「隙 間」

2010年10月31日(日) 「しずかな日々」

椰月美智子著「しずかな日々」

野間児童文芸賞、坪田譲治文学賞を受賞した作品である。

児童文芸賞、といって甘くみてはならない。

この作品は、読んでみてもらいたい、読んで損はない作品、である。

母子家庭だった枝田光輝少年、エダイチの、小学五年生の夏休みのひとときの物語である。

母子家庭ということで、内気で、友達もなく、ひとりでずっといたエダイチは、クラス替えで押野少年、オッシーと友達になる。

快活でユニークでクラスの人気者タイプのオッシーも母子家庭だった。

放課後にオッシーに連れていかれた近所の空き地。

学区が違う子どもたちが、約束するでもなく集まり、草野球や、ただふざけあったりおしゃべりして過ごす場所で、そこで六年生の「ヤマ」や「じゃらし」らとも友達になってゆく。

はじめて「友達」と過ごす楽しい学校生活に、危機が訪れるのである。

母親が勤めていた会社を辞めて、自分で店を開くというのである。
そのために、「引っ越す」と。

仕方がない。
だから。

明日からオッシーともあまり話さなくしよう。
空き地にも行くのはよそう。
だけど引っ越しのことはオッシーには言わなきゃいけない。
だけど、言えない。

担任の先生に、

「引っ越し、したくないんでしょう?」

そう図星にされたとき、ボロボロと、はじめて涙がこぼれてきて、先生にぎゅっとされた胸のなかで、子どもみたいに声を出して泣いた。

引っ越ししなくてすむ方法が、あるの。

母親が、ためらいながら、教える。

じつはあなたには、おじいちゃんがいるの。

世界でふたりきりだと思っていたのに、おじいちゃんが、いる。

おじいちゃんの家からなら、引っ越ししないで、転校しないでいられる。

そうしてエダイチは、おじいちゃんの家から学校に通うことになる。

母親と離れて、おじいちゃんとの二人暮し。

そのひと夏の、思い出。

人生のターニング・ポイントはどこですか、と訊かれたら、間違いなくこのときの夏休みだと答える。

そんな重要な夏休みだというのに、大したドラマチックな出来事など起こさずに、物語は進むのである。

そして続いてゆき、終わる。

とりわけノスタルジックでもない。
とりたててドラマチックでもない。

エダイチはその夏以降、ずっとおじいちゃんと暮らし続けることになったようである。

母親はたまに会いにくるが、もはや別世界の存在、になってしまったようである。

これは、最後のエダイチ青年、いや中年の、回顧の言葉からである。

絶妙。

なのである。

先に宣言しておくが、わたしは決してマザコンではない。
それを前置きしておくが。

女の子はどうか知らないが、男の子にとって母親は、「自分のもの」という感覚がある。

ここでフロイト云々の心理学的講釈は抜きにしておくが、男性諸君は、可能ならばちと思い出してみて欲しい。

自分がいないところで、母親がひとりの姿で当たり前のようにいるところを見てしまったとき、不安や焦りや苛立ちのようなものを感じたことはなかったか。

たとえば「好きなお菓子を選んできなさい」とスーパーで言われて、喜んでひとりでお菓子売場で一生懸命選んで、得意げな気持ちで母親の元に戻ろうとしたとき。

何もないかのように、野菜や肉や魚を選んだりのぞいていたりするのを見て、当たり前のことなのに、自分をずっと目を離さずにいてくれなかった、と駆け足でゆかずにいられなくなったり。

近所のお母さんらと立ち話に夢中になっている母親に、自分はそれまで遊びに夢中で忘れていたのに、ふと足元に絡み付くようにちょっかいを出してみたり。

勿論、これらは思春期を迎え、自分の世界を広げて行く時期になってゆくと、それどころではなくなる。

逆に子離れしてくれない姿を面倒くさく思ったりしはじめる。

自分の知らない姿は、自分の母親ではない。

離れて暮らしはじめて、久しぶりに母親の姿を偶然見かけてしまったエダイチ少年の反応は、もの凄く、わかる。

母になったならば、必要な時期にはできるだけ、子どもらの傍らにいる存在であって欲しいものである。

では父親とはどうか。

これはまた、別の作品の折りに触れることとしよう。

しかし、既に父親となった、なっている方々から、息子娘にとっての自分がそうでありたいと思っている姿を、お聞かせ願えればありがたい。



2010年10月28日(木) BLT2010最優秀賞

先日、わたしも途中お手伝いした「四十八時間耐久コンペティション」こと、

「Build Live Tokyo 2010」(以下BLT)

の最終結果発表が、あった。

BLTとは、建築業界が以後、主流となってゆくだろうBIM(Building Information Model)システムの啓蒙・周知化を目指したイベントである。

昨年は東京で二回催され、それ以前にロンドンでも催されている。

大手ゼネコンの中でやや遅れをとってしまった我が親会社は、今回初参加である。

それがなんと、

最優秀賞

である。

面目躍如、とでも言おうか。

うがった見方だが、喜びは本参加して寝ず帰らず死人化していた正規メンバーに素直に受けとめていただいて、わたしは案の定の天邪鬼で語らせていただこう。

参加チームは、今回初めて設けられた学生部門は置いておいて社会人、実務チームの大概は複数回目の参加であった。

BIMの「現実的」な「概念の限度」のようなものを経験から感じ取り、その中での提案というものになってしまいがちになる。

審査員の総評を、紹介しよう。

「BIMだからこうなりました、ではなく、BIMだからこうすることができます、という、挑戦的な姿勢、可能性を感じさせる作品がなく、残念だった。
その中で後者に値するだろう作品、チームを最優秀賞に決定しました」

