Leonna's Anahori Journal
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2003年10月31日(金) マンハッタンラブストーリー

やっと観ましたよ。マンハッタンラブストーリー。
いやあ、ふつうに面白かった。というより、けっこう面白いではないか!

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特に今回は松尾スズキが良かった。あの優柔不断さとか、異様なリアリティで(笑)。けっこうああいうタイプだったりしますよね、平気で二股、三つ股いっちゃう男性って。こういうのを“大人の真実”って言うんだと思の(ハハハハ)。
いいじゃないか、松尾スズキ。役所広司の一強時代にもこれで終止符が?

それと及川光博。ミッチーが踊ってるところ、久しぶりにみたわー。
そうそうそう、こんなんだったわよねーと、なぜかチマリス大感激。それにしても相変わらず摩擦係数の小さいキャラ(笑)(逆にマスターは摩擦係数大きすぎ)

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きっと最終話までにあと二、三回は観ることになるんじゃないでしょうか。






2003年10月28日(火) カンパリソーダ

会社で。

わりと急に異動が決まった。配転。距離的には大きな移動ではないのだけれど(同じフロア)、仕事の内容はかなり変わる。ま、かまわんけどね。いいですよ、行けと言われりゃいきやしょう。

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それで、わりと急に、新部署の上司と前任者と三人で飲みに行くことになった。居酒屋だというからそのつもりでいたら、けっこう小洒落た居酒屋があるのですねえ、最近は。

店構えもなかなかシックで高級感あるし、お料理もマトモだし。そのうえコージーで居心地もいいし。突き出しに出てきた皮付きの里芋なんか、味も器も上品で、ずいぶんと気が利いてた。

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前任者のエリコさんに倣ってカンパリソーダはレモン抜きにしてみたのだけど、うん、美味い。断然、カンパリはレモン入れない方が美味いですよ。カンパリと、コラーゲンたっぷりのナンコツでハッピーハッピー。

とはいうものの、帰宅すると同時にオットから、うわータバコ臭いという非難が。照明を落としてあるので目にはさやかに見えねども、けっこう煙が充満していたのですね。

速攻でお風呂に入って髪を洗った。あああ気絶しそうに眠いわー。新しい仕事のことはあとで考えることにしてとにかく就寝。



2003年10月27日(月) 木立玲子さんの本

夜。

帰宅したらポストにかたくて大きな封筒が入っていた。bk1からのメール便だ。何か頼んだっけと思いながら開けたら『気ままに フロム ヨーロッパ』(木立玲子著)という本が出てきた。

あ、そうか。木立さんの本か。頼んだ頼んだ。ほんの二、三日前に注文したばかりなのにもう忘れてた。やっぱり購入本や頂き物等、新しく本を手に入れたときには、備忘録としてそのつどジャーナルに書いておかないとダメだ。

実はこの間も同じ本をダブって購入しそうになったばかりなのだ。開高健の『輝ける闇』を読み終えたとき、危うく駅前の書店へ『夏の闇』を買いに行きそうになった。『夏の闇』ならこの前、銀座でクルミ嬢と会ったときに、有楽町の三省堂で買ってきてあったのに…(自分で自分が信じられない)

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『気ままに フロム ヨーロッパ』の著者、木立玲子さんの書いたものは、以前よく夕刊の文化欄で読んでいた。たしか「欧州通信」というタイトルの連載も持っていらしたし、単発のコンサート記事なども書かれていたように思う。

たとえば、映画『ラ・パロマ』に主演した伝説的歌手イングリット・カーフェンについては木立さんの記事で初めて知った。カーフェンはドイツ人でディートリッヒの再来といわれた人だが、アウシュビッツを阻止できなかったドイツ文化に絶望し、その絶望から這い上がるためにパリに移住したのだという。

そのカーフェンが一昨年の二月、シャンゼリゼ通りのロンポワン劇場の舞台に立った。実に22年ぶりの舞台。開場1時間前に会場に着いてみると、地下のバーは立錐の余地もないほどの混みようで、その中には仏学士院会員に選ばれたばかりのジャンヌ・モローや、歌手のムスタキ、作家のフィリップ・ソレルスなどそうそうたる面々が集っていたそうだ。

「それらの人々が皆、ファンとして会場に足を運んだことは表情からも読みとれた」と書く木立さんの記事を、何かまぶしいものを見るような思いでドキドキしながら読んだことを思い出す。

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木立さんのことを、いわゆる“ライター”としか認識していなかった私なのだが、今回初めて彼女がフランス国営国際ラジオ局で日本向けのヨーロッパ情報番組の制作を担当していたのだと知った。なるほど、通りで切り口がジャーナリスティックだし、特に音楽には詳しい訳だ。

ちなみに、この木立さんの新刊のことは、先日のファンホ・ドミンゲスのコンサート会場で知った。出版元のラティーナという会社は、コンサートの主催者(ドミンゲスの招聘元)でもあったのだ。

ヨーロッパの音楽は商業主義とは別のところで混血が進んでいるところが面白い。いわゆる“ワールド・ミュージック”に、意図せずしてなってしまう、というところが。おそらくこの新刊も昨今の国際情勢を背景とした(せざるを得ない)欧州のミュージックシーンについて多くのことを教えてくれるのだと思う。楽しみだ。

(でもいまはまだ開高健だ。まったりとした『夏の闇』の真っ最中だ)
 
 
 


2003年10月26日(日) テニスの王子様

午前はいつも通りテニスのレッスン。
午後はオットの実家へ。例によって頂き物大会。枝豆と里芋をどっさり貰って帰る。

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夜。TVで男子テニスのマスターズシリーズ、スペイン大会の決勝戦を観る。ファンカルロ・フェレーロ×ニコラス・マスーはフェレーロのストレート勝ちだった。

勝ったフェレーロは地元スペインの選手。それだけに拍手や歓声も盛大で、扱いもスター並という印象。彼は普段は比較的無表情なタイプの選手だが、それだけに勝った瞬間の歓喜に満ちた表情はひときわ輝いて見えた。

もともとグッドルッキングな選手ではあるのだ。それが、普段は見せないとっておきの笑顔を見せたのだからその瞬間はまるで花が咲いたよう。まさに“テニスの王子様”さながら。(マンガは読んだことないのですが)

