
あるものは成長と共に、
枠が小さくなっていたことに気付かなかっただけだったり。
押し出されてぎゅうぎゅう詰めの背中を前に、
力も術もなく立ち尽くしてしまっていただけだったり。



お盆休みに出掛ける先はなかなか決めきれない。
元来の優柔不断さと、何がというわけではない欲深さが決断を鈍らせてしまうのである。
これでは敬愛する百ケン先生の「阿房列車」のような旅はなかなか出来ないで困ってしまう。

困った挙げ句に、えいや、と指差しで決めてしまうのである。
だから、緻密に行程を組んだらもっと楽しめる有意義な旅になったのに、と帰りの車窓に思うことがままある。

次回はきっと入念に、と決意するが、決意したそばから車窓と共に背後へと流れ去ってしまい忘れてしまう。

「阿房」ならぬ「阿呆列車」は、快速快調環状線で運行中である。

「somewhere」

をギンレイにて。
ソフィア・コッポラ監督の甘木映画祭で金獅子賞を獲得した作品である。
御存じの通り巨匠フランシス・コッポラ監督の御息女であり、数年前には「マリー・アントワネット」で洒落た映像表現で女性から好評だった印象がある。

まるで蜷川幸雄と蜷川美香の父娘のようである。

しかし今回、ソフィア・コッポラは色使いやカット割り等で目をひいたりしていない。

ハリウッドスターであるジョニーの元に離れて暮らす娘のクレオがやってくる。
母親は、いつまでかはわからないがしばらく預かっていて欲しい、と。

ジョニーとクレオの久し振りの親子水入らずの日々がはじまる。
しかしジョニーの今までの暮らしといえば、フェラーリを乗り回し気儘に美女と過ごしたりと自堕落な有り様であった。
そこに十一歳の愛娘との新鮮な、愛しい生活である。

とはいえ、決して悪い父親の姿をさらすようなことがないように気を付けていた。
多少、美女に甘い態度をとりそうになるがそれでもきっちり娘の前では自重していたのである。

だから、苦しくなる。

娘との美しい日々に、自分がどれだけ空っぽな日々を過ごしているか痛感させられてしまうのである。

仕事をしてないわけではない。
新作の発表や記者会見で世界を行き来している。
映画祭で受賞もした。

しかし、どうしてもどこかに出来てしまう「空っぽ」さ。

クレオをサマーキャンプに送り出し、ジョニーは愛車のフェラーリで走り出す。
やがてフェラーリを荒野の路肩に停め棄てて歩き出す。

娘との美しい日々に相応しい自分を取り戻すことに、その道は続いているのだろうか?



正直、前評判ほど素晴らしい作品という印象はなかった。淡々と進み、淡々と終わる。
何か物足りない。
金の獅子が吼えたかもしれないが、わたしはただうむむと唸るだけである。

ソフィア監督の「らしさ」が感じられない。後でポスターや解説をみて気が付いたくらいである。

わたしが気になる監督のもう一作品であるなんたらコネクションというのも、監督の「らしさ」を感じられない作品になっているのだろうかと心配になってしまう。

わたしの心配などもちろん先方が気にするはずがなく、まったく余計なお世話である。
他人の世話を焼いている余裕などないのだが、自分の世話をもて余した挙げ句の余計であるから本心からの心配ではなく、釣りの小銭が財布に入らないからレジ横のなんたら募金の口に差し入れる程度のものである。

ああ。
この口調だとくどくど長たらしく綴りたくなってしまう。
切りがないので、今宵はここまで。

世間はすっかり夏休み。
子どもたちが駆けてゆく声が、開けた窓からあがってくる。

早くしろよっ!
ちょっと待ってよぉうぅ。



2011年07月20日(水) 「神様のカルテ」

風が吹いて。
顔を向け正面で受ければ向かい風に。
背を向け背中を預ければ追い風に。
強く前へ一歩。
遠く先へ一歩。
風はどちらにも吹いている。



夏川草介著「神様のカルテ」

映画化が決まったベストセラーです。
信州の地方病院の内科医・一止(いちと)が、同じボロアパートの怪しい住人や同僚の外科医や看護師や愛する妻らに支えられながら命と向き合う日々を描いた物語です。

夏目漱石の「草枕」を愛読書とする一止の語調で語られていて、いわゆる「である」「なのだ」などと古臭い言葉遣いが用いられています。どこか親しみがわいてきてしまうのですが、それだけではありません。
時代錯誤な一止の語調と現代医療とのギャップが、一地方病院と大学病院など諸々のギャップをうまく演出しているように思うのです。

映画化にあたってこの口調を普通の台詞に直してしまったとしたら、わたしはとても残念です。

しかし文字で読むからこその演出を、声で聞くだけになる映像化においてそれは難しいことかもしれません。
どう見事に解決するのか楽しみです。

一止役を嵐の櫻井翔、麗しの妻・榛名役を宮崎あおいが演じます。
ハルこと榛名が宮崎あおいさんというのはなかなか合っていると思います。
「夜は短し〜」の黒髪の乙女に加えてまた魅力的な人物が現れてしまいました。わたしの悩みは尽きません。

さて腰痛もずいぶん楽になってきました。やはり少しズレたのか、ひねったりせず、腰回りと下腹の筋肉を引き締めるように力を入れておけば、痛みを抑えられるようです。

階段ならそろりと下りられるようになったのですが、アシモからパナソニックのエボルタくんほどにまで回復するのはもうしばらくかかりそうです。

友との肉三昧を経たというのに、下腹周りがぺたんこに締まったままになっています。
日常的に意識して締めていると痩せられるというのはどうやら本当のようです。これは普段に支障がないお腹周りだからこそできることなのかもしれませんが、気になっている方は騙されたと思ってやってみてください。

深呼吸してお腹が引っ込んだ状態を保つようなイメージです。

夏に体型が気になるその前に、それを気にする相手がいないことに気がつきました。

take me,baby!
or leave me!!