夢ばかりの現実無視ではなく、それを現実にいかに具現化するかの可能性を、現実的に追求してみた他チームは、間違ってなどいない。

我がチームも現実を踏まえた作品、提案ではあった。

しかし。

経験測のものさしの浅さ深さが、他チームの「限度」を向こう知らずの勢いで、ちょいと超えたものを作らせた、のかもしれない。

BIMの実務化においては、まったく他大手ゼネコンには足元にも及ばない。

だからこその、成果、であったのかもしれない。

来年もまた、BLTは開かれるだろう。
そのときが、真価と進化を問われるのである。

今回、同じ開催されていた様々なセミナー、講演会を振り返ると、これからのBIM導入は、前途揚々というわけにはゆかないようである。

BLTの審査員評に、次のような言葉が、はっきりと、強く、告げられていた。

「正直にいいます。
四十八時間という同じ条件だとして従来の二次元によるコンペティションを開いたとしたら。
はっきりいって、三次元のこれらは足元にも及びません。
残念ながら、完敗です」

辛評、と前もって言われてはいたが、まさに。

三次元モデルデータによる提出は、平面的な表現に限られていた二次元での提出で描かれなかったもの、つまり、紙に書かれたものは内部を覗くこともできなければ、違う角度から自由に眺めることができない、それらを「見える化」として、好きなようにデータ内で覗くことができるのである。

三次元CGのテレビゲームを想像してもらえばいい。
縦横無尽にゲーム内で動き回っても、背景の建物や風景がきちんとついてくる。

それに加えて、さらに。

例えばゲーム内の宿屋や道具屋や、あまつさえお城の壁をはがして、その中はどうなっているのか、まで見られるのである。

ただの板切れじゃないか。
土壁だったんだ。
断熱材が入っていて、さすがお城だ。

つまり。

現実に縛られてしまう。

二次元は、紙に描かれていなかった余白の部分を、想像してさらに豊かに思い描かせる。

しかし三次元は、見えないところが、ない。
全て見える。
だから、ごまかせない。
想像に任せて、それぞれさらに勝手に思い描かせることができない。

「ムンクの叫び」が何を見て叫んでいるのか、こちら側にあるものを、三次元ではそこにあるものとして、用意しなければならないのである。

恥じらいなく鼻をほじっているモナリザが立っているのか、ミロのヴィーナスが酔っ払って服を脱いで裸踊りをしようとしているのか。

つまり。

BIMだから(三次元でそれを置かなければならないから)こうなりました。

ではいけないのである。

想像力を打ち砕くのではなく、さらに羽ばたかせるものでなければならない。

しかし、現実的なもの。

さらなる高次元へと、昇華してゆかなければならないのである。

まだまだ可能性の発見段階であるBIMに、無意識だろうが現実であろうが「限度」で世界をとどめてしまってはいけない、とのことなのかもしれない。

今回の素晴らしき結果を受けて盲目的「BIM」信奉者が増えることだろう。

それはよいことである。

しかし、盲目的信奉者の誤った理解、暴走は気を付けねばならない。

「BIMって、三次元でなんでもできて、すごく効率的なんでしょう?」

違う。

ただ「なんでもできる」わけではない。
「効率的」でもない。

あらゆる要素・情報を入力できる。
であるから、それら全てを入力しなければならない。

ということなのである。

会場からの帰路。
ゆりかもめからの車窓は、強く雨に煙っていた。

願わくば、この雨が強く根をはり枝を伸ばすための慈雨であって欲しい。



2010年10月25日(月) 「夜を着る」

井上荒野著「夜を着る」

旅をテーマにした八編の短編集である。

「旅」というよりも「よそ」を感じる物語というべきなのかもしれない。

「よそ」へゆくのが「旅」である。

ギタリストの夫の浮気を疑った妻が、隣家の旦那と演奏先の北国へ尾行の旅にでる話や、いつもは乗り換えだけの駅で降りてしまい、初めて学校をサボる少女の一日や、結婚するにはお互いまだまだ不安なことだらけで、結局二度目の堕胎手術を暗黙の了解で受け、吐き出し口が互いに見つからぬまま、ただ車で行き着いた港町の二人の話。

井上荒野の世界は、どこかけだるげな、いや物憂げな、しっとりとしたものが多い。

告白するが、わたしは幼い頃、両親が夏休みやらには頻繁に家族旅行に連れていってもらっていた。

和室で卓袱台を隅に寄せて、家族で同じ部屋に寝る。

それが、実はどうにも落ち着かなかった。

それはたとえ家族が隣にいてくれていても、それこそが「よそ」に来ていることの証明だったからであったように思う。

家でのあるじは、父でありまた母であり、それなのに、「よそ」のところに「家」でのそれと同じものを、幼いわたしは重ねて、等しく同一ではないものを受け入れることが容易ではなかったのかもしれない。

