Leonna's Anahori Journal
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2003年07月31日(木) 嫉妬は醜い


ゲンズブール+アタルの映画、観てきました。

うーん、これが思ったほど面白い(たのしい)映画じゃあなかったんだなあ。少なくとも私にとっては。

嫉妬ってビョウキだと、あらためて、強く強く思いました。映画だとわかっていても、問いつめたり言い争ったりしているところを見聞きするのは苦痛だった。

雨に濡れた早朝のロンドンの映像は美しかったですが。(ああいう朝の町を久しく見ていない)
 
 
 


2003年07月29日(火) フランス語講座

昨夜。

テレビをつけたらNHKフランス語講座をやっていた。そのまま何の気なしにみていたら、モデルのリヒトが出ていた。わー、なんかすごく得した気分。来週もみようかなぁ…(どうやらレギュラー出演中らしい)

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フランス語で思い出したんだけど、『ぼくの妻はシャルロット・ゲンズブール』、今週金曜日までで上映終わっちゃうんだって。しまった、またこれだー。
あと3日のうちになんとしてでも観に行かなくちゃ。
 
 
 








今年はなにかと忙しく、とうとう朝顔の種も蒔かずじまい。
ところが、わが家のベランダからこぼれた種が排水口の中で芽を出していたらしい。
すでに花もひとつ咲いている。(ベランダより排水口を見下ろして、真上から撮影)


  


2003年07月28日(月) ジュネの年譜

昨日のJリーグの順位、間違えてました。正しくは、1位:横浜(29)、2位:磐田(28)、3位:市原(27)。カッコ内は勝ち点。

磐田が本当にユヴェントスなら、インテルの横浜は最後の最後で墓穴を掘って自滅回路、なのだが。(マリノスがインテル…?)

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一昨日書いたジュネの『恋する虜』、松岡正剛の千夜千冊でとりあげられていないかと思い調べてみたが見あたらず。ただしジュネの代表作のひとつ『泥棒日記』があったのでこれにリンクを張っておきます。正剛さんの文章はわかりやすくて、情報量が多いので。

それから「ジャン・ジュネ 奇跡の庭」というサイトにアルベル・デシールによる年譜があったのでこれにも。この年譜の後半1967−1984年には、ジュネがヨルダンのパレスティナ人キャンプに六ヶ月間滞在したこと、アラファトと会見し自由交通権を与えられたこと、また、パレスチナ人の受難劇の記録を世界に伝えるてほしいと依頼されたことなど、興味深い記述が多くみられます。

1982年、中東を再訪したジュネは、サブラのパレスティナ人キャンプで虐殺が行われたとき、偶然ベイルートに居合わせることになる。歴史の証人となったジュネ。彼はこのとき既に喉頭癌を患っていたが、1984年に亡くなるまでに『恋する虜』を書き上げ、出版社からの第二稿を受けとった時点で息を引き取った。

『恋する虜』は1985年(彼の死の翌年)にガリマール社から出版された。この作品をジュネが生涯を賭けてで書いたと言われる理由がこれでわかりました。
 
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ゲッツ君、フジロックより朝七時に帰宅、そのまま出社。

なにが一番良かった?と訊いたら「ジイサンたちはみんな頑張ってました」だって。アハハハハ。エルビス・コステロどうだった?と訊くと「あー、良かったっす!」。とどめに、「あー、そうだ、イギー・ポップがすごかったっす」だってさ。

・・・くやしいね〜!(笑)
 
 


2003年07月26日(土) ジャン・ジュネとパレスティナ

いつもの週末と同じように、横浜の父の家へ行く。

家を出るときバッグのなかに江國香織『すいかの匂い』を放り込んで行った。その際、帰ってくるまでに読み終わってしまったときの用心にと、もう一冊ジャン・ジュネの『ブレストの乱暴者』を持って出たのだった。

