Leonna's Anahori Journal
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2002年12月31日(火) 2002年の終わりに

たしか11月上旬頃のことだったと思う。
午後三時頃、部屋に掃除機をかけようとしていたら、不意に天井の隅の方がキラキラッと光った。何事かと驚いてよく観察してみたら、すでに傾きかけた晩秋の陽の光がベランダ側のサッシ窓から深く鋭角に入り込んで、薄暗い天井の隅っこで踊っていたのだった。

その金色の光があまりにもきれいだったので、掃除機などという無粋なものをかけるのはしばし止めにして、ベランダの掃き出し窓の桟に腰をおろして西の空を眺めることにした。すると今度は、隣地との境のヤマモモの植え込みが風に揺れる音がいつになくはっきりと耳に聞こえてきた。それは風が常緑の葉を鳴らすザワザワという音だったが、そのときの私には何故かそれが“風そのものの”の音のように感じられて、こういう音を聞くのは随分と久しぶりのような気がした。

植え込みのずっと先には有料道路が通っていて、クルマが連なって通るときの音が、相も変わらず低く唸る壁のように聞こえていたけれど、それを差し引いてもなお、風の音の存在感は圧倒的だった。それで、私はもっとよく聞こうと右手の平を右耳のうしろにあてがってみた。試してみればわかるが、単なるジャスチャーではなく、こうすると人間の耳の集音機能は格段に上がる。それから、木の葉のざわめき、風の音の細部までもを聞き逃すまいと、私は左手も左耳のうしろにあてがってみた。

・・・そして。そして私は気がついたのだ。たしかに葉ずれの音は良く聞こえるようになったような気がする。しかし。しかしな。これって、高原直泰(もしくはローマのデルベッキオ)がゴールを決めたときの、あのゾウサンのポーズとおんなじなんでないかい・・・?
   
      
嗚呼、どうして。どうしてこうなっちゃうんだろう。なにをやっても、詰めが甘いんだよな私は。このHPにしたってそうだよ。リニューアルだって微妙にやり残してるし、読穴、旅穴、サカ穴だってそう。最後は“夢は枯野を駆けめぐる”の心境でうつむくことになるのだ。クゥ〜ッ。

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ま、そういう忸怩たる思いもありながら、それはそれとして今年も終わろうとしている。思えば、実にいろんな事があった一年だった。正月早々クルマのマフラーを落っことし、その翌月には母を亡くし、そしてワールドカップがやってきて、去っていった。パートで仕事にも出た。

また私にしては随分あちこちへ出かけた年でもあった。一月に鳴子温泉、その後、日帰りで京都。夏に岡山県牛窓〜京都〜富山。九月に父と妹を伴って九州は博多〜小倉〜別府。九州から戻って再び富山。そして最後は秋田県の乳頭温泉郷。

考えてみたら、けっこう無理をしたかもしれないな。私の能力では、なにもかも上手く納めようったって無理だったのかもしれない。

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きょう横浜の父のところへお料理を届けた帰り、電車の窓の外には不思議な色の空が広がっていた。昼間は晴れ。その青空に雲が出て底冷えのする天気になったのだが、そういうときの雲は普通どんよりと低く垂れ込めるものなのに今日の空は見た事もないようなブルーグレーで、しかも天高く、どこまでも透明だった。

もしも一年の終わりの日、大晦日が特別な日だとするならば、その特別な日にいかにも似つかわしい空のような気がして、私は、この次いつ見られるかわからないその不思議な空の色を飽かずに眺めていた。
そうして(多少詰めが甘かったにしても)これってそんなに悪くない年の終わり方じゃないかな、などと思ったのだった。
   
      


2002年12月30日(月) トムヤンクン?信也さん?

喉は痛いけど、お正月は待ってくれない。
今日は最後のお掃除で窓拭きをして、それからお料理を作った。(お料理といっても、なますと煮物と数の子の塩抜きをして味付けするだけだけ)

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窓拭きは、けっこうくたびれた。子供の頃は学校の大掃除でよく窓の桟にまたがって窓の掃除をしたものだけれど。あのころはピカピカになるのが面白くて一生懸命磨いたものだった。でもいまじゃ、もうダメ。体力がなくなっているのかすぐに疲れる。

それで、一枚拭き終わっては「ハァ、しんど〜」とやっていたら、そのうちに以前バリ島で夜に入ったレストランのことが執拗に頭に浮かんできた。オープンエアで、蓮の花の咲いている池があって、暗闇の中から蛙だか虫だかの声が聞こえてきたレストラン。