新しい地よりも馴染みある地で、じっとしていたい乙女座である。

今ではすっかりひとりで寝ることに馴染んでしまっているのである。

とはいえ、もっぱら舞姫を毎夜欠かさず供にしているのだから、誰といようが寝ることにさして変わりはないだろう。

いやしかし。

やはり「よそ」よりも「馴染み」に固執するのは変わらない。

「馴染み」がわたしを引きつけるのか、わたしが「馴染み」にしがみついているのか。

もとい。

本作品は「旅」といっても物理的な旅行が主題ではない。

旅にともなう心の物語である。

それは列車の揺れのように、車の振動のように、無意識に内面へ響いてくる。

人はどんな気持ちで、旅に出るのだろうか。



2010年10月23日(土) 「永遠を旅する者」

重松清著「永遠を旅する者〜ロストオデッセイ 千年の夢」

本作品は重松さんにとって異色の作品である。

といっても経歴からすれば、どれが異色というのかあやしいところは、ある。

ゴーストライターからルポルタージュから官能小説から、と様々な世界を経て、紛れもない重松清という作家になっている。

重松清が紡いだ言葉たち全てが、重松清の作品であり、小説という形をとっているに過ぎない。

異色、というのは、これは「ファンタジー」の物語だからである。

小中学生や中年男の物語ではない。

さて、タイトルを聞いただけで、ピンときたひとがいるかもしれない。

本作品は、同名のゲームソフト「ロストオデッセイ」の、サブストーリーなのである。

「ファイナルファンタジー」シリーズの坂口博信氏が製作総指揮をとり、キャラクターデザインを「スラムダンク」「リアル」「バガボンド」の井上雄彦氏が手懸けたらしい。

らしい、というのは、わたしはそういったゲームから、とんと関わることなく過ごしてきたので、家庭用ゲームといえば友らの家でやった、

「ドラクエさん」や「ファイナルファンタジーいくつ」の、立ち去る仲間がそこの選択肢で再び戻ることになるかならないか、のとこで、見事、ならないほうを知らずに選び、

「なっ、にぃ〜っ……」

と友の目と口をパッチリあんぐりと開けさせた憶えがあるくらいである。

友よ。

涙も喜びもないが、せめて手を叩いて「はっはっはっ」と話せる思い出をこしらえたと、思っていて欲しい。

さて、そんな次第であるから、ゲーム本作の物語は知らない。

主人公のカイムという、死ぬことが許されない、死ねない永遠の生命を持つ男が、その長き時間のなかで出会ってきた物語を、およそ三十ほどの短編に連ねたものである。

「ファンタジー」といっても、指から雷が突き出したり、のどに骨が刺さって暴れ狂う尻尾が生えた怪物が出てきたりなどしない。

剣を振るう兵士や傭兵や旅人や、軍事国家や船で渡らねば文化を知ることがない孤島や、そんな世界である。

そこにも、重松清の世界は、あった。

あとがきにも書いてあるが、重松清は「限られたもの」をテーマにして作品を書いている。

取り返すことができない過去。
選ぶことなどできない明日。
捨てることができない思い。
手放さねばならない思い。

だからこそ、それを前にした者、抱えている者、振りほどきたい者、追い掛ける者、それらの、矛盾のなかでの人間の力を、描いている。

本作品は、どれもたかが十枚程度の掌編である。

それだけで、果たして描けるのだろうか?

愚問であった。

限られた命の、だからこそ繰り返し一日一日を生きる姿。
待ち人を待ち続ける姿。
明日のために命を懸ける姿。

限られた命だからこその、強さ。
そして弱さ。
だからこその、強さ。

愛しさ。

家族。恋人。友人。同僚。部下。隣人。

きれいごとばかりを描かない。
だから、汚れてはいけないものが、一層、眩しく輝く。

ゲームがらみの小説なんて、と思うことなかれ。

重松清は、間違いなくここにいる。



2010年10月21日(木) 「挨拶は一仕事」と舞台は大森

丸谷才一著「挨拶は一仕事」

珍しく単行本である。
かの丸谷才一が、自身の様々な折々の挨拶の文章を、単行本にまとめた一冊である。

ご年齢から、およそ多くが著名人への弔辞やらとなっているが、記念パーティーや結婚式のスピーチも収められている。

そもそもが、わたしの所蔵ではない。

今宵、持ち主にこれを返却するを兼ねて大森に赴いたのである。

「川上弘美の「センセイの鞄」が出てくるなんて、驚きました」

えっ、出てないよ。
そんなはずないって。
なんで川上弘美なんか。

イ氏が、真っ向から否定するものだから、わたしは意地になるもならないも、本当に書いてあったのだから、いやいやいや、と返した本を取り返そうとするが身を乗り出したところまででやめておく。

入院してて、すっかり何もやる気がなくなっていたご主人が、川上弘美の「センセイの鞄」を見舞い代わりに送ったら、夢中になって読んでいた、ありがとうございました、とその奥様からお礼を言われた。

とのエピソードです。
そんなのあったかなぁ。
ありました。ほら、もうちょっと前半のほうだったと思います。
えぇ? ないよぉ、そんなの。幻覚じゃないのぉ?
いぃえ、ありました。絶対。

あっちこっち、いやそっち、パラパラとページを挟んでつのを突き合わせる。

「そこです」

ああ、本当だ。
でしょう。

「いやあ、失礼しました」

えっへへ。
と机にあごをつけてイ氏が謝る。

「センセイの鞄」は、わたしにとって外すことができない重要な川上弘美作品である。

好き嫌いは分かれると思います。文章から香りだすあの雰囲気が、離れがたくさせるんです。

ところで、とイ氏が腰を折りにはいる。

ここに書いてある「吉井澄雄」ってひとなんだけどね。

「俺のことがここに書いてあるから、買って読んでくれ」

って言われちゃって、買わされたんだよ、この本を。

どうやら顔馴染みの間らしい。
吉井澄雄とは、舞台の照明やらの演出家さんである。
劇団四季の創設者のひとりである浅利慶太さんらと数々の仕事をし、ヨーロッパなどでも活躍されているらしい。

知り合いなんですか。
うん、だから買わされたんだよ。

有名人ときくと、ミーとハーがムズムズしだす。

「あなたがばったり会ったりするような時間に、彼はまずこないよ」

ばったり会ったからと、何ができるわけもない。
浅い呼吸を頭のなかで、ハッハッと繰り返し響かせるのがせいぜいであり、ペコリと頭を下げるのが、最大限できることであろう。