束の間冷やされた雨上がりの空気に。
鳥肌立つ腕をさすりながら。
それまで恨めしかったはずの太陽を見上げる。
くちん、とくしゃみし鼻をひとすすり。

夏は草枕、富士見草。
阿房列車に夜露が散りゆく。



2011年07月17日(日) 「妖怪アパートの優雅な日常 六」とアシモ友

全盲の彼は母親が手をひいてくれるまで、じっとあそこから動かないでいるでしょう。
何時間でも、何日間でも。
動かずにいることこそが、今の彼にとって最も安全な世界だとわかるからです。

男の子は二十分間強、泣きもせずにじっと手をひかれるまで立ち続けていました。

これがあなたのお子さんの現実なのです。
不安でも、泣きたくても。
一度も誰かがそうしている姿を見たことがないのだから。
見ることができないのだから。
感情を表現するやり方がわからないのです。



男の子は現在、全盲の彼を受け入れ支えてくれる大学をみつけ、通っています。

「まじめで面白味がないつまらない男だとモテないから、面白いひとになってモテたい」

と恥ずかしがりながら、照れ笑いで答えていました。

以前に観たものか、その後のものなのか、そのドキュメンタリーと深夜偶然、再会しました。

まさに再会だらけの一夜でした。



香月日輪著「妖怪アパートの優雅な日常 六」

交通事故で両親を亡くし中学生で天涯孤独になった稲葉は親戚に預けられ、厄介者としてひとの家に居なければならない歯痒さから自立の道を選ぶ。

何よりも自立するための経済力。

商業高校で実務的に役立つ知識を身に付け、平凡でもいいが安定した人生を目指すことにした。寮に入れば、親戚の家を出ることもできる。

そうして入学式を前にしたある日、寮が火事で全焼してしまい入寮できなくなってしまう。
そこで格安のアパート「寿荘」と出会ってしまう。

「寿荘」は別名「妖怪アパート」
管理人は巨大な影の固まり、怪しい魔書禁書古文書を取り扱う自称「古本屋」(人間)、マニアの間では高名な自称「画家」と自称「詩人」(共に人間)、「祓い師」(おそらく人間)と「祓い師見習い」の女子高生(人間)、人間になりきってあらゆるサラリーマンを繰り返し続ける幽霊、児童虐待で母親に殺されたその後も何度も殺され続けていた子どもの幽霊、手首から先しかない料理の達人の幽霊などなどが共に暮らしている正真正銘の「妖怪アパート」だったのである。

天涯孤独で孤独と意地で凝り固まっていた高校生稲葉は、見事に周りの立派な大人と妖怪たちによって「常識の壁」をぶち壊され、強く逞しく「自立」と人生に本当に必要なものやことを学ばされ成長してゆく。

ひょんなことから稲葉自身もとある魔書の使い手になってしまい、鍛えもせずに魔書の持ち主でいるのは寿命を削ってゆくだけだと、経験豊かな先輩や住人たちに忠告され、寿命を削られない程度の体力作りである修行をはじめる。

それでも高校生活は怠ることなく勉学交遊に励み、孤独だった世界から世界が広がってゆきはじめたのだが。

見えない世界が見えるということは、見えなかったものやことまでもが見えてしまうということである。

「俺が目指すは公務員か、平凡でありきたりでも安定した人生」

との目標通りにはなかなかゆかず、ひとよりも比べ物にならないくらいに濃い青春学園生活を送ることになってゆく。これまでの人生を埋め合わせるには十分過ぎるほどの。



稲葉には彼を彼たらしめんとしてくれる長谷という友人がいる。
時には殴ってでも過ちを気付かせ、また時には余計なことは聞かずに信じてくれたり、誰にも見せないだらしなく緩みきった無防備な顔を見せてくれたり。
また勝ち負けではなく、友としてせめて恥ずかしくないようにあろう、と自ずと思わされたり。

そんな友人が人生においているというのは、何より素晴らしいことである。

さて、ふわふわした、ゆるみきった、だらしない姿をあらわにした一夜を過ごした翌朝。

わたしは二足歩行ロボット「アシモ」の姿に成り代わってしまっていたのです。

「ど、どうした!?」

寝起きの長谷、ならぬ友がギョギョッと固まるほどの衝撃を与えてしまうほどに。

昨夜寝る前に、少し怪しいと漏らしたわたしに、横向きとか負担にならない向きで寝なよ、と忠告してくれた通りに寝たはずでした。

「動くのが無理なら、俺だけで駅に向かうから……」
「俺の食事を奪う気か!?」

食いぎみで友の気遣いを真っ向否定させてもらってしまいました。
過去にも似たような痛みなので、ぎっくり腰ではなく、筋を違えたとか骨盤が開いたというかそういったようなものだろうと思います。

