Leonna's Anahori Journal
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2002年05月26日(日) 百箇日

母の百箇日供養と納骨の日。黒服を着て、朝から出かける。
電車に乗ると、法事か葬式か、喪服を着たひとがけっこう多い。今朝はなぜか夫婦二人連れというのが多くて、見るとどの夫婦も似た顔つきをしているのが面白い。

五十代くらいのある夫婦は、ふたりとも小柄で真っ黒な髪をしていた。短くて濃い眉毛も真っ黒。黒目がちの小さな目に、尖り気味の唇までそっくりだ。並んで腰掛けて、つまらなそうにむっつりしているところをみると、まるで兄妹のようにも見える。
…こんな光景を導入部として気の利いた短編小説でも書けたら面白いのだが、残園ながら私は“読み”専門なのだ。

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行きの電車の中では、吉田健一『本当のような話』を読んでいた。吉田健一を読んでいて助かるのは、いま此処にいる人間が過去のこと、過去の記憶とともにあってもそれが所謂“過去に生きる”ことにはならなくて、むしろそれ自体がいまを生きているということであり、そもそも人間とはそういうものなのだと明確に書いてくれていることである。

こういう時間と場所と人間(人間と過去、もしくは現在)というものの関係についての混乱、感情的な“迷い”がなくなると、とても楽になる。唐突に、あのコレット女史に「大人になりたい」と訴えたカポーティも吉田健一を読んだらよかったのに、と思った。

それで、集まった十人ばかりの近親者とお経を聴く間も、新しいお墓にお骨を納めるときも、めずらしく静かに、自分自身でいることが出来た。お骨が、お墓の下の磨かれた石の上に安置されたときには自然に涙が出て、それが当たり前のことで、泣いている自分がどう見えるかなどということを考える自分はどこにもいなかった。寂しさよりも、安堵感と感謝の気持ちの方が大きかった。

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納骨の後、レストランで会食。真夏のような暑さのせいかビールがやたら美味しい。それからキャンティワインが出て、これも喉に沁み入る旨さだった。

叔母のひとりが、旦那に先立たれてからみるみるきれいになった初老の女性の話をすると、教師をしている叔父が「夫に先立たれて美しくなるなどもってのほか。女性の幸せは夫に先立たれたら途端に元気を失い、三日ほどで衰弱してコロリと死ぬことである。そのためにも男は、女房を教養ある女性に教育しなければならない!」とぶって、大いに受けていた。


帰りに父のところへ寄ってお供え物を分けていたら、スルメがあった。どうしようかなと迷ったが、ベランダに吊したら近所中の猫が寄ってくるかもと思い、一枚もらってきた。が、まさか本当に猫にくれてやるわけにもいかない。そのうちに焙って、芥子マヨネーズをつけて食べようと思っている。



2002年05月25日(土) 吉田健一日和

「半袖って、きもちいいわね!」

そいう科白があった。たしか、大島弓子のマンガに。
この季節、今日のような天気の日には、いつもこの言葉を実感する。

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この間ジャーナルで、吉田健一の本が書店から消えてしまったと書いたばかりだというのに、今週は立て続けに二冊も、吉田本が手に入ってしまった。

一冊は『時間』(講談社学芸文庫)で、これは津田沼の丸善でみつけた。見つけた瞬間、奪い去るようにして小走りでレジへ行った。こういうことがあると、これからは本屋さんへ行くたびに松茸狩りのひとのような目つきになってしまいそうだ。

もう一冊は『本当のような話』で、これは海外に住む本好きの友人が「二冊持っているから」とわざわざ送ってくれたもの。この友人は吉田健一の熱烈なファンで、私が吉田本に興味を持ったのも彼女の影響によるところが大きい。

吉田健一の本を読むには、「いまなら読める」というきっかけとタイミングが必要であるように思う。このような友があることも、また、他人のすすめる本なんか読みたくないという意地も希薄になるほど歳をとることも、なかなか悪くないナと思うこの頃だ。

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あ、そうそう。書店といえば。
少し前に、新潮文庫の新刊として出た『百鬼園随筆』と『百鬼園随筆 続』。この二冊の表紙カバー画が面白い。百鬼園先生と菊の花。それから百鬼園先生、くるくる(目まい?)の図。
すごく味のあるヘタウマ系イラストで、内田百間の癇症ぽい感じが良く出ている。もしかしたら長岡毅(原田宗典の文庫カバーを描いていたひと)の絵じゃないかな。そう思ってカバー裏を確かめてみたら・・・何て書いてあったと思います?

