「隙 間」

2009年07月31日(金) 大森スクリーム

矢、尽き。
刀、折れ。

今宵、大森に落ち延びたのである。

そこには、ケイちゃんが待っていた。
夏バテにやられてしまっているのだろうか、明るめの茶にした髪が、なんだかすべてがか細くみえる。

それでもわたしに向ける笑顔は、健気にも明るい。

「楽しみにしてるから」

どんな顔をしていいのやらわからない、そんなはにかんだ笑顔で、うつむいた。

部屋に、ふたりきり。





「はい、どうもどうも」

「楽しみにしていた」はずのイ氏が、何やらすこし、毛羽立っている様子で椅子に座った。

もう、なんかね。
馬鹿になっちゃって、全っ然、読んでないんだよ。

そんな告白から、今宵の談義ははじまったのである。

リュウメイさんの話、解説し直してくれてるとはいえ、難しいですね。
原本なんかだったら、もう、それはそれはチンプンカンプンだよ。

少しずつ毛繕いされてゆくように、イ氏は落ち着いて座り直す。

今回は志賀直哉・小林多喜二の話がでた。

小林多喜二がメロメロに信奉した志賀直哉はね、金持ちのボンボンだったんだよ。

プ、プ、プロレタリア文学の小林多喜二が、ですか。



「ねえあなた。あのひととのお付き合い、差し控えたほうがよろしいんでないですか?」
「お前がどういおうと、彼、小林くんとの付き合いはやめんっ」

志賀直哉は妻にそう力強く答え、それを聞いた小林多喜二は、メロメロになり感涙にむせび泣いたそうである。



蟹工船。

が一躍脚光を浴び、ベストセラーになり、映画化までされた。

しかし、いうほどの盛り上がり熱は、本当にあるのだろうか。

熱があったとしても、それをエネルギーとしてどれだけのひとが活用、吐き出しているのか。

共感、感銘、不平、不満を抱えるだけなら、誰にもできる。

その熱は、たいがいがそのまま気化して冷めてゆくだけである。

冷めずにどうこうしているものがどれだけいるか、が本質なのではなかろうか。



現に今、「蟹工船」の話がでてきて「時差」のようなものを感じたと思うものがあるだろう。

それもまた、仕方のないことなのである。



2009年07月30日(木) はるかなるへそ

「癒し系天然実力派女優・綾瀬はるか」

のへそを、まじまじと見ていたのである。

キリン生茶の巨大広告看板が、二階窓席のちょうど道を挟んだ向かいにあり、否も応もなく、

クルン

と、目に転がり込んでくるのである。

へそは、「宇宙」である。

その宇宙に吸い込まれてしまいそうなほど、不思議な引力を持っている。

綾瀬はるかの宇宙ならば、吸い込まれてしまってもかまわないような気が、だんだんとしてくる。

胎内回帰である。

生命の神秘である。

その深奥には、けっして解き明かすことのできぬ真理が、哲学が、胎動しているに違いない。

宇宙を前に、すべての営みはその脈動の一にしかなり得ないのである。

胎児はへその緒を断つことにより、大宇宙の脈動の一からの分離独立をもって小宇宙となる。

そのはるか遠い記憶の名残を惜しむがごとく、へそを前にすると、緒をなくした今は、代わりに指を伸ばして大宇宙への回帰を擬似的に果たしたくなるのである。

看板であるから凹みはない。

その前に、都市の脈動たる通りを挟み、さらにその手前には、無色透明の浸透膜ならぬガラス窓が、それを阻むのである。

突き延ばした右の人差し指を、まずはまじまじと慰めと憐れみを込めて眺める。

やがてその行く先を右耳の穴に決め、うず巻きの形に沿ってなぞらせて、すぽりと落ち着かせる。

ここもまた、宇宙である。

カサカサと乾いた音が、わたしのあたまの深奥に揺れながら響いてきた。



2009年07月29日(水) 「バスジャック」

三崎亜記著「バスジャック」

「となり町戦争」で話題になった著者の短編集。
さらりとしたなかで、思いきり突拍子もない世界観や枠組みを巧妙に醸し出す。

表題作の「バスジャック」では、バスジャックが公的に認められ、様式化し、法的な取り決めもされ、日常の一部となっている。

まずは宣誓するところから、バスジャックは始まる。
宣誓が終わらなければ、まだバスジャックははじまらない。
宣誓がバスジャックをするにあたっての理念、主張が、乗客たちを納得させるものでなければ、乗客たちは「一斉蜂起する権利」を用いて、バスジャッカーたちを取り押さえる行動にでることができる。
バスジャックが無事にはじまると、継続時間、距離が記録され、公表される。
宣誓の内容、乗客の扱いなどはポイントとして足し引きされてゆく。

そうして、バスジャッカーたちは専門のランキング上位や伝説入りを目指し、乗客たちは今目の前にしているのがそれとなるのかどうか、楽しみにするのである。

他の収録作品も、さらりと軽く、そして、面白い。

もしこうだったら。

を存分に楽しんでいる。

それだけでは、ない。

恋人同士である男女の、じつはとんでもないはずの出来事を描いている作品である「二人の記憶」。

二人の記憶が、まったくすれ違っている。
行ったことのない旅行の思い出を彼女に懐かしげに語られ、それならとでっちあげた嘘の旅行の思い出話に、「そうそう覚えてる?」とさらにあるはずのない思い出を付け足して返される。

どちらが正しいのかわからなくなる。

しかし唯一、出会いの記憶だけは、二人同じだった。

それだけあれば、生きてゆける。

これから長く続くだろう二人の歴史に、別の歴史が刻まれていたとしてもかまわない。

男は確信して、二人の一歩へ向けて、踏みだそうとする。

ああ、愛とはかくも強大なものなるか。

トリックを楽しませつつも、なかなかこころあたたまる作品たちばかりである。



2009年07月27日(月) 「オートフィクション」に感嘆す

金原ひとみ著「オートフィクション」

ブラァーヴォ!

わたしは立ち上がり、渾身の拍手と、感嘆と敬意と賛辞をおくるだろう。

友人知人には、決して読んでもらいたくはない。

いや。

読まれたくない読ませたくない、知られたくない知ってほしくない作品である。

芥川賞受賞作「蛇にピアス」から「アッシュベイビー」、「AMEBIC(アミービック)」と、ますます勢いを増す突き抜けっぷりは、他の追随を許さない。

突き抜け過ぎて、もはや人間の領域を超えている。

間違いなく有害指定図書として、学校の図書室には、決して置かれることのない作品。

「オートフィクション」とは、自伝的創作小説の形式のことを指し、主人公の小説家であるリン(二十二歳・オンナ)が、編集者から「書いてみないか」と持ちかけられるのである。

新型インフルエンザウィルスよりも、HIVや天然痘のウィルスよりも、水虫菌やゴキブリの生命力やシュールストレミングの臭さなんかよりも、強烈な、熱のようなものを孕んでいる。

滑稽なほどに、熱い。

常に、疼いている。
常に、蠢いている。

常に、烈しく。
常に、愛しく。

常に、純粋。
常に、真摯。

常に、偏。
常に、執。

故に、常。

おそらく、大概のひとが

「なんだコレ」

と、かなり早い頁で眉をひそめ、顔を背けるだろう。

しかし目は続きを追ってしまう。

そんな力が、ある。

金原ひとみとは、なんと恐ろしい生き物なのだろう。

巻末の解説のなかで、小説家の山田詠美さんがいっている。

小説家という病。
神と糞を、躊躇なく同列に閉じ込める。
それはまさに病人の所作としか思えない。
閉じ込めておいて、自分はのうのうと、かわりに神におさまる。
しかしその神も、また別の神に支配されている。
そういう畏れを常に持ち続けて怯え、震えているのも、また、小説家なのだ。

と。

よりさらに、畏れ、怯え、震えていよう。



2009年07月26日(日) 不敵な再会

今日は、思わぬひとと偶然の再会をはたしてしまったのである。

茗荷谷の拓殖大学にて、朝から試験に参加していたのであるが、午前と昼の部がすみ、午後の部がはじまるまでのふとした休憩時間。

あと三時間。
脳への糖分補給をしなくっちゃ。
ああ、これが終わったら、きっとずどどんと落ち込むんだから、いまのあいだくらい、ぶいぶいさせてよ。
ぶいぶ……い?