しかし時々、「夜は短し〜」の黒髪の乙女のロボットダンスのような歩行になってしまいます。

maybe〜♪
maybe〜♪
ズキズキかもしれない〜♪

例えばこれで、パシーンとシップを腰に貼って「大人しくなさい」とわたしをベッドにねじ伏せるようなひとがいたら、などとうたかたの世界に逃避してしまったりします。

二、三日はアシモのように、しかし荷物は軽くして、大人しく過ごしたいと思います。



2011年07月16日(土) 肉一夜

日曜日に友人とのやっとの再会を果たしました。

待ちに待った焼肉の夜です。
汚染わらの問題で世間が過敏になっているその真っ只中だというのに、と眉をひそめる方もいらっしゃるかもしれません。

ですが、ある研究者によると食事による摂取は代謝で体外に排出されるらしく、体内残留の心配はほとんどないらしいとのことです。
信じる信じないは個人の信じる目で判断して決めましょう。

まずは昼に合流し、新丸ビルにある鞄屋に行きたいという友と一緒に久し振りに椿屋珈琲店以外の目的でビルを上がりました。椿屋さんは丸ビルだったかもしれません。

それから昼食に銀座老舗カレー店「ナイルレストラン」でムルギーランチをいただきました。かつてテレビ出演などもされた名物オーナーは今も元気快活のご様子でした。

それから三省堂有楽町店で互いに本を物色しひとしきり目的の本を手に入れると、肉屋を決めるのと小休止の為に「十一房珈琲店」へ。
ここは珈琲が美味しいのはもちろんですが、とても居心地がよいお店なのです。

なんだかんだと四方山話をしてすっかり長居してしまいました。
そのおかげで頃合いもよい時刻となり、さあ「楽しいお肉の時間」です。

お店にかけた電話で、

「ナマモノは出せませんよ。刺身は出ないですからね。それでもいいですか?」

ことさら執拗に念を押されましたが、致死量の毒が混入されているわけではありません。
食べられないものを食べろと言われているわけでもありません。

なのになぜ、食べないでいられるのでしょうか?

わたしは食べる為に、食べたくて、食べるのです。

存分に、焼きました、漬けました、食べました。

おかげでわたしの話ばかりで、友はちゃっちゃと肉を裏返したりはじに寄せたり皿にわけたりしながらも、うんうんそれはこうだろうあれだよそうははあそういうことか、とやってくれているうちに締めの冷麺まで行き着いてしまっていました。

満足感に満ち溢れ、とろとろと歩いて我が家へ向かいます。

部屋に着いたら第二部の幕開けです。それは友もまさかと思っていたはずの幕開けだったと思います。

わたしはその、敢えてまさかの幕紐を引っ張りあげる気満々でいました。

なでしこジャパンの試合前にこれはまさに相応しいと勝手に決めつけ、さあ、開幕です。

「昔と立場が逆転するとは」

感慨深く、友は噛み締めながらうなずいていました。
なでしこジャパンの試合がはじまる数時間前に、きちんと就寝いたしました。寄る年波には勝てません。

寝待ち月が、ちょうど窓から見下ろしていました。
なんて素晴らしい一夜なのだろう、と。

まさか翌朝にあんなことになるだろうなどとは、露とも思っていなかったのです。

白い月が、笑っていました。



2011年07月15日(金) 「せんせい」

わたしたちは逃げているのではなく。
ただ一心に、目指しているだけだった。
そこにきっとあるはずのものを。
乱暴に掴まれた手は熱くて。
汗ですべらないよう掴み返す。
この先に何があるかなんてどうでもいい。
今はこの手のひらの痛みだけがあればいい。
それこそが得体の知れない者と危うげな者を繋ぐ、確かな証拠なのだから。





重松清著「せんせい」

教師と生徒、いや。
やはり「せんせい」という存在に対する物語を六つ収めた作品です。

生まれる我が子のために歌えるようになりたい、と教え子の生徒に夏休みの間ギターを習う物理の教師。
ロックンロールは「ロック」だけじゃなく「ロール」続けなくちゃならん。ニールヤングの曲と歌声がいいんじゃ、と。

画家だという美術教師は落選ばかりだったがある女生徒の才能を前にして真剣に指導するようになる。しかし結果は逆に悪くなってしまい、「妬んだんじゃ。才能を潰したんじゃ」と周りから言われてしまう。

前の担任に負けまいと意地になり、ひとりの生徒がどうしても好きになれずついに最後まで露骨にそうだと貫き通してしまった。同窓会で再会し、彼は教師になっていてこう言った。「せんせいみたいなこと、したらいけんと思っちょる」彼にようやく、せんせいは伝えられなかった言葉を口にする。

教師をやりながら野球部の監督を勤め「赤鬼」と呼ばれていた教師は病院で昔の教え子と再会する。途中で退学してしまった彼は「ゴルゴ」と呼ばれていたが、「そう呼んでくれて、覚えていてくれて、ぶち嬉しかったんじゃ」と笑った。
余命半年を告げられた彼は、「赤鬼は泣いたらいかんのじゃ。わしが死んでも、きっと」と妻に話す。そして「わしにとって、人生で最後のせんせいじゃ」とも。