つまりは、小心者の真骨頂の発現である。

「浅利慶太といえば、むかし「違いのわかる男」のCMに出てましたよね」
「そう、出てた」

ダバダー、バー♪
ダバダー、ダバダー♪

ふたりそろってハーモニー。

それまで田丸さんがいなくて寂しい気がしていたが、このときばかりは、いなくてよかった。

まったく、外で聞いていたひとらにあやしげな一室だと思われたに違いない。

だからといってそれが変わるわけでも、つもりもないのである。

大森の一夜は、こうして帳を下ろしたのである。



2010年10月19日(火) 「カツラ美容室別室」と男と女と恋と舞い

山崎ナオコーラ著「カツラ美容室別室」

「ひとのセックスを笑うな」にて、さばさばとしたようにみえて、その実、ただそうみえてしまっているだけで、それがどうしようもなく意地でそう振る舞ってしまう、そんななかなか微妙な女を描いた著者である。

本作は、男が主人公である。
しかも、男女の恋と友情の微妙な関係を描くという。

カツラをかぶった桂さんが経営する桂美容室。
そこで働くエリと、客の淳之介が出会う。

常連客として花見やライブやコンサートと、カツラさんひっくるめ、付き合いが続いて行く。

エリと淳之介。
「恋」なのか「友情」なのか。



男女間に友情が成立するのか。

よくよく議題にあがる話である。

これはつまり、あると思えばあり、ないと思えばない。
それぞれの思い方次第なのである。

「恋」なぞもはや通り過ぎ、いったいどこの路地だったかわからなくなりつつあるわたしには、男女間の云々なぞテキストを読み上げるくらいにしかならない。

困ったものである。

ある意味「恋」のようなドキドキを味わわねば、と思ったのである。

そして、恋の炎が再燃してしまったのである。

動画サイトにあった「よさこい」の踊り子の皆さんに、である。

ベッドの上で、悶え、拳を震わせ、声を上げる。

「惚れたっ。いや惚れる、惚れなおしたっ」

主に「十人十彩」と「ほにや」のふたつだったが、どちらも高知の、実績実力魅力抜群の連である。

「ほにや」は、女性がメインで「和」みの小粋さ。
「十人十彩」は男女等しく、いなせな「和」の粋さ。

わたしは、間違いなく惚れている。
恋以上、である。

高知の「よさこい祭り」と「スーパーよさこい」それぞれのDVDを、買ってしまいたくなる。
さらになんと、「よさこい祭り」に関しては、各連の曲を集めたサウンド・トラックまであるという。

ああ。
大人とは恐ろしい。

旅の、感動の証しとして、ためらいなく買おうとしてしまう。

恋は盲目なり。

目を閉じてあの感動を思い浮かべ、そしてひとクリックしてしまえばよいのである。



2010年10月17日(日) 「オーケストラ!」

「オーケストラ!」

をギンレイにて。

かつて天才マエストロとしてロシアのボリショイ・オーケストラを率いていたアンドレは、思想的反抗から首になり、今は劇場の清掃員。

偶然劇場に送られてきた公演依頼のFAXを目にし、かつての仲間たちを集め、なりすましてパリへと向かう。

三十年ぶりの仲間たちは、ジプシーやタクシー運転手、AVの吹き替え声優や蚤の市の業者やら、とかくはちゃめちゃなのである。

ソリストに迎えたアンヌ=マリーとアンドレと楽団員らの関係は如何に?

コンサートは無事成功となるのか?

フランスでマイケル・ジャクソンの「THIS IS IT」を差し置いて一位になった作品らしい。

映画だからご都合主義なのはわかる。

んなアホな、というのは随所にあり、笑いを誘っている。
ついでに、感動の涙まで、つけてくれたりもする。

クラシックの音楽なんて、「のだめカンタービレ」で久しぶりに耳にしたくらいの素人である。
モーツァルト、ベートーヴェン、チャイコフスキー、シューベルト、シュリーマン。

いや最後のは違った。

ドヴォルザークにシャア専用ザク。
ドビュッシーに名犬ラッシー。

これでは母が草葉の陰で嘆く姿が目に浮かぶ。
ついでに実家のピアノが♭な音で泣いていることだろう。

名誉のためにいっておく。

わたしはまともにピアノに触れたことはない。

それなのに、ラストの演奏で、わけもわからず、涙がにじみ出していた。

音楽は、不思議だ。

観てみて損はない作品であった。



さて。

ようやく肩のかせが外れてくれたわたしは、昨夜帰りがけに電話が鳴ったのである。

御徒町で帰宅前のコーヒータイム、いや束の間のひとときを過ごしていたのである。

「ちょうど近くにきたもので」

黒猫の運転手さんであった。

午前中に不在連絡メールがきていたので、再配達の連絡をしなければとは思っていたのである。

何時ごろになら伺えるかと。
何時ですか。すぐに帰ります。

急いで店を出る。
いつもは徒歩で二十分の道のりを、湯島の駅から地下鉄でひと駅、早くてじっぷんほど短縮できるのである。

そうして手にした品。

「RENT -ORIGINAL BLOADWAY CAST RECORDING」

ブロードウェイ・キャストによる二枚組のアルバムである。

映画版ならば、毎日仕事中以外の時間に、常に聴いているものがある。

しかしこちらは、ブロードウェイの舞台で歌われていたほぼ全ての曲が、収録されているのである。

RENTはミュージカルである。
つまり、映像がないだけで、その舞台を聴くことができてしまうのである。

映画版では収録されていない曲ばかりではなく、カットされているシーンの曲も勿論収められている。

「YOU OKAY HONEY?」や、
「ANOTHER DAY」や、
「GOODBYE LOVE」や、
「HALLOWEEN」や。

なぜ今まで、これを忘れていたのだろう。

早速、携帯プレーヤーに入れる。

「Speek...」

MARKとROGERがわたしの耳元で声を揃える。

これはヤバい。

ボロボロと殻が剥がれ落ちてしまう。

顔はニヤけるわグジュグジュするわ、足はブルブルするわ。

改めて思う。

「RENT」は特別である。

You will see?