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男子プロテニス界には“王子様”が多い。サッカーのような団体競技ではないので試合ともなれば数時間のあいだ王子様は出ずっぱり、視界を独占だ。ええね、ホントにええねー(笑)

これら王子様の名前を具体的にあげるならば…
ちょっとまえならパトリック・ラフター、現在ならばレイトン・ヒューイット。このあたりが王道だろうか。個人的には王道からは少し逸れたところで、エクアドルのニコラス・ラペンティなんか好みなのだが(テニスそのものは少ーし退屈だけど)。

また、同じラテン系だったらブラジルのグスタボ・クエルテンの笑顔は最高にゴージャスだ。彼はいつも笑っているみたいにみえるし、プレーも個性的。フランスの伊達男、セバスチャン・グロージャンもなかなか悪くない。
そして若手の筆頭ならアンディ・ロディック…、とまあ書けば書くほど機嫌が良くなってくる私なのだ。うふふ〜
 
 
 結 論: テニスは観てもやっても楽しいスポーツ
 

(それでもやっぱり一番好きなプレーヤーはアンドレ・アガシなのだけど。“テニスのオジサマ”もまたよし、なのです)


2003年10月25日(土) イナモトー!

横浜へ行く電車の中で。

開高健『輝ける闇』が佳境に入っていた。
輝ける闇とは一体何のことか。どういう状態のことなのか。タイトルの表しているものが何であるかを知って愕然とする私。
いやもう、とにかく、凄い小説。わなわなと心を震わせながら、必至で涙をこらえて読んでいると、電車は横浜駅に滑り込んだ。乗り換えなければ。

席を立とうとしてふと見ると、向かい側に座っている男性が、いましも閉じられようとしている私の文庫本の行方を熱心に目で追っていたので驚いた。私があまりにも一心不乱に読んでいるので、一体何を読んでいるのだろうと不審に思ったのかもしれない。

(もしかしたらハーレクインロマンスだと思われてたかも)

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サッカー。

先週の浦和×FC東京はとても面白い試合で堪能した。でもたったひとつの不満はドロー試合だったこと。しかし、今週のFC東京はやってくれた。キレキレの石川が清水相手に2得点。文句なしの勝利。

もうひとつ。ホームで磐田に負かされそうになっていた市原。後半、チェ・ヨンスのゴールでドローに持ち込んだ。ドローゲームだけれど、これはチェが得点した瞬間のオシム監督の表情とアクションに免じてゆるす。劇的な幕切れ。

しかし。今日の主役はなんてったってジュンイチ・イナモト!
マンU×フラム、オールドトラッフォードで気迫のゴール、トゥキック。
わあああー、本当に入っちゃったよー。スゴイぞ、イナモトー!
イェ〜イ、ライヴで観ていた甲斐があったぜー(大興奮)

 
 


2003年10月23日(木) レーザー

歯医者で。

治療の終盤、ゴーグルみたいなプラスティックの眼鏡を渡されて「レーザーを使いますからかけてください」と言われる。

「レーザー?」と思ったけれど言われるままにおとなしく眼鏡をかけていつも通り目をつぶっていた。大口をあけて。

すると先生「どうしても痛かったら教えてください」。そしてさっさと治療にかかる。痛いって、どうして。そこは以前に歯の神経をとったところじゃあないの…?

でも、レーザーのいいところはあのウィーンウィーンガリガリガリ…という耳をつんざくような音がしないところ。とても静かだ。そしてガマンできないような痛みというのも、とうとう来なかった。

エガッターと思ったのも束の間、「ハイ、今日の治療はこれでおしまいです」という言葉に続けて「外側の歯茎の余計な部分をすこーしだけ切り取りましたので歯を磨くときは気をつけてください」と、先生が。

つまりアレですか、レーザーて。レーザーメス。
きききき、切ったんですか、私の歯茎を。というより余計な部分て、どっ、どっ、どこなんですかっ(と訊いておきながらあんまり知りたくない)。

そして切られたとわかったとたんに微かな鈍痛が襲ってきた。マイッタナー。
 
 
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そんなこんなで気がついたら今日も『マンハッタンラブストーリー』は観られませんでした(忘れてた)。マイッタナー。
 
 


2003年10月22日(水) 母の写真

先週。親戚のおばさんから電話がかかってきた。或る写真が必要なのだけれど探してくれないかとのこと。以前、私宛の手紙に同封した記憶があるという。たしかにその和服姿のおばさんの写真は送ってもらった覚えがあるので家中探してみたのだが、とうとうみつからなかった。

おばさんの写真は見つからなかったのだが、母の写真が出てきた。二十代後半位の頃の写真で留め袖姿でゆったりと微笑む母の上半身をななめ上から撮ったもの。セピア色に変色しているが、昔から私のお気に入りの一枚だった。

昨年母が亡くなったとき、私の住まいには仏壇も位牌も要らないけれどあのお気に入りの写真だけは飾っておこうと小さな写真立てを買ってきた。が、肝心の写真がどこに紛れ込んだのか、いくら探してもみつからなかった。その写真が出てきたのである。

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さっそく箱から写真立てを出して、件の写真を入れてみる。
すると、なかなか良いのだけれども、何かが違うのである。

どうやら私の中では、亡くなったときの母の顔が最終的な“母の顔”として定着してしまったらしい。それで、故人を偲ぶというような状況(心境)に、若々しい母の顔ではいまいちリアリティに欠けるようなのだ。
客観的にはあまり美しくなくても、本当の母の顔がいいんだけどな…

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ところが。
今日になって、写真の“若い母”に対する違和感が消えているのに気が付いた。いつのまにか若い頃の母と亡くなったときの母の顔、そのふたつのイメージが私の中でうまいこと統合されたようなのだ。

亡くなってからわりと直ぐにも書いたのだが、いまや母は変幻自在なのである。時間と空間を超え、姿を変えて、現在もメッセージを届けてくる。そういえば、これははっきりと断言できるのだけれど、母の死後、私は一日たりとも母を思わずに過ごした日はない。

それどころか、一日に幾度となく母のことを考える。これは母が生きていた時分にはなかったことだ。しかもそれはきわめて自然なことで、決してオブセッションというようなものではない。

ふーむむ。これではまるで亡くなった母との新しい生活が始まったようなものではないか。しかし死者というもの、その存在のなんと自然なことか…。はっきり言ってこれは、かなり素敵だ。
 
