「隙 間」

2011年04月28日(木) 「プリンセス・トヨトミ」

万城目学著「プリンセス・トヨトミ」

随分長くかかってしまった。

もっと気軽で、娯楽的な物語のはずであった。

いや。

たしかにその通りである。
時間をあけながらであったり、気力尽き果てつつであったりしたせいもあるが、途中、飽きが漂いかけたところがあったのである。

比べてはならない。決して、森見登美彦氏と。

同じように関西の具体的な街を舞台として描かれているとはいえ。

この物語は、大阪の男たちの、滑稽なほど純朴な愛の物語である。

愛というのは、情愛、である。

この先を詳細に語ると、大阪国の手によって妨害、排除されてしまうおそれがある、る……ありまんねん。

そないなこと、ほかしとけっちゅーねん。
ええから、このインチキ関西弁、元になおしい。

女たちは、男たちよりも、よっぽど強かなのである。

最後になって、おおっ、と思わされてしまった。

建築に携わっている人間として辰野金吾の名前が出てくるのは、なかなか嬉しいものがある。

東京駅が、それの有名な作品のひとつである。

現在、建築当時のそのままの姿を取り戻すべく工事中だが、赤レンガの、といえば、ああ、と思うだろう。

東京駅といえば、内田百ケン先生の「阿房列車」など、とても縁がある駅である。

食堂で腹を満たし、いや、正しくは列車でお酒を楽しむまでの間繋ぎで、発車時刻になるまでの待ち遠しさを、埋めるのである。

今は「駅ナカ」といって、様々な店舗が構内に軒を連ねているが、女性らの圧倒的多さに、どうもわたしなどは落ち着かないのである。

そうでない方には、とても楽しめるようになっているのである。
なにせデリ・スタイルの店が、目移りするほどある。駅弁を選ぶだけではなく、ここで様々な、自分なりの弁当ができる。

帰宅しておかずにするのも、もちろんよい。

さて。

かなり、ヤバイ。
思うよりもダメージが深く強く、響いている。

やるべきことと、やってあること、それらの境目がなくなっている。

たがだか一時間程度の前までのことが、順序をつけて思い出せない。欠落する。

これが、どうにもマズい時期のわたしの、現実にある事実なのである。

思い出そう、考えよう、落ち着こう。

ひとつ瞬きをするつもりが、目を開けると五分十分が過ぎていてますます境目がなくなってゆく。

これ以上、誰かと関わっているのは無理だ。

明日明後日もあるから、と共に仕事している古墳氏に言い切って席を立つ。

「はい、お疲れさんでーす」

にこやかに手をふってくれる古墳氏への後ろめたさを感じる余裕すら、なくなっている。

せめて周りと同じように働けないのか。

貧弱さに、ひたすら参ってしまう。

膝が崩れないように、足早に駅へと向かう。

rent rent rent rent rent!
we not gonna pay rent!

バケツストーブをひっくり返し、火の粉をアパートから撒き散らすマークとロジャー、住民たちが、叫び続けている。

駅ビルに入ったところで、突然、膝が抜けた。

崩れた側の肘を、誰かが慌ててささえてくれた。

おいおい、早いよぉ。
追いつけないかと思った。

「ひざカックン」をわたしにきめてみせた二崎さんとその奥様の明子さんだった。

はっはっは、見事に崩れたねぇ。
危ないから、やりすぎだって。

関わっていられない、とは前言撤回である。
膝と一緒に、固かったものも砕いてくれたようだった。
疲れてヘロヘロなだけの有様なら、このひとらには見せても大丈夫。
同じ時間を共有していないから。

ああっもう、疲れてヘロヘロなのに、なんで夫婦仲良く帰ってるなかにわたしを巻き込むんですか。
いやいやいや。

二崎さんはこの手のからかいが苦手である。
どうだコンチキショウ。

連休はどこか行かないの?

明子さんが旦那様である二崎さんをみかねて、話を変える。
うむ。夫婦だ。

お仕事ですよ、もう。
うそ、かわいそう。
カワウソですよ、ホントに。
あ〜……。

今度は明子さんが返答に困っている。

連休明けから、山口に常駐になっちゃってさぁ。

二崎さんがダメージから回復し、驚きのカウンターパンチを。

はぁぁあっ?

まがりなりにも会社の目上の方に対して、思いっきり失礼な反応である。

じゃあ、とわたしは明子さんを振り返り、

「フグ」送ってもらいましょう。
なぁんでみんな「フグ」なんだよぅ。

二崎さんが、やれやれと笑う。

発想が貧困なもんで。
でも妄想はすごいんでしょう?

明子さんが、お多福さんから聞いていたのだろう妄想劇場のことを指していう。

もう、そうなんです。

いや。いたって健全でR指定なんか、映倫なんか問題ないやつですからね?