当時の教師は、今のわたしよりもずっと若かった方ばかりという年齢になっています。
今のわたしは、誰かの人生で「せんせい」と呼ばれるにはこわいくらいに未熟者で、文句だけはいっぱしの口をきいていたりしています。

仕事で、まだヒヨッコだったわたしを「先生様」と現場監督にわざと呼ばれたりしたことがあり、やめてくださいよう、と笑ったこともありました。

学校の教師は、特別な「せんせい」という存在なのだと思います。
「せんせい」以外の何者でもなく、生涯ずっと「せんせい」であり続けるのです。

不完全でデコボコで、だけど紛れもなく「せんせい」であり続けている教師と、大人になったわたしたちは出会って「せんせい」と呼んできたことが人生の大切な一部になっているはずです。
よい思い出かよくない思い出かはそれぞれかもしれません。だけど最初に顔や名前を思い浮かべる「せんせい」がいると思います。

子どもたちがそんな「せんせい」と出会ってゆける可能性を、どうか摘んでしまいませんように。



2011年07月14日(木) 大森で粗忽な肋骨

それでいいと思うならそれでいい。
それがいいと思うならそれがいい。
それは限りなくやさしく、限りなくきびしい。
そしてわたしは、そこからうごけなくなる。



少し前のお話ですが日曜の夕に、古墳氏から画像が送られてきました。
題名は、

「明日からこれで出勤します」

画像を開いてみると、黄金の聖衣(クロス)が!

なんて素敵な格好なのでしょうか。思わず、

「超COOL!!ビズですね!」

と返してしまいました。
秋葉原駅外部一階の連絡通路に展示されていたのを古墳氏が発見して、わたしに知らせずにはいられなかったとのことでした。

世代がまったく同じなので、観ていたアニメや漫画の話題は通じないことがありません。

「腹立ちますよね。怒りゲンドウ、ですよ」
「……ぬるいな」

とか、

「先に帰ります。ごめんなさい、僕には帰れる場所があるんです」
「三、二、一……とか数えんよ」

エヴァやガンダム等のセリフでやり取りができたり、「あばれはっちゃく」は「逆立ち」派か「ブリッジ」派かとか、「ナイトライダー」派か「エアーウルフ」派かとか。

定時を過ぎるとそんな楽しい会話の時間が始まったりするのです。
いい年した大の男たちが、いったい何を話しているのでしょうか。完全にアヤシイ光景です。

さて大森です。
実は先週半ばから腹部に疼痛が続いています。はじめは右側肋骨の裏側がジリジリと痛み、週末をまたいだら左側にそれが移動して居着いてしまったのです。

胆嚢? 胃? すい臓?
運動した覚えがないので、原因は内臓を思い浮かべてしまいます。傷んだものを食べたわけでもなく便は普通。
うむむ、とイ氏に訊いてみたのです。

じゃあ、診てみようか、と診察ベッドがある別室へ。

「はい靴脱いで寝て、お腹出して」

わたしは躊躇ってしまいました。
ベッド脇にはカルテをギュッと両手で抱き締めている田丸さんがおずおずと付き添ってくれていました。
靴下は履き込んで親指のあたりが薄くなったヤツを履いてきてしまっていなかったか、頭の中で今朝起床したところから再生し直します。

大丈夫、と靴を脱いで仰向けに寝たところで、はたとまた停止しました。
あられもないお腹を出さなければならないのです。うら若き女子である田丸さんの前で。えい、そこまでポッコリにはなっていないし彼女も看護師だから、と意を決してさらけ出しました。

イ氏が触診を始めると、「外すよ」と言うなりわたしのベルトをカチャカチャと外しはじめたのです。

ああ、ああ。

恥ずかしくなるようなみっともない下着を履いてきていなかったか、今朝シャワーから出て着替えはじめたところから再生し直します。しかし巻き戻しが追い付きませんでした。

ぐっ、ぐっ、とイ氏はすでに下腹部や腿の付け根あたりを診はじめていました。
田丸さんは、すすす、と後退って気を遣ってくれていました。素敵な方です。

どうやら、内臓ではなく肋骨そのものの傷みではないかということでした。
内科医ではありませんがイ氏の言うことに思い当たるふしがありました。

運動は誓ってしていません。
ですが先々週、先週末と、必ず床に座りベッドに寄り掛かった状態からそのままのけ反った姿勢で、気付くと寝てしまっていました。

両手を大きく広げて。

豪快な格好です。
きっとそれで肋骨を傷めてしまったのだろうと思います。

カチャカチャとベルトを鳴らしながら身繕いする姿はあまり格好よい姿ではなく、イ氏が先に元の部屋に戻ってしまったので、靴べらを持った田丸さんとふたりきりです。
なぜか焦って手元が落ち着かず、しかもいつもよりひとつきつめの穴を通して締めてしまいました。
むぎゅう、と鳴いても緩め直す余裕はなく、そそくさと靴べらを受け取ります。