 








2003年10月20日(月) 開高健を読む

目下、私が抱えている切実な悩みは読書の時間がなかなかとれないこと。
一番まとまった読書時間は毎週土曜日に横浜の父の家へいく往復の時間で、電車に乗っている合計四時間程は貴重な読書タイムだ。

今読んでいるのは開高健の『輝ける闇』なのだけれど、これが滅法面白い。こういうしっかりとした重さのある小説(本当に小説らしい小説)を久しぶりに読んだ。この本を読んでいるうちに、どうして私が現在の若い小説家の作品を読まない(読む気がしない)のかがなんとなくわかったような気がした。

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『輝ける闇』は作家がヴェトナム戦争を体験して帰ってきてから書かれた小説なのだけれど、題材がヴェトナムだからシリアスで良いとかそういうことでもないのだ。なんというか、ああいうへヴィな状況を見て(体験して)きたにしては、小説が事実に負けていない。つまりテーマではなくてきちんと小説の出来そのもので勝負しているのだ。

しかも開高健はこのほかにも『ベトナム戦記』『夏の闇』というヴェトナムものを書いている。『ベトナム戦記』はルポルタージュだが、通常ならこれ一冊でハイ次となるところ、さらに同じテーマを小説に昇華させているところに尋常ならざるものを感じる。

(そしてこの種の尋常ならざるものを感じさせる作家は、近年激減してしまった)

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まだ途中だけれど『輝ける闇』を読み終えたら次は『夏の闇』、それを読み終えたら『ベトナム戦記』を読む、というのが一応の計画。通常ルート(書かれた順)の逆を行くのがミソ。

これは書かれた順に行こうとしたら何か自分の中に抵抗するものがあってうまく入れなかったからなのだけれど。逆順にしたらスラスラッと行けそうなのだ。こういうことまで含めて読書って本当に楽しいし、面白い。
 
 
 


2003年10月19日(日) バラ色の頬

きのう。

印旛沼へサイクリングに行った。
佐倉ふるさと広場(千葉県佐倉市)から印旛沼沿いに利根川までサイクリング道路を走る。往復約50キロの道のり。

さいわい、天気は快晴。おかげでまったく日焼け対策をしていなかったオットは大いに日に焼けてしまった。それで今日はバラ色の頬と、酔っぱらいのごとき赤鼻。

かたやファンデーションを塗っていた私はほとんど影響なし。ただしずっとハンドルを握りっぱなしだった両手の甲だけは、薄皮饅頭のような色に焼けてしまったが。

満々とたたえられた秋の水と、どこまでもひろがる田園風景。白鷺をはじめ、たくさんの水鳥をみた。久々に自然を満喫、大いにリフレッシュしたのだった。(ひざとお尻が少し痛むけれど平気平気。) 
 
 
 
 












2003年10月18日(土) パーシモンホールの石川直樹

きのうのトークショーのこと。

場所は東京都目黒区、めぐろ区民キャンパス内パーシモンホール。東急東横線の都立大学駅から歩いて6〜7分の所。私はうっかり間違えてひとつ手前の学芸大学駅で降りてしまい開演時間の7時を5分ほど過ぎて到着。中にはいるともうトークショーは始まっていた。

正面にスクリーン、その左手にデスク。マイクを持った石川直樹氏がそのデスクに向かって座り、スクリーンに映し出されたスライド写真を見ながら話をする。写真(話)の内容は大きくふたつに分かれており、前半は今回上梓した写真集『POLE TO POLE 極圏を繋ぐ風』に関するもの。後半は今年の夏訪れた中東の国々に関するものだった。

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前半部分についてはつい最近『この地球を受け継ぐ者へ』を読み終えたばかりということもあり、映し出される大きな写真を見ながら「あー、これが!」とか「こういうふうな場所だったのか」などと一々感心しながら見た。

問題は後半で、この夏、石川氏が訪れたのはトルコ〜シリア〜レバノン〜ヨルダン〜イスラエル〜イラクという国々。つまりイラク戦争直後の中東を旅してきたわけなのだ。スライドを見せる前に「これらの場所はとてもリアルな場所で、詳しく語るととても暗い話になってしまう。なので、今回は写真をじっくりみてもらうことに主眼をおく」というような前置きをしてからスタートした。

私個人としてはその「リアルな場所の明るくはない話」をこそ聴きたかったのだが、こういう話題が“取り扱い注意”であることもわかる。そこで、頭を切り替えて新たな好奇心を自らに吹き込み、トルコの聖洞窟教会や、シリアのクラーク・デ・シュバリエ(天空の城ラピュタのモデルとなった町)や、エルサレムの旧市街やファイサルホテル内の様子などを興味深く眺めたのだった。

中東のことに関してはもう少し勉強してから本に書きたいとのことで、ウェブ日記に書かれていた戦車に威嚇射撃された話などにもまったく触れなかったのだが、パレスティナ問題についてはたった一言「世界最大級のイジメ」とだけ言われたのが印象的だった。

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石川氏は現在気球を使った冒険に興味を持っているそうで、ライセンスをとるために訓練を受けているとのこと。気球は風まかせ、その受け身のところがいい(面白い)と石川氏。

なんでも、早い気流に乗るためには高度8千メートルから1万2千メートルくらいまで上がらねばならないらしい。当然のことながら空気は薄いし、万全の装備が必要だ。しかもこの高さは航空機が飛ぶ高さでもあるので「ちゃんと避けなければ」なんて平然とした顔で言うんだよぅ。ヒィ〜

トークショーのあと、新しい写真集『POLE TO POLE 極圏を繋ぐ風』にサインをしてもらうとき、雪をいただいた山の大きな斜面を背景に立つ石川氏の写真の頁を開いて差し出すと、石川氏は「これはビンソン・マッシフという山の麓なんですよねぇ、うん」と半ば独り言のように呟いた。

ビンソン・マッシフは POLE TO POLE の到達点である南極にある山。この間読んだばかりだから覚えている。それでワタクシ「ええ、」と言いながら頷いたのだったが、それがあまりにも控えめだったので(だってこういうときに何と言ったらいいか、咄嗟にわからないじゃあないですか)、石川氏はまるで独り言を言ってるみたいになってしまった。アチャー。