見た覚えがある顔のひとが、窓の向こうから手招きしていたのである。

前の前の会社で、わたしがお世話になった、ニキサキさんだった。

ニキさんとは、かれこれ三年半振りの再会であった。

「サキさ……ニキサキさん、たいへんご無沙汰です」

お世話になった方をあだ名で呼ぶ、という失礼をおかしかけたわたしに、「いいよべつに」と不敵な笑みを浮かべる。

香港がうんだ大スター、成龍ことジャッキー・チェンを、寝不足にしてむくませたような、相変わらずの様子のニキさんと、近況報告を交わす。

釘をさしておかねばならない。

なんだよ、まだこの業界でやってるってんなら、うちに戻ってきて俺の仕事を手伝っておくりよ。

いやいや、作図補助のお手伝いで口をすすいでますものですから。めいっぱいなんて、無理でございます。あしからず。

ちっ、なんだよ。惜しかったなぁ。

まことにもって。

ちっ。
じゃあ、頑張って。

いたみいります。

またもやニヤリと、振り返りながら笑みを送りつつ、去っていったのである。

連絡先は変わっていないようなので、後日、結果が出揃ってそうなころに連絡をしてみよう。

缶コーヒーをちびりとやりながら思ったのである。

さあ。

終わった。
いつもの続きに戻れる。

戻れる、がその前に。



しばしの間を設けて、回復期間にあてようと思う。



2009年07月25日(土) 夏の日の恋

男女三人ずつの集団が、前をふさいでいた。
べつに急ぐでもなかったので、そのまま三歩ほど下がったところであとをついていた。

前に男三人、その少し後ろに女三人、そのすぐ後ろに、わたしひとり。

彼らは皆、手で会話をしていた。

男女の距離が、徐々に開いてくる。

前の女子三人の声、いや身振りが大きく、激しくなってゆく。

わたしは手話の心得などない。

男三人は彼女らが遅れてついてきていないことにまったく気づかず、いい気なものでずんずん先を歩いてゆく。

「ねえ。なんかつまんなくない?」
「暑いし疲れたよね。どんどん先に行っちゃうし」
「まあ、そんなこと言わないで」
「てか、さいてーよ。気遣いがないわ」
「まだ気づかないで先を歩いてるよ?」
「疲れたのはわかったから、追いつこ、ね?」
「いいわよ。気づくまでほっときましょ」

わたしは手話の心得など、まったく、ない。
だからこれは、わたしの勝手な想像である。

わたしが彼女らを追い越し、先を歩いていた男らをも追い越そうとしたそのとき。

ようやく男のひとりが気づいて振り返る。

「おおい」

手を振る。
そう。三人とも立ち止まって、彼女らを待ってあげなさいな。

そのまますたすたとまた歩き始めた。

うおぉいっ。

わたしは手の甲で彼らのひとりにツッコミたくなる衝動を、グッとこらえたのである。

カップル不成立は、これで確定だろう、とため息をこぼす。

わたしの勝手な想像、いや妄想であり、本当は彼らはただ学校の同級生で、夏休みに東京ドームに遊びにきただけのことなのかもしれない。





彼らは、彼らと同じようなもの同士としか、好きだの恋だのが、しづらい。

偏見かもしれない。

しかし、大変難しい問題がそれぞれの理由でそれぞれにあるのだが、そうならざるをえない現実が、ある。



僕だって、そりゃあ綺麗な女優さんみたいなコに、ムラムラっとしたりしますわ。
でもね、車椅子で、ひとりじゃ外出もなかなかできないとね。
まさに異星人みたいなもんですよ。

障害者に性欲がないというのは、間違いです。
性から遠ざけるのも、間違いです。
感情をコントロールできないから、と決めつけてしまうのは、彼らの未来にフタをしてしまうことです。

わたしたちだって女なんです。
生理だってあります。
それが何のためにあるのか、本当の理由と意味をきちんと教えてくれないところがあったりもします。

子どもができたらどうするんだ、責任をとれるのか、って、性から遠ざけようとされる親御さんの心配もわかります。
でも、知らないよりも、知っておく必要性に目を向けて欲しいんです。

娘が、どうやらあなたに恋をしているようなんです。本人がそうだと気づかずに、イチバン戸惑っているんですが。
失恋を体験するのも、娘のためです。
知らないところで、知らないうちに、取り返しのつかないことになって欲しくはないですから。