言葉を失っていたふたりに、正すべきことはつたえておく。

お多福さんのことだから、きっとまともに話してはいないだろう。
さらにケンくんが膨らまし、ねじってあるに違いない。

何はともあれ。

仲良きは美しきふたりと、お疲れ様でした、と別れる。
別れた後は、ふたたびはじまるしばしの戦い。

帰りの品川からの山手線内回りは、比較的座れる。
それがありがたい。

明日からの休日出勤は、やや時間の融通をきかせて、この時期を早く乗り越えるようにしなければならない。

薬を飲めば治るというものではないのだから、なんとも読めない困ったものである。

手っ取り早いのは、腐るほどどかんと休む、なのだが、その「どかんと」の加減がムツカシイ。

あちらの苛酷さを思えば、わたしのこの程度はたかが昼飯抜きの一日のつらさであり、だから言葉を飲み込むしかない。



2011年04月25日(月) 阿佐田、哲也だ。

一昨日の時点で、手詰まりだった。

とっとと連絡して、ネをあげておけばよかった。

本社の内職的仕事が、なぜ今、わたしをここまで追い詰めているのだろうか。

金曜の夕、大分県が本社からわたしの席にやってきて、しまりのない顔でエヘラエヘラ手揉み足揉み話しかけてきた。

「竹さん、頼んでたやつの残り一個なんだけど」

突然だが、わたしはイチゴのショートケーキは、イチゴをはじめのうちに食べてしまう。

しかし、頼まれごとの仕事であれば、厄介そうなのを先に片付け、後で地獄に閻魔様とならないようにする。

先週末で、残りはひとつ、手間の掛からないものだけにしていたのである。

「明日出社して片付ける。大丈夫、簡単なのしか残してないから」

椅子の背もたれ越しに振り返ると、大分県はまったく聞いてないふりをして、話を続けようとする。

「新しいの、データ入れといたから」
「いや、だからとっくにもらってあるだろう」
「だから新しいの」

もらったデータが間違えてたのか、いや違うらしい。
もらったはずのデータが、無くなっていたのである。
その代わり、見たことがない名前のデータ、フォルダが、鎮座している。

カイジならば、

「やめとけ! 見れば後戻りはできない。そう、蟻地獄。罠とわかって飛び込むのは、愚か者だっ!
虎穴に入らずんばなどとほざくのは、単なる慰め、言い訳、現実逃避。
賢者は、罠になど近づかないっ!」

ざわざわざわ……。

やめろっ!
わからないのかっ!
勝ち負け自体、妄想。
戦うことなく生きる者こそが、真の勝者。
勝ち負けを意識し、支配された時点で、お前はすでに敗者の仲間に入ってるんだ!

「もうね。兄さんにしかできないんすよ。他の誰にも出来ない、絶対に」

事実と現実を混同するな。
出来るヤツがいないのは、事実。
しかし!
現実は違う!
お前は誤魔化されようとしているのに気付かないのか?
すり替え、詐欺、巧妙な口上。
責任の転嫁!

「本当に、参ってるんすよ」

知るか、そんなこと!
今さらになって参るのは、自己責任。

「BIMが一番使えるのは、竹さんだけなんですから。しかもこんなの、僕にも他の誰にも出来そうにないっすから。
本当に、お願いします!」

情にほだされるな!
おだてにのせられるな!
ほだされ、のせられてる時点で、ワナだ!

先週手分けされた中に、これが入ってなかった時点で、油断していた。
楽観視していた。

その結果がこれだっ……!