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ゴーヤ(苦瓜)が食べてみたいという父のリクエストに応えて「牛肉とにがうりの甘酢炒め」を作って食卓へ出し、帰宅する途中の東海道線のなかで、案の定、江國香織の短編集を読み終えてしまった。さっそくバッグから『ブレストの乱暴者』を出してブックカバーを掛け替えた。

いつも通り、まず巻末の、訳者、澁澤龍彦による『ジャン・ジュネ論』(あとがきがわりに収録されている)を読む。あとがきから読むべき本(すべての本がそうであるとは限らない)のあとがきは必ず最初に読む、そうして本編への期待を高めつつきちんと心の準備をすませてから読み始めるというのが私の読書における習慣であり、楽しみのひとつでもあるのだ。

澁澤の『ジャン・ジュネ論』を読み終えたあと、本の最初に戻り、カバー折り返しのジュネのポートレイトに目を留める。そして、その写真の下に記されたほんの数行の著者略歴を読んだとき、ガーンと殴られたような衝撃が走った。

私生児で泥棒で同性愛者、幾度となく投獄されたこの小説家(ここまではよーく知っていた)は、晩年“ブラック・パンサーやパレスティナ問題に積極的に関わった”と書かれていたからだ。

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知らなかったのだ。まさかそんなことだったとは。パレスティナ問題という言葉は、その実体を知らないひとにとっては単なる国の名前のついた単語でしかない。ほんの数ヶ月まえまでそれは、私にとってもなにか複雑で解りづらい政治上の問題であり、どこか遠い国でおきている揉め事であった。

おそらく私はこれまでもジュネとパレスティナという単語が同じ文章のなかに登場してくるのをみていたのだと思う。ただ、私のなかにパレスティナ問題についての知識がゼロであったために、その意味がわからず読み飛ばしてしまっていたのだろう。

帰宅して、検索エンジンで調べてみるとジュネの最後の長篇『恋する虜』というのがパレスティナのことを書いた本だと判明した。人文書院から出ていたこの本(たしかに一時期書店で目にしていた)は現在絶版になっており、全集にも未収録、文庫化もされていないそうだ。

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きょう、家を出るときどうしてもジュネが読みたくて、というよりまるで本棚の『ブレストの乱暴者』が呼びかけてくるような気がして、それでとにかく次はジュネと決めて持って出たのだった。

そんな気持ちになったのは江國香織の『すいかの匂い』を読みかけていたことと関係がある。そのまえに同じく江國香織の『都の子』を読んだ事とも関係がある。そのことについてはこれから読書のページに書こうと思っている。

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今年の五月、告発者としてのチョムスキーを知り、そのあと偶然TVのドキュメンタリーを通してサイードを発見したあとで、日刊ベリタというサイトへ行ってみたらば、E・サイード&N・チョムスキーと並記して彼らのサイトへリンクが張ってあったなんてこともあった。

しかし、このときはそんなには驚かなかったのだ。やっぱりな、という感じだった。自分の現在地を、しっかりと確認したような気分だった。

けれども、次にジュネがくるとは夢にも…(絶句)。
やはり、大勢の後をただついて歩くのではなく、自らの内なるプリンシプル(原則)にしたがって生きようとする人間にとっては(それが高名な学者であろうと、オカマで泥棒の小説家であろうと)見過ごすことの出来ない大きな問題なのだろう、パレスティナというのは。
 
 
(ちなみに殿山泰司も著書『三文役者の待ち時間』のなかで、パレスティナ問題についてサラリと触れている)
  
  


2003年07月25日(金) 落選

ぴあからメールがきた。

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 お申し込みいただいておりました、[TRICERATOPS(東京)]
 につきまして、抽選の結果をお知らせいたします。

 ●希望順位
  第1希望→落選×

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ぶっ倒れそうに眠いのできょうはもう寝るです(バッタリ)
 
 