どうして唐突にバリ島のことなんか思い出したのか?
それは、窓拭きに使っていたガラスクルーという洗剤のにおいがレモングラスにそっくりだったから。そしてバリで入ったレストランがタイ料理の店だったから。それでガラス磨き洗剤のにおいを嗅ぎ続けているうちに、バリで食べたトムヤンクン(レモングラスの入ったスープ)のことを思いだしてしまったわけ。片手にぼろ布を持ち、サッシの桟に腰を下ろしてぼんやりしながらね(笑)

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夕方、NHKのデジスタ(デジスタアウォーズの発表)を観ていたら、ヴェロンにそっくりのスキンヘッドの人がいて、よく見てみたらCMディレクターの中島信也さんだった。

中島さんには、以前広告の勉強をしていたとき、講義を受けたことがある。私と同年代だけど、すっごくかっこよくってね。会ったとたんに一目惚れっていうの?即座に『中島信也一人ファンクラブ』を結成した私だった。まあ、その頃から「谷村新司さんに似てますねって言われるとツライ」とご本人もおっしゃってはいたのだが…

(一応断っておくと、私は単にスキンヘッドということでヴェロン選手をひきあいに出しているのではない。似ているんですよ、頭の形といい、眼光の鋭さといい)

そうですか、脱谷村新司の次はヴェロン、ですか(笑)
まあ、そんなに悪くないと思います。このところのヴェロン、シュートきめちゃったりしてキレまくってますから…
   
   


2002年12月28日(土) 黒猫、出動。

喉が痛いのに加えて、さらに打撃的な出来事が。ベランダに置いてあるビオラの鉢植え、咲いていた花をみんな、鳥に食べられてしまった。

以前、越してきてすぐの頃にも、プランターのパンジーを全部丸坊主にされたことがあって、その後しばらくは気を付けていたんだけど。もう三年くらい被害に遭っていなかったので油断していたらコレだ。ショック!

むむむむむう〜、トリスケどもめぇ〜
こうなったら、こうなったら・・・黒猫、出動!(金属製の鳥よけのネコです) 
頼んだよぅ、クロ〜
   
   











2002年12月27日(金) TRICERATOPS in YOKOHAMA BAY HALL

25日の晩、トライセラのライヴに行ってから喉の痛みがぶり返してしまった。咳が出始めると止まらなくなる。
オールスタンディングのライヴハウスは、出演者との距離が近くて楽しいけれども空気は悪い。

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でも、もちろん、とても良いライヴだった。『2020』は生で聴いてもやっぱり名曲だったし、大好きな『FIVER』や『GOING TO THE MOON』も聴けたしね。あとは、何と言っても吉田佳史の平井堅の物まねだ。クリソツだったよ。マジで感動した(ハハハハ)

ところでトライセラはスタンダードな曲のカヴァーが凄く上手い。プロなんだからオリジナリティはあって当たり前、カヴァーは正確な技術プラス楽しい味付けでお出しできて当たり前といった余裕さえうかがわれる。
そういえば以前、ラジオの生放送で和田唱がビートルズの『Black Bird』をギター一本で歌ったとき、良くできたカヴァー曲のディスクを流しているのと間違えてしまったことがあった。誰が演っているんだろう、このCDほしいなと思いながら耳を澄ませていたら、和田唱だとわかって仰天した。
和田唱のカヴァー曲を歌うときの発音は本当に素直できれいだ。むしろ自作の日本語詞を歌うときの方が“自分訛”が顕著になる。

あと彼、相変わらず“語って”たけど、あれ止めたら駄目なんだろうね。止めたら曲も作れなくなっちゃうのに違いない。和田唱の、あのポップなセンスはお父さんから、押しの強さはお母さんから受け継いだものなのだろう、きっと。
   
  


2002年12月24日(火) フジタが家にやって来た。

『藤田嗣治画集 素晴らしき乳白色』購入。ついに、フジタが家にやって来ました。

B4変形で総218頁。代表作約160点収録。大きくて重たい本だ。お茶碗を洗うのも忘れてページをめくること一時間。感激なんだけれど、さすがに疲れてしまった。だってさ、観ても観ても、めくってもめくっても、次から次へとフジタなんだよ。