男ってヤツは、といったところでしょうか。
もちろん、独りよがりな心配事にしか過ぎません。

わたしの後にもうおひとかたいらっしゃっていたので、あれやこれやとお話する時間がなくて残念でした。

大森駅に向かうわずか五分たらずの間ですが、腹筋くらいは多少鍛えようかと思いました。
その前に、しっかり肋骨の補強をしなくてはなりません。

だけどすっかり安心です。
もしかすると食事を自重しなければならなくなるかと、腹はらしていました。

今週末は、絶対に負けられない闘いが、そこにはあるのです。

友よ、わたしは腹ミをく食って待っています。

動かなければけして景色も変わらない。
流れるだけの景色は与えられたもので、
みたい景色があるならば自ら一歩でも動いてみるべき。

その先にある景色が望んだものとは限らなくても。
その足で選んだ景色だと決して悔やんだりしない明日を。



2011年07月10日(日) 「ソウル・キッチン」

暗闇に青く切り取られた水槽に
ゆらゆら揺らめく姿に映すのは
静寂の神秘さか孤高の寂寥か。

関東地方も梅雨が明けたようです。しかし梅雨らしい日々がこちらは少なかった気がします。
ニュース速報などで西日本や北日本などでは大雨警報が出されていたりして、まんべんなく雨は降ってくれればと思ったりもしたのですが。

午前中はまた久し振りにグラリと地震で揺れたりして、案の定東北地方では津波が計測されていたり、すっかり油断している日々に気が付きました。
油断大敵です。

横積みにしてある文庫の山を、本棚に押し込みました。

「ソウル・キッチン」

をギンレイにて。

ウマイ料理と、
イカした音楽、
アツい男と女がいれば、それだけでいい。

ドイツ・ハンブルグの倉庫街にある多種多様な人種に応える大衆食堂「ソウル・キッチン」オーナーのジノス。
恋人が上海へ転勤、ぎっくり腰でまともに動けなくなり、保健所からはキッチンのオール・ステンレス化を求められ、ついてない事が続いている。

仮出所で出てきた兄、酒好きの変わり者だが一流のシェフ、ウェイトレスのルチア、付属のボート小屋に住み着いているソクラテス爺さん。

ジノスが昔の同級生と偶然再会し彼が「ソウル・キッチン」の土地に目を付け、あの手この手で買収しようとしてくる。

俺たちの「ソウル・キッチン」を奪い返せ!

この作品。
本っ当に、観たかった作品でした。

それが我がギンレイ・ホールでかかるなんて!
やっぱりギンレイは、最高に相性がよい名画座です!

そして、観たい、と思った作品が間違いなく最高だった感触を味わえたことに、感動でした。

数行だけの作品紹介と試写会のレビュー、予告編というどれを信じるか自分次第の、もちろん当たり外れはあるけれど信じた自分に後悔を覚えないこと。これがプラスアルファの満足感を得られた時は、最高に気分がよくなるものです。

ギンレイ・ホールは、わたしのソウル・シアターです。

煙草と文庫と珈琲と、
イカした映画があれば、
幸せに生きてゆけます。

ギンレイ上の空きテナントに引っ越したくなりますが、そんな「探偵物語」の松田優作さんのように男前にはなれません。あくまでも想うだけ、にしておきます。

皆さんにとっての「ソウル・フード」はいったい何でしょうか?

どんぶりいっぱいの肉そぼろ丼、マギーの効いた手作り餃子、実家の味ですが、それ以外では。
「まんてん」のカレーライス、「徳萬殿」のナス肉炒めかレバニラ、「かつ仙」のカツ丼、「鳥つね自然洞」の親子丼。
わたしの魂を力付けまた救ってくれている愛しの面々です。

「焼き肉」は外してあります。
別枠扱いで申し訳ありません。

限られた時間をせめて後悔だけはしない覚悟を。
明日も、来年も、数十年後も、
持ち続けていられますように。



2011年07月09日(土) 「やさしいため息」

真っ直ぐな道をゆくのなら太陽に向かって延びる道を。
夜明けには眩しい光の中に希望を描き、
夕暮れには長く伸びた影の中に足跡を探し、
今日の一日を確かな記憶に残す。
真っ直ぐな道をゆくのなら太陽を背に歩き始める道を。
昨日の名残がまだあるような影と向かい合い、
黄昏には背後に名残惜しげに長く引き摺る影を思い、
明日の一日をまっさらな白紙に思い描く。

気が付かないうちに七夕が過ぎてしまってますが、その少し前の日に友から久し振りの連絡がありました。
余りの久し振りの話に、その時には確かに「七夕かっ」とツッコミするべきか迷ったのを覚えています。

青山七恵著「やさしいため息」

放浪癖がある弟とばったり電車で再会し、その日から姉弟のふたり暮らしがはじまります。
弟は友人の家を転々とし、同居者の一日の話を聞いて日記につけていました。
姉もまた一日の報告をし、それを弟はノートにかきつけてゆきます。

たった数行の毎日に、これほど起伏のない面白味も何もない毎日を自分が過ごしているのかと思い知らされてゆくことに気付くのです。
あまりにつまらないので、ちょっとした嘘を混ぜてみているのにも関わらずです。

たとえば仕事帰りに何もなかったのに、飲み会に誘われたけれど断った、残念そうな顔をされて申し訳なく思った、といったような少しは代わり映えするように見栄を張ってみたりする嘘です。