広いオフィスに、たったひとり。
内職だから、仕方ない。

がしかし、である。

調子に乗せられて引き受けた手前、誰にも助けは求められない。

警備員が巡回にやってきていた。

「退出予定時間とサインをお願いします」

時計は深夜十一時を回っていたのである。

出掛けにスーツを着なかったのは、泊まらない意思があったからである。

しかし終電はもうなくなる。

二時か三時か。

「何時でも、徹夜でもいいですよ。目安ですから」

徹夜は、イヤだ。
じゃあと二時と書き込む。

周りは誰もいない。
自然とつぶやきが増え、声も大きくなる。

お前がそこまでやらなきゃならない義務はないはずだ。
やめちまえ、こんなこと。
お前は充分よくやった。
あとは、本来やるべきだったヤツらが、やるべきだ。

ざわざわざわ。

日曜の深夜。
いや既に月曜。

平日のはじまりの朝を、憂うつながらも迎えるために人々が眠り休息をとっているはずのこの時間。

「だめだだめだだめだ」

そんな無責任、許されない。
そもそもの責任はなんであれ、今は関係ない。

逃げない。逃げられない。逃げてはいけない。

「よしっ」

誰もいない静まり返ったフロアに、わたしの雄叫びが響き渡る。

やることはやった。
あとはヤツがこのデータを他のと一緒にするだけだ。

時計を見る。
二時などとっくに過去。
ああ、無情。

平日に私服で勤務など許されない。
着替えに帰らなければ。

そうして、タクシー。
背に腹はかえられぬ。
たった三十分の道のり。

車中でこれを打ちながら、ぼうっと切れかけるのを踏みとどまる。
帰っても仮眠程度の時間しかない。
遅刻はできないので、寝るか起き続けるかが難しいのである。

結果、強制的に仮眠となってしまったが、遅刻はせずにすんだ。

しかし始終が、頭の芯に固いものが納まっている感覚。
どこか現実味が、損なわれている。

本当に土日があったのか。

こうしてここに書いてあるのだから、確かにあったはずである。

このしわ寄せがどこまで出てくるのかわからないが、内職でしわ寄った本来の仕事は、取り返さなければならない。

自分だけに寄るしわならばまだよいが、ひとに寄らせては申し訳ない。

このくらい、誰もがやっていること。
かつてのわたしも、一年近く毎日やり続けていたこと。
そして今も、近くで頑張っているひとがいる。

勝つことを、出来も求めようもしないが、それを忘れずに、わかっていられるように。

わかるだけに、文句も解決も口にできないのだけが、歯痒い。



2011年04月23日(土) 放るもんはまだまだあるが、ハツレバ刺しミノ、シビレる土曜

休日出勤で通用口から入り、いつも通りエレベーターで二十階に向かおうとしたのである。

エレベーターがなんと点検作業中だったのである。
上がれない。

セキュリティで各階の出入りを制限をかけてあるので、わたしは二十階に対してしか出入りができないのである。

つまり途中階、乗り換え階へも、行けないのである。

震災の晩以来、歩いて階段、を選んだのである。
当時は帰るために下りるだけだった。
上ったのは、初めてである。

景色は当然変わらない密室の二十階分の階段は、多分に過酷だった。

わたし以外は、誰も出てきていなかった。
ひとりで気兼ねなくできるが、夜何時まででもやるわけにはゆかなかったのである。

ぶちまけてしまった後の寺子屋と会うことになっていたのである。

先の件について、やはり顔を合わせなければならない。

わたしは謝り方が下手くそでなのである。
できればなかったことのようにして、さらりと何食わぬ顔で済ませたいくらいであったが、そういう訳にはゆかない。

わたしはこの気まずさを紛らわすために、場所に「ホルモン」屋を選んだのである。

ホルモンを焼きつつ炭火を挟んで差向えば、大概のことは煙に巻いてしまえるような気がする。

普段らしく気にしてない風も装える。

「亀戸ホルモン」で修行したという店長が湯島に開店させた店「丸超ホルモン」である。
なるほど、まったく緊張感を与えない。

そして、店長はじめ店員の皆さんもまた、とても明朗快活。

網が焦げてきた頃合いや、タレから塩を焼こうと思う頃合いに、言わずともサッと現れ交換してくれる。

互いに仕事帰りということもあり、時間を遅らせてもらっても、構いませんよどうぞどうぞ、と。

あたたかく、とても居心地がよい店であった。

「お姉さんがいる弟だよね」

焼き頃になったハツをわたしの皿に分け、空いた網にシビレを乗せながら、言ったのである。

何かあって、とりあえず謝っておくところとか。
とりあえずじゃあない。大したことじゃないなら条件反射で考えずに謝るが、真面目なことや、重大なことのときは、むしろ謝れない男だ。

どうだ、と胸を張る。
見事にわたしは言い切った。
清々しさすら、漂っていたはずである。

しかし残念なことに、その清々しさより肉を焼く香ばしい煙の方が勝っていたらしく、あたりはすっかりコテコテの

かき消されてしまったようである。

それはダメでしょ。そういうのって、長男に多いみたいだけど。
弟とはいえ一応、わたしは長男だ。

言ってからおもむろに箸を網に伸ばす。
ジウジウと誘惑してくるシビレを我慢できなかったのである。

だからそうじゃなくて、と寺子屋も自分の皿に取り、パクリと口に入れたときであった。

「ああっ」

わたしの驚天動地の叫びがあがる。

なにっ、なにごとっ?
……塩なのに、タレの皿にどっぷりとつけてしまった。

小皿でタレ色に染まったシビレに、わたしは固まっていた。

……ひとがそんなに驚いた顔、初めて見たけど。いいからそんな大げさな。まだあるんだから焼けばいいでしょ。

ひょいひょいと新しいシビレを冷静に網の上に置いてゆく。

ジウジウと網で身をくねらせてゆくシビレを見て、わたしはようやく我を取り戻したのである。

予想外の手落ちで話の腰を折ってしまった。
既にすっかり別の話になっている。

別の話になったのなら、それをあえて元に戻すまでの必要はない、ということなのだろう。

「またのお越しを、お待ちしてます!」

爽やか晴れやかな笑顔の店長らに見送られ、雨が道を濡らす不忍通りに出て、日曜もお互いに仕事せねばならないことを慰め合う。

いつ休めるんだろう。
いつかきっと。

あてのない寺子屋のつぶやきに、わたしが無責任かつこころもとない言葉で答えると、いつかね、とため息を傘の下にこもらせた。

雨は小降りのまま、つかの間傘を叩いていた。

それじゃ、明日も頑張ろう、と。

そうやって今日を昨日にして、明日を今日にしてゆくしか、今はないのである。

No day but today.



2011年04月22日(金) オオモリの疲労の披露

休みにも普通に服用する日々が続いている。
それは仕事だったり、飲んでおくにこしたことがないからだったりする。

ストックがなくなってから、規定の二週間分を順当に消費し続けてしまっているのである。

さらに深夜までの残業が続いており、出来れば1T追加したいところを、それでは足りなくなってしまうからと用心しなくてはならないのである。

寝る前も、舞姫に手が伸びる前に、気付くと寝ていて朝になっている。

寝ていても寝られていない。

当然、そのツケはどんどんたまってくる。

残業中の夜七時、ちょうど切れる頃合いにコトンと落ちていたのが、夕の五時から最近では二時三時あたりから、グイグイと落ちまくる。

仕事中の普通にまさにまっただ中に、である。

夜まで度々、繰り返され続ける。

PCの陰に頭が隠れているから隣席の古墳氏は気付きにくいが、キーボードやマウスの音が止まり、画面が先程と変わっていないとこを見たならばすぐにわかる。

深夜といっても、たかが十時十一時である。
十二時一時までではない。

ちゃんちゃらおかしいほどである。

それでも、ギリギリの手前辺りに近づいてしまっている気配を感じる。

どこかでミスをする。

という対外的なことで、である。

当然、他人よりも尺が短い物差ししかないわたしの中だけに限られたことであるから、他人には理解も想像もできない。

自分の方がもっと働いて、休んでないのに。
何をそんなに、頑張りもしないで簡単にネをあげてるの。

悪い間が重なったのは明らかである。

情けないなぁ、とせめてため息で答えられてくれていればよかったのが、当たり前だが、カチンとくることがやってくるのも仕方がない。

他の人と同じ質の生活に、ついて行こうとすれば。
常について行こうとするだけで、その何を、を頑張らざるを得ないことになっている。
頑張るまでもない、やって当然の、普通のことを。

たまりにたまって、途中で抜くこともできないまま至っている最近までの、その今だから、特によくない。

余裕がないのだから、カッスカスのむき出しの情けなさが、自暴自棄に溢れだす。

はっきり言って、普通なら後退る。
見なかったことにして、背を向ける。

であるから、向き合うような相手には、そこまでは真顔で言ったりはしなかったのである。

ぶちまけてしまったのである。

その忙しさはわかっていて、口が裂けても今は言ってはならなかったというのに。

「だいぶ眠そうですね」

田丸さんに、しばらく様子を見られた後に、ぽそりと言われたのである。

昨夜の大森である。

やはり顔に出てますか。
疲れというよりも。
そうなんです。きちゃってますねぇ。

ははは、と誤魔化すが、

「あー。だいぶん、きてるみたいだねえ」

イ氏もまた、これは開口一番。

「多めに出しとくかい?」

甘木直木賞作家の書く伊良部医師ではないが、実はわたしから相談しようと思っていた心配を、払ってくれた。

ありがたい。
助かる。

黄金週間を挟むので、三週分、それも増やした状態で、である。

諭吉が消えるのも仕方がない。
必要なのだから。

つらそうだねぇ。
そうですねぇ。
やっぱり仕事中に影響がではじめたら、限界がきてるんじゃないの?
限界の手前、のところでうろちょろさせてるつもりなんですけどね……。