2003年07月22日(火) 私信:四谷シモンの事

四谷シモンの『人形愛』という写真集は私の宝物のひとつである。B4変版で写真は篠山紀信、監修は澁澤龍彦。昭和60年、美術出版社刊。

澁澤龍彦は監修のほかに「未来と過去のイヴ」「メカニズムと少年」という文章と、シモンとの対談「ピグマリオニズム〜人形愛の形而上学をめぐって」で登場する。

澁澤以外の執筆者は瀧口修造、東野芳明、吉岡実、巌谷國士、高橋睦郎という面々。これに四谷シモンの傑作中の傑作(この人は文章も天才的なのである)「シモンスキーの手記」と年譜(作成者:高橋睦郎)が収録されている。

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私がまだ中学生だったころ、原宿キディランドの地階、一番奥の隅っこにガラスの扉のついた戸棚があってその中に、四谷シモン制作のフランス人形があった。“シモンドール”という札のついたその人形はベベ・ジュモーに代表される所謂アンティークドールの写しで、現在のシモンの人形とは違っていた。

値段はたしか6〜7万だったと思うのだが、もしかしたら12、3万位したかもしれない。よく覚えていない。
私は横浜から東横線に乗って渋谷乗り換えで原宿へ行くたびに、必ずそのキディランドの地階のシモンドールの戸棚の前へ行って10分でも20分でも飽かずに眺めていた。思えば、私はあの頃が一番“デカダン入って”いたと思う。

しかし私は別に、アンティークドールに興味があってシモンドールに釘付けになっていたわけではない。作り手の四谷シモンに興味があったのだ。
どうしてシモンの名前を知ったのかも今となってははっきりとは思い出せないのだが、それはたしか作家の金井美恵子がらみだったと思う。(金井美恵子の文庫本のあとがきを悪友のシモンが書いて、それを読んだとか、そういうことではなかったかと思う)

それから、シモンの美しい横顔(眼鏡、ヒゲ、なし。憂いを含んだ女顔)の写真をどこかで目にしたのもこの頃。そのうえ名前が、四谷シモン。“デカダン入っちゃってる”14、5歳の少女に、この男に興味を持つなといってもそれは無理というものだろう。


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数日前、読書好きの友達が四谷シモン著『人形作家』(講談社新書)を読んだというので、久々に写真集『人形愛』をひっぱり出してきて、あちこち読み返してみていた。すると、おもしろい事に、澁澤龍彦との対談の中にこんなくだりを発見した。

まだハンス・ベルメールとも澁澤龍彦とも出会う前のシモンが布と綿でヌイグルミのようなものを作っていたこともあると聞かされた澁澤氏、「ハー、それは初耳だな」と驚いたあとで「それじゃジュサブローじゃない」と言うと、シモンが「辻村ジュサブローとは、その頃よく知ってるんですよ」。

澁澤が「そうなの、ホー」とまたまた驚くと、「一番古いくらいですね」とシモンが答える。そのあと(シモンは作る人形が一変したけれど)ジュサブローは布一筋だったんだねという澁澤の言葉には「(ジュサブローには)革命が起こらなかったんです、起こる必要がなかったんでしょうね。」と答えている。

(ここから私信)という訳でisar嬢、ジュサブローさんとシモンは大昔からお互いに良く知っていたようですよ。(意外〜!)
 
 
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ちなみに、金井美恵子の最近(ここ十年くらい)に書かれた小説には、シモンがモデルじゃないかと思しき人物がわりとよく登場してくる。もちろん職業が人形作りだとかいうのではなくて、そのキャラクター、口調、言葉遣いなどからそう推測されるのだが。なかには、まんまカネミツという名前で登場してきたこともあって、これはわかりやすかった。(四谷シモンの本名は小林兼光というのだ)

それから澁澤龍彦が四谷シモン作の人形を養女に迎えた後、その彼女を大フューチャーして書いた本として『少女コレクション序説』(中公文庫)がある。この本の一番最後に収められた文章は「シモンの人形(あとがきにかえて)」というのだけれど、これはもう丸ごと一冊、四谷シモン(と彼の人形)に捧げた本と言って差し支えないだろう。
 
 