指差す先に、何を見る。



2010年10月16日(土) 「のぼうの城」(上)(下)

和田竜著「のぼうの城」(上)(下)

本屋大賞第二位、そして直木賞候補ともなった歴史小説である。

豊臣秀吉が関東の北条家を攻め落とさんと石田三成を差し向ける。

現埼玉県行田市にある忍(おし)城の総大将・成田長親は、「でくのぼう」転じて「のぼう」様と呼ばれていた人物であった。

石田三成の最大の失敗と呼ばれた「水攻め」とはいえ、北条家恭順の支城で唯一落とされなかった忍城。

「のぼう様」こと長親を支える家臣・領民ら。

騙されたと思って、騙されてもらいたい作品である。

とにかく、のぼう様に最後の最後まで、だまくらかされてしまったような気持ちである。

二巻も読まさせておきながら、大した中身ではない。
いやしかし、それはつまり、それだけ物足りなさを覚えさせる魅力がある、ということである。

理想の上司だのなんだのと様々なタイプがあげられているが、「のぼう様」のようなタイプの上司は、ついぞみたことがない。

「のぼう様」のためなら。
あのひとがまともにひとりで何かを出来たのをみた覚えがない。
わしらがなんとかしてやらにゃあな。

刀槍馬、なにひとつできやしない。
そのくせ大男で、表情に乏しく、薄らぼうっとしているようにみえる。
農民らの田植えや畑仕事を手伝うのこそが楽しみで、しかし不器用なでくのぼうがゆえ、手伝われたらはた迷惑、と農民らにみてみぬ振りをされている。

それなのに。
慕われているのである。

戦国時代の戦で、バタバタと兵が斬られて死んでゆくのが、実は大嘘である、という話がある。

足軽やらの大半は農民らを駆り出したものである。
農民らは、大事な米やら年貢をおさめてもらうために必要不可欠な存在である。

だから死なれては困る。
相手のならばよいかといえば、そうではない。

勝った後、彼らはその地でおさめてもらわねばならない大事な働き手なのである。

血が流れるような合戦は、滅多になかった、という。

全ては大声や旗を振り相手を威嚇し、戦意を失わせたほうが勝ちで、それで戦は終わる。

そのためのいわばサクラとして数多く農民らや、サクラで出稼ぎに来るものらをかき集め、

あっちで「ワーワー」
そっちで「ワーワー」
負けるな「オーオー」
引っ込め「オーオー」

移動中にばったり出くわしたときに、慌ててチャンチャンバラバラと命惜しさに我が身を守るため刀や槍を振り回す。

という説があるのであった。

本当に切ったはったの戦いは、武士同士のときばかりであったらしい。

武士は何人でも勝手に死んでくれ。
わしらの負担が減ってくれるだけさあね。

農民らこそがじつは時の権力者。

信憑性のある話である。

ご存知だろうか。

ひとがひとを殺すために、命を命と認識する前に殺してしまうための洗脳ににた訓練を施されなければならない。

だから少年兵がなくならないのである。

命の概念を持ってしまった大人を洗脳するよりも、最初に持つ命の概念をそれにしてしまったほうが楽だからである。

そして大人は子供を無慈悲に躊躇なく殺すことはできない。

有効な手段なのである。

物騒な話になってしまった。

つまりこんな現実の話とは対極の、なんとも雲のように掴み所なく包み込んでしまう「のぼう様」なのである。

どうか共に騙されてみてもらいたい。



2010年10月13日(水) 「痴人の愛」

谷崎潤一郎著「痴人の愛」

ぶ厚いからと、なかなか手を延ばさずにいた作品だったのに、つい、三省堂の谷崎の棚でこの作品だけ、ぽっかりと在庫が抜けていたので、隣の東京堂、書泉などを覗き、それらにも見当たらず、やっきになって、やっと見つけて手に入れた作品でした。