そこで、サインしてもらった写真集を受け取るとき、ハッキリクッキリした声で「握手していただけますか」。そして、差し出された石川氏の華奢な手(石川氏はとてもをほっそりしていて、比較的小柄な方でした)をガシッと握り、グッと力を込めながら「アリガトウ!」とやってみた。

この“ばかに力強い握手”は知る人ぞ知る、私の強力なコミュニケーションツールなのだ。こういうときに使わない手はなーい(笑)。おかげで柄にもなく控えめな人にならずにすんだ。それに笑顔でお礼も言えし。エガッター。

写真集の入った紙袋を抱えたチマリスは、転がるように柿の木坂を下り、家路を急ぎましたとさ。メデタシ、メデタシ。

 
 
 


2003年10月17日(金) 単純な人間ですから

ここのところ忙しくて睡眠不足が続いていたのだが、ついにダウン。
リンパ腺が腫れて頭も痛い。限界だ。上司に電話を入れて、薬のんで寝る。
すると…

午後三時頃、目覚めて起きてみたらば、アレレというくらいスッキリしていた。ほとんどよくなってる。寝れば治るというこの単純さ。ニンゲンが単純にできてるんだな、きっと。

それですっかり安心して、写真集出版記念石川直樹トークショーへ出かけたのだった。(どのみち良くならなくても出かけるつもりだったけど。だってずいぶんまえからチケット買って楽しみにしていたんだもん)
 
えー、石川直樹トークショーについては明日以降詳しくご報告いたします。明日は仕事。また体調戻っちゃうと困るので。
 
 




2003年10月14日(火) 今日も肉

関所守(せきしょもり。会社の同僚)がオトナの階段をひとつのぼり、昇進を果たしたというのでインド料理でお祝いすることになった。

言い出しっぺは桃太郎侍で、要は以前から行きたいと思っていたインド料理店があり、関所守のお祝いはその口実みたいなものなのだ。

それで、今日も今日とて行きましたよ、インド料理店へ。でもつい先日ラムステーキを食べたばかりで、さすがにマトンカレーを食べる元気はない。チキンをたのむ。

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食事しながらの話で面白かったのが地震の話。関所守の友達が少し前にグアム島に出かけてけっこう大きな地震(ありましたよね)に遭遇した。
その友達はホテルのレストランで食事の最中だったのだけれど、グラリときた瞬間、居合わせた日本人という日本人は全員テーブルの下へもぐり込んだのだそうだ。

ところが、日本人以外は全員、建物の外へ飛び出してしまった。それで落ちてきたガラスなどに当たって大勢がケガしてしまったそうな。

ケガ人が出てるのだから笑い事ではないのだけれど、でもこれ、ビジュアライズしてみるとやっぱり可笑しいでしょう。グラリときて、迷わずテーブルの下にもぐったら日本人。(さすが地震大国のニンゲン、と感心すべきなのか)

あと面白かったのは、税関で捕まった贋サーファーの話。
サーフボードの胴体をくり抜いて、中に禁制の品(粉)をつめて持ち込もうとしたところが、あえなく捕まってしまった。何が原因だと思う?と聞かれて「警察犬ですか?」というと「違う」。果たしてその原因は…

「そいつさサーファーにしては色白だったんだって。ていうより全く日焼けしてなかったらしい。それで不審に思われて別室に呼ばれたんだって」。
こいつは馬鹿馬鹿しくっていいや。死ぬほど笑ってしまった。

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たったひとつの痛恨事。

やっぱり、インドカレーには羊だよ。チキンじゃなくてマトンにすればよかった。
  
 


2003年10月13日(月) 肉喰らう日々

久々、銀座でクルミ嬢と会う。

ランチに、牛の頬肉赤ワイン煮というのを食べる。連日の肉。秋の味覚、肉(ちがうー)。

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クルミ嬢はついに『木更津キャッツアイ』のボックスセットを購入したとかでご機嫌であった。

藤宮官九郎といえば現在オンエア中の『マンハッタンラブストーリー』だが、私はまだ観ていないのだ。解説してくれと頼んだら懇切丁寧に教えてくれた。小泉今日子+ミッチーというのは聞いてるだけでとーっても面白そう。

松岡昌宏演じる“店長”の屈折具合も面白いというのだけれど、私はどうもこの官九郎作品に横溢している屈折感が、ニガテといえばニガテなのだ。なにかこう「グジュグジュしてないで行けよ、ドーンと!」かなんか言いたくなるのである。じれったい。

そう言ったらクルミ嬢は「ああーワカリマスー」といいながら朗らかに笑った。ワカラレてるのか、私は。まあいいやと思いながら私も笑った。

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たったひとつの痛恨事。

ニコラ・フィリベール『ぼくの好きな先生』が終わってしまったこと。
どこかで再映してます、こうすれば観られますという情報があったら教えてください。ヨロシクオネガイシマス。
 
 
 


2003年10月12日(日) ラムステーキ

テニスの帰り道、オットと待ち合わせてT田沼のマモル亭でラムステーキを食べる。ランチのコースなり。美味ー。

運ばれてきた骨付きの羊肉は桜色で、おいしそうな肉汁がジュワァ。ローズマリーの葉を浮かべたフィンガーボールが一緒に運ばれてきて「骨にくっついている部分が美味しいです。手づかみでどうぞ」。

もう、ガルル〜って言いそうだった。ガルルゥ〜ッて(笑)

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マモル亭で(お料理以外で)いいなと思うのは、大きな音で音楽をかけたりしないこと。まったくBGMなしということも多い。

以前パリで食べ物屋さんに入ったときに、これみよがしの音楽がまったくかかっていなくて、テーブル毎のひとの話し声と、ナイフやフォーク、食器がたてる音や、調理場からきこえてくる“自然の”音だけ。それが渾然一体となって活気を感じさせ、とても居心地いいなと思うことが多かった。

今日みたらマモル亭の壁にはちゃんとスピーカーが据え付けてあるのだけれど、お客さんで混みあう時間には、店内にBGMは流れなかった。
遅く行った私たちが帰る頃、ランチタイムの終わり間際になって、ごくごく低い音でサラ・ボーンらしきボサノバ風の音楽が流れてきた。

日本人はまじめすぎて、とことんまでこだわりキチンと“完成”させないと気が済まないのか、お洒落な空間にはお洒落な音楽が必須だと思っているようなふしがある。なかにはその店でかける曲を集めたCDを出して売るカフェまであるらしいが、そういうお節介よりも“無音”であることの自然さの方が私は断然好きだ。