それでも、自分の毎日の薄っぺらさにうちひしがれてしまいます。ごく当たり前の毎日で、誰もがきっと場所や相手が違うだけで同じような毎日であるはずなのにです。

弟の友人と引き合わされ、付き合ってみようとしてみます。しかし彼は、誰とも繋がりを求めたり執着しようとしたりしない男で、弟の彼の日記を見つけて読んでみても、彼以外の存在との繋がりが感じられないのです。

誰かと付き合うとか自分には無理なので、と言われてうまくゆかない結果になるのです。
いつまでいるのかわからない弟、いついなくなるのかわからない弟に、つい当たってしまいます。
翌日から荷物と一緒に姿を消してしまった弟。

実家の両親に、弟がまたいなくなってしまったことを伝えます。

うちに帰ってきてるわよ、と母親にさらりと言われてしまいます。
今までだって、どこにいるかくらいは必ず連絡してきていたことも、初めて知らされるのです。

子どもの頃からずっと、いついなくなるのかいつ戻ってくるのかどこにいるのかわからない弟を心配するのは疲れるだけだと、両親も自分と同じように割りきっていたのだと思っていたのです。

芥川賞受賞第一作、といういわば若々しい作品です。

巻末に、作家の磯崎憲一郎氏との対談「これから小説を書く人たちへ」が収められています。
おふたりとも社会人を経て作家デビューをしています。
仕事をしながらよく書けるね、との周囲からの疑問に対して、

「ぼくたちは、小説の中に生きている」

と簡単明瞭に答えているのです。
普段の生活の時間の中に小説を書く時間があるのではなく、小説を書く時間の中に普段の生活の時間があるということなのです。

しかもそれは一日に何時間も書き続けるわけではなく「小説の時間の中に生きている」のだからいつでも思い立った時間に書いていて、普段の時間を割くのとはそもそも感覚が違うのです。

たしかにその通りです。

ちょっとふたつの時間を別けてきてみたのですが、そちらの方がわたしにはよっぽど辛いものでした。
何をしているのか、どうしたいのか、キャパシティが足りないくせにエンジンをふたつ積み込むようなもので、片方のオーバーヒートの熱でもう片方も火を入れる前にダメになってしまうようなものです。

ひとと同じ土俵に並んで見劣りしないように、という自分はやはり自分ではない自分になっているのであって、土俵はひとつではなく、ましてや同じである必然性はないのです。

自転車でも頑張れば登山はできるかもしれませんが、宇宙にはゆけません。
宇宙にゆけるロケットで、近所のスーパーにはゆけません。

それでも、やってみて初めてそれがわかることだってあります。

目指す先がどこであろうとも、
たどり着けるかわからなくても、
その一歩一歩が、
自分の足によるものでありますように。



2011年07月06日(水) tune up

点滅する青信号に向かって走る。
走っても走ってもたどり着けない。
それでも走るのをやめない。
胸はキリキリと締め付けられ、
膝はガクガクとおかしな音を立てている。
こらえきれずにアゴが上がると、
真っ青な空に、白い雲がぽっかり浮かんでいた。
だからまだ、走り続けた。

随分と髪が伸びてきています。
いきつけの床屋のマスター曰く「賞味期限三ヶ月」などとうに過ぎてしまってます。
わたしは猫よりも狭い額なので、長くなると分けて上げて目に刺さらないような髪型にまとめはじめたのです。

「ずいぶん伸びたんだね。でもなんかいい感じじゃん」

先日の、週に一度の自社の連絡会で顔を合わせた六本木さん(二佐木さん夫人)にしげしげと眺められた後でいわれました。ついですぐ二佐木さんからは「サラリーマンっぽいじゃん」と。

うーん。
これはよい意味として受け取ってもよいのでしょうか?

まさにうだるような暑さですが、夏バテでお身体を壊されてはいませんでしょうか?
わたしは夏バテ解消にもなるはずの入谷の朝顔市が、震災による自粛ムードで中止になってしまいショックを受けていました。
毎年の楽しみにしていたコンビニ袋に溢れだす「極限盛り」な焼きそばは、ソースが辛めでB級祭り焼きそばの王道だと思います。

朝顔やゴーヤ等の蔦植物で日差しを防ぎ、空調負荷の軽減やさらに節電にも繋がると言われていますが。
誰かと一緒に朝顔市を巡るなんて素敵な過ごし方になるのは、いったいいつのことやら、といった感じです。

ところで、最近は仕事以外の時間は常に聴いている音楽をいつもとは違う曲を聴いていたのですが、三日間くらいでしょうか、新鮮な気持ちだったのもそこで塞がってしまい、いつもの曲に戻したのです。

tune up #1

ああ!
もう、こらえることができません。
恥ずかしいとわかっていても、頬が緩んでにやにやしてしまいました。

December,24...