手に入らないとなると、人間は無性に、常時はさして欲しくはないものでも、手に入れたくなるものです。

それはまるで、本作に登場するナオミに対する主人公の男が抱く思いと、よく似たものかもしれません。

カフエェで見かけた給仕の、ちょいと日本人ぽくない顔立ちをした少女ナオミ。

きっと素晴らしい女に、俺の思う理想の女に育ててやる。

男は十は離れた年下のナオミを引き取り、育て、教育し、やがて妻とします。

ナオミは男の理想以上に、美しく、妖艶な、女となるのです。

妖艶な、とはいささか違うかもしれません。

事実、当時、「ナオミズム」と流行語となったほどの、

「悪女」

っぷりなのですから。

谷崎は、フェティシズムやマゾヒズムなどをもりこんだ特異な作品を数多く発表しています。

この作品は、まさに男の、恋愛における自虐的愛、の物語、いえ、ひとり語り、です。

育てたつもりが手玉に取られ、かしづかずにはいられない。
悪女だと、懲り懲りな目に遇わされているのに、愛させられてしまう。

数多の男友達との関係を認めながら、それでも己の愛はナオミのその肉体に虜であり、決して離れることなど出来やしない。

そんな恐ろしいほどの魅力を持った女に、出会ってみたいものです。

いえ、出会ってしまっては困ります。
己の財産も誇りも何もかも、お構いなしに女に注ぎ込んでしまうのですから。

悪女は別として。
男女の違いも別として。

それだけ全てを投げ出してでも、愛したい。愛させてもらいたい。

そんな相手と出会ったことなど、おそらく皆さんの中でもいらっしゃらないでしょう。

いるはずがありません。

出会ってしまったら、今こうしてそこにいるはずがありませんから。

先を考えないほど愚かしい思い、衝動、行動。

きっと、読んだ方は大概が途中で馬鹿馬鹿しくなって、やめてしまおうと思ったことでしょう。

しかし、目を背けてはいけません。

直視出来ないところに、それはあるのです。

それを臆面なく描きだしている谷崎は、やはりたまにそれをみたい気持ちにさせられる中毒性を持っています。

とはいえ。

男性諸氏は、どうかナオミにはお気をつけください。



2010年10月11日(月) 「春との旅」

「春との旅」

をギンレイにて。

仲台達也、徳永えり主演。
北のかつてはニシン漁で賑わったが、今はすっかり寂れた街。
祖父と二人きりで暮らしていた孫娘の春。

祖父がある日、突然家を飛び出した。

「俺は兄弟のどこかに居候をさしてもらう。春、おめえは自分の生きてぇように生きろ」

春が勤めていた学校の給食センターが廃校になり、職を失っていた。

飛び出した祖父の後を追い、一緒に春にとっての叔父叔母らのもとを訪ね歩く。

しかしどこも誰も受け入れてくれるような余裕がない。

なんせ、祖父は偏屈で勝手で、兄弟らとの仲は疎遠で、決してよい間でもなかったのである。

同行してゆくうちに、春は別れたままの父に、会いたくなる。

春の母は、父との離婚が原因で自らの命を断ってしまったのであった。

「ひとは、どうすればつぐなえるの?」

離婚の原因は、母の浮気だった。だから父は悪くない。だけど父は許してくれず、出ていってしまった。

お前の父ちゃんは、家と別れてまでして、母ちゃんと一緒になってくれた、いいヤツなんだ。

わかってる。わかってるよ。だけど。

この作品に、悪い人間などひとりも出てこない。

春との旅は、美しい北の風景の中、どこにたどり着くことができるのだろうか。



この作品。
感動するのは、その役者の演技において、である。

仲台達也はもちろんだが、春を演じている徳永えりが、抜群である。

猫背でがにまたで、垢抜けない意地っぱりさ加減が絶妙な女・春を見事に演じている。

さて。

実は甘木資格学校の担当者とお会いして、お話をすることがあったのである。

仕事の為かけてきているとはいえ、この数年間ずっとわたしは居留守で通してきていたのであった。

毎週末の講習時間は、丸々半日、座りっぱなしのものである。
予習や復習の課題も毎週で、それはつまり当たり前のことで何の大変さも必要でない、普通のことである。

さあ。
この半年を振り返り、それはわたしには到底ムツカシイことなのである。

夜は仕事がなんとか、あとはぼおっと。
覚えるとか記憶するとか、昨日のことか先週のことか、前後も確か不確かもあやふやになってしまうわたしである。

講習も決まった時間にゆけるかどうか、いっても時間内を起きて過ごせる保障は皆無である。

そこに一年だ二年だと限って金を出して通うなど、もったいない。

「それはご本人の気持ちの問題ですから」

頑張って頂きたいのです、との彼に。

「言い訳と思って聞いてください」

と鳴子のことを持ち出して、やっと納得堪忍してもらったのである。

これで再三の電話もなくなるだろう。

しかし。

ひとと同じ生活をしてゆくには、常に誰しもが努力を必要とする。

その努力が、ひとよりもさらにちょっとだけ、必要なだけである。

出来ません。
やれません。

ではなく、せめて、

出来ませんでした。
やれませんでした。

という、せめて一歩前に出た言葉を、口にしてゆきたいものである。

季節の変わり目に、また同時に、あらがう術ない波の訪れの気配を感じつつ。



2010年10月10日(日) 行け、ふくろう! 東京よさこい

「姫さまのぉ、おなぁ〜りぃ〜!」

巣鴨駅前。
このために、わたしはやってきたのである。

「池袋ふくろ祭り・東京よさこい」

池袋をメインに、目白駅から巣鴨駅まで各駅前に競演場が設けられた一大祭り。

「乱舞姫」の決め口上が聞きたい。

ただそれだけがため、でさえ構わない。

「姫さまの言うことはぁ〜」
「ぜったぁ〜いっ!」

この気持ちの高揚を「萌え」というのだろうか。

「乱舞姫」とはよさこいの「連(チーム)」であり、「姫さま」とはこの連の象徴であり実在しない存在、いや「乱舞姫」そのものを指している。

姫さまの好きなものは「お酒」と「踊り」

うむ。
なかなかチャーミングな姫さまである。

昨日土曜の前夜祭は、滝のような雨の中、雨か汗かわからぬ飛沫を舞い散らし、

雨よ晴れよ!