篠山紀信撮影の写真と文章の比率は8:2くらい。内容充実にしてこの比率、絶妙。
 
 
 




2003年07月20日(日) ドローゲームばっかし

昼間。横浜の父の家へ。蒸し暑くなったので、冷や奴の上へ刻んだ茗荷を山盛りのっけて食卓へ供す。

きょうは山下公園の花火大会だったので横浜駅はもの凄く混雑して、ホームに上がれない人たちが階段を埋め尽くして通路の方まで並んでいた。

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夜。夕食をとりながら、磐田×市原をみる。
予定通り、オットは市原を、私は磐田を応援。私は心情的には“鉦や太鼓”で大応援、だった。しかし、結果は2−2の引き分け。ううむぅぅぅ…

市原は次節、警告累積のサンドロとミリノビッチが出場停止。しかも次節は日本平で清水と対戦。微妙だ。優勝の行方はものすご〜く微妙になってきました。

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市原大躍進の影にはどうやら若手の成長と、外国人選手の活躍があるみたいなのだが、如何せんひさびさ〜に一試合観ただけではよくわからない。

しかし若きMF、阿部勇樹の成長と活躍が大きく影響していることだけは間違いなさそうだ。阿部は市原ユースを経て16歳でジェフユナイテッドに入団、なんと17歳の若さでJ1デビューを果たしている。つまり現在22歳の若さですでに市原在籍七年目という中堅どころなのだ(以上、オット調べ)。

はぁ〜、どおりで。腕のキャプテンマークは伊達じゃない。あの若さで、立ち居振る舞いが落ち着いてるっていうか、堂に入ってるんだよね。しかも顔、宇崎竜童だし。(←ココがきょうの目玉)

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ところできのう書くの忘れちゃったんだけど、セレッソのFWふたり。どうしちゃったのよあの頭は。大久保は説明に窮するような色に染めてるし、西澤はオバサンパーマ。

それからマリノスの中澤は、ボンバーヘッド復活してたしね(大きさ、八割方戻ってた)。Jリーガーってのは、サッカーのほかは自分の髪型にしか興味がないのかしらん。

(ま、戦術的なことがわからないもんだから選手のアタマのこととソックリさんばっかり書いてるチマリス、という見方もありますが)
 
 


2003年07月17日(木) Patti Smith

夜。赤坂BLIZでパティ・スミスのライヴ。

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夕方5時頃、同僚のゲッツ君が「今日じゃなかったですか」と声をかけてきた。私がパティ・スミスみに行くんだと言ったことを覚えていて、それがいよいよ今日で、それで、私以上にそわそわしているふうなのだ。「大丈夫なんですか。仕事定時で終われますか」とわが事のように心配してくれる(笑)

私が「オープニングアクト(前座)もあるそうだし、ま、ダイジョウブ」と答えると、そのオープニングアクトをつとめるバンドは“ユダ”といって、浅井健一がやってるバンドだと教えてくれる。あらあ、それじゃあんまり遅れないように行こうかなということになり、5時半過ぎ、そそくさと会社を後にした。

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こういう書き方をすると誤解を招くかもしれないが、パティ・スミスにしろ浅井健一にしろ、私にとってもはやこの人たちは、ミュージシャンでありながらその音楽を聴いてそれについて云々する対象ではなくなってしまっている。

もっとはっきり言うと、パティ・スミスや浅井健一の音楽を聴いて理屈抜きで楽しいかというと、私は正直言ってそうでもないなと思うのだ。

たとえば浅井健一の歌というのは、私にとっては赤ん坊の泣き声(それも不意打ち)のようなもので、彼の絶叫にちかいところまで張り上げてやっと安定するあの歌唱のリアルさ(そして異様さ)は、通常の“楽しさ”というものをはなから拒絶している。

しかし逆に、だからこそ楽だとも言える。なぜなら、お金を払った分だけ通常の意味での楽しさを求めなくても済むから。私は彼女(彼)が上手くやったらいいなとは思うけれども、コケても別にかまわない。要するにこれは信頼関係の問題なのだ。