それぞれの立場から、それぞれの本音が聞こえてくる。



そして。



目の前に、普通に、肘をつつきあっていたりも、するのである。



2009年07月24日(金) 「ペダルの向こうへ」学んだこと

池永陽著「ペダルの向こうへ」

あらすじをざっと話そう。
洋介は、自動車事故で妻と息子の右足を失った。
妻の運転する息子を乗せた車が、トラックと正面衝突したのである。

右足の膝から下が義足となった息子は、学校に通うどころか、心すら誰とも通わせることのない日々を送っていたのだが、父親である洋介がある日、息子の隆にもちかける。

「母さんの故郷に、宮古島に、母さんの遺骨を連れてゆこう。ふたりの足で」

東京の福生から沖縄の宮古島まで、ふたりで、自転車で行こう、というものだった。

事故があった日、本来なら洋介が妻に運転を頼まれたのだった。
接待ゴルフだと断り、別の女性とホテルで過ごしていたのだった。

旅の途中、「事故があって以来、もう終わりにしたはずだ」というのに、その女性から「どうしても会って話をしたい」と連絡が何度もかかってくる。

宮古島に入ったら。

とうとう、聞き入れることになるのだが、条件がひとつだけ、あった。

息子も、同席させること。

運命の日まで、親子はそれぞれの思いや、出会いや、別れを踏み越えながら、ペダルを踏みしめて西日本を宮古島へと向かってゆく。

そして運命の日が、訪れたのであった。



かつて著者の「コンビニ・ララバイ」の解説に、

重松清と浅田次郎を足して割ったような

と評されていた作家であり、何作かわたしも読んだところで、なるほど、と思った作家であった。

しかし。

本作は、どうにも同じ作家だとは、思えなかったのである。

ご都合主義の押しつけに、鼻白む。

説明文のような会話。
理由、根拠、結果の押しつけ。

余白が、ないのである。

不幸な設定、状況、人物が、どうだ、と次々に現れる。

それは小説なのだから、当たり前である。

そこに、いちいちを箇条書きのように、原因や理由と過程と結果をつらつらと並べられたら、どうであろう。

それもまだ、小説であるから、ある。

それを本文に、直接的に……。

興醒めにしかなっていないのである。

あーあ……。

というのが、率直な感想である。

不倫相手だった女性が言う。

不幸のなかに、私も入れて欲しい。
自分だけが背負って、私には何もさせない、罪滅ぼしもさせない、なんて。

おいおい。
なんかもっと違う台詞があるだろう。
不幸に加わって、マイムマイムでも踊って、それだけで終わり、ですか。

前に向かう気配もない。
どん底に落ちようとする意志の強さも、感じられない。

散々、である。

ペダルの向こうは、いくらこいでもただのデジタル画像が流れているだけの、無味乾燥なものだったのである。



2009年07月22日(水) 「夏の口紅」

樋口有介著「夏の口紅」

今までに、見かけては通り過ぎる、ことを散々繰り返してきた作家であった。

誰かに勧められたり、何かに紹介されていたりしない限り、手を伸ばす機会はまずなかっただろう。

だからといって、今回はそんな何かがあったのかと訊かれれば、まったくなかった。

旅先の駅の売店で、次の電車までの間繋ぎのために漫画週刊誌に手を伸ばす。

そんな感覚だった。

かつてそうして手を伸ばした作品、そこに居合わせたのが我が真友たるが由縁のひとつなのか、akdにも心当たりがあるかと思う。

そういった作品は、どんな位置付けの作品であるのか。

本作品。

テレビドラマ的青春恋愛小説であるように思う。

主演女優が、たとえば小西真奈美であったり蒼井優であったり宮崎あおいであったり多部未華子であったりしなければ、座して観ようとは思わない。

失礼。
私的発言であった。

本作品に、上記の女優陣にあたるようなものがあったのである。

さらさらと砂漠の砂のように読み進めていると、「本郷」の地名が出てきた。

続いて「菊坂」

わたしがいつも歩いている地である。
そしてなんと、わたしがいつも歩く通りに、主人公たちが歩いていたのである。

「春日の駅から菊坂――」

うむうむ。
あすこをあちらへ。

「弥生町。弥生式土器の――」

うむ。
それから。

「根津に向かって歩いて、三十分は歩いている――」

ふん。
そんな馬鹿な。

「谷中墓地なら知っている。寺が身を寄せ集まっているその中の――」

石を投げれば寺に当たるくらい、ざっと百近くあるからね。

へへん、と、我が手柄のように得意な気分になる。

しかし、当たり前のことだが、わたしの手柄や功績など、微塵も、バクテリアの糞ほども、そこにないことは明らかである。

そのような縁ある地名がなくとも、はたまたお気に入りの人物がいなくとも、気楽に気軽に楽しめる作品である。



2009年07月20日(月) 「温室デイズ」と「チェンジリング」

瀬尾まいこ著「温室デイズ」

中学三年のみちると優子。
中学校生活という「温室」の日々をほのぼのと描いた作品。

ではない。
崩壊しはじめ、校内暴力、いじめ、それらが日常茶飯事のなか、ふたりをそれらの刃が襲いかかる。

別室登校、不登校児教室へと逃れる優子と、いじめに耐え、教室に残り続けるみちる。

スクール・サポーターという、最近採用されるようになった、教師ではない職員。

スクール・サポーター(SS)を「スペシャル・サンドバッグ」と呼び、暴行を繰り返す生徒たちと、それをどうにかしようとしない正規の教職員たち。

みちると優子は、それでも、大切な中学校生活をなんとかしたい、これ以上どうにかならないようにしたい、とそれぞれで元にもどそうとするのだが。

昨年の話だっただろうか。
深夜ドラマ(十一時頃からの)「LIFE」というもので、壮絶な現代のいじめと戦う女の子の物語があった。

あれは、途中の一話のほんの少しだけをみかけて、耐えられずにやめてしまった。

いじめをリアルに描く。

それは、おそらく不可能のように思う。

いじめを受けるものにとっては、それはリアルなんかであって欲しくないものであり。

いじめる側のものにとっては、それはリアルな感覚のものではないのである。

リアルに感じるとき。

それは、いじめているものが教室からいなくなり、次が誰か、自分かもしれない、と、わからないそのときだけなのである。

早々に別室登校、不登校児教室へとのがれていった優子は、つぶやく。

ドロップアウトする人間には、とことん、優しすぎる。
こうして顔を出して、ただぼおっと本を読んで過ごしているだけで、学校に通っていることと同じにしてもらえてしまう。

みちるは、あの教室に何があっても、されても、それでも通い続けているというのに。

「温室」は、過酷な密室でも、あるのである。

そして。

「チェンジリング」

をギンレイにて。

誘拐された我が子が帰ってきたと思ったら、それは当局が用意した別の子だった。
ロス市警はそれを認めず、訴える母親を「精神衰弱による保護を必要とする」として、精神病院へと監禁してしまう。
そこには、同じように警察に刃向かったり、警官の夫に暴力を受けたと訴えた女性たちが、閉じ込められていた。

やがて人道派の牧師たちによる働きかけによって、警察の不適切な措置が明らかにされてゆき、解放される。

がしかし。

児童大量誘拐連続殺人犯がみつかり、その子どものなかに、息子がいたらしい、との証言が。

殺人犯は捕まり、警察の不適切な措置が裁判により裁かれ、息子の消息、安否だけが、明確なものが何ひとつないまま、事件の幕は下ろされてしまった。

そうして、向かう結末は。

この作品。

子どもを持つ親の身にとっては、なかなかしんどい内容になっているように思う。

しかし、さすがクリント・イーストウッド。

最後に「希望」を、しかと残させる。

事実に基づいた物語。

であるのだが、事実のなかにも、たしかにある「希望」。

希望とは、ときにとても残酷なものとなりえる。
一度希望を抱いたならば、それを否定してはならない。
その途端、それは絶望へと十分に変わり得るのだから。



2009年07月19日(日) 夜奇譚と「スジナシ」スジのないドラマ

なにはさておき、

三連休

である。

目が覚めたら、午後がとっくに始まっていたのには、驚いた。

昨夜は、篠原美也子さんのワンマンライヴ、

「独唱」

だった。

平日夜なんてムツカシイ。
いや、行けるかもしれない。
行けるようにしやう。

やはり無理であろう、とチケット予約は見送っていたのである。

今日は早くあがって、しっかり休んで。

シュウゾウ氏のはからいで六時過ぎに出られたのだが、当日券はあるだろうか、いや、それより以前に、確実に落ちる、無理、との判断を下したのであった。

ぐるるぅ。

と虫歯で苦しむライオンのていであった。

虫歯のライオンがうたた寝に見た夢。

どこかのタイトルで使えそうである。

さてそれで昼過ぎに起き出して、ひとまず驚いてみて、なにはさておき神保町の三省堂へ向かう。

不平不満解消には、やはり買い物である。

四冊、ええいままよ、と抱えてレジに並ぶ。

悩んだ。

三巻構成の某長距離作品にするか。

三巻買うなら、別著者を四冊買うのがよかろう、と踏ん切りをつけたのである。

さて夜が更けるまで夢うつつにすっかり溺れ、その帰り道。

言問通りを菊坂下からつらつらと根津に向かって歩いていたのである。

東大の塀沿いに、そろそろ「弥生式土器発見(?)の地」のあたりにさしかかろうとするところで、はたと向こうから、

ゴロゴロ。

とバッグをひいてくる音がした。

顔をあげると、もうすでに、あと三歩くらいのところまで、黒髪の女の子がやってきていた。
肩の下まである黒髪に、眉の下で切り揃えられた前髪の、まるで暖簾の向こうからから伺うような様子でわたしを見つめていた。