と参加連皆が舞い踊ったという。

わたしは。

またも夕方まで、再起不能、であった。

であるから、本祭の今日こそは、と意地である。

姫さまの前にひれ伏し、酔いしれ、さあ本会場の池袋へ。

駅の改札をくぐろうと人波について行くと、前にも後ろにも、

「乱舞姫」

である。
池袋に向かう道中、一緒の車両に乗っての移動である。

母に連れられた小さな女の子が、すっかり「姫さま」の舞いに虜になったのか、母を差し置いて姉さまがたの後に着いていってしまう。

「もうちょっと大きくなったら、一緒に踊ろうね」

頭をやさしく撫で返す姉さま。

どこかで観た光景。

映画「君が踊る、夏」とまったく同じである。

女の子にとって、その姉さまは「憧れの姫さま」となったに違いない。

さて。

「フクロウよ、わたしは帰って来た!」

池袋駅西口を出て、わたしはひそかに、叫んだ。

そもそもわたしが初めて「よさこい」を知ったのが、この「ふくろ祭り・東京よさこい」だったのである。

あれからかれこれ六、七年くらい経つ。

寂しいのは、
ひとりでいることではなく、
ひとりになることなんだ。

篠原美也子の詞は、やはりまだまだ、ジンと響く。

もとい。

思い出したのである。

なぜ、わたしはこの「東京よさこい」に来なくなったのか。

当時は初めての感動に、もちろん来年も、という気持ちと同時に。

非常に観づらい。
いや見えない。
なんとかしろ。

との気持ちも抱いていたのである。

池袋西口広場に競演場を設けている。
それは精一杯の素晴らしい設営である。

しかし、観覧ができる場所が、混雑したたった数メートルほどの幅しかないのである。

駅前会場だけかもしれないが、まったく、見えない。

違う会場に行けばよいのだが、観たい連の演舞が、ここしか残っていないのである。

お目当ては、

「音ら韻」
「朝霞翔舞」
「国士舞双」
「早稲田大学踊り侍」

らである。

まったく見えないよりも、豆粒でも見える位置を見つける。

やはり、うまいかどうかは、すぐにわかる。

鳴子が小気味よく、揃って鳴り響いているか。

踊り子が、笑顔で、楽しんでいる精一杯の顔で踊っているか。

老若男女は関係ない。
それができている連が、やはり素晴らしいのである。

今回またあたらしくお気に入りの連を見つけてしまった。

「銀輪舞隊」
「凌-りょう-」

などである。

そして、埼玉のよさこいは、皆上手いように思える。

鳴子は池袋の夜の街に、軽快に鳴り響く。



2010年10月09日(土) Fly daynight

「竹さん、はい質問です」

背中合せの古墳氏に呼ばれたので、なんでしょう、と。

定時などすっかり過ぎ、イヤフォンを片耳にぶら下げた古墳氏が、右手を挙げている。

知識や経験はわたしより多く深い古墳氏の、だからこその盲点を、縦を平気で横にしてみてしまうわたしのやり方が光明をもたらす、ということがよくよくみられるようになっているのである。

他聞にもれず、やはりその類いの質問であった。

この入力だとこうなっちゃうんですけど、こう表示したいんですよ。
じゃあ、こう表示するために、この入力だと駄目なんでしょうか。
あっ、できた。

問題を公式や定義から解いてゆき解答にたどり着くのが正道である。
わたしは楽をしたいので、逆に解答から問題に戻り着こうとするのである。

こうなるから、こうなる。

という古墳氏。

こうしたいから、こうする。

というわたし。

わたしの恩師・九二さんに、かつていわれた。

いいか。
まず、正しい順序をたどってからの答えがありき、なんだからな。
最初っから、答えにたどり着くためのこじつけや、抜け道を探すのは、やめろ。

申し訳ありません。
わたしは相変わらず、でございます。

正しい順序は、古墳氏が進める。道が詰まったら、わたしが抜け道裏道にそらしてみる。

まあ、間違った道を進めているわけではないので、よしとしてもらおう。

「おうっ、違うっ。こうじゃない」

古墳氏が、わたしの一番目の横道で行き止まりにぶつかり、声をあげた。

じゃあ、と二番目を。

ああ、違う。わたしがいったのは、そっちじゃなくてこっちの。

しかし。

口が動いていない。

当然、声になっていないのだから、古墳氏が従うわけがない。

「あれ、ならんぞ。どうしよう」

だからそっちじゃなくてこっち。

「どうしましょ」

古墳氏が、黙ったままのわたしに次を求める。
えい、くそ、この。

「さっきのとこで、こうしたらどうでしょう」

おおっ、でけた。

古墳氏が、嬉々として振り向く。

よかった。
間に合った。

信じられないだろうが、束の間の最中に、わたしは落ちかけていたのである。
だから声が出ない。
しかし目はあいて考えているから、思考は進められる。

あと一歩で止まる、というところで、古墳氏の呼び掛けとささやかなわたし自身の抵抗で踏みとどまることができたのである。

シャッキリと爽快感のようなものを覚える、というが、もはやそんなレベルではない。

全身がすっからかんになったような、頭蓋骨の中がスコーンと虚空に成り代わってしまったような感じなのである。

「そんな感じでよかったでしょうか」
「おう、バッチリ」

古墳氏の求めていた道とわたしの抜道が、うまく同じ交差点に着いたことを確認する。

「さすがBIM部長」
「誰がBIM部長ですかっ」

すかさず切り返す。
最近、何かを解決した者をなんとか部長と称して賛辞するのが流行になっているのである。

鉄骨部長、カーテンウォール部長、躯体部長、塗り潰し部長。

キリがない。
部長だらけである。

大層にも総括的な命名をされた新しい部長は、もうすっかりこれ以上居残る余力などなくなっていたのである。

では、わたしは帰ります。あいよ、お疲れさん。

なんとも軽々しい扱いである。

よよよ、と薄らぼんやりした足取りで、ご帰宅である。

明日は池袋にて「ふくろ祭り・東京よさこい」の前夜祭である。

あいにくの空模様だが、「雨天決行」とのことらしい。

さて、いったいどうなるだろうか。



2010年10月03日(日) 「パーマネント野ばら」

「パーマネント野ばら」

をギンレイにて。
サイバラこと西原理恵子の同名作品の映画化された作品である。

主演は菅野美穂。

もうそれだけで観る価値は十分にあるというのに、さらに土佐弁ときた。
観て聞いて、さらによし、である。

寂しうて寂しうて、どうしてうち、こんなに寂しいがぁ?