2003年10月11日(土) ファンホ・ドミンゲス

午後までいつもどおり横浜。
夕方、東京駅でオットと待ち合わせて、中野ゼロホール、ファンホ・ドミンゲスのコンサートへ。

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ドミンゲスはアルゼンチンが生んだスパニッシュギターの超名手と呼ばれているひとだ。プロフィールには5歳ではじめてギターを手にし12歳の若さで音楽教授の資格を取ったとある。この間の事情は良くわからないのだけれど、尋常ではない。要するに“天才少年”だったということなのだろう。

面白いのは彼が、南米にいながらたった一人、独学でギターを極めたということで、だからいわゆるギターテクニックの“常識”とは無縁である(と紹介されている)こと。
この点について資料には「普通のトレモロはもちろん、フォルテにいたると3弦同時のトレモロテクニックで弾き込んでゆく」などと書かれている。ギターを弾かない私にはイマイチ良くわからないのだが、恐らくこの“3弦同時”というのがすんごい超絶テクなのだろう。

たしかに、ドミンゲスの演奏を目の当たりにすると、あのオッサンの指は一体どうなっちゃっているんだろう?と思う。モニターに大写しになった彼の指の動きを見ているだけでも退屈しない。そうしているうちにも、なるほど名手の前に“超”がつくわけだわいと納得させられてしまう。

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途中15分の休憩をはさんでの二部構成。
第一部で面白かったのはショパン・メドレーで、こんなショパンありなのかと、思わずのけぞってしまった。破壊行為ギリギリ一歩手前の革新的演奏。

またカプリーチョ・アラベ(アラブ奇想曲)も、アルゼンチン風とでも名付けるしかない斬新なアレンジで、私がいつも聴いているアンドレス・セゴビア(スパニッシュギター巨匠中の巨匠。87年没)の、とろけるように芳醇な演奏とはまるで趣が異なっていた。一瞬同じ曲かと疑ったくらい。

かつてナルシソ・イエペスは「ギターの流派はセゴビアで終わり、ドミンゲスで新たに始まる」と言ったそうだが、たしかにこの二人は、二人とも紛れもないマエストロでありながら、まるで違った位相にあることだけは間違いないようだ。

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楽しかったのは第二部で、ゲストの小松亮太(バンドネオン)と近藤久美子(ヴァイオリン)をゲストに迎えての演奏。二つの楽器、特にバンドネオンが入ることで雰囲気はガラリと変わって、中野での演奏会からブエノスアイレス、夜のライヴハウス風に。

小松亮太によればこの日の演奏は完全なぶっつけ本番のライブセッションで、事前に決めてあったのは曲目だけとのこと。小松曰く「いまの曲も予定より1分半くらい長くなってしまいました」。お互いの目と目を見交わし、ときに小さく頷きあいながらの演奏には聴いている方もおおいに盛り上がった。

このライヴ感、演奏者と聴衆の距離の近さ、そして少しの俗っぽさ(猥雑さ)。このあたりの要素がドミンゲスの超絶技巧と解け合ったしたときこそ、この南米アルゼンチンのギタリストが最も輝くときなのではあるまいか。そんな風にも思う。

もうひとり、第一部でも歌った歌手バネッサ・キロスがステージに花を添えた。典型的なラテン女の美しさを持った彼女は、以前ハイビジョンスペシャルでもドミンゲスと共演していた女性だ。

そのバネッサ・キロスがアンコールで歌った「のっぽの古時計」には驚いた。カンペなし、完璧な日本語でフルコーラス。すごいプロ根性だと思う。どう考えても日本人向けのサービスなのだけれど、にもかかわらずワタクシ、聴きながら涙ぐんでしまった。人間の声って(歌って)とんでもないパワーがあるんだなーなどと思いながら、ハンカチでみしみしと目頭を押さえた。

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そんなこんなで、最終的には大盛り上がりのコンサートになったのだった。
アンコール二回とスタンディングオベーション。ムンムンのラテン美女(バネッサ)に花束を渡すオジサマ、感激のあまり次々にマエストロに駆け寄って握手を求めるオバサマたち。そのたびに会場はあたたかい笑いに包まれた。

そんな会場の雰囲気におおいに気をよくしたのか、予定になかった独奏まで披露して「ワシこんなのも出来ちゃうんだもんね」的表情をみせるマエストロ、ドミンゲス。上機嫌(笑)。私もほんとエガッタ、楽しかったー。



2003年10月09日(木) テニス部

会社のテニス部、記念すべき第一回目の練習日であった。

ナイター設備のあるアウトドアコートで夜の7時から2時間、みっちりと打ちあった。負けず嫌いゆえ、少しがんばり過ぎてしまったかもしれない。コリャ筋肉痛は必至(ばかばかー)

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二ヶ月くらいまえ。

会社でいつも一緒にお昼ごはんを食べている総務のサワさん(仮名。三十代女性。以下出てくる人名はすべて仮名です)は学生時代からテニスをやっていて、いまでも草トーナメントに出場するほどの腕前なのだが、その彼女から「今度テニス、一緒にやりましょう」と誘われた。

彼女の話によると、会社にはほかにもテニスをやる人がけっこういるらしく、以前音楽ネタで登場したゲッツ君もそのひとり。また私の向かいに座っている関所守(せきしょもり)、隣の部署の深川氏、クワガタ氏など、集めれば7、8人になる。この際だから全員に声をかけて月に一度くらい、仕事の終わったあとテニスをやらないかというのだ。

それで、わー面白そう、やりましょう!ということになり、この度のナイターが実現した。

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しかし“部長”であるサワさんは元スポ根少女(しかも実力派)であるだけに言うことがキビシイ。彼女のキビシサの一端を紹介すると…

たとえば私が「合宿なんかどうですか。温泉のあるところで」などと温泉目当て見え見えの発言をすると、「合宿。なら、朝食のまえに走るわよ」。
また、私が普段インドアコートでレッスンを受けているというと、「テニスは外でするものよ。今度コート整備の仕方を教えてあげるワ」。