「zoom in!!」です。
「RENT」の曲たちはたちどころにその世界へと誘います。
iTunesで再生回数をみる機会があったのですが、どれも数百回という数字が表示されてました。
ダントツの数字に現実味が感じられなかったのですが、確かにこの二三年ほど、三百六十五日ほとんど毎日、ひたすらオールリピートで聴いていたのです。

うわぁ……。

逆に「RENT」が耳元で聴こえていないプライベートな時間の方が少なく、どこか何かが欠けているような感じがして、そわそわしてしまうのです。

「RENT」はもはやわたしのヘモグロビンです。ドコサヘキサエン酸です。
ブロードウェイでの公演が復活するらしいですね。オフブロードウェイで、キャストは世代交代などするのでしょうか?
オフブロードウェイからというのも、リスタートの意味が深く込められているのかもしれません。

最近、頭痛を伴う眠気に襲われることがありますので、睡眠管理をしっかりした上で、エアコンのタイマーを使ったりして用心しようと思います。

横断歩道は白いところだけを踏んで渡るようにしています。

You will see...?



2011年07月03日(日) 「飯と乙女」

振り返ると自分の足跡はいつでも乱れていて。
雑でいびつでただ見事だった白浜を汚してしまっただけのように。
顔をあげるとまっさらな美しさに心を打たれて。
きっとそこから一歩も動けなくなりそうで。
だから目をつぶり、せめて振り返る方を選ぶ。
汚してしまう罪をせめて確かめながら進む為に。

贅沢なことだと思いつつも、本能が求めるままに映画尽くしの三日目です。
娯楽ではありますが、自分が書くかたち書き残し等が、ふと頭に浮かんできます。その為にも必要なことと言い聞かせて正当化しています。

どうしても観てみたい作品がありました。

「飯と乙女」

を渋谷ユーロスペースにて。
ブッダの食にまつわる言葉と説話をモチーフに、三組の男女を描く物語。

ダイニングバーの調理担当である沙織は、ひとのために食事を作り食べてもらうことが大好きで、いつか自分の店を持ちたいと思ってます。
だからお客さんに少しでも食べ残されると悲しい気持ちになってしまいます。

そんな中、常連のひとりである九条が決して料理を頼まないことを気にして、カツサンドをお土産で持たせるのです。しかし九条に渡したはずのカツサンドを、托鉢僧がムシャムシャ食べているのを見てしまうのです。
九条には食にまつわる因縁があって、食べることができなかったのでした。

常連のもうひとり美江は、同棲している彼が働こうとしない口だけ男のストレスから過食症になり、常に食べて、そしてすぐにトイレで吐き出すことを繰り返す日々でした。
しかしとある日、いつも通りに吐き出せなく、妊娠したことに気が付くのです。
彼に「生かすか、殺すか」尋ねます。

「俺が、食わせる。
俺は、口だけじゃない」

翌日から皆の前から彼の姿が消えてしまいます。
「わたしが食べちゃった」
美江が冗談っぽく、答えるのです。

美江の勤めている会社の社長は、といっても社員は美江ひとりきりの小さな個人会社ですが、いつも向かい合わせでパソコンのモニター越しにパクパクバリバリボリボリムシャムシャ食べている美江を見ながら、いつも弁当を蓋で隠して食べていました。

美江が弁当箱の中を見てみると、はじめから何も入っていない「空っぽ」だったのです。

「食べなきゃ生きてゆけないなんて、
面倒くさくて嫌になっちゃうね」

苦笑いで誤魔化します。
しかし資金繰りが苦しく、せめて自分の昼食代だけでも削って給料に当てられるようにしなくてはと。

社長の妻と娘はこれがまたよく食べるのです。
大皿に山盛りキャベツの千切りをぐるりと囲むコロッケの量や、間食に娘はきゅうり丸ごと一本を味噌のパックを抱えてバリボリかじっているのです。

やがて自分は晩御飯も食べなくなります。食べて帰ったと嘘をつき、だけど空腹に耐えきれず夜中に用意してあった翌朝の娘の弁当を、食べてしまうのです。

「即身仏って知ってるか?」

後悔から段ボールハウスに籠って自分も即身仏のように絶食しようとするのです。

ブッダが断食していた時、村娘が不憫に思い差し出した乳粥を口にします。
そしていたずらに食を断つ無意味さを悟るのです。

作中、

食べる為に生きるんじゃない。
生きる為に食べているんだ。

という言葉だったのが、

食べる為に生きるのも、
生きる為に食べるのも、
同じことなんだ。

と最後には変わります。

コの作品は、とても素晴らしい作品です。
料理がとても美味しそうに見えて、食欲がそそられてしまいます。
食事はとても素晴らしいものなのだと思い出させてくれます。

そして誰かと食べることや、誰かの為に作ること、そしてそれを食べることの素晴らしさと大切さ。

「食べる楽しみ。食べる苦しみ」
「すべての苦しみはおよそ食糧から生ずる」

是非、観てもらいたい作品です。

それが罪だと不必要な自責にかられるよりも。
それは与えられたものだと幸福に思える日々を。

それでは。



2011年07月02日(土) 「トゥルー・グリット」

目覚めて目の前に広がる天井に見覚えがなくても、
それは見慣れているはずの天井で。
見慣れたつもりの天井が実は見知らぬものだったとしても、
それならどこだろうと同じ天井で。
明日の朝を迎えるならば、
今ここではないどこかで。

洗濯機の不調で一回に二時間くらいかかってしまっています。
排水のセンサーがどうにも悪くなっているみたいなので、ピーピーけたたましく鳴る度に駆け寄ってボタンを押し直してあげなければなからず、部屋から離れることができないのです。