そういえば1986年にレオナール・フジタ展を観たときも、帰りみち、小さな“おくび”のようなものが止まらなくなったことがあったっけ。

あのとき、有名な『カフェ』という大きな作品のまえに立ってじっと絵を観ていたら、だんだんと、最初は観ているつもりだった私の方がしまいには、ハッキリと絵に見られていると感じるようになった。(こういう逆転現象はフジタに限らず、力のある絵の前に立つと起こるようだ。同じようなことをその後も何度か経験した)

それで、すっかり展覧会に呑み込まれたような、それでも良い気分で会場をあとにしたが、電車に乗って窓に映る自分の顔をみてギョッ。なぜなら、目元(目頭と目尻の二箇所)と唇の両端がクッとくぼんで切れ込んだ、つまりフジタの描く人物の特徴が、ガラスにぼんやりと映る私の顔にも現れていたからだ。

その瞬間から数分おきに“おくび”が出て止まらなくなった。フジタの描く人間の顔は、最初はまごうかたなきフジタ調に見えるけれども、一度「確かに人間ってこういう顔の造作をしている」と納得すると、目があらゆる人間の顔にフジタ調(目元や口元の特徴)を探してしまうようなのだ。
(ま、要するに本物のフジタばかりを、短時間に根を詰めて見過ぎたせいだったのだろうけど)

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この本、横浜の父にも見せてあげたいと思うのだけれど、これだけ重いと気軽にさっと持って出るというわけにいかない…







   
    


2002年12月23日(月) 誕生日を誰と過ごすか

妹と妹の娘と私と、三人で母の墓参りに行った。

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自分の誕生日に墓参りすることにしたのには理由がある。以前、何かの本で読んだはなし。書き手は永六輔さん。

故淀川長治さんと自分が同じ誕生日(生年は違うが月日が一緒)なのを知った永さん、うれしくなって「お誕生日にはぜひ一緒に食事でも」と誘ったところ淀川さんの返事は「あら、嫌よ」と冷たかったそうな。

淀川さんの続けて曰く「だってボク、誕生日はお母さんと一緒に過ごすんだもの。自分の誕生日に自分を産んでくれた人にお礼言いに行くのは当たり前。あなたも自分のお母さんのところへ行けばいいじゃないの」…とまあ、こんなような意味のことを言われたのだそうだ。

いかにも“お母さん命”だった淀川さんらしいエピソードだが、確かに一理ある。それで、そんなにすげなく断られながらも、その淀川流誕生日の過ごし方にいたく感心した永さん、自分も誕生日は母親の元へ行って一緒に過ごしたというのだから、さすが淀川マジックと笑うよりほかない。

確かに誕生日といえば生まれた人が主人公、だから祝ってもらって当然という考え方の頭に“産んだひとに感謝”というのは盲点だ。それで、そのとき私もナルホドと感心した(それに美談だよねコレ)。それが、いまから三、四年まえのこと。

そして今年。“自分の誕生日に自分を産んでくれた人にお礼言いに行くのは当たり前”という淀川さんの言葉がやたらと身にしみるのは、私をこの世に産んだ人が居なくなって、年齢だけはリッパな大人に成長した私がぽつんと取り残されたような気がするからだろう。

それで、一も二もなく、誕生日は墓参りと決めた。主旨(淀川さんの話)を説明したところ妹も「一緒に行くわ」ということになった。そこに姪も加わって、何だか楽しいピクニックのような気分で出かけて行った。

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結局、三人で墓所の掃除をして、お花とお線香をあげて、ついでにミニサンタまで飾ってしまった(ほんとこれだからオンナコドモはしよーがない)。でも天気はいいし、空気はきれいだし、最高の誕生日だった。これから誕生日には墓参り、これ定番にしよう。


2002年12月22日(日) ベイタウンのX'masイルミネーション


夕飯のあと、魔法瓶にお茶をいれ、一口大に切ったシュトーレン(ドライフルーツの入った堅いパン)を持って、幕張ベイタウンのクリスマスイルミネーション見物にでかける。

ベイタウンは綿密な計画とデザインのもとに大規模開発された欧風の街だ。昔、横浜の山下町あたりにあって、今はもう取り壊されてしまった石造りの建物みたいなマンションが建っている。建物は通りに面して建てられ、建物のうしろ側には広い中庭。大通りもアスファルトではなくて舗石を敷き詰めた石畳の道になっている。