…とまあ、こんなカンジ。

おかしかったのは部費(月決め)の話で、関所守や深川氏には「市のコートなら一人千円くらいでも」と言っておきながら、ゲッツ君には「3万円」と言っていたこと(笑)。なるほど、こういう“取れるところから取る”ことで部の基礎を築こうとしているのだな。さすが部長。私は心底感心してしまった。

帰りにゲッツ君に「もう3万円払ったの」と訊くと、「ひどいっすよ。僕の顔みるたびに3万とか5万とか言うんだから!」とのことだった。(アハハハハ)

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コートからの帰路、マイカー通勤組の深川氏のクルマで送ってもらった私。ワンボックスというのかミニバンというのか、とにかく白くて大きくて四角い、きれいなクルマの後部座席にラケットの入ったバッグを置きドアを閉めようとしたところ、コレがびくとも動かない。困惑していると「あっ、手は離していいです」と深川氏。「ヘッ?」と言いつつ手を引っ込めると、ドアは自分で勝手にスライドしてガチャリと閉まった。

自動ドアだった。(カルチャーショック)

しかも家の前でクルマの助手席から降りたあとで、またしても自力で後部ドアをこじ開けようとしてしまった私…

自動ドアだってば。(と、自分で自分に突っこんだ)
  
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テニスの最中、8時半をまわった頃だったか、後ろの方でバラバラバラッと大きな音がして、すぐそばで大きな花火が上がった。東京ディズニーランドの花火だった。
見よ、ミッキーやドナルドもテニス部の発足を祝ってくれているのだ。
活動の長く続かんことを祈る。

 
 




2003年10月08日(水) 甘納豆の少女

少しまえからメールをやりとりしていた女の子の家が、すぐ近くだということがひょんなことからわかった。実に、最寄り駅をはさんで等距離くらいに住んでいた。アハハー、こんなことって本当にあるんだー。

「今度近くを通ったら寄って」と書いて送ったら、週に三度はそこのソバを通りますとの返事。「じゃあ、夜ならいるから電話して」ということになって、昨夜、その少女はやってきた。マンションの前で一度電話をかけてきたその3分後に、ピンポンとわが家のドアチャイムが鳴った。

おかっぱ頭が妙に親近感を抱かせる“妙齢の少女”は「おやつに食べる甘いものに凝っているんです」という。さてはコンビニのスナック菓子のオーソリティかと思いきや。彼女が手土産に差し出したのは、丹波篠山、井上農園の黒豆甘納豆。ムム、なかなか粋なお嬢さんだ。

マイペースでやわらかい独特の雰囲気を持った彼女と話していると、自分の学生時代(ふた昔以上まえ)の同級生が当時の年齢のまま私のまえに現れたような、そんな懐かしさをしきりにおぼえた。

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ところで、このHPがきっかけで実際に(現実世界で)お会いした人が今までに数人いるのだが、以前その中のひとりから、思っていたよりも小柄なので驚いたと言われたことがある。

そして今回訪ねてきてくれた少女からも、それとまったく同じことを言われてしまった。曰く「ほっそりしてらっしゃるのでビックリしました。もっと大柄なヒトだと勝手に思いこんでいました」。

うーむ。文章だけだとなんかそんなイメージなのか私は…。ドスドスと周りのものをなぎ倒して歩いていくような、そんなカンジなのか?(ごめんな、ホントーは貧弱で。曲線も不足してて)

さらに驚いたのは、部屋にあった映画『アカルイミライ』のポストカードをみながら「浅野忠信のファンでしたよね」というので、諾、と頷くと「私は、大竹まことさんにはなーんか惹かれるものがあるんですよ」と静かに話されたこと。そんなふうに言われちゃうと、なんか大竹まことを見る目が今までと違ってしまいそうだ。うーむ、うーむ。

とどめに。私の愛機(古マック)のキーボードを一瞥した彼女、「あっ、キートップが減ってる」と声をあげた。これには私もびっくりしたのだが、たしかに他のパソコンと比べたら、iMacのキーボードは妙にフラットかも…(新しいiMacはどうなっていたっけ?)

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現在、私のような数字に疎い人間には考えもつかないような分野の勉強に真剣に取り組んでいる彼女。“今風の若者”の雰囲気を難無く逸脱して、そのくせ軽々と生きているように見えるのはそのせいかもしれない。

この次はもう少しゆっくりできるときに遊びに来てください。休日なら、オットもおります。接近遭遇可能です。きっとオモシロイと思います(笑)
 
 
 


2003年10月06日(月) 歯医者とダービー

ついに、とうとう、歯医者に行きました。(アガガガガー)

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私の右上奥歯、奥から二本目を診た歯医者さん、ココ神経は残っていますか?、と。で、多分残っているだろうと答えたら、ではソレとりましょう、と。

それで、レントゲン撮って、麻酔注射を打たれて。通常の量の注射では効きが悪かったので、もう一本余分に歯の穴へ直接ブッツー。そしたら私の歯、ただの石、コンクリとおんなじになってしまった。

で、これならもう何やってもへーき!とばかりにガリガリゴリゴリされまして。いつの間に、どうやったのか知らないけれど、診察終わったときには神経も抜かれちゃってた。

途中、手鏡でもって見せられた私の奥歯。ダメになった詰め物を除いたところは、まるでアレだった。南太平洋。(要するに“環礁”と言いたいわけです)

あれじゃ神経とられても仕方ないな。だって絶対に痛いもん残しといたら。そして最後に、神経をとったあとが痛むかもしれないからと、痛み止めをもらって帰宅。

えー、痛いの?結局痛いの?どーして痛いのよ、そのために神経とったんじゃなかったのー(アガガガガー)

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ミラノダービー。
一言でいうなら“セリエへの愛が再燃”。これに尽きる。

なぜかしらピルロがFK蹴ったその刹那に、身体の奥底からメラメラ〜ッときた(笑)。やっぱりミラノダービーは格別というか、別格というか。

アガガ、ガ、ガルチョ万歳〜(くち、半分動かないの)
 
 
 


2003年10月05日(日) 泣きぼくろ

久々にスカパーで中田の番組(いまも nakata.netTV でいいのかな)を観る。

毎年オフには優雅なリゾートライフを満喫するナカータ選手。今年はルーマニア、ベラルーシ等、東欧諸国を漫遊。ルーマニアではかつてのチームメイト、ムトゥ(現チェルシー)に手厚いもてなしを受けたそうな。