やっぱり、プライベートの質が他人と違う現実というか。

最初の原因は違うとこだったのに、ひとつ出たあることにカチンときて、すわとぶちまけてしまったんですよ。

あらら。だけど。
だけど?
ずいぶん、近しいひとなんだねぇ。
いやそんな、わたしがこれで会社を辞めたことをその場に居て知ってて、だからつい、余計に意固地になって。

根っこは、わかっている。

たまさかひとときを楽しく過ごすだけなら問題はない。
しかしそうでない場合、普通のふりをしなくてすむ時間を過ごしてゆけるのか。
それは不安とも意を異にするものとして、常にわたしの背中に張り付いているのである。

「持病を隠しての勤務が発覚」

クレーン車の事故報道が、むんずと喉元を締め付ける。

ものは違うが、同じである。

昼間関わるひとの誰にも言えないことが、ある。

地元の古くからの友らに対しては、そんなプレッシャーないんですけどねぇ。
竹馬の友、だからなんじゃない?
竹馬。わたしは数歩しか乗れませんが。
そりゃあ、時代が違うもの。

イ氏はそれまで真面目な顔をしていたのを解き、あっはっは、と表情をほころばせる。

誰にもどうにも解決できないことは、わたし自身でやりくりするしかないのである。

「顔に出てますか」
「うん、しっかりと」

話したひとが、普段からそういうのを話せるようならいいのにね。
タイミングが悪過ぎたにせよ、もう言ってしまいました。言わずにいい余計なことまで、つい勢いで。
……むずかしいねぇ。
むずかしいですねぇ。

ま、なるようにしかならないですから。

仕事も、常に他人のペースと合わせてやらなければならなくなってきているので、締切までに帳尻合わせてそれまでは自分のペースで、というのが難しい。

独身で一人暮らしで、なのになんで頑張らないの?

古墳氏あたりは、おそらくそう思っていてもおかしくはない。

いやあ、あはは、と。

「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」

サトエリこと佐藤江梨子主演の作品を、ふと観たくなった。
見逃したまま、ふと思い出す作品は、まだまだきっとある。

腑抜けなりに武器は手に入れた。
駄菓子屋の銀玉鉄砲だとしても、「懐に44オートマグナム」の気持ちを。



2011年04月17日(日) 「リッキー」

「リッキー」

をギンレイにて。
フランソワ・オゾン監督作品。
シングルマザーのカティは、娘のリザを朝小学校にバイクで送り、工場で働き、リザを迎えにゆき、という単調な日々を送っていた。
新しく同僚になったスペイン人のパコと出会い、結ばれ、やがてリッキーが産まれ、家族四人の暮らしがはじまる。

カティはパコに子守を頼み出かけ、帰ってみるとソファでリッキーを膝に抱きながら、疲れて眠りこけていたパコの姿があった。

一緒に帰ってきたリザと微笑ましく思っていたのも束の間、風呂に入れようと服を脱がしたリッキーの背中にあざができていた。

パコがぶつけたか落としたかしたに違いない。

パコは、懸命にリッキーの子守をしていた。
慣れない手つきでミルクを作って飲ませ、オムツも腰までうんちがつき広がっているのを、ちゃんときれいに拭いてやり、だからリッキーもパコの膝に抱かれたまま眠りこけられていても暴れずにだあだあしていた。