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パティ・スミスの貫禄はもはや揺るぎないもので、すでに“祭り上げられたひと”という感じすらした。
「グローリア」や「ビコーズ・ザ・ナイト」といったヒットナンバーもさることながら、やはり彼女はポエトリーリーディングの要素を取り入れた曲が最も素晴らしい。この分野になるともう(ジム・モリソンの死んだいまとなっては)空前絶後、代わる者なし、だろう。

特に圧巻だったのは「ホーセズ」。
もし仮に(仮のはなしです)禁制の煙草や薬品をたしなんでから来たひとがいたとしたら、間違いなくその人は今頃、銀河系の彼方だろう。二度と戻っては来られまい。

パティは周到にも「ジャンピング・ジャック・フラッシュ」(アンコール1曲目)で満場の客をノリノリモードにさせて、舞い上がれるだけ舞い上がらせておいてからあの極彩色のボムをかましたのだ。背後のスクリーンに映し出された視覚効果まで含めて、まったく大したオバハンだと言うよりほかない。あああ、最高じゃった(笑)。

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◇ 今日の“wireへの道”

パティ・スミスのライヴ、七時からユダのオープニングアクトの後、パティが出てきたのは八時少し過ぎ。そして終わったのが十時半頃ということは、たまにステップを踏んだりしながら結局三時間半も立ったままでいたということだ。これは通常のライヴより一時間半くらい長くスタンディングの状態を続けたということ。

スゴイ。ファビュラス。インクレディブル。ここはどどーんと150ポイント加算。

(ポイント…?)
 
   


2003年07月16日(水) 仏滅か

がんばって仕事をしている。

がんばりすぎて今日はExcelで苦労して作った表(緻密なやつ)をぶっ飛ばしてしまった。・・・・・。

・・・・・・・、・・・・・・・・・・・・・。

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気がつけば、仏滅。 なにごとも程々に。


2003年07月14日(月) カップリング本を選ぶ楽しみ

体調悪い。会社を休んで医者に行く。

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医者にかかった帰り、銀行へ寄ったついでにららぽーとでお昼を食べる。あまり塩分をとるとまたむくみそうで、うどんの汁を残す。

ナイキショップの前を通りかかったら、お店の壁にリンゼイ・ダベンポートの大きな(畳一枚分より大きい)写真が壁紙みたいにして貼ってあった。

プロスポーツ選手の、しかも動きのある白黒写真てかっこいいなあ。ナイキのイメージ戦略に簡単にはめられて感心する私。しかしあれ、まさか等身大じゃあないよね。
 
 
(いくらダベンポートが大柄でもそれはありえません。そんな人類いないだろう。そうとう悪いんじゃないのかわたしは)
 
 
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本屋でイタロ・カルヴィーノ『見えない都市』を発見して、即買い。こういう本が文庫本(河出)になってるのか。フームムと、またもや感心する。

私は文庫本を買うとき、大抵一冊ではなく“カップリング本”というのを探して、抱き合わせで買う。この“カップリング”の条件はその時々でまちまち、要するに私が「よし」と思う組み合わせならば何でも良いのだが。

本日カルヴィーノには、百鬼園先生の『第一阿房列車』をカップリング。カバー裏の百鬼園先生の漬け物石みたいな顔写真を一目みたとき、ブリューゲルの絵のごとく摩訶不思議で蠱惑的な『見えない都市』の魅力に対抗しうるのはやはりこの爺さんしかいない、と確信したので。

本を読む時間がなかなかなくて、積ん読本ばかりが激増中のこの頃だけれど、こうやって本を物色している時間というのも読書中に負けず劣らず楽しいものだ。

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ついうろうろしているうちにだるくなってきたので、帰って、買った本を開けもせずに放り出して、寝た。
 
 