ああ、失礼。

と脇に寄って道を開けようとしたのだが、彼女は躊躇することなく、わたしに無言のまま向かってきたのである。

もう一歩、大きく端に避ける。

彼女は目をそらさぬままわたしの横を、ゴロゴロとバッグをひいてすれ違う。

横目に、やはりわたしから目を離さずにいるのを見て取り、はて、誰か知り合いだったか、と足を止める。

しかし、見たところ中学、高校生にはいたらぬくらいの年の子に、わたしの知り合いなどいない。

ふと振り返ってみると、彼女がやはりこちらを振り返りながら、ゴロゴロとバッグをひきながら歩いてゆく。

まだ、わたしを見ている。

内田百ケン先生の世界に迷い込んだような気がした。

まったく見知らぬ女が、いつの間にか当たり前のように隣を歩いていた。
「わたしは知らなくとも、向こうが知っているようならきっとそうなのだろう、とわたしはそのまま並んで歩いていた」

すれ違ったから、そうならなかったのだろう。

坂の下に、赤札堂の灯りが見えていた。

さて。

録画しておいた「スジナシ」という番組を観た。

名古屋のテレビ局、CBCだったと思うが毎週水曜日に、東京では土曜日深夜三時に放送されている。

笑福亭鶴瓶師匠が毎回ゲストを招き、シナリオも事前の打ち合わせ一切なしで即興ドラマを演じ、それを後ほど振り返りながらそれぞれの思惑だったり、戸惑いだったり、感想を語り合う、という番組である。

今回は、元宝塚娘役トップの紺野まひるさんがゲストだった。

めちゃくちゃ、感動した。

そして、笑った。

事前に設定など一切ない。
ただ、舞台が開店時間前の小さな喫茶店である、というだけである。

店の人間なのか、たまたまやってきた客なのか、すべてはぶっつけ本番、一発撮りの勝負である。

ここ何週間か観ているが、やはり純粋な役者さんのほうが、面白い。

監督や演出を手がけたりしている方々だと、何かを考えて、狙って、仕掛けようとして、なかなかうまく流れてゆかない印象がある。

役者は、本能でその役に瞬時になりきって反応を返しているようで、滞る印象が少ないのである。

とくに今回の紺野さんは、

すごい。

鶴瓶師匠が投げるいちいちに、そのすべてを受け止めて、的確に、返す。

突然ふられた喧嘩演技に、もののセリフひとつふたつでポロポロと涙を流し、怒り、開き直り、切り返してゆく。

あっという間に、結婚前に突然問題が起きて大喧嘩を繰り広げる、完璧な、親娘の完成だった。

三十分ノーカットの即興ドラマ。

そしてそのプレビュートーク。

機会ある方は、是非、観てみてもらいたい。



2009年07月18日(土) 「キップをなくして」

池澤夏樹著「キップをなくして」

電車でキップをなくした子どもたちが、皆で共に駅で暮らす。
彼らは「駅の子」と呼ばれ、一部の駅員と関係者にしか気にされない存在となる。
駅構内のものはすべて無料。キオスクの品も飲食店も、店員は「駅の子」だとわかると無料にしてくれる。
そして彼らは、東京駅構内の「詰所」と呼ばれる部屋で遊び、勉強し、ラッシュの時間帯に彼らの仕事をしに都内の各駅に出かけてゆく。

「子ども」であるから、下は小学生から上は中学生までバラバラである。

上の子は下の子の面倒をみる、勉強を教えるなど、きちっとしている。

彼らの仕事とは。

ラッシュで子どもが怪我をしないように、迷わないように、サポートすること。

である。
降りたいのに大人の壁で降りられずに半ベソになっている子を、降ろしてあげる。
押されてホームの端によろめいた子を、手をつないで安全な真ん中に導いてあげる。

彼らの姿は、普通のひとには見えていても見えていないものとして接される。
一時的に時間を止める不思議な能力を与えられる。

彼らはなぜ、いるのか。
やがてそこから卒業、らしい時期がそれぞれに訪れるらしく、卒業する者からの引き継ぎのようなこともある。

いつ、誰が、どうして、なぜ?

「駅の子」たちの物語は線路のように続いてゆき、そして終着駅へと、いや、新たなる始発駅へと、向かってゆく。

なかなか面白い。

キップをなくしたから出られない?
そんなことないよ。精算口でお金を払えば出られるに決まってるじゃないか。

彼らの存在意義を覆すことを口にした者がいる。
それを知らされても、出ていこうとする者はいなかった。

ここでやらなければいけないことがあるような気がする。

駅の子らは皆、生きている。
ひとりだけ、みんちゃんという八歳の女の子だけが、「わたし、死んでるの」という。

いつでもあっちに行けるらしいけど、まだ行く決心が着けられずにいる。

母ひとり子ひとり、だった。

まだたった八年しか、これから先、もっと色々な楽しいことや幸せなことだってあったのに。

そう胸を震わせている母親に、彼女は語りかける。

三日しか生きられなかった赤ちゃんに話を聞いたの。たった三日間かもしれないけど、泣いて、寝て、おっぱい飲んで、おしっこして、とても精一杯、過ごすことができたって、喜んでた。
たった八年、じゃないよ。これから先、なんかよりも、その八年、なんだよ。
だから、わたしを忘れて、悲しまないで。
だけど、忘れないで。

作中の時代設定は、まさに絶妙な時期である。

青函連絡船がまだあり、国鉄からJRに変わってまだ間もない頃。
自動改札ではなく、検札でキップがまだ厚紙で鋏をパチパチ入れていた頃である。

鉄道愛好家には物足りないが、登場する駅が山手線のわたしの馴染みある駅ばかりだったので、なかなか楽しめた。

正味三時間の鉄道物語、であった。



2009年07月17日(金) 「図書館の神様」と予行地談話

瀬尾まいこ著「図書館の神様」

作中にほんとうの神様が出てきたりなど、しない。
唯一の文芸部員の男子生徒垣内君と、顧問になってしまった講師の清(きよ・女)の、とても心和む物語である。

清は頭痛持ちだし、アレルギー体質だし、虚弱体質だし、まったく不健全な体に、幼い頃から苦しめられてきた。

不健全な体にこそ
健全な魂が宿る。

を体現するかのような、まさに清く正しい子だった。

熱や痛みに苦しむたびに、

「神様、どうか今よりもっといい子になりますから、助けてください」

祈り、願い続けてきたのであった。

バレーボールに出会い、目覚め、主将になり、どんどん強くなっていった。

自分に厳しく、他人にも厳しく。

チームメートが、彼女がミスを責めたのをきっかけにして、その晩に突如飛び降りて帰らぬひととなってしまった。

垣内君は中学時代サッカー部で活躍していた。
キャプテンだった。
練習中に仲間が、熱中症で倒れて半年入院した。
彼の責任じゃあない。だけど、彼はそう思えなかったのである。