しかし、あざはなくなるどころか、濃くひどくなってゆく。

カティはパコを疑うしかできなかった。

わかった。もう、いい。

パコは、自分を信じようとしてくれないカティの元を出てゆく。

しかしやがてリッキーのそのあざから、羽根が生えはじめる。
皮膚を突き破って、まるっきり手羽先のような羽根が。

パタパタと元気よくはばたいたりする。

やがてその羽根が立派な翼になってゆき、空を飛び回るようなる。

「未確認生物発見」

と、リッキーが飛んでいるところを人々に見られ、一躍マスコミに追いかけられるようになってしまう。

一度、こっそりリザの小学校にその後を心配したパコが訪れていたが、

リッキーは元気だよ

とリザはパコに答えただけだった。

それがテレビでリッキーのことを初めて知ったパコは、カティらの元へ戻ってくる。

家族四人で、新しい家で、新しくやり直したい。

パコの本当の素直な気持ちだった。

そのためには、リッキーを隠し続けるにはもう限界の今を逆手にとるしかない。

取材料を条件に、取材に応えよう。

カティもうなずき、とうとう、ばれてしまったとき以来初めて、マスコミの前にリッキーを連れて出てゆく。

リッキーは、足に紐を結び、そして翼を隠していた上着を脱がされる。

無垢な笑顔で、晴れ晴れとした顔で、翼を広げ、抱かれたカティの腕の中から空に、飛び立ってゆく。

平凡なカティとパコとリザの元に現れた翼の生えたリッキー。

赤ん坊の彼は、家族になろうとする三人にとって、天使なのだろうか……。

ここは、是非、娘のリザに注目してもらいたい。

平凡な日々にうんざりだとばかりで、あまりかまってくれない母親のカティ。
パコと出会ってからはパコばかり。
そしてリッキーが産まれればリッキーばかり。

パコが訪れてきたときも、羽根が生えはじめていたことは黙っていた。

パコが帰ってきたら、私だけじゃなくなってしまう。

リッキーが世間で騒がれ、混乱状態で疲れ果てていたカティに、リザは、

私がいるわ

と母親を慰める。

リッキーが憎いわけではない。翼が生えていたとしても、弟としてかわいい。

観客としてリッキーに翻弄されるカティを追いかけてしまうが、リザのことも、追いかけて観て欲しい。

さて。

休日出勤で一日を使ってしまったが、残り一日をどう使うべきか迷ってしまった。

今日もまた出勤して大分県の仕事を手助けするか、というのには、昼を過ぎてしまっていた。

しかも、だいぶわたしの中にオリが溜まってきているのがわかる。

ならば寝て過ごしてしまえというのも、違う。

読み物や書き物をしようにも、どうにもとっちらかってしまう。

このキャパシティの小ささには、ただただ閉口させられてしまう。
開き直りが、直りたくなくなってきている。

今まで、一生のものだからと、肩を並べて、つまりそれは正対しないということだが、ぼちぼち歩いてきた。

しかし。

気付くとわたしは追い抜かそうとしたり、そのわたしの肩を、抜かされまい、置いてかれまいと、むんずと掴んでくる。

なあ、相棒だろう?

ピーターパンの影とは正反対である。

ジダンのマルセイユ・ルーレットでも、メッシの足に吸い付く切り返しでも、ヤツは置いてけない。

まるっきり、引きこもったロジャーのようだ。

「Another day」ばかりをがなっているだけの。

What you own?



2011年04月12日(火) よくわからないが桜は散りはじめている

竹さんて、よくわからない人ですよね。

伊豆君に、ばんざいするかのように言われたのである。

するどいんだか、抜けてるんだか、どっちかはっきりしてくださいよ。
じゃないと、僕も対応に困っちゃうじゃないですか。ったく、ホントに。

悪意や非難を込めての物言いではないようなのである。

わたしは話を聞いていると、そこにわたしが関わらない限りにおいて、結果だとか背景だとかを直感で当ててしまうらしい。

それは別に考えて、読み取っての結果ではなく、まさに反射神経、脳みそではなく脊髄から出てきたりする発言だったりする。
そこにわたし自身の思考や予想や想像が入り込み、不足を補おうといじくりだすと、とんちんかんなものになってしまう。

わからないことはわからないまま。
無理にわかろうとこねくり回さない。

これを守れず、じたばたし出すと手に負えなくなってゆくのである。

その落差が、困るんですよ。
おっ何でそんなことわかるの、と思うことがあれば、何でわけわかんないこと言ってるの、と思うこともあって。話がしづらい。
わかってて言ってるのか、真面目に聞かれてないのか、わかんないんですよ。

失礼な。

不真面目なときはあからさまに、そうとわかる顔で発言している。

「これは、どうしたらいいんですかね……」

BIMの入力方法の方針を打ち合せている場で、伊豆君が恐る恐るわたしの顔を伺うように見つめたのである。

わたしは丁度、ホットの缶コーヒーが自販機から無くなっちゃって、と。
貴重な温かい缶コーヒーを手の中で転がし揉みながら、冷たい手を温めていたのである。

うーん、と。
待ってください。やっぱり、いいです。
なにをせっかく。
今、めちゃくちゃ怪しい顔してましたよ。だから、言わなくていいです。
いいのかい、言わなくて。
神がおりて来ましたか。
おりては来ない。
ますます、いいです。
いいんだ。
めんどくさいなぁ。いいですよ、言ってみてください。
「ホットかん」

古墳氏がおもむろに、手帳にその問題点を書き込みはじめた。

じゃ、これは今度解決しようか。

テーブルに、カン、と置いた缶コーヒーをわたしは手にし直し、仕切りなおそうと試みる。

気づいたら口に出てしまっただけで、ちゃんと、別にあった。
あった、て、過去形じゃないですか。
そりゃあかんやん。

二人からの一斉口撃に、わたしの雑念はたちどころにかき消されていった。

おかげで脊髄回路からの発言力が開き、ことなきを、いや万事解決を導くことができたのである。

ったく、これだから竹さんは。

ブツブツこぼしながらそれを書き込む伊豆君にうなずきながら、古墳氏も自分の手帳に書き込んでいる。

わたしはただ、してやったり、とニヤニヤするだけである。

なぜ自分がそう言ったのかわからないが、後になってその意味が、ようやく脳みそに上がってくる。

おお、なるほど。

無我の境地でいつもいられたら、どれだけわたしはものを言い当てられるのだろう。

できないことだからこそ、できるときを妄想するとにやけてしまう。

お多福さんに、言われたのである。

社内結婚とか、社内恋愛とか。二崎さん夫人と話してたんだけどさ。
まさかお多福さんも進行中とか?
まさか。わたしはあり得ないって。てか、他の男連中は新入社員の女の子が入ってきて、大チャンスじゃん?
わたしはひとりだけこっちにいて、なんも変わらんけど。
そう、それを二崎さん夫人と話してたのよ!
二十代あたまの人らはもはや異星人で、きっとなんも触れられないですけどね、わたしは。
だから言ってたんだって。
何を?
竹さんは、ずっとひとりで妄想(の中で)恋愛してて、そのネタを話してて欲しいね、と。

妄想劇場と言われたが、深夜の中華食堂のアルバイトの女の子と、彼女目当てに通うサラリーマンの一幕を話したことがあったのである。

中華食堂のコはどうなったのさ?
まだモジモジムズムズ打ち明けられずにいるんじゃないでしょうか。
続きは早くね。
それは義務ですか。休憩の束の間のもののつもりで。
ああ、そんなことはどうでもいいから。でね、頼むから竹さんには、現実で恋愛とかせずに。
せずに?
ずっと妄想だけでいて欲しいね、って、なったから。
なったんですか。
そう、なった。だからよろしくね。

わたしが知らないところで、とんでもないことになってしまったようだ。

もとい。

妄想は自分ができないだろうことだからこそ、翼が生え羽ばたけるのである。
それと想像との違いが微妙ではあるが、脳内でパチリとその光景がはまったとき、ある意味無我の境地なのかもしれない。