今年はド派手な飾りつけが減って、上品さを競うようになった感あり。下の写真、これでもマンション一階の個人のお宅です。去年通りかかったときは“素敵なお花屋さん”と間違えてしまったお家。

もうひとつの写真は今年のグランプリ(あくまで私の好み)。細い鉄格子のはまった一階の出窓に大きなリースがひとつだけ。なのに何という幻想的な眺め!おそらく鏡を使っているのだと思うけれど、いくら見てもどうなっているのかよくわからない。リースの上の方の葉っぱは作り物で、色はブルー。窓の下に茂っているのは本物のアイビー。

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イルミネーションを楽しんだあとは、家へ帰って柚子湯に入った。今日は冬至。そして明日は、私のウン十ウン回目のバースデイ。
  









  




  
    
   


2002年12月20日(金) 古書展と古書店街で本を漁る

とんでもない古本の当たり日だったのだ、今日は。

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神保町へ出て古本屋二、三件ひやかしてから帰るつもりが某ビル前『古書展開催中 七階』の看板にひっかかる。せっかくだからこれ見てから行くかと、エレベーターで七階へ上がった。

で、一周見て回るだけのつもりが、結局ここで写真集も含めて六冊の本を買ってしまう。大判本もあり、とてもじゃないがこれを提げて古書店巡りなんかできない。お金を払い、買った本は預かってもらって外へ出た。古書展での買い物は以下の通り。(グールドのはA4変形の写真集で、一頁に一枚の写真がレイアウトされている。この写真集と『私の食物誌』(函入り単行本)だけは誰にも渡したくなかった)

 ・『GLENN GOULD 写真による組曲』
 ・『「短歌 昭和52年7月臨時増刊号 現代短歌のすべて』
 ・吉田健一『私の食物誌』
 ・奥野健男『島尾敏雄』
 ・松村 剛『評伝 アンドレ・マルロオ』
 ・デュラス/ミシェル・ポルト『マルグリット・デュラスの世界』
  
  
ランチと、せいぜい古本二、三冊のつもりで大したお金も持たずに出てきた私は、この時点で手元不如意に陥ったが通りに出ると、直ぐ先の交差点の角に、私のキャッシュカードと同じ色をした看板がもう見えている。怖ろしい街だ。しかし本当に怖ろしいのは街だろうか?
「身の丈を超える買い物はしないこと。一線を感じたら迷わず引き返すこと」。そう自分に言い聞かせながら私は午後の古書店街へと入って行った。

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果たして、私は馬鹿な買い物はしなかった。全集本の誘惑にもうち勝った。
そのかわり神保町にいる間中、私は、本当は森にキノコ狩りに来たのだけれど、敢えて散歩に来ただけのふりをしながらキノコのありそうな場所に来ると目を細め小鼻をピクピクさせる変なヒト、みたいになっていたかもしれない。

神保町の古書店で買ったのは以下の吉田本四冊。勿論単行本で初版本もあるが、私はコレクターではないのでこれはあまり関係ない。読むのに支障無いコンディションならばそれで良いのだ。だから、比較的状態が良い本ばかりともなれば、これはもう大当たりなのである。

 ・吉田健一『舌鼓ところどころ』
 ・ 〃  『日本のよさ』
 ・ 〃  『新編 三文紳士』
 ・ 〃  『ヨオロッパの人間』
  
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勇んで買ったはいいけれど、重たいことは重たい。クルマか、誰か荷物をもってくれる人がほしい。

そういえば昨日訪れた経堂駅の前には、植草甚一さんが生前長く住んだマンションがある。古本屋巡りの達人だった植草さんは、ニューヨークで古本屋巡りをするとき、まだ子供の黒人の男の子を雇って買った本を運ばせた。そしてホテルを二部屋とって片方の部屋に買い集めた古本を置いていたと聞く。白い蓬髪とヒゲ、ヒップな出で立ちで黒人少年を連れ歩く植草老人を、ニューヨークの人たちは“アジアのミリオネア”と噂したそうだ。・・・・

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帰ってから、買った本を体重計にのせてみたら全部で6キロくらいあった。植草さんのディガー(digger)ぶりに比べたら無に等しいような数字ではあるけれど、それでもそれは、チマリスにとっては充足感と疲労感をもたらすのに十分な数字だった。
  
   