で、そのムトゥについて語るナカータの言葉が最高におかしかった。曰く、

「一緒に試合に出てたときはジコチュウだと思ってたけど、ピッチを離れたらすごくパス回してくれるイイヤツだった」。

やぁ、笑った笑った。日本だけのオンエアだからこそ言える言葉だよね(笑)。

ルーマニアのレストランでムトゥや彼の友達と一緒の映像も流れたんだけれど、ムトゥは夜遊びはあまり得意ではないようで、お酒も入っていいかげん眠たくなってる。テーブルに肘をついて顔を手で覆ってるところをナカータが「ムトゥッ!」って起こそうとしたら、か細い声で「ノーモァ…(もう飲めないよぅ)」って。そのときのムトゥの顔の可愛らしかったことといったら!(笑)。いやいやいやぁ〜、ホントに意外な(そして微笑ましい)ものをみせていただきました。

(それにしてもナカータ、あのひとの派手好きはとどまるところを知りませんね。どこへいっても、どこの町を歩いても、注目の的でした)
 
 
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ところで、みなさん。突然ですが。

あのファン・ルード・ニステルローイは、右目の下に、小さな小さなほくろがありますね。試合だけ観ていても決してわからないような大きさの泣きぼくろが。

…いや、だからどうしたって言われると困るのですが。(MUTV万歳!)
 
 
(つまりその、NHKもなかなかやるけれどスカパーもけっこういいよー、とか、そんなことを言いたかったわけです)



2003年10月04日(土) 参考書としてのドキュメンタリー

横浜の父の家の近くで。
金木犀が満開、姫林檎の木に小さな実が鈴なり。
しまった、デジカメ持って来るんだったーと残念がることしきり。

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きのう、NHKのハイビジョンスペシャルのことを書いたが、911からアフガン空爆、そしてイラク攻撃までの間、NHKのドキュメンタリー(もしくは特集)番組をたくさんみた。

NHKスペシャルは、特にイラクと米国のことに関して興味深い番組が多かった。

 『イラクを追われて〜緊迫・砂漠の難民キャンプ〜』
 『アメリカとイラク〜蜜月と敵対の20年〜』
 『イラク戦争〜アメリカ・イラクの人々はいま〜』
 『亡命イラク人たちの戦争』、等々

後々、人名や数字がわからなくなるのを避けるためにも、出来る限りビデオに録りながらみた。

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特に印象的だったのは『亡命イラク人たちの戦争』で、これは米国デトロイトのディアボーンという町に住むイラク人の兄弟を取材したもの。兄は元報道カメラマンで、イラク攻撃には反対している。弟は彫刻家で、攻撃には賛成。なぜなら一緒に亡命した奥さんの父と兄弟をフセインに殺されているからで、フセイン政権が倒れるならば攻撃もやむなしと考えているのだ。

ディアボーンは多くの亡命イラク人たちが暮らす町で、こういう町が米国にあるということ自体、私は知らなかった。その町で、道をはさんで攻撃賛成と反対の二手に分かれ、デモを繰り広げるイラク人。深刻な騒動にこそならないが、ときににらみ合い、罵声を浴びせあう。

TVニュースをみて心配になり、バクダッドに住む妻の母親と姉家族に頻繁に国際電話をかける弟。電話回線が破壊されていなかったため、爆撃のさなかでも電話は通じる。家の近くを爆撃されながらの電話での会話。「もうだめ」「そんなこと言わないで頑張って」「でも、だめなものはだめ」。命の危険にさらされながら逃げることも出来ずに受話器を握っている姉の、切迫しているのだが不思議に静かな、押し殺したような声が、いつまでも耳について離れなかった。

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『アメリカとイラク〜蜜月と敵対の20年〜』は、これまでの両国の関係を資料映像や著名人の証言を交えて振り返ったもの。各国の歴代大臣や、大物武器証人までもが顔と名前を出してカメラのまえで証言していた。
米国の傭兵として次々にロケット弾を放っている若きオサマ・ビンラディンの映像もあった。

またBSプライムタイムでは米国の公共放送が作った『戦争への長い道』という番組が前後編で放送された。コレ、米本国で放送できたのかなと思うくらい、ストレートなつくりのドキュメンタリー。

これらの“歴史を振り返る”番組は私に、ニュースをみたり、新聞をいくら読んでもわからない(つながらない)国際間のアレコレに道筋をつけ、そのときどきの国と国との関係、利害について理解させてくれた。つまり、私にとってはとても大きな役割を果たしてくれたことになる。

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なにがいいたいのかと言うと。

NHKが公正・客観・中立を守るために、箸にも棒にもかからないような、安全で、しかも面白くもなんともないようなものを作っていると思ったら大間違いなのだ。けっこうギョッとするようなものもたくさん作っている。意外にラディカルなのである。

もちろん、流されたものを鵜呑みにするかどうかはまた別問題。しかし、こういう番組をいったい誰が観ているのだろうかと思うことも少なくない。話をしても「ああアレ、みたよ」という人と会ったことがないのだ。
そのたびに、あんなに面白いのになーと、単純に残念に(チョットさびしく)思うのだが。



2003年10月03日(金) ピースフル・トゥモローズ

夜。

NHKハイビジョンスペシャルで『ピースフル・トゥモローズ〜9・11テロ 戦争反対を訴えた遺族たち〜』という番組をみる。

見終わってから調べてみたら、このドキュメンタリーが最初に放送されたのは昨年11月で、今年になってから放送文化基金賞のドキュメンタリー部門本賞を受賞した番組であることがわかった。(→詳しくはこちら

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911テロ後、米国内では自由に言いたいことも言えない雰囲気であるということは何度か聞かされていた。いくつか具体的な話も読んだ。しかし話だけでは、その場の雰囲気というのはわからないし、“噂”がどの程度本当なのかということも気になっていた。

このドキュメンタリーをみて、911テロで家族を失った遺族の反戦活動に対する風当たりの強さに驚いた。とにかく、テロリスト(=フセインとイラク)は叩きつぶさなければならない。それに反対するとは何事であるか。非国民、国から出て行けと言われてしまうのである。

創設者のひとりである女性(テロで夫を亡くした)は、批判の域を超えた嫌がらせに屈してピースフル・トゥモローズの活動(主に講演)をやめざるを得なくなってしまう。保守的な町の中で完全に村八分にされてしまったのだ。自分一人ならばまだしも、女手ひとつで子供を育てていくためには仕方がない。彼女は活動を断念する。