我があり過ぎていったいどれが我なのかわからなくなり、結果的にわたしの我ではなくなる。

我の世界に様々な我が集まり暮らし、我同士で物語を紡ぐ。

そろそろ我のひとつが、語りを結ぼうとしている。
ほどけないように、固くしっかり結ぶか。
また紐解けるよう、ゆるく結ぶか。
彼女はためらっている。

膝を抱えた手をほどくのか。
頑なに抱き締め続けるのか。

桜はもう、散りはじめている。



2011年04月10日(日) 「不恰好な朝の馬」と不恰好な片袖男

井上荒野著「不恰好な朝の馬」

井上荒野作品は、しっとりしている。
見た目は気付かないが、触れてみると指先にうっすらと感じる程度の潤いを孕んでいるようなのである。

それは決して不快ではなく、生きているものから伝わってくるごく当たり前のもので、ときにそれには気付かなかったりするくらい自然なものだったりする。

「孕んでいる」という表現が相応しい井上作品だが、しかし今回に限っては「含んでいる」のほうに近いように思える。

あとがきの解説にも書かれているが、

人生なんて、結婚なんて、恋愛なんて、と思えるときに、クスリと笑いながら読める作品。

なのである。

舞台は団地である。
そこに暮らす人々の物語が団地という中で交錯し、出会い、すれ違ってゆく。

同級生らと秘密結社をつくり、団地のあちこちにスローガンのポスターを一夜で張りまくったりする一見真面目な女子高生。

教え子と関係を持ち、ホテルにゆく前に必ずクリームソーダを頼む高校教師。

結婚式前に突然別の女と姿を消され、夫となるはずだった男の両親に店を借り、さらにその後毎年誕生日を祝ってもらい続ける女。

その男の妻となった女は、その前の女のもとをこっそり知らぬふりをして店を訪ねている。

他にもまだ、あり得ないが十分にあり得る心情を抱えたものたちが、登場するのである。

いちいちをまともに受け取っていては、人生どこかで笑えなくなってしまう。

眉間に皺を寄せるくらいなら、できれば、困ったものさ、と眉尻を下げて笑ってしまいたい。

そんなときも、ある。

井上荒野作品は、ついつい読んでしまうものたちばかりである。

さて。

Mr.No-sleeveだったのが、どうやらMr.sleeveくらいになったようである。
しかし「RENT」のそれほどではない。

しかし今夜は、寒い。

朝の陽気にのせられてCoatを羽織らずに出てしまった。

CoatがないならMoatになろう。

ひとよりも一日に余裕がないくせに何ができるのだろう。

やたらと重いだけのコートや、干からびた田んぼのような空堀にしかならなくても。
せめて風から守り、時間稼ぎになるように。
持ち物は鞄ひとつくらいしかないが。



2011年04月06日(水) 大森から

ほぼひと月振りの大森である。

七時に会社を出たが、既に電池は切れかけている。
眼球がひりつき、隙あらば閉じてやろうとしている。

「竹さーん」

田丸さんがわたしを呼んだ。
ぼおっとしている場合ではない。
「はいっ」と、返事する。

「イ氏が電話しちゃって、ビックリしませんでしたか?」

しましたしました。

でも、めちゃくちゃ心配してたんですよ?
いつも木曜の閉院時間前になると、竹さんはこないのかな、て言ってるし。
前回ひどいこと言っちゃったしなぁ、だからこないのかなぁ。
とか。

田丸さんがクスクスと笑いながら話す。

「いや、電話して呼び出してしまって、申し訳ありませんでした」

イ氏が開口一番、頭を下げたのである。

いやいやいや。
こちらこそ、ご心配いただいて、ありがとうございました。

そんな奇妙な挨拶から、大森の夜ははじまったのである。

不死鳥さんのご親戚が銚子で被災し、気を病みひとりで暮らせなくなってしまったらしい。

不死鳥さんはしばらくその方のお世話をするためにお休みしているとのことだった。

銚子の向かいにある、茨城県旧波崎町。

わたしがとてもお世話になった町である。

皆さんお元気だろうか。

話したこともないのに、降りるバス停でうたた寝していたわたしを起こして降ろしてくれたバスの運転手さん。

「これもやるっぺよ。遠慮してないで、どんどん食いなさいよ」と、会議前の昼食で出前の自分の天丼の海老を、一匹まるごと、わたしの一番安かった親子丼に乗っけてくれたセンター長さん。

竹さん、うちの子どもたちの小学校でこんな遊びが流行ってて、今度のイベントに使えないかな?
と、まちづくりイベントのアイデアを次々出してくれたりしたKばたさん。

なんだ酒飲めねえってか。じゃあ、これ一本抱えてけや。
と、お酒で真っ赤になった顔をくしゃくしゃにして笑いながら、わたしに烏龍茶のペットボトルを抱かせてくれた、Sださん。