2002年12月19日(木) 一日だけのアルバイト

友達に誘われて一日だけのバイトに行った。
場所は経堂。友達の知り合いの絵描きさんの展覧会があって、その会場で販売するグッズの準備や袋詰めをお手伝いしに行ったのだ。

音楽の流れるあたたかい部屋の中で、美味しいコーヒーや紅茶をいただきながらの軽作業。こういうお仕事なら毎日でもかまわないんだけどなあ。

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今日は渋谷から井の頭線に乗って行ったのだが、さすがにあの路線の朝の下り電車に、ネクタイを締めたおじさんはいなかった。
かわりに、下北沢で小田急に乗り換えるとき、アフガンコートを着て、素足に革の草履をはいた若い女の子を見た。つま先には青いマニキュア。その瞬間、ああ下北沢に来たんだなあ久しぶりだなぁと実感した。

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夜七時頃、経堂駅から電車に乗って帰った。世田谷方面を訪れるのは久しぶりだったけれど、三宿の病院で生まれて池尻のアパートで五歳まで育った私には、あのあたりの風景も空気も妙になつかしいものだった。
『原風景』という言葉は何だか大袈裟で意味ありげな感じがしてあまりピンとこない。でもそれが意味するものはわかるような気がする。

何十年も昔の、生まれたばかりの頃の空気感を覚えているなんて、ちょっと鮭みたいだなと思った。
    
   


2002年12月18日(水) 昼間の電車

午後から横浜。
朝曇って寒そうだったのでオーバーコートを着て出たら、段々晴れて暖かくなってしまった。

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往きに乗った銀座線で、筒状に巻いたカレンダーを4、5本、紙の手提げ袋に入れて持ち歩いている男性を何人か見た。そういえば先週横浜へ行くときも同じ様にカレンダーを持っている人を見かけたっけ。そのとき私は「ずいぶん早くに頂き物を分けたんだな。まさか今日が仕事納めって訳でもないだろうに」などと思ったのだった。

会社勤めをしていた頃は、仕事納めの日に得意先から貰った来年のカレンダーや手帳をみんなで分けて(たいていはくじ引きで)家へ持ち帰ったものだ。特に80年代バブルの時代には、使い切れないくらいたくさんのカレンダーや手帳をもらった。それでどうしても、年末、カレンダー、手提げ袋、とくると、頂き物、納会という連想になってしまう。

本当に馬鹿だな、私は。どこに12月の10日過ぎに仕事納めする会社があるのだ。紙袋のカレンダーは頂き物ではなくて、これから得意先を回って配るものだと、今日になってやっと気がついた。と同時に、昔みんなでクジを引いて分けたカレンダーもこうやって私たちの所へ運び込まれていたのかと思い至った。

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ところで、電車に乗ろうとホームの停車位置の所で待っていると、アタッシュケースを提げたおじさんがやって来てさっと私を追い越して乗り込んでしまうことがよくある。場合によっては降りるひとを待たずに、空いている席目指して大股で歩いて行く人もいる。

大のオトナが、これは恥ずかしいと思う。それに相手を見て割り込むというのも卑怯だ。同業のアタッシェを持ったサラリーマンには決してそんなことしないくせに、連れのいない女ならばかまわないわけだ。最近ではいちいち怒るのも馬鹿馬鹿しいので“柳に風”で通すことにしているが、気分は暗い。

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帰りの電車ではすぐそばに乗っているおじさんが、手も当てずにやたら咳き込むので閉口した。ぷんぷん怒っている間にも菌は飛んでくるから、とにかくバッグからハンカチを取り出して自分の鼻と口に当てた。明日あさってと電車に乗って出かける用事があるので、帰宅するなりガーゼマスクを用意して、バッグに入れた。

それにしても、電車の中のおじさんたち(サラリーマン)って悲しいな。悲しいのは横入りされた私じゃなくて、おじさんたちの方。ご当人達は気付いていないかもしれないけれど。
   
    


2002年12月15日(日) くにゃくにゃの休日

午前中、テニス。風邪で二週間続けて休んだので久々のレッスン。試合形式で揉まれてかなりの運動量だったけれど、それが逆に気持ち良かったりして。頭のなかの霧が晴れたような気がする。

テニスから帰って、天皇杯三回戦、磐田×国見高を観る。2−1で敗退したけれどよく守った、国見。試合終了のホィッスルのあと、国見の健闘を称えて一分間くらい、ブラウン管に向かって拍手していた。