 カバー装画・芥川龍之介

・・・・・!

龍之介と百間は同じ漱石門下で仲がよかった。百間には『湖南の扇』『亀鳴くや』など龍之介のことを書いた短編がいくつもある。ただし、最期の方はいつも睡眠薬を手放さず、むしろくるくるしていたのは芥川の方だったようだが…。しかし、そういう友の姿を見つめる百間のまなざしは決して冷たいものではなく、才能ある友の苦悩を淡々と写していたように思う。平台に積まれた新刊文庫のカバーを眺めながらそんなことを思い出していると、なんだかこみ上げてくるものがあった。

いずれにせよ、芥川の絵は傑作です。笑えます。今度本屋さんへ行ったとき、もし覚えていたら見てみると面白いです。










今年も朝顔の種をまきました。青い方は「富士の青」、赤い方は「平安の暁」という種類(名前)です。


2002年05月20日(月) テニスで筋をのばす

テニスで左腿のうしろの筋をのばしてしまった。体重をかけると痛い。
低いボールを拾おうと、腰をかがめて踏み込んだらズキーンときた。
走れないのでトコトコと早歩きでボールを追う。

痛みに耐えながらボールを打ち返しているとき、“選手生命の危機”“別メニューで練習”“登録抹消”等々の言葉が浮かんでくるのは、明らかにテレビの観すぎというものだろう。

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先週金曜日のオリジナルラヴのライヴ(アルバム『ムーンストーン』のツアー)、とても良かったです。

私は生で田島貴男を観るのは初めてだったのですが、粋でね、声も音もライヴアクトもまったく期待を裏切らないものでした。
そりゃ、エルヴィス・コステロもいいですけどね、日本にだって田島貴男がいるじゃあないか!って、そんなふうに思いました。

あと特筆すべきは田島の減量の成果でしょうね、やっぱり(笑)。一時期の30%減くらいにはなってましたよ。なんでもボクシングで絞ったのだとか。

以前からボクササイズには興味があったので、わー、私もやってみたい!とは思うけれど…いかんせん“別メニュー”の身では当分無理そうです。



2002年05月17日(金) まちがえちゃった

きのう。
夜、11時ごろまでサッカー日本代表選手(23人枠)の発表を待っていた。

おかしいな、おかしいな、発表17日のはずなんだけどなあ・・・

で、ふとした瞬間に気が付いたのよ。おかしいのは私だって。
きのうは16日。発表は17日、つまり今日だって。
ほんと、どうかしてるわ!私。


いま午後三時になるところだけど、協会からの発表はまだ。
残念だけど、テレビを消して出かけます。
今日はこれからシブヤAXでオリジナルラヴのライヴがあるのです。

(街では代表決定の号外が配られるんじゃないかしら。記念にほしいナ)

では行ってきます。




2002年05月14日(火) 筋肉痛、蔓延す。

九日ぶりの晴天。
当然、布団を干したいわけです。

ところが、エライことになりました。足ばかりか、腕も痛い。筋肉痛。
着替えのためにシャツの端を持って交差させた両腕をあげようとしたら、二の腕の内側に激痛が走った。昨日、久々にラケットを持ってフルスイングしたせいだろう。手のひら、親指の付け根のふくらんだところまでコリコリに凝っている。

きのうは腿の裏側だけだった足も、今日はもう、まんべんなく痛い。腿からふくらはぎ、お尻の上部までギチギチの筋肉痛。ジーパンから足を引き抜こうとしたら(かがんで片足立ち)、イッダ、イダダダァ〜と声が出た。階段は上りより、下りがつらい。


それでもね。今日も一件、履歴書出してきたんですよ。アタマはクルンクルン、筋肉ギシギシだったけどね。ムースでなんとか落ち着かせた髪の毛を、歩いているあいだに風がほぐそうとするので冷や冷やしちゃったわ(笑)