とても、不器用で。
とても、純真。

なのである。

清は、浅見さんという妻のある男が、恋人である。

垣内君は文芸部の地味な活動を批判する意見に対して毅然として答える。

毎日新しい言葉に出会い、新しい世界と新しい自分に出会え、感動できる。
毎日同じ練習を繰り返す運動部こそ、どうなのか。

文学なんてみんなが勝手にやればいい。だけど、すごい面白いんだ。

最後の晴れ舞台。
三年生の主張大会で、推敲に推敲を重ねた原稿をポケットに折り畳んで、全校生徒の前で胸を張る。

文芸部、万歳。

である。

さてさて。

にーさん。
データのお礼ですから、おごりますよ。

先日の予行地と昼食を共にした。

おごってもらえるとは、ありがたい。
しかしそんなときに、値が張るやつを定食のなかから選ぶことができない。
己の財布で、と同じ感覚で選んでしまう。

これは値段の割には量が釣り合ってない。
それはもっとそう。
あれは口が求めていない。

にーさん。
いいから早く。

……同じものを。
え?
同じもの、を。
いいんすか。

白身魚の竜田揚げ定食にすることにした。

違うものを頼むとふたり同時に料理がやってきづらい、という事故をふせぐためである。

にーさん、忙しいんすか。
おうよ。タクシー帰りの覚悟まで促されたさ。
じゃあ、上のひとに俺が言っといてあげますよ。
なんを。

このひとは、徹夜全然オッケーです。むしろ、深夜のほうがバリバリ働きます、って。
あかんあかんあかん。そんなデマ流したら、あかんて。
デマじゃないですよ。事実、じゃないですか。懐かしいなあ……。
懐かしゅうなんかない。今ではもう、信じられんことや。

住んでましたよね……。
ちゃう。それはわしじゃあなく、あんちゃんのほうじゃ。
いや、あのひともそうでしたけど、にーさんのほうが後半そうだったじゃないですか。
「仕事ができる」言うんやつの、中身の差じゃけえ、あんまおえんど。
「このひと、半年間は休みなしで平気です」って、言っときますよ。
ぶちゆるさんど。半年間休まずに働いたら、一年間はまるまる休むけえの。食っていけん。
なんで広島弁っぽいんですか。似合わないし、どうせインチキ弁なんでしょ?

正解。

好きな作家さんたちのほとんどがね、なぜか岡山県とか、あっちのほうに縁があるひとばかりなのよ。
誰っすか。
重松清さんやろ。
スガキヤ?
ちゃう。名古屋ちゃう。川上弘美さんから内田百ケン先生やろ。
なんでひとりだけ先生づけなんですか。
知らん。
知らないひとばっかりですね。東野圭吾とか読まないんですか。
あかんあかん、ミステリとか拒否反応起こすんやわぁ。
またそんな変なこだわりを。偏見とか視野を狭めてるとかじゃないんですか。
かもしれへんなぁ。せやけど、しゃあないねん。そうなんやもの。
そんなにーさんの書いた小説、読ませてくださいよ。

やじゃ。
即答って。なんでですか。
なんとなく、本能的な反応なんだろうね。口をついて出た、て感じ。
うぅわ、ムカつく。
俺はちいっともムカつかないから、問題ないね。
くっそぉ。いや、まじで。お願いですから、興味があるんですよ。どんなのを書いているのかなぁ、と。
興味があるうちは、ヤダね。なくなった頃になら、いいけど。
なんすか、それ。普通は逆でしょう?
わたくし、天野邪鬼、と申しますものですから。
それ、ペンネームですか。
まさか。あら、昼休みがおわる。
逃げたな。
さあ戻ろう。さあ働こう。ところで。
なんですか。
ごちそうさまでした。
いえいえ。



こんなお馬鹿な会話ばかりである。



2009年07月16日(木) 「ミーナの行進」

小川洋子著「ミーナの行進」

とにかく、泣きそうなくらいにあたたかい物語。

芦屋に住む親戚の飲料水メーカーの社長一家のもとに、母が東京で働くためにひとり預けられることになった朋子。

そこで出会った娘のミーナとその一家との忘れられない大切な思い出。

小川洋子作品に共通する「どこか閉ざされた」世界。
本作では、それは表には出てこない。

いや。

それぞれがそれぞれの内に秘めた閉ざされた世界や秘密があるのだから、出るも出ないも、ない。

喘息持ちで体が弱く、コビトカバのポチ子に乗ってしか小学校に通えないミーナ。
変わった絵のマッチ箱を集め、そのひとつひとつに物語を空想し、書き、ベッドの下にひっそりと納めてゆく。

ドイツがふたつに分かれる前に日本に嫁いできた祖母。
ミュンヘンオリンピックのテレビ放送に、特にバレーボールに首っ引きな朋子とミーナに付き合いながら観ているうちに、日本とドイツの両方が点をとるたびに喜べるなんて、なんて得なんだろう、と拍手する。
オリンピック中のイスラエル団誘拐事件に心底胸を痛める。

ミーナが特にご執心だった日本代表チームの名セッター・猫田選手、横田選手、大古選手らを空想バレーでふたりで再現し、その素晴らしさと魅力を余すところなく伝えようとする。

東京の母に手紙で、

「プレゼントに何でも好きな物、文房具でも玩具でもとありましたが、お洋服もアクセサリーもいりません。
ミーナとするための、バレーボールをください」

とお願いし、「公認球と同じ会社が作ってるボールです」と送ってもらったボールで、ミーナと空想バレーから実際のバレーの練習をはじめ、毎日のふたりの日課となる。

埃とポチ子の糞まみれのボールを水洗いすることも。

すべては、すべてのひとそれぞれが「閉ざされた」思いや世界を内包しているからこそ、あたたかいひととの繋がりが、そこに描かれる。

分厚いからと敬遠するのは、もったいない。

なかなか素晴らしい作品である。



2009年07月15日(水) 予行地来訪たくしーだい

夕刻、ぞわぞわと首の毛を逆立てるような気配を感じた。

「にーさん。仕事しなきゃ駄目じゃないすかぁ」

ふん。
しとるやないのん。
なぁにをカバチたれとんにゃあ。

予行地が、ふわふわとすり寄ってきたのであった。

やめい。さぶいぼたつやないけ。
そんなぁ。嬉しいくせにぃ。

誤解なきよう。
決して肌が触れていたりなど、していない。

断じて。

ただそのていで交わしているお馬鹿な会話である。

「にーさん、と見込んでお願いがあるんですけど」

未婚で、お願い。
うむ。わたしなんぞでよければ。
で、その女子とはどんな女子ぞや。

あー、はいはい。
それでですね。

……流しやがった。
食らいついてやらいでか。

「かくかくしかじかの、仕様書とか要項とか、持ってませんか」

ふっふっふ、
ふっふっふ、
ふっふっふ。
……「ふ」が九、三十六景。

にーさん。それ、まさかあと三十六回やる気っすか。
……すまん。そんなつもりはなかった。
いや。どーしてもやりたいんなら、俺は止めませんよ。俺はさっさと立ち去りますから。
いや。せめて止めてから去ってくれ……。
ヤです。で、持ってるんですか。
……。
持ってるんですね。
……。
わかりましたよ、もう。メンドクサイなぁ。

わたしは眠ったまま、一度も開いたことのなかったブリーフケースの扉を開き、その中からデータを引っ張り出す。

「おおっ。さすがにーさんっ」

なんのナンノ、南野陽子。
……。
おまんら、許さんぜよ。
……もう、いいっすか。
といきーで、ネット……は、便利だねぇ。
……。

「いやぁ、助かりましたよ」

予行地は、トンテケテと笑顔で去ってゆく。

あ、ところで、と引き返してきた。

「今週のどっかで、昼飯いきましょうよ」

うむ。忙しさの波が読めないが、いついつにしておこう。
じゃ、いついつということで。

そのいついつ、がかなうように、祈るしかない。

タクシーで帰るとしたら、いくらくらいかしらん?