天皇杯のあと洗濯機を回していたらテニスの疲れが出てきた。私は疲れると弛緩するより変に緊張して、よく頭や身体が痛くなる。緩和策としてワインを飲んでみたら、いいかんじに身体がほぐれて楽になった。しかし、小一時間もすると眠たくてトロトロのくにゃくにゃになってしまう。食事をとることも忘れてベッドにもぐり込む。

深夜。スカパーでサッカー。ローマもミランも袖にして、プレミアリーグ、トッテナム×アーセナルを観戦。目的はピレス様の応援、その勇姿を拝むこと(戦術もへったくれもあるもんか)。
結果は1−1の引き分けだったけれどピレス様がPK決めたからそれでヨシとする。

夜中だというのに妙にテンションが高かったのは、国見かピレス様かそれとも一食抜いたせいか?  



  


2002年12月14日(土) NHKのアサノ

出かけて帰ってきてTVを点けたらBSの番組にアサノが出ていた。
NHKの「キー・パーソンズ」とかいう番組。
男性アナウンサーから尋問みたいに、いろいろ訊かれてた(笑)
アサノって言葉、丁寧だよね。あんな風体でああいう日本語遣うって、いったいどーゆーひとかと思っちゃう(←勿論、褒めてます)。


 


2002年12月12日(木) 家が建った

父の八十回目の誕生日。
プレゼントとケーキを持って会いに行く。

ちなみに父の誕生日はレイモン・ラディゲの命日と一緒だ(同年同日)。べつに意味もオチもない、単なる事実というやつだけれども。

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今日、横浜から家へ帰る電車のなかで長らく読みかけになっていた吉田健一『絵空ごと 百鬼の会』を読み終えた。

『絵空ごと』の終盤、戦後焼け跡になった麹町に、実際に洋館を建てる相談が始まるあたりから急に話がそれまで以上に生き生きと感じられるようになり、読み終えるのが惜しいような気持ちになりつつ、凄いスピードで頁をめくっている自分がいた。面白くて目が本に吸い付きそうになっていたのである。そうして、とても穏やかで静かな場面なのに胸がわくわくするのが不思議だった。

麹町に洋館が建ったとき、お披露目に呼ばれた外国人の男が暖炉の上にかかっている『シテル島に向っての船出』という絵(の、写し)のまえに立って「久しぶりだな、」という場面がある。この「久しぶりだな、」という言葉を私は、私自身の言葉だと思って読んだ。ああいうときに発する言葉として、他のいかなる言葉というものも考えつかない(あり得ない)、と思う。

ということはどういうことかというと、私の頭の中にも“洋館が建った”ということなのだ。これが私は、本当に嬉しかった。まだこれから死ぬまでの何年間かの間に、いまはまだ開けることの出来ないその邸の部屋の扉を開けて、いまはまだ知らない何ものかを見聞きすることが出来たらいいな、素敵だなと思う。

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いつも本の頁の更新を楽しみにしてくれている友人がいて、なのに(気持ちはあるのだけれど)ずっと手つかずになっているので心苦しい。
読み終わったものからすぐに感想をアップするような形式を作ろうと思っているところです。

今日のジャーナルは半ばその友人宛の私信のつもりで書きました。(私に吉田健一を教えてくれたのは彼女だから)それで、そのために少しわかりにくい書き方になっていたとしたらゴメンナサイ、です。
   
   


2002年12月11日(水) 鳥肌カレー

冬晴れ。今年最後の眼科受診に出かける。
そのあと、銀行に寄ってから買い物。明日は父の誕生日なので、軽くて歩きやすい靴をさがす。

とはいえ、いかにも老人風だったり介護用品然としたのはいやなので、なんとか軽くて何にでも似合う“紳士靴”をと探し回り、やっとそれらしいのをみつけることができた。父には別のを買ったけれど、G.T.ホーキンスのAIR LIGHTというのも随分軽くて履きやすそうだった。今度オットに教えてあげよう。

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家へ帰って遅い昼食をとるために、マーケットでレトルトのカレーを物色していたら『小野員裕の鳥肌の立つカレー』というのがあって、そうとう悩んだのだけれど、結局買ってしまった。

急いで帰り、鍋の湯にレトルトパウチを入れて温める。箱のウラには“この味をご堪能していただくためには…”として、ライスとルーを別々の器に盛りつけ、ルーをライスにかけながら食べるのがベターと書いてあったのだが、かまわず平皿のご飯の脇にルーをあけた。