漁師町の古くからの、豪快で少し乱暴で、素直に感情をぶっつけてきて。

わたしのへんちくりんな会話のイントネーションは、この町にいる方々から、染み付かせてもらったもので。

もう十年も前のことである。

「あ、もういいから大丈夫だよ」

膝に両手を乗せ、キュッとかしこまって椅子に腰掛けていた田丸さんにイ氏がひと声掛け、また楽しげに話を再開する。

江戸時代の戯作や、源氏物語や、古文の作品は云々。

ふう、と話し尽くしたようにひと息つくと、さて、と。

「じゃあ、また再来週ね」

すっきりした顔で、わたしを送り出す。

しばしのすっきりしたひとときを送り、また普通のわたしとして社会に帰ってゆくのである。



2011年04月05日(火) 駆け足がはじまる前に

また少し、駆け足がはじまりそうである。

四月から本社に戻った大分県に我が社でのBIM業務のフォローをしてもらう段取りもできたので、わたしは本来の業務の駆け足のみに集中できそうなのである。

しかし。

世間は自粛の声が必要以上に叫ばれるなかといいながら、ゆるんだ空気は否めない。

夜八時を過ぎると、だいたいが席から姿を消している。

古墳氏と並んでふたり、カチカチカタカタとパソコンを繰る。

「はうあぁっ……」
「どしたん、情けない声あげて」
「チーン、しました」

「チーン」とはパソコンがかたまり、データのやり直しをせねばならないときのことを指すわたしたちの隠語である。

「なぬっ」

サーバーの同じデータをいじっているので、古墳氏も他人事ではない。

「おっ、いけた」

古墳氏は何も引っ掛かることなく、無事、データを更新できたようである。

なぜに。
ひとを見るんでしょう。
こんなにお人好しな顔のわたしなのに、ですか。
……チーン。

古墳氏のノリも、最近ようやくわたしに追いついてきてくれたようでなかなか嬉しいものである。

などと調子よくやりつつも、わたしの春がやってきたのである。

先月までの緊張の糸が、麗らかな春の訪れとともにゆるみだしたのかもしれない。

十二時間が経たないうちに、コトンと落ちる。
まだ夕方の仕事中に。

大森にゆけるまで、もうあと一日待たねばならない。
残されたストックは、その一日分だけ、である。

ひりつくような緊張感。

明日はおそらく田丸さんではなく不死鳥さんの日だろうが、イ氏にも相変わらずな顔をみせに、そして話をしにゆこう。

読んだ作品でこれというのがないが、地震と勤務状態の話だけでも充分だろう。



2011年04月03日(日) ダリか、シュルレアリズ夢

昨日とはうって変わって、今日は、寒かった。

「三寒四温」

でいう「温」の次に来た「寒」のはじめのような寒さである。

都内の桜は週始めに開花はしたが、昨日の「温」だけではやはり足りず、まだまだ二分〜三分咲きくらいである。

谷中霊園のサクラのトンネルは、まだまだ寒空を向こうに見透かせていた。

はやく見事なサクラの屋根で覆い尽くされた中をくぐり抜けたいものである。

実は先日、上野のチケット屋で、とある買い物をしてあったのである。

「シュルレアリズム展」

六本木は国立新美術館である。

わたしと「シュルレアリズム」、いや「シュール」との出会いには欠かせない人物がいる。

名古屋の真友である。

「なんか、シュールだね」

中学生の時分に、わたしのウィットに富み過ぎたギャグに、名友がそう評したことがあった。

「シュールって、どういう意味?」
「それは、かくがくしかじかで」
「ふーん」

教えてもらったが、ピンとこたなかった。
何度も聞き返すのも失礼だと思い、また同い年の友に、サラリと聞き馴れない言葉を出された嫉妬を隠すため、わかったふりをしていたのである。