2003年07月10日(木) プリファブ・スプラウト、他

このまえオリジナルラヴを一緒に見に行ったときにクルミ嬢が貸してくれたCD三枚。どれも初めて聴くものばかりでオモシロイ。メルシ、クルミ嬢。
 
 
◎プリファブ・スプラウト 『アンドロメダ・ハイツ』

 やたらと美しい英モノです。ちょっとスワンダイヴってバンドに似てるなあと思ったけれど、こちらの方がより若々しくて意固地な感じでイイ。意固地というのはこの場合もちろん褒め言葉であって、つまりあまりにも美しかったり、永久に若々しくっていうのは意固地にでもならなけりゃ実現不可、維持して行けないものなんですね。私はこういうちょっと“過ぎた”感じのするものは大好き。そしてあの独特の浮遊感も、とても好きでした。


◎ティーンエイジ・ファンクラブ 『サーティーン』

 こちらは美学はいったん脇においてひたすら若さが前に出た。なんたってティーンエイジで、ファンクラブなんですから。リフよりはメロディだ。詞が泣かせるんだ。バンド名からして確信犯とみました。
 
 
◎田中フミヤ 『I am not a DJ』

 95年、いまから8年前の田中フミヤのアルバム。当時22才の彼、当然ながらその魂は荒ぶっております。可能性の海を抜き手を切って泳いでいるわけです。ハァハァ。本人はちがうと言っていますが、間違いなく田中フミヤはDJです。ツンタカ・ツンタカ・ツンタカ・ツンタカ……、プロデューサーは石野卓球です。
 
 
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◇ 今日の“wireへの道”

 8年前の、つまり初期の田中フミヤをきちんと学習しておく。これが今日の課題。この行為の意味や意図はきちんと把握しているつもりです。だから少しくらい息がハァハァしても負けたりしないわ、あたしがんばる。だってwireへの道はまだ始まったばかり…(ナンチャッテ)
 
 


2003年07月07日(月) ウィンブルドンのフェデラー

今年のウィンブルドン、ほとんど試合を見る暇もなくあれよあれよという間に終わってしまった。

わずかに男子シングルスの準決勝二試合だけはチラチラと観ることができたのだが、そこで驚いたことをいくつか。

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まず、長年アガシのコーチをつとめたブレット・ギルバートが、アンディ・ロディックのコーチになっていた。そうとは知らずにいた私、ロディック×フェデラーの試合開始前、ロディックのファミリーボックスに入るギルバート氏の映像に「あら、ロディックの試合観に来たのかしら」。その直後、解説者の話から真相を知ってドびっくり。

だって。アガシと言えばギルバートコーチ、だったもの。私の中ではもう二人でひとりみたいになってる。だから個人的にはかなり寂しい。彼(ギルバートコーチ)だけでもゴージャスな眺め、彼とシュテフ(グラフ。アガシの現パートナー)が揃えばまさに目の保養という、あのファミリーボックスをもう二度とみることがないのかと思うと。

次に驚いたのが、そのロディックを破り、決勝でフィリポゥシスに勝って優勝したフェデラーのテニス。
以前から“天才的なタッチ”と言われていたそうだけれど確かに。目にした瞬間、まわりの一切の音が消えたような気がした。残念ながら対ロディック戦の冒頭しか見られなかったのだけれど、これからは勝ち負けは度外視して、ただフェデラーのテニスをみるためだけでも彼の試合を観ようと思った。ショックだった。

最後に。驚いたというよりは笑ってしまったのだけれど。男子仏人プレーヤーってどうしてあんなにアッサリ負けちゃうんだろう。それもけっこういいところまで行っときながら。ピオリーン、アルノー、それからグロージャンと、ムッシュたちはみ〜んなそう。恐さってものがないんだよね。
でもって全員、テニスウェアを脱ぐといきなり粋で垢抜けたあんちゃんに早変わりするところまでおんなじ。まあ、そこがまた“らしく”て面白いと言えば言えるのだけど…

 
 