すると、みるみるうちにルーはご飯をとりまき、ご飯は大海に浮かぶ孤島のような状態(しかも浸食され続けてる)になってしまった。鳥肌カレーはチキンの入った辛口のインドカレーで、小麦粉を使わないとても水っぽいルーなのだった。

で、食べてみた結果。うーん…筆舌に尽くしがたいとはこういうことを言うのだろうか。馴染みのない味ゆえ旨いのか不味いのかの判断がつきにくい。敢えて言うなら“辛くてマタリ〜ン”みたいな?たとえば“別の意味で鳥肌が立った”と書いて落とす、なんてことも出来るのだろうけれど、それもちょっと違うという気がする。

…ひとくち食べてみて「これってどういうの?」という疑問が生じる。もうひとくち食べるとこれが「これって四百円弱も払ったことを考えた場合どう言ったらいいの?」に発展する。こういうことを考えながら食べているうちに軽い情緒不安定に陥る。
そうなのだ。私の場合は『鳥肌の立つカレー』というより『情緒不安定に陥るカレー』と呼びたいような状態になってしまったのだった。

特筆すべきは、食べ終わったあとのコップ一杯の水の、まさにみずみずしく美味であったこと!『鳥肌の立つカレー』には、必ずコップ一杯の水を添えること。そして、食べている途中では決して水を飲まないこと。水は最後の一匙を食べ終えてから。コレ、注意書きとして加えるべきだ、絶対。

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あとから箱に書かれた解説をていねいに読んだら小野員裕という人(カレー研究家だそうです)の顔写真の横に太字で「カレーの旨さは、作り手の執念で決まる」と書いてあった。
もしかすると、あの鳥肌カレー独特の味は“執念そのものの味”だったのかもしれない。
  
   


2002年12月10日(火) ぶつぶつ言うひと

最近パソコンを買ってインターネットを始めたという友人から「HPみたよ」というメールが届いた。そこには拙HPを閲覧した感想として、身体が弱そうなのと、ぶつぶつ言ってる感じが相変わらずで私らしくて良い、という意味のことが記されていた。

 そうか。私はブツブツ言う人なのか…。それも、昔っから。

なんとなく、晴天の霹靂、寝耳に鉄砲水、瓢箪からこまわり、というような気分になり思わず、ううーん、そうか、そうだったのかなどとブツブツ言ってしまった。

が、そう言われてみるとなるほどそうかなという気がして来ないでもない。もともと文句が多い人だしな。フツーに喋っても“一家言”みたいにとられがちなのな。フン。

思えばこの十年ほどは、こんなことの連続だった。他人から“あなたって○×ね”と言われてヘッ?と思い、後ろを振り返りつつ左の胸に右手の平を当てて考えてみると“ああそうか、確かに私ってそういう人だったかも”と認識を新たにすることが幾度も、幾度もあった。

面白いのは、若い時分だったらムッとして終わるであろうところ、年のせいか、考え込んだ挙げ句たいていのことはナルホドと納得してしまうようになったことだ。場合によっては新鮮で面白い発見だとうれしくなってしまうこともあった。こうして書いてみると私のアイデンティティなんて、つくづくいい加減なもんだと思う。

さて、そういわれてみれば確かにぶつぶつ言うひとだった私といたしましては、これからもさらに、そのぶつぶつに磨きをかけるべくガムバル所存でございます。こうなったらもう、やったるからな〜(←これが本当に納得してるひとの態度だろうか)
  
  


2002年12月06日(金) 大島弓子

久しぶりに母のお墓参りに行った。
父と妹と、三人で。

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帰りに横浜で妹とお茶を飲んでいたときのこと。
妹が「いま大島弓子の漫画読んでるんだ」とバッグから本を取りだして見せてくれた。割と最近(といってもここ数年?)の本で、私のまだ読んだことのないやつ。

「サバ(大島弓子の愛猫で漫画にも登場した)は死んじゃったけど、その後別の猫を飼っていて、今は四匹もいるんだって」
「ふーん」
「それで、こんど別のマンションに引っ越すらしいよ、猫四匹つれて」
「ふーん」
「いいなあ、猫飼いたいなあ」
「うん、飼いたいねえ…」

面白そうだったので、コレ今度貸してと言ったら「うん。読み終わったら貸してあげる」という返事。でもそのあと急いで鞄にしまっていたから、強引に持って行かれたら大変だと思ったのかもしれない。
   