そう尋ねられたことだけが、引っかかっているが。



2009年07月14日(火) ヘイハイヅ

シュウゾウ氏と差し向かいで打合せをしていた。

「やばい、これじゃおさまんないじゃん」
「これを、こう、したらなんとかなりません?」「お、なるほど。さえてるねえ」

額がくっつきそうなほどの、まさに角突き合わせて、紙を挟んで互いにペンで差したり書いたりしている。

(じゃあ、この階は)

むむ。
シュウゾウ氏の声がフィルターで抽出したように、際立っているが、しかし不自然にどこかがぼわんとしているように聞こえてくる。
これは、マズい。

(こうなっちゃうのかあ……)

動け動け動け、
止まるな止まるな止まるな、

(どうしよっか……)
(そう、ですね……)

指一本、には、神経が届かない。
前屈みで突いてる肘に、力を入れ、

(じゃあ、こう、したら……)

肘が上がった、ペン先を伸ばして……。

「あ、やっぱり駄目でした」
「うぅん、悩むよなあ……」

よいしょ、と体を起こしたわたしは、シュウゾウ氏と同じように腕を組んで、あごをひとさすりする。

()の会話は、わたしが落ちかけている、もしくは落ちている状況での会話である。

そう。
会話ができているのである。
しかし会話をしていても、複雑なものはできない。

かつて、いたくまともな意見をされてうなずかされた、といわれたことがあったが、たまたま、だろう。

とにかくマズい。

まだ昼日中である。
追訳しようにも、空であった。

「なになに。くろ……がい、し?」

笹氏がわたしの手元をのぞき込んで、読み上げた。

ヤバいヤバいヤバい。
いつの間にやら、メモ書きしてそのまま落ちていたらしい。

「なんて読むの」
「ヘイハイヅ、らしいです。中国語なので、日本語だと何て読めばいいのかは、ちょっと」
「なんだか難しそうに考え込んでるみたいだったからさ」
「読めなかっただけ、です(笑)」
「何なの、それ」
「難しくて、よくわかんないです(笑)」
「何だよそれ(笑)」



ヘイハイヅとは黒ガイ(子に亥)子と書く。
一人っ子政策(正確には、政策として施策されたことはなく、子が少ないことを推奨する、というかたちをとっている)の弊害として、二人目以降の子を産むには莫大な届出料(許可?)を支払わねばならない。