大枠での意味はわかったが、具体的にどこでどうその言葉を使えばよいのかまでがわからなかったのである。

やがて月日が経ち、いいおっさんともいうべき年頃になった頃には、安心して「シュール」という言葉を振り回せるようにはなった。

昨年だったか、上野で「サルバトール・ダリ展」が催されたのである。

しかし、いきそびれたのである。

なんせ長蛇の列。
一時間待ちはくだらないほどであった。

そうして見逃した挙げ句に、ダリに限ったものではないが、「シュルレアリズム展」がこの度、建築的にも注目を集めた国立新美術館にて催されることを知ったのである。

東京ミッドタウンが出来たとき、まがりなりにも設計に携わる者として勝手に批評しに行ったときがあった。

その頃には美術館はすでに開館していたのだが、前を通り過ぎるだけだったのである。

「チケットショップなら、安くチケット買えるじゃん」

当たり前のことだがわたしにとっては「目からウロコ」の事実を、以前寺子屋から教えられたのである。

なるほど。
たしかに、格安である。
これなら買っておいて、期間中で行けるときに行く気になる。

わたしの美術に関する知識は、「ゼロ」神の手を持つ男の漫画の流し読み程度の危ういものしかない。

作者の魂に触れる。

ことまではできないが。
そんな気になるくらいはできる。

ううむ。
シュールだ。

と、腕組み渋い顔をしてあごをさする真似をしてみせて回る。

しかし内心は、

昼飯に食った平田牧場のカツは美味かった。
しかし上野の「かつ仙」のコストパフォーマンスが、普段のわたし向けかもしれない。

と、ジレンマに揺れていたりもしていたのである。

この姿こそが、本当の「シュルレアリズム展」の密かな目玉である。

ダリの作品は数少なく、針金ヒゲがピンとした姿もほとんど見られなかったのである。

「マルグリットも、なかなかいいね」
「それはミュージカルでしょう。これはマグリット」
「ああ、そうだった」

冷静にわたしの間違いを訂正する寺子屋と、絵画のプレートを見比べ、素直にうなずく。

これもまたシュールである。

昼飯を食ったミッドタウンで、加賀屋という名だったか、加賀の物産をちょいと売っている店の前を通ったのである。

パチリ、と店のご婦人と目が合ってしまったのである。

「よろしければ、ご試飲くださいな」

と、と、と。

と、プラッチックのカップに、春期間限定云々の酒を、注ぎだしたのである。

あ、いやいやいや。

わたしは、下戸である。
しかし酒の類いでは、日本酒だけ、アルコールは別として味に抵抗がない。

差し出され、つい受け取ってしまったカップを突き返すわけにもゆかない。

受け取っちゃったよこのひと、とわたしの挙動を見ていた寺子屋は、すでにご婦人から自分の分を手渡されていた。

わたしは自分で処理せざるを得なくなっていたのである。

香りは、いい。

「フルーティで飲みやすいですから」

にこにこと、満開の笑みでご婦人がわたしの感想をまっている。

いい香りですねぇ、えい、くいっ、ほっ、ほほお。

「フルーティ」といわれて、酒の知識に乏しいわたしは、白ワイン的な酸味苦味を想像していたのである。

違う。
くいと、飲めてしまう。

しかし、ひと口と一杯と一本とでは、話が別である。
サクラ色の顔で昼間人前をうろつくのは、なかなか恥ずかしいものである。

味なら日本酒は大丈夫そうだが、アルコールとなればそれは逆である。
それもまた、難しいところである。

夜に寄った上野の桜は、照らされていないせいか、まだ寂しげであった。

雲に三日月が隠されているせいもあるかもしれない。
月と共に満ちてくれることを、祈ろう。

桜の下では、ダリがダリだかわからない。



2011年04月02日(土) 「人生万歳!」

「人生万歳!」

をギンレイにて。
ウディ・アレン監督・脚本作品である。

やられた。
さすがウディ・アレンである。

軽快でシニカルなユーモアで、飽きさせずにラストまでぐいぐい引き込み、笑わせてくれる。

かつてノーベル賞をとりそこねた天才物理学者ボリス。
人間嫌い、不神論者、窓から飛び降り自殺失敗、偏屈で高慢な老人。

そんな彼の元に家出してきた少女が転がり込んでくる。

そしてはじまるふたりの夫婦生活。

娘を探して母親が転がり込み、さらに母親の親友と浮気して出ていった父親までもが、帰ってくる。

しかし母親は他の二人の男と暮らし、芸術家としての才能を開花させていた。

娘は偏屈な死にかけの老人と夫婦になっていて。

そして、彼の失意を救ってくれたのが、ゲイのパートナー。

最後まで、目が離せない。

「愛はいつか終わる。
つかのまの幻である。
であるから。
愛はなんでもアリだ」

はじめは、愛など意味が無い、で締め括っていたボリスの言葉が、最後に変わっている。

とにかく。
これはまさに「人生万歳!」と両手を挙げて歓声をあげたくなる作品である。

わたしも、こんな軽快でコミカルな物語を書いてみたい。

文学賞にこだわるのはいいが、だからと書いてはいけないわけではない。



さて。

昨日は四月一日、エイプリルフールであった。

毎年、陽朔さんのブログでまんまと引っ掛けられており、今年はかなり慎重に、拝読するように気をつけたのである。

彼女は、あり得ないウソではなく、いやまさか、と思わされる絶妙なところをついている。

たんにわたしが単純で、知り得るわずかの情報をもとに間違った想像の小路に迷い込んでしまうだけなのかもしれないが。

どうかわたしには、勘違いがないよう、断片でも迷わない情報を与えてくれるよう、関係者各位にお願いしたい。

「ワタヌキ」とは「四月一日」の読み方である。

CLAMP原作のヒット作「ホリック」で主人公の名字として使われている。

日本語は、なかなか奧が深い。

駄洒落、もとい文字遊びが好きなわたしとしては、まだまだ素材の宝庫である。

といっても、素人とかわらぬ、いやそれ以下かもしれないわたしの乏しい語彙で、言うのもはばかられるが。

それでも、まだ人生は万歳、と両手を挙げてみよう。



2011年04月01日(金) 四月一日(ワタヌキ)の馬鹿

この度の東日本大震災にて地殻変動による日本の陸地の大移動があったことは、ニュースでも流れていたし、皆さんご存知のことでしょう。

なんでも四メートルも東に陸地が移動し(広がっ)たとか。

設計なんて仕事に関わってると、敷地面積だの敷地境界線だのが、とても大事になるんです。

その敷地にどれだけの面積の建物がたてられるか、とか。
境界線から何メートルまでは建てられる高さが決まっていて、よく言うセットバックなんていう、外形ややっぱり面積や間取りやに関わってくるんです。

これは冗談として、都内の真ん中の土地に計画中の建物で、

「おい、境界線が伸びたり移動したりしてたら大変だぞ。測量会社に連絡しとけ」

なんてことを言ったりするのを耳にします。

ギリギリのとこで、設計は常に考えているのです。

何十年もかけて歪んだ地面が、えいやっ、と元に戻った(?)ために、こんな大惨事を引き起こしたんですね。

ワタヌキも骨抜き、です。

地殻変動が、身近にも起きていました。

四メートルも動いたなんて、とわからないのと同じです。

何、どうゆうこと?

な感じで、理解の範囲を軽く超えてしまうと、ああそうなんだ、と受け入れてしまうものかもしれません。

段々膨らんで今にも割れそうな風船を、はい、と渡されたら、まずは受け取らずにいるのが不自然な、受け取って目の前でパンパンになっている風船を見て、ようやく、ヤバイヤバイ、と慌てふためく心境です。

破裂して、真っ白な粉を浴びてしまうのか、それとも紙吹雪きが舞うのか。

不意に差し出された手を、ひとはつい条件反射で握ってしまうものです。
それが、馴染みを覚えている手ならば、なお。

他にも、ちっちゃな手が勢いでわたしの手をギュッとしたときに、払うなんてことを思いもしないで、ギュッと返してしまうように。

ちっちゃな手が友人の姫たちなら、それもわたしにはわかります。
うん、王子たちだったとしても、それはわたしの姫たちのライバルとして握り返すことでしょう。

駅で見知らぬ女の子にギュッとされたときは、そのままの手と女の子の顔をまじまじと見つめてしまいました。

「ごめんなさい」

と、女の子のお母さんがすぐに気付いて、勘違いでわたしの手を握ってしまって自分でも驚いていた女の子の手を、ダメでしょ、と自分の手に繋いであげながらわたしに、驚いたでしょう、すみませんでした、とぺこぺこ去っていった過去の出来事くらいです。

上野公園も桜がポツポツと咲き出してます。

いずれ散りゆく花ならば、
だからその花を愛おしく美しく
永遠に愛でたく思う。

散るからまた次の春に
同じ枝に花を咲かせる。
また同じ鳥たちが、
さえずりに帰ってくる。

まだ百年の大木ほどには
根は深くなく屈強でもないが。
その花を鳥を守り
嵐に耐えるくらいの
根を張ろう。

四月一日(ワタヌキ)に馬鹿らしいほど素直に思う。


 < 過去  INDEX  未来 >


竹 [MAIL] [HOMEPAGE]

My追加