電話ボックスでくず折れる彼女を、ぎうっと抱き締めたくなる。

小池栄子もまた、いい。
すっかり素晴らしい女優として、その存在を築いている。

どんな恋でも、なんもないよりましやき。

池脇千鶴が、変わらない存在感でいい味をだしている。

うちの過去の男は、みぃんな、大っ嫌い。

地方の小さな港町に、一軒だけある美容室「野ばら」
小さな町だから、何一つ隠し事もできない。

下品で明け透けで真っすぐな、生きることを精一杯に生きる女たち。

男の人生はな、真夜中のスナックやき。

宇崎竜堂の語る男の人生論。

男は、愛すべく、いや愛想尽かすおバカなもので、それをわかって愛してしまう女たち。

土佐の女は、情があつい。

そして、熱いものが、観終わった胸の奥に、たまっていた。

愛おしいほどの恋を感じたい方は、どうか観てみてもらいたい作品である。



この週末。
また、半分を寝てしまった。

取り戻せない時間。
押さえられない時間。

すり減って行くのではなく。
だるま落としのように。
スコンと打ち抜かれてゆく時間。

限られた時間にしがみつき活かすことよりも。

今は、

なすすべなく失って行く、どうしようもない時間の方を、執着してしまう。

その針は、きっともうすぐ反対側に振り戻る。

空白に吸い出された気力は、帰ってこない。
だから、ありったけの、残りカスのなかなから搾りだして、毎日を溜めてゆくしかない。

カッスカスにも、ひとしずくの意地がある。



2010年10月01日(金) タイム・スリップと、コレが、コレ

わたしは駅の階段で、時を止めた。

「タイム・ストップ」

というやつだ。
いつも通りに有楽町駅の山手線外回りのホームに上る階段の真ん中あたりだった。

上るひとよりも下りてくるひとのほうが圧倒的に多い。
だから自然に、壁ぎわに押しやられながら一列で上ってゆく。

手に持っていた傘が、まるで気紛れなイタズラのように、揺れてみせた。

あっ。

交差しようとしていたわたしの足に、音もなく、すっと滑り込んでいた。

両足を後ろに跳ね上げて、両手は一瞬、バンザイのかたちになりかける。

「とまれっ」

とまった!

周りの風景はとまったけど、宙に浮いていた自分自身の身体だけは、とまらない。

そりゃそうだ。
自分までとめてしまったら、時間をとめた意味がない。

水泳のバタフライのような動きで、目の前に迫ろうとしはじめた階段に、手を突き出す。
右手はカバンを掴んだままだから、拳の状態だった。

ああ、今日はパソコンを持ってきてなくてよかった。

解除。

コンマ何秒かのあいだの出来事だったから、誰も何も違和感を覚えないはずだ。

ただ、男がひとり階段でつまずいたと思ったら、四つ足の格好で勢いをつけて駆け上がった、という珍しいい光景を見たと思うだろう。

拳に斑点のように小さな赤がにじみはじめる。
電車に乗るのに、それはマズい。

ペロリと口をつけてなめると、舌先にめくれかけた皮が触れたので、前歯で挟んで、ブチッと噛み切る。

大したことはない。大豆ひと粒くらいの大きさだった。

皮一枚の浅さだったからか、透明のぬらぬらした膜が、赤が広がらないようにもう覆いだしていた。

その手で吊革を掴み、誰にもつかないように気をつけたわたしを乗せて、電車はガタゴト揺れている。

揺れて吊革を強く握るたびに、ピリピリと地肌が引きつった笑いを浮かべる。

周りのひとは、誰も何も知らない。



「どうしたの、それ」

お多福さんに、かさぶたの右拳をみていわれたのである。

「仕事のストレス発散でストリートファイト?」
「とんでもない」

わたしは即座に否定した。
ゴキブリすら見つけたら、どうかあっという間に見えないところに逃げて、

「ああ、叩き潰す隙すらなかった」

とあっぱれを送らせてもらってすむように願いながら、しばし金縛りになるわたしである。

「そんな虫も殺せないわたしを捕まえて、何をいうんですか」

右の頬をはたかれたら、左の頬を。

「拳で殴り返す?」
「違います」

左の頬を差し出す前に地べたに崩れ落ちて、ぼろぼろ大泣きして喚き散らします。

「弱っ」

「強い精神力」がないとできませんよ。
たしかに。でも、ヤダな。
わたしも、ヤです。

じゃ、ダメじゃんっ。

唖唖と笑う。

「駅の階段で」
「落ちたの?」
「つまずいたんです」
「落ちなかったの?」
「上り途中だったので」
「ちっ」

お多福さんが横を向く。

今、ちっ、とか聞こえたんですが、つばでもつっかえたんですか。
うんにゃ。
じゃ、わたしの気のせいですね。

「べつに」

まるでエリカ様のような切り返しである。
たじろぐわたしは、負けじと続ける。

最上段からの階段落ちだったら、よかったですか。

「うん」

「コレ(小指をたて)が、コレ(妊婦の仕草)ですから、って?」

うんうん。

ちゃーちゃらー、ちゃちゃちゃ♪
ちゃーらーらーら、らんらんらん♪

ここは蒲田でなく、品川ですよ。
いいじゃん、近いんだから。
てか、コレ(妊婦)なコレ(小指をたてる)以前の問題ですから。

階段落ち、で、蒲田行進曲と通じる世代に、完敗、いや乾杯、である。


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