第一子が女の子で、農家の跡取りが必要である場合などの例外は認められている。

莫大な金を払うことなく、つまり、出生届を出さずにそのまま産み育てられた子たちのことである。

村の人口が百人と記載されていても、実際は三百、四百人が暮らしていたりするのである。

ヘイハイヅたちは、この世に認められていない存在である。
したがって、学校医療などの公的なものが受けられない。
就職などももちろんである。

都市で働く場合には、必要な「労働許可証」を偽造してでも手に入れなければならないのである。

近年の日本以上の少子高齢化問題を前に緩和傾向があるらしいのだが、現実と公的資料の食い違いが、もちろんそこにはある。

「小皇帝」「小皇后」と呼ばれる子どもの人格形成問題や、ヘイハイヅたちの多くが行き着くのが黒(裏)社会の人間か売春婦だという問題が横たわっているのである。



そんなメモはさておき。

そんな思索にふけるわたしの脳を、わし、と直手に包んでいる輩がいる。

いつでも握り潰してやれるんだからな。

と。

くしゅ、と握られれば、たちまち落ちてしまう。
どこかで保っておかなければならない。
知るひとがいないところまでは。



2009年07月13日(月) 「きつねのはなし」と川上未映子観

森見登美彦著「きつねのはなし」

京都を舞台とした奇タン集である。

ここに、これまでわたしが読んだ森見作品の軽快さ、理不尽なまでの奇天烈で愉快な物語の影など、微塵もない。

それだから、惜しい。

しかし、森見作品ならではの、各話の出来事や人物などがそれぞれ繋がっているという巧妙なところは、なかなかなるほど、と思わされる。

さて。

昨夜、まさに偶然、川上未映子さんの密着番組にチャンネルが合った。

「乳と卵」にて芥川賞を受賞した作家であり、歌手でもあった。

わたしはまだ、彼女の作品を読んだことがない。

番組中、彼女は筆がなかなか進まなかった。
締切の、結局二ヶ月遅れで校了となったのだが、そのなかで、彼女のつぶやきがナレーションで語られたところがあった。

こんなことを、わざわざ自分の作品で読んでもらう必要があるのだろうか。

それは常に頭の真ん中に、小さくもしっかりとこびりついた染みのようにあり続ける疑問である。

しかし、書きたいのだから書く、という衝動に普段は突き動かされて気づかないままでいられる。

気づいてしまうときは、迷いやためらいがあるときだったりする。

そんなのばっかりである。

ありすぎて、もはやなければ寂しく思ってしまうくらいである。

もしもあと一ヶ月かけていいものが書けるなら、一ヶ月、締切を延ばしてもらって、いや延ばして、書きます。

そう、言っていた。

彼女のブログを見てみたら、待ってもらって迷惑かけて申し訳なかった、といった類いの言葉も添えられていた。

「今回(何度目かの締切延長)で原稿あがらなかったら、本気で一緒に飛び降りようって、思ってたもんね(笑)」

番組中のひとコマで、編集の担当者が、ケラケラと冗談めかして語っていた。

作家とは、まことしやかに「わがまま自分勝手」な人種のひとつ、である。



2009年07月11日(土) 「ベーコン」と「そして私たちは愛に帰る」

井上荒野著「ベーコン」

食べ物にからめてなる十編の短編集。
井上荒野作品らしさ、が、若干物足りない印象をうけた。

なんとなく、である。

物語、とはいわない。
思い出、というものを、目の前にした食べ物それぞれに、ひとつでいい、誰かに話せるだろうか。

たとえば――。

トーストは六枚切りか八枚切りかで言い争った、とか。

目玉焼きにソースや醤油をかけるひとがいることを知ってショックを受けたことがある、とか。

アイスコーヒーは最初から甘いものだと思っていた、とか。

どんなに有名で高級で美味しい店のシチューよりも、我が家で食べるシチューが一番、とか。

「母さん(妻)の料理がいちばんだなあ」

などと、重松さんの作品のなかで使われるようなそんな言葉を、使っているだろうか。

「食育」の含んでいる様々な意味のひとつを、たいそうではなく、他愛のないところから考えてみたい。

もっともわたしの場合、その相手がいないのだから、もっぱら妄想において、なのだが。

さて。

「そして、私たちは愛に帰る」

をギンレイにて。

ドイツとトルコをまたいで、トルコ人の抱える知られざる様々な社会・人権問題を扱った作品。

ドイツに移民として住み着いていったトルコ人たち。
そして、トルコ国内のあまり知られていない格差問題。

たとえば。

学校に通っているのは、裕福な家庭の子供だけ、なのらしい。
学校数が足りない。
私立校の学費は、普通の労働者の月収とほぼ同じ。

そんな国には、はたからは見えていないだろう。

見えているのは、せいぜいが「びよん」と伸びるアイスだったり、「とんで」イスタンブールという都市名だけだったり、する。

この作品。

三組の親子の、それぞれの微妙なすれ違いと交差の運命。

運命とは、なかなかどうしてなんともし難いものである。

切り開くもの、とはいうが、切り開くには相当の「モノ」が要る。

切り開くことができず、失い、そして残された帰るところこそが、愛、だった。



2009年07月10日(金) 明るいおおもりスマイルの話

わたしの品川からの終電は、深夜零時半である。
昨夜は危うく、それのお世話になるところだった。

やはり残業時間の愚痴をこぼしたのがいけなかったのかもしれない。

ここはひとつ。

お仕事だいすきっ。
ようこそ残業っ。
日付が変わるまで、帰りの電車はありますっ。

これですこし、厄払いはできただろうか。

うむ。
もしや、抜け駆けしてひとりで朝顔市にいったから、かもしれない。
しかし、抜け駆けしてもなにも、はなからひとり、だったのだから可能性はうすい。

しかししかし。

朝顔市は、いつもの帰り道を、たまたま山手線の外側を歩いていってみたら、「たまたま」入谷を通りがかり、市が開かれていた。
せっかくだから鬼子母神になむなむとご挨拶、のお供え物のつもりで購入した「元気盛焼きそば」が、気づくと胃袋に奉納されていただけである。

うむ。
苦しい。

あの晩の胃袋も、苦しかった。

さてそんな日々が続いたものだから、シュウゾウ氏が、本人も限界であったのもあり、

「もういいっ。今日はここまでで、とっとと帰りましょう」

という段取りとなった。
定時あがり、である。

今夜は八時までに大盛の、いや、大森のイ氏のところへゆかねばならないと心配していたので、助かった。

そうして、とっとと大森に向かったのである。

さてさて。

ここでまずひとつ、一部の方々には記憶に新しいかもしれないが、新垣結衣、松本潤、中井貴一らのドラマ「スマイル」を思い出してもらいたい。

ドラマなど知らん、観とらんという方、わたしもじつはそうであるので、気にしないでもらってかまわない。

新垣結衣演じる主人公が「失語(失声)症」なのである。
物理的原因ではなく、神因性のものであったらしく、ダイジェスト紹介で観たときには、しっかりとしゃべっていた。

回復の理由、きっかけはわからない。

なにせほとんど観ていないのである。

観るのが、なんか、悔しかったのである。

書き始めようとしたその矢先に、テレビで扱われてしまったのである。

時期をずらさねば、ならない。

流行が過ぎても、それは常に世間にあるものなのである。
であるから、今は材料を集め、下地を整えることにしたのである。

イ氏はもちろんそのドラマを観ていない。
その専門家でもない。

が、まったく無縁というわけではないはずである。

「うんうん、それはねえ」

原因はそれぞれである。
事故や病で脳神経の言語機能が支障をきたすような物理的原因は別として、神因性のもの、いわゆるストレスなどによって、の場合について話をしてもらったのである。

「完治、なんてなかなかあり得ないよ」

え?

さて皆さんご一緒に。

ええ?
だって結衣ちゃん、しゃべれるようになってたじゃないの。

早足でわかったつもりになってはならない。

回復は、する。
しかし、また同じように声は出なくなる。

ということである。

つまり、原因が根本的に完治することは、まず難しいということである。
何かのストレスなどのはずみに、ふたたび、いや、何度も繰り返しやすくなる。

形ある理由ではない。
形がないから治しようがないということである。

臆病が豪胆に生まれ変われるわけではない。
臆病を押しこらえる術を身につけてゆくことはできても、それは完治ではないのである。

なるほど。
しかしもちろん、これがすべてで正解、というわけではない。

イ氏との話で、なかなか参考になるものが得られた。

今日はまだ早い時間ということで、わたしの後がつかえていた。
ゆっくりと話をするには、やはり最後に訪れたがよいようである。

まだ明るい大森の街を、駅へ向かう。



2009年07月08日(水) 入谷朝顔市と「あの歌がきこえる」

月曜日から本日水曜日までの三日間――。

「入谷朝顔市」

が催されていた。

意地である。

たとい、ここずっと、八時だ九時だ十一時だと品川を出る日々が続いていたとしても。

朝顔市は今日の日付が明日のそれに変わるそのときまで、やってくれている。

コンビニ袋に入れなければ持てないほどの「超大盛」「メガ盛」「成長期盛」「元気盛」焼きそばを今年も食わなければ、初夏の訪れを実感できない。

最終日の、夜十時も半ば過ぎた頃にようやく入谷にたどり着いたものだから、夜店もあちこちが店じまいをはじめている。

朝顔の鉢が、まだまだずらりと棚に、道端に並べられている。

朝顔は「団十郎」。

なかには「沖縄朝顔」などという種類もある。

今年も、わたしのトカワサツキは不在である。
したがって、朝顔を買って帰ることもないのである。

コンビニ袋の底に溢れかえる「焼きそば」をもしゃもしゃと頬張りながら帰る。

うむ。
初夏の到来である。

さて。

重松清著「あの歌がきこえる」

吉田拓郎、かぐや姫、松任谷由実、サザン、RCサクセション、ビートルズ、オフコース……。

それぞれの名曲をタイトルに書き綴られた著者の自伝的連作短編集。

青春――。

だめっス。
ヤバいっスよ、重松さん……。
泣かせるんじゃなく、胸の奥をキュッと締めて、腹んなかをじわぁっとあったかくさせてくるなんて。

コウジ、ヤスオ、シュウの、曰わく「ダチ」トリオ。

甘酸っぱい、乳臭い、顔が熱くなるような、青春の物語。

カセットテープに選んだ曲を録音して、A面からB面に入れ替えたり、巻き戻しでキュルキュルとすり減ったり伸びてしまったり。

曲の合間に「告白」のメッセージを吹き込んで渡したり。

今の携帯プレイヤー世代の若者たちには、きっと「は?」というようなこととかこそが、「青春」だったり、する。

「文句」ならさんざん口にしてきたことが、気がつくとそれが「愚痴」に変わっていたりして、それが「ガキ」から「オトナ」になったことだったり、する。

ウソだと鼻で笑って見せたくせに、こっそりビニ本の黒塗りを指でこすってみたり、駄目ならバターやマーガリンをつけて何度も試してみたりしていたのが、インターネットで目を覆いたくなるような侘びもサビもない鮮明巨大画像があちこちで見られたりして、「かんだかなあ」とうんざりした気持ちになるだけだったり、する。
それも今や遠い昔のことで、「じゃあ今は?」と聞かれると、「今さらべつにそんな物」と笑ってごまかしたりするだろう、たぶん。

わたしはほかのひとに比べて執着だとか物欲だとかが、さほど、それこそ執着心がうすく、不自由だとか苦労だとかがなく、今に至っている。

それはつまり、わたしの力によるものでも、運の強さによるものでもないことは、わかっているつもりだ。

目を閉じてみよう。

「あの歌がきこえる」

だろう。

weekend with no name...