そうして朝から待機してるうちに、気付くと夕方前あたりからの行動になってしまって一日がもったいなく過ぎてしまうのです。
寝てしまわなければ昼過ぎには行動できるのですが、気を取り直して。

「トゥルー・グリット」

をギンレイにて。
王道の西部劇です。
マティは父親の仇を討つため保安官のコグバーンを雇います。コグバーンは「真の勇気(トゥルー・グリット)」と呼ばれていたベテラン保安官でしたが、少し変わり者だったのです。
コグバーンとは別にテキサス・レンジャーのラビーフも同行することになり、三人の旅が始まります。

変わり者でお酒ばかり飲んでいるコグバーンと、犯人はどんな悪人でも生かして捕まえる主義の真面目なラビーフは、お互いに張り合う場面がありながらも理解はしあっています。
そこがまだわからない少女のマティは、たまについてゆけないこともあったりします。

大人の男のわかりづらいけれど憧れてしまう信頼関係。

荒野で我が身は自分で守らなければならない中での乱暴でがさつに見えるそれは、ついつい痺れてしまいます。

最近なんだか映画尽くしです。
衝動と願望に素直になってしまってます。



2011年07月01日(金) 「バビロンの陽光」「見えないほどの遠くの空を」

手を伸ばしてみなければ届くかどうか、
触れられかどうかさえもわからず。
しかし手を伸ばさず見ているだけなら、
夢か現かいつまでもなくなることもなく。

一日は映画サービスデーです。
観たい作品はすでに、入念に選出済みでした。
急いで仕度をして定時に会社を出ました。できれば二本観たかったのです。

「バビロンの陽光」

シネスイッチ銀座にて。
フセイン政権崩壊間もないイラク。老いた母は孫を連れて、戦地からもう九年間も戻らない息子を捜す旅に出ます。

祖母と少年は乗り合いバスやヒッチハイクをしながら砂漠の中を収容所になっている刑務所を尋ね歩いてゆきます。
しかしどの名簿にも名前は見つからず、係員から砂に埋もれた「集団墓地」を当たってみることになります。

「集団墓地」とは穴を掘って無分別にまとめて埋葬されたものです。
衣服や所持品等に名前があればわかることもありますが、何せほとんどが白骨化してしまっているのです。
祖母は誰ともわからぬ白骨たちの前にくずおれるしかありませんでした。

母親も既に亡く祖母とふたりきりでこの旅に出た道程で、孫のアーメッドは幼いながら決意するのです。
おばあちゃんを守って、ふたりでちゃんとしっかり、生きてゆこうと。
老婆と小学生ふたりきりの危なっかしく見える旅を道中色々な親切な人々に支えられ助けられてきました。いつまでもそれではいけない、と気付いたのです。

そう決意した、結局父親の骨の一片どころかいつどこで亡くなったのかその確証さえも得られぬまま家に帰ることにしたはずのトラックの荷台の上で、アーメッドが眠る祖母を見ると……。

生死の定かもわからぬまま何十年近くも、諦めも望みもない想いを抱えて生きてゆく。これがイラクの現実だそうです。
何十万人もの不明者。判別するのは不可能。いったい何を信じ祈ればよいのでしょうか?

続いて場所を移して、

「見えないほどの遠くの空を」

をヒューマントラストシネマ渋谷にて。

映研の仲間たちと共に、学生生活最後の作品を撮影する監督の賢。
主演女優の莉沙と衝突しながらも最後のワンシーンを撮影しようとするのですが、雨で撮影の中断を余儀なくされ、さらに撮影再開の前日不慮の事故で莉沙が死亡してしまいます。

未完のまま一年が過ぎ、賢は莉沙にそっくりな女性を街で見掛け、後をつけてそして、撮り残したワンシーンを撮らせて欲しいと頼みます。

彼女は莉沙の双子の妹で留学していたイギリスから帰ってきたところだというのです。
当時の映研仲間に連絡をとり、なんとかラストのワンシーンを撮影できることになるのです。
そうしてラストシーンを撮り終え……。

正直なところ、学生の卒業作品のような感じにみえました。ですがそれ自体が演出ともとれる感じなのです。
さらに、双子の妹が嘘なのか本当なのか、虚が実でしかし実は虚で、とわかりやすく錯綜させて組み立ててあって、虚に付き合うから味わえる面白さがあって、上映後はすっかり満足感でいっぱいになれました。

何よりも莉沙役の岡本夏月さんが大塚寧々さんのような透明感があり素敵なのです。

台本の台詞をめぐっての役者と監督の衝突ですが、先日の「もうひとつのシアター!」での有川浩さんのあとがきを読んだ時にも考えました。

読み手によって好きに受け取れる世界と、読み手に感じてもらいたい世界とは、必ずしも一致はしません。
それは世界を感じさせたいのか世界に関係なくメッセージを受け止めて欲しいのかによっても違います。
もちろん世界でメッセージを伝えるものもあります。

澄んだ空気の朝を迎えられたのは、きっと真夜中に人知れずひっそりと降った雨のおかげかもしれず。
草露のようなものでも恵みを感じられる明日が続いてゆきますように。


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