2003年07月05日(土) オリジナル・ラヴ at SHIBUYA-AX

午後二時、いつも通り表参道の石灯籠のところでクルミ嬢と待ち合わせ。
午後七時開演のオリジナルラヴ、ツアー『踊る太陽』までの時間をうろうろと青山〜表参道〜渋谷あたりを徘徊しながら過ごす。

クルミ嬢お気に入りのオリジナルアクセサリーの店(全部アンティーク風の一点もの)でデカいピアスを買っていきなり散財してみたり、探し歩いてやっとたどり着いたNADiffというアート系の本屋さんがあまりにも品数豊富なうえに若いお客さんで混みあっていたので、なんだか落ち着かなくなって早々に逃げ出してみたり、Cafe Maduへ向かう道すがら偶然発見したギャラリー収納青山のショウルームへ入り込み、壁にビターッと納まった壁面収納のあまりの素晴らしさに「やっぱりこれから家具は壁面でしょう!」と納得させられるも、買うお金がないという現実にふたりして突き当たってみたりと、なかなか実り多い散策タイムであった。

無事たどりついたCafe Maduで軽食。私はタイ風のサンドイッチ(ピタの中にてり焼きチキンと野菜を入れてエスニックソースをかける)を食べた。これは美味かったなぁ、ちゃんとパクチーまでついてたし。リーズナブルだと思うわー。これにチンザノロッソ飲んで、ええ気分。

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さて、そのウロウロ散策の間にクルミ嬢に教えてもらったのだが、オリラヴ93年の大ヒット「接吻」をカヴァーしているのは、なんと中島美嘉サン!

クルミ嬢によれば「中島美嘉本人がすごい好きらしいですよ、オリラヴのことを」とのことだったが、それを聞いた私が思わず「だったら何だってのよ」などと大人げないことを口走ってしまい、一体どういう反応なんですかッと年下の友人からたしなめられる一幕も。

だってさだってさ、ちょっとちがくない?ああいうひとがああいう歌を、好きだからって理由だけでカヴァーしちゃうってのは…(オバンしつこい)
 
 
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肝心のライヴの話を。

ちょうど一年くらい前にみた「ムーンストーン」のツアーライヴも良かったけれど、今回のステージはそれよりもっと良かった。で、予感的中でした。ディスクで聴くより生で聴いた方が格段に良いんですよ「踊る太陽」の楽曲って。特に「相棒」や「欲しいのは君」みたいな一見地味目のマイナーコードが抜群だった。(だからってなにも「欲しいのは君」で涙流して泣かなくても…)
 
それから、カヴァーが面白かった。えーと、私はネタバレ部分を白地で書いてドラッグしなければ読めるの読めないのなんて繊細な細工はようせん乱暴者ですから、あえて知りたくないというひとは、ここから引き返してください、ゴメンヨ、回れ右。 
 
えーと、それで今回のカヴァーは邦楽特集。本人曰く“邦楽にハマッテる”。でもって選曲が、ルースターズ、椎名林檎、高倉健って、田島氏のハマり方も半端じゃありません。

しかし、ルースターズって、なぁ…。「どうしようもない恋の歌」、何年ぶりに聴いただろう。そういえば、田島貴男と大江慎也って遠目だとほんの少し似てるんじゃないだろうか。・・・♪網走番外地〜〜〜(脈絡ナシ)

途中にもうひとつ、初めての試み(演出)があったんだけど、これはわかる人にとっては凄く重たいものだった。いま地球でおきていることを思えばああいうことをしたくなる田島貴男の気持ちはワカル。(さすがにこれ以上のネタバレはいくらなんでもまずいので、この演出の詳細についてはツアーの終わった22日以降に再度書きます。)
 
後半はオリラヴ初期ヒットのオンパレードで軽快に飛ばしたのだけど、私にとっては“どマイナー”を田島の朗々とした美声で、というのが一番の贅沢だった。ベストはピアノ一本で演った「プライマル」の弾き語り。あのフランネルのような裏声に震えました。
  
  


2003年07月04日(金) 誰だろう(2)

