「隙 間」

2003年01月02日(木) 新年を迎えて

 喪中のため、新年の挨拶を控えさせていただきます・・・。

 とは言うものの、何か思う事を挨拶代わりに・・・と思ったところ、あまり新年には相応しくないかもしれない内容になってしまった(苦笑)。

 最初に断っておきたい。これは「あくまでも」私個人の勝手な感傷であり、関係各者には全く関係のない独白であり、誤解を招かないよう理解して貰いたい。

 なにやら堅苦しい冒頭になってしまったが、さて本題・・・。

 私は最近、それこそ久しぶりに篠原美也子のCDを1stALBUM「海になりたい青」から「bid’s−eye biew」までを聴く機会があった。

 篠原美也子のアルバムの時代区分(?)として一般に語られているのは「1st〜3rdアルバム」が、ひとつの完成されてしまった「篠原美也子の全て」という世界。
 そして「4th〜6thアルバム」までは篠原美也子自身が、他人によって作られてしまった自分の世界と自分が本来目指すべき自分自身の世界とのジレンマに悩み、あがいた苦悩の世界。
 そして、「7thアルバム〜」が本来の自分が求めるべき世界に向け、自らの足で大地を踏みしめ、自らの翼を広げどこまで続くかわからない世界に向けてはばたき出した世界。と、されている。

 そんな周りが勝手に決めた細かいカテゴリーはどうでもいいと言えばどうでもいいが、篠原美也子自身が自らの翼を広げはばたきだそうとした時期、というのが私自身もまたそうだった時期とラップしているものだから、自然、勝手に自分を篠原美也子とラップさせて考えてしまう。

 篠原美也子がゴールの見えない自分の世界を目指して翼を広げた時、私はそれまでの仕事を辞め、今の仕事の道を選び直そうとしていた、丁度そんな時期だった。
 篠原美也子の「新しい羽根がついた日〜試験飛行」と題されたワンマン・ライブに足を運び、自分自身のこれからに対する不安を打ち消す勇気を与えられた思い出がある。

 「新しい羽根がついた日」7thアルバム収録曲「秒針のビート」が、いたく胸に響いた・・・。
 そのライブの2ヵ月後、今の仕事につき1ヵ月経った頃。「母の入院」、そして「宣告」がされた・・・。

 そしてそれから1年。

 篠原美也子は試験飛行と題した1年を無事に乗り越え、再び羽ばたく為に、飛行中にこれまで自分が見てきた様々な風景を皆に伝えたい、と「human’s-eye view」と題されたワンマン・ライブを行なった。
 それに私は行く予定だった。

・・・行くことは出来なかった。
丁度その日に「別れ」が訪れてしまったからだった・・・。

 アルバム「bird’s−eye view」はライブに先駆けて発売され、私はそれで擬似的にライブを体感するしかなかったが、収録曲「夜間飛行」が、ずっと忘れ得ぬ曲となっていた。

 同名の文学作品からイメージされて作られた曲だそうだが、「なにも、太陽が照らす清々しい大空の下ばかりをはばたいていられるわけじゃあない、月明かりの下、最悪、月の姿すら見えない闇の中をはばたかなきゃならい時だってある。清々しい風景、闇に不安と闘った風景、その全てをひっくるめて、はばたいてきた」曲として作られたものでもあるそうだ。

 私も新天地での仕事で、出会い、楽しい時、辛い時、色々な風景を見てきたが、それは太陽の下での風景だった。そしてそれとは別に、「命」を見つめ続けなければならなかった、一点の光すら見えない闇の中の風景。

 篠原美也子同様、その飛行中たった一人きりだったわけではなく、支えてくれた沢山の人達が、私にも居てくれた。深く感謝している。

 そして、篠原美也子はこの1年で新しい世界の前に立った。
 結婚、そして出産・・・。

 私もこの1年で、今までとは違う新しい世界を見つめ直してゆかなければならないと思った。

 初めて歩きだす子供のように、少しフラつく足元でも、自らの足で立ち、大地を踏みしめてゆかねばならない。

 つまらない意地をはって、差し伸べてくれた手を拒んでしまう時があるかもしれない。
 それでも、飽きずに見つめていてもらえればありがたい。

 尽きることない周囲の皆への感謝と、自らの決意を胸に・・・


2003年、初春。
 河を渡る背中を想いながら・・・。
              take4


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