そういえば妹はバナナブレッドを注文してたけれど、あれも大島弓子の『バナナブレッドのプディング』からの連想だったんだね、きっと。
   
      


2002年12月05日(木) 家事大嫌い。

風邪もほとんどよくなったし、お天気も良かったので布団を干して洗濯機も回す。

皺の気になるシャツはドライ用洗剤で別に洗う。
棚のほこりを払い、掃除機をかける。
干した布団を取り込んでさらに布団乾燥機をかける。
食事をしては後かたづけ。朝食べてお茶碗洗い、昼食べてお鍋洗い。
夕方、五日ぶりに買い物に出たら、外があまりにも暖かいので驚く。
夕飯の支度をして、お風呂に入る。

これらのことをちょっとやっては休み、やっては休みしていたら実に朝から晩まで(夜の十時過ぎまで)かかってしまった。
風邪の余波でぼちぼちやっていたということもあるけれど、普段からこうなのだ私は。何年やってもお掃除とお洗濯は好きになれない。嫌々やるからくたびれる。ひとつ仕事がすむたびに、大息ついてバタッと大の字になる。

短時間でいろいろなことをサササッとすませられたらいいんだけれど、一度も出来た試しがない。こんなこと書いてどうにかなるわけでもないけれど、家事、本当に大嫌い。
  
     


2002年12月03日(火) ビーフンとロートレック

きのう。
喉が痛い。微熱あり、だるい。

昼食に「台湾 汁ビーフン」を作ろうと布団から起き出したが、冷蔵庫にトマトがないことに気がついて呆然とする。この次「台湾 汁ビーフン」を作るときは袋の調理例の写真みたいに必ずトマトを入れようと決めていたのに…。ニラと挽肉はちゃんとあるのだ。なのに野菜室に首をつっこんでいくら探しても、トマトだけがない。

そういえば昨日の夕飯に湯むきした大きなトマトが出てきた。あれが最後の一個だったのに、そうとは知らずに食べてしまった。知っていたら食べずにとっておいたのに。ああ、もう駄目だ…。風邪で弱っているのか。急に気が抜けたようになって涙がぽたぽたとこぼれた。

私は味の素のアジアめんシリーズ「ベトナム フォー」と「台湾 汁ビーフン」が好きだ。よく鶏肉やチンゲン菜、セロリなどを入れて作る。フォーにはシャンツァイ(芹菜)、ビーフンにはウーシャン(五香粉)の小袋が入っていて、これをかけるとグッとそれらしい味になる。

結局ビーフンはトマト抜きで作った。もちろんトマトなしでもちゃんと食べられた。現金なもので、満腹になったらどうしてトマトごときで涙が出たのか、自分でもさっぱりわからなくなってしまった。
  
  
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今日。

今日も涙が出た。といっても、今回はビーフンではなくてロートレック。
BSハイビジョンスペシャルの『ロートレックからの招待状』という番組、とても面白かった。岡田真澄が、ロートレックの友で画商だったモーリス・ジョワイヤンに扮し案内役をつとめるというもの。

『ロートレックからの招待状』、再放送があったら観ると面白いです。きっと泣きます(ただ悲しいだけの涙ではなくて)
      
      


2002年12月01日(日) 珍品堂主人

朝、微熱がある。昨夜はノドが痛くてよく眠れなかった。
チャンス!とばかりに薬を飲んで布団の中で読書。おかげで井伏鱒二の『珍品堂主人』を一日で読むことが出来た。大満足。

珍品堂主人には小林秀雄(評論家)や青山二郎(装丁家)をモデルとする人物が登場する。(ちなみに主人公である珍品堂のモデルは骨董商の秦秀雄)。

珍品堂の友人で天才的な目利きの山路孝次という男のセリフ、『俺はもう碁は嫌いだよ。もう知らねえよ。しかしね、お前が本当に打とうと云うなら、賭碁で来い。賭碁でなら打ってやるよ。』というのを読んだら、あ、これジィちゃん(青山二郎)だ!とすぐにわかった。写真でしか知らない青山二郎の生の声を聞いたような気がしてうれしくなる。

昼から夕方にかけては調子が良いのだけれど、夜九時を過ぎると熱が出る。温泉のことや本の頁も更新したいのだけど、いつまでも寝ているわけにもいかないのでおとなしく布団にはいることにする。
  
  


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