2009年07月07日(火) 月を含む

今宵は満月の七夕である。

見上げると、澄んだ蒼い空の海に、白い雲が横に長く横たわっている。

その向こうに、ぼんやりと、それでもはっきりと、満月は輝いている。

などと言っているうちに、顔を出した。

やはり、月夜はいい。

お月様が、そうとう口に含んでいたあめ玉のように見えてくる。



2009年07月06日(月) 「ねじまき鳥クロニクル」

村上春樹著「ねじまき鳥クロニクル」(全三部)

日本が世界に誇る村上春樹の作品であり、三巻構成ということでわたしは後込みしてなかなか手を伸ばそうとしていなかった作品。

だいたいが二十ページごとで章(?)が変わり、そんな調子だから、次々と先へ引き込まれていったり、その度にひと息ついたりできるので、三巻構成など全く意に介さずにすむ。

この作品は、同著「海辺のカフカ」に通じる物語の舞台構成(「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」も?)になっている。

現実世界と架空世界が密接に関係し、架空世界というのは過去の歴史であったり精神世界であったり、同時並行世界であったりする。

個と個が繋がっている全の深層心理の世界、とでもいおうか。

全ての問題はそこからはじまり、現実世界に現れる。
現実世界に現れた問題を根本的に解決、決着をつけるために、深層世界でそうしなければ、ならない。

ところが。

物語が進んでゆき、気がついてみると主人公である「僕」は、決定的な解決を自らの手ではつけられずに、終わってしまう。

解決だけにすまされない。

全てにおいて、僕は自らの手によって決定的な何かを完遂することが、できない。

僕が巻き込まれてゆく様々な事件や出来事、そしてそれらの行き着く先は、個人ひとりの力など、しょせんなにひとつ及ぶものではない。

定められた大きな流れ、もしくは大勢に委ねざるをえない、と繰り返し説いているようである。

しかし、個の存在やその努力を軽視しているのではない。

大勢のなかで抗うこと、個であることに執着すること、個と個でまたひとつの個となろうとする意思や行為は必要であり、その過程で大勢のなかに埋もれてしまわない個となってゆける。

本著の結末に、いささか消化不良の感を覚えてしまうかもしれない。

しかし、この物語に明快な結末、結論などないのかもしれない。

物語はすでに終わっている。

それが結末なのではないか。

わたしたち人間は、生を受け、産声をあげたそのときには、もう「死」という結末に向かっているという結論。

そこに至るまでの人生という過程を、生きている。

だからといって、わたしたちは自らの人生の目的、目標、夢、記憶、感情などこそが結論や結果であり、あえて「死」というわかりすぎるものをそれとしない。

ちんぷんかんぷんだった、よくわからなかった、というような、明確な一点の結論、結末を求めたがためにそう思えてしまうかもしれないが、過程のひとつひとつを振り返ってみれば、こう思うだろう。

たしかに面白く読まされたかもしれない。

と。



村上春樹は、やはり素晴らしい作家、なのだろう。



2009年07月05日(日) 「エレジー」最も素晴らしき女優

「エレジー」

をギンレイにて。

大学教授のデビッドは教え子のコンスエラに、一目で心を奪われてしまう。
歳の差は三十以上もある。
しかしふたりは二年の間互いに愛し合い、コンスエラはデビッドに

「家族に会って欲しい」

と、彼女の修士卒業祝賀を兼ねたパーティーにきてくれるよう懇願するが、不慮の事故も重なり、デビッドは結局パーティーにゆくことはせず、ふたりは別れてしまう。

「私の人生の大事な節目を、あなたにも一緒に祝って欲しかった」

留守電に残された彼女の伝言。

二年後の大晦日、突然コンスエラがデビッドの前に現れる。

「あなたは、一番、わたしとわたしのからだを愛してくれた」

乳癌に冒され、手術を目前に控えたコンスエラは、デビッドにお願いをする。

「医者に壊されてしまう前に――」
「……誰も壊したり壊されたりなんかしない」

デビッドがコンスエラに出会って、最初にかけた言葉。

「君は、ゴヤのマハに似ている。とても美しい」

デビッドは涙をこらえながら、マハをシャッターにおさめる。

老いてゆく男。
病に冒されてゆく女。

「全部とられちゃったけど、愛してくれる?」
「ずっと。そばにいる――」



コンスエラを演じたペネロペ・クルス。
彼女は、まさに美しい。

ほかにいったいどれだけの女優がいるか、見識の乏しいわたしではあるが、もっとも美しく、素晴らしい女優である。

かつて日本人男性がこぞって「心奪われた」女優――オードリー・ヘプバーンの若かりし頃の姿にも似ている。

しかしそれだけではない。

艶、色、熱、強かさ……らを、纏っている。

とにかく。
素晴らしい女優である。



2009年07月04日(土) 東方で神が起きる

「東方神起ライブツアーin東京ドーム」

が催されることは、水道橋のわたしの「そこ」に昼過ぎに引きこもる直前にわかっていた。

多分に漏れず、いくつものプロマイドや生写真を掲げ、並べているワゴン台の前を通り抜けてきたのだから。

篠原美也子ワンマンライブでも、三時間である。

その頃もすっかり通り過ぎただろう夜十時に、「そこ」から外に出て驚いた。

今まさに東京ドームから奔流のごとく駅の改札へと向かうファンたちの真っ只中に、わたしは取り残されたように立ちすくんでいた。

やがて耳元から流れてきた「Stand And Fight」に、わたしはあごを引き、歩き始める。

この奔流を越えてゆかねば、わたしは帰れない。

鮭になろう。
あるいは鯉に。

力尽きるまで、

生命を残すために。
あるいは龍にならんが為に。



2009年07月02日(木) むさぼる果実

さてさて、どうにもはっきりしない。

「むさぼる」

漢字で書くと、

「貪る」

である。
「貧」に似た字であるから、一見、たいそうみじめったらしかったり、哀れだったり、あまりよい印象はもたれない。

えてして「貪る」という文字自体、あまり推奨されない行為を表す際に用いられる。

惰眠を貪る。
貪り食う。

推奨されない行為という裏側には、禁忌を犯すに似た快楽が潜んでいるということでもある。

甘い、禁断の果実(forbidden fruit)

果実をかじり、自らが「strange fruit」になってしまうかもしれない。

――BILLY HOLIDAY



2009年07月01日(水) 「モノレールねこ」にも乗れーる

加納朋子著「モノレールねこ」

巻末の書評家さんの解説の「ザリガニの話で泣くなんて思いもしなかった」との言葉を本編を読む前に目ざとくみつけ、そうしてページをくった八つの物語からなる短編集。

軽い文章でさらさらとページをくってゆく。

表題作の「モノレールねこ」とは、ブロック塀の上をたぷたぷの垂れ下がる脂肪で両側から挟むようにして、僕とタカキの互いに顔を知らないままのふたりの間を手紙を運び、親友とまで繋いだ伝書ネコ(野良猫)である。

間違いなく、それを見かけたとしたら「わたしは猫ストーカー」と化してしまうだろう。

そうして警戒の紐をゆるゆると解かせ、「バルタン」と名付けられたザリガニの話に、最後にたどり着かせられる。

ザリガニに「バルタン」。

この軽すぎる軽妙さ。
ゆるゆるに解かれた紐は、すっかり結び目もなにも見る姿なく、軽やかに解き放たれる。

まったく。油断も隙もない。

ジン、としかけてしまった。

塀の上に「モノレールねこ」は見あたらないが、
路地を抜ければモノレールや野良猫なら、いる。
不忍池に「バルタン」はみかけないが、
神社の池に「ガメラ」なら、いる。

彼らは、ジン、とではなく、のほほん、とさせてはくれる。

非常に、非情に、惜しい。


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