良い結果がでるといいなー。こういう場合はやっぱりアレかしら。バンテリン。
「きっと、ケッカでるよ!」、てか。










若布、油揚げ、ニンジンで炊き込みご飯を作りました。レトルトの具をつかうより安く美味しく出来ます。


2002年05月13日(月) テニスのレッスン再開

今日からまたテニスのレッスンが始まった。ラケットを握るのは実に一年半ぶり。

ぜんぜん打てなかったらどうしようと思っていたのだけど、コーチの球だしに対してはすぐに勘が戻った。それで、今度テニスをやるときには絶対試そうと思っていたこと〜オープンスタンスで前を向いたままフォアハンドストロークを打つ〜をやってみることにした。

少し前までフォアハンドの打ち方は、ラケットを引きながら身体をひねり、横向きから身体の回転を利用して振り抜きましょう、と教えるのが一般的だった。ところがプロテニス(特に男子)の世界では球速が速くなる一方で、いちいち横を向いてラケットを引いていたのでは間に合わなくなってしまい、オープンスタンスが一般的に。それでスクールでも、最初からオープンスタンスを教えるところが増えているらしい。

もちろん、私のレベルではラケットも引けないほどの剛速球を相手にすることなどほとんどないのだが、正面を向いたままラケットを振り抜いてボールが真っ直ぐ飛べば、ラケット面が正しくボールに当たり順回転がかかっていることの証拠になる。私はもっとも基本的なフォアのストロークに苦手意識があるので、どうしてもこのオープンスタンスを打てるようになりたかった。

それで、気分はアンドレ・アガシになってオープンスタンスで打ってみた。そしたら、…アリ? ちゃんと真っ直ぐ飛んでるじゃない??
どこいった、私の“横向いてひっぱたき打法”は。
なんか、休んでるあいだのイメージトレーニングで、打てるようになってたみたいです(笑)。休んでて打てるようになるのなら、次はもっと長く休んだろか…


逆にダメダメだったのは試合形式。同じクラスのオバサマが、負けじ魂で打ち込んでくる“掟破りの蠅叩きボレー”の前に、ことごとく失点を喫した。くやしいねー、すぐそこに落ちてくるボールが見えているのに、あと一歩が出ないのよ。実は、レッスンが始まったらすぐ足にくるのは目に見えていたので、ジムで軽くトレーニングはしていたのだけど。やっぱり、一朝一夕には、ね…

それで、いま、スンゴク腿のうしろとかふくらはぎとか痛いです。足、ヨレヨレになりました(涙)



2002年05月09日(木) たゆたえども沈まず

きのうの夜、カウンターが20000を超えました。
それで、記念の言葉をサイト名下に入れてみました。

 Flvctvat nec mergitvr.

フルクトゥアット・ネック・メルギトゥール、と読む。ラテン語だそうです。意味は“たゆたえども沈まず”。良い言葉でしょう?

実はこれ、十六世紀以来のパリ市の標語。雨や風でいかに水面が荒れても、揺さぶられるだけで決して船が沈むことはないという、セーヌの船乗りたちの心意気を表したものだそうです。そして、このサイトをあらわすのにピッタリの言葉でもありますよね?(笑)


ところで、今日も私はTRICERATOPSをかけているんですけれど、いみじくも和田唱が『2020』のなかでこう歌っています。

 ♪僕はまるで沈没しそうな船のよう
  でも君がいて ここまで来れた
  進まなきゃ意味がないのさ これより先へ

そうなんです。和田クンの言うとおりなんです。和田唱エライ(笑)
開設以来この小さな個人ページを訪れてくださった全ての方に、お礼を申し上げます。どうもありがとう。


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さて。ここからは、昨日書かなかったサッカー、レアル・マドリード対日本代表のことを。

ジダンもラウルもイエロもいなかったけれど、やはり相手が強いと締まりますね、試合の内容が。悪天候でコンディションは最悪だったけれど、日本代表は頑張ってたと思います。敵地(ヨーロッパ)で雨でやられっぱなしといえば、昨年の対フランス代表戦の悪い思い出があるから、あの二の舞だけはイヤだったんでしょう。
こういうタフな試合で力をみせた稲本、本領発揮してきたなという感じです。ヨカッタ!

この頃では自分の中に日本代表に対する信頼のようなものが出来てきていて、点数上の