会の中心メンバーのひとりで講演活動を行っている男性は、メジャーなニュース番組に請われて出演するが、イラク攻撃に異を唱えた途端に口を封じられる。生番組を仕切るメインキャスターの慌てっぷりが、生々しく、滑稽だった。

インターネット、掲示板上での批判は推してしるべし(笑)。とにかく、憎しみの嵐。負のパワー全開。黒さ横溢。しかしまた、そこからコミュニケーションの可能性が生じるのもインターネットなのである。メールによる長く激しい応酬の末にお互いを理解するに至る非戦派(兄をテロで亡くした)と一投稿者とのコミュニケーションには、か細いけれども確かな光りがあった。

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私は米国のイラク攻撃に関して、このジャーナルでも“反米”と取られかねないような批判的なことを書いてきたが、書きながらいつも苦しかった。

米国のどこかに、米国人として(当事者として)米国の現政権のやり方に異を唱えるフツーの人がいるはずなのだ。チョムスキーやバーバラ・リーのような“著名人”ではなく、無名だけれども、ただ人間としての原則を曲げたくないという理由(私と同じ理由)からイラク攻撃に反対している人が。

でも、その人達の顔が見えてこない。その存在を感じることが出来ない。このまま自分の理屈に拘泥していったならば、私は私の意に反して、本当の反米主義者になってしまうのではないか、そういう危機感が常にあった。

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そういう私であったから、このドキュメンタリーを吸い付くようにしてみたことは言うまでもない。

観ながら、「やっぱりこの人達はいったんコミットしたらやり抜くんだ。」と思った。こういった活動に相対する姿勢には、さすが一日の長、ぽっと出の日本人には真似できないものがある。どのひともシンプルで、知的で、我慢強く、寛大だった。

ちなみにそれらは、どれも私に欠けているものばかりで、私が、どこかかたくなで“自由でない感じ”がする(自分でそう感じる)のは、このせいだったのかと思い至った。

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ピースフル・トゥモローのメンバーは昨年来日して、広島を訪れたらしい。そのときのスピーチの和訳があったのでリンクをはっておく。

アフガン、イラク、ヒロシマ、パレスティナ。「集団的暴力は、嘆かわしい、しかし必要な悪」と思いみなしていた個人が911テロをきっかけに考えを変える、その過程がリアルで共感を持った。
 
 
 
 


2003年10月02日(木) CoCoonが欲しい

ソニーのコクーンが欲しい。もちろん、効率的にサッカーの試合を観るために、だ。

スカパーでチャンピオンズリーグが放送されるようになったおかげで、通常のリーグ戦(プレミア、セリエ)の放送数がうんと減ってしまったような気がする。今までは、夜TVをつければ(スカパーの)どこかのチャンネルで何かしら観たい試合をやっていたのだけれど、最近は全然そんな感じではなくなってしまった。

こうなると、どうしてもという試合は面倒でもビデオのタイマーセットをして留守録しておくしかないのだが、わが家のビデオデッキは数年前からリモコンの受光部が壊れていて、タイマーセットの出来ない状態なのだ。

それにサッカーの試合をビデオに録ってもせいぜい一回観ればそれでオシマイ。二度三度ビデオテープを再生して観ることなどまずない。それに何が映っているのかわからないままに増え続けるビデオテープは場所ふさぎだし、始末に困る。だからコクーンでHDに録画して、観たら消しちゃうというのは理想的なのだ。

しかもCSV−P500ならスカパーのシリーズ予約も出来るし。(嗚呼、また、いいお客になりかかってる…)
 
 
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今日のプレミアリーグは、ブラックバーン×フラム。早帰りしたオットと夕食をとりながら観る。

いわゆるド級のスター選手というのはいないけれど、どの選手もトラップやパスなどの基本動作が速くて巧い。だから観ていてとても面白い。その面白さがダレずに最後まで続く。とても締まった良い試合だった。言いたかないけど日本のサッカーの比じゃない。

(あのサアの二点目。ゴール前での切り返し、そしてシュート。「ここまで来れば俺のもんだ」という憎いまでの自信と落ち着きぶり。ああいう日本人ストライカーは残念ながらJリーグにはいない)

0−2でフラムが勝った。稲本の生き生きと力強い動きが印象的だった。彼をプレミアへ連れていったベンゲル監督の慧眼は、今さらながらさすがだと思う。
 
 
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台所で洗い物をしながらモンクの『ミステリオーソ』を聴く。

聴きながら、やっぱりこのモンクという人はちょっと変わっているんじゃないかと思った。特に三曲目 "LET'S COOL ONE" のハズシ方(キメ方?)とか。モンクにとってのかっこよさというのは、実感として、やはり少ーしばかりひととズレているんじゃなかろうか。

もともと私は深沢七郎や森茉莉の小説ような、ちょっとヘンな魅力、奇妙な味わいを期待してこのアルバムを買ったのだ(モンクについて書かれた短い惹句などをななめ読みしてね)。

だから今日はそのヘンなカンジを聞き取ることが出来てとてもうれしかった。お皿を洗いながらウフフとほくそえんだくらいだ。
モンクについては、これからも引き続き、ゆっくりとDIGして行こう。ふふふふ。

 



2003年10月01日(水) ささやかな幸せ

疲れ切って帰ってきて、洗濯機を回して、食事の支度をして、テーブルの前に座る。オットは残業。TVではサッカー。

プレミアリーグ、第七節。
1−4でレスターシティをボコボコにするマンチェスターユナイテッド。
なかんずく、ニステルローイのハットトリック。

最高だ、最高だよ、ルード・ファン・ニステルローイ!

戦術もフォーメーションも知らない。難しいサッカー談義なんか要らない。ただただ私はシャーワセなのだ。ヘロヘロになって帰ってきて、やっと一息ついて、たったひとりでこのゴールシーンを堪能している、この瞬間が至福の時。(フットボール万歳)

プレミアではニステルローイだが、セリエでは今季、アンドレイ・シェフチェンコが“らしい”ゴールを連発して私を喜ばせてくれている。
ふたりともこのままシーズン終了まで、怪我なくゴールを量産し続けてほしいと心から願ってやまない。
 
 
 


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