今回の誰だろうは、私が「あれは誰ですか?」と訊かれたはなしです。

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少し前にサイトのトップページ画像を入れ替えたのですが、それをみたある方から「左端の写真、ギターを弾いている人は誰ですか、もしかしたらあれはCDジャケットなのでしょうか」というメールをいただきました。

えー、あれはレイ・サンドヴァルというギタリストの"a la naturaleza"というCDのジャケ写真です。

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サンドヴァルは1969年、アリゾナ州トゥーソンの生まれ。メキシコ人の父と日本人の母の間に生まれたチカーノ(メキシコ系の混血)で、現在はLAを本拠地として活動中、だそうです。

"a la naturaleza"はギターインストアルバムで、ジャズを基調とした中にフラメンコやキューバ、ブラジルなどのエスニックな音とクラシカルな響き(サンドヴァルは大学でクラシックギターを学んでいる)が美しく織り込まれており、ひとことで言うととてもエキゾチック。

英米のロックやポップスに慣らされた耳には地味といえば地味な音楽ではあります。買った当初は(三年くらい前)、昼間よく家の中で、大きな音で鳴らしっぱなしにしていました。

そうやって聴いているうちに、自然の声を聞きとり、それと唱和しながら生きている人間がいる(いた)ということ、自然の一部分としての人間ということについて何か知らされるものがあった、ような気がします。

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ちなみにレイ・サンドヴァルは2001年の春に来日公演を行っています。ちょうど私とオットがマウイ島への旅行から帰ってきて直ぐだったと思う。

あっ、こんな地味な人が来るのか、これ聴き逃したらもう生でサンドヴァルを聴く機会はないかもしれないなぁと思っている間にも公演日は来て、過ぎ、とうとう聴けず仕舞いでした。
 
 


2003年07月03日(木) 誰だろう

会社の帰り。

駅まで送ってもらうクルマの中で、カーラジオから田島貴男の声。オリラヴ『朝日のあたる道』だ。美声。

次に自宅近くの化粧品店に寄ると、今度はオリラヴ『接吻』のカヴァーが流れてきた。誰なんだろう?女の人の声。

個人的に、血中の田島濃度が上がりつつある今日この頃。

(しかし、あのカヴァー曲を歌っているのは誰なのかなあ…)
 
 




2003年07月01日(火) 和田さんち

会社のお昼休み、ゲッツ君と世間話をしていたときのこと。

トライセラのライヴ(6/24シブヤAX)の話になったので「一緒に行った友達が、和田唱が喋るたびに小声で『レミー、レミー』と言うのでマイッタ、笑った」と話したところ、反応は「…???」。

あれ、ご存じなかったのかしらと思いつつ説明。
ええと、平野レミさんていますでしょ、マシューズベストヒットなんとかにご出演中の。あのひと、トライセラ和田くんのお母さんです。

でもって、イラストレーターの和田誠さんてご存じでしょ?文庫本のカバーや新聞雑誌でよく見る、著名人をそっくりに描く絵描きさん。あの和田誠さんがトライセラ和田くんのお父さん。つまり和田唱の“和田”ってのは和田誠さんの“和田”ってわけよ。・・・・・
 
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ゲッツ君は驚いたようだった。しばらくは「ハァ〜〜〜」なんて感心していたが、そのうち謎が解けたようなうれしそうな顔になって「う〜ん、ウン、ウン、」と満足げにうなずき、とどめにこう言った。

「なんか、ドラゴンアッシュの降矢とイッコウちゃんより、こっちの方がうれしいっすね、知った瞬間の満足度が高いっていうか」

あら、私また善行を施してしまったかしらん?
しかし、満足度ってなにさ…(笑)
笑っていたら、

「これってけっこうトレビアじゃないっすか?」

知らんがな!(いまだみたことナシ)
 
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和田唱のあのポップセンスは間違いなく父親譲りだ。
単純な線、キュートな表現、カラフルさ。
ま、たしかに喋りのセンスはかなりお母さん似だと思うけれども(笑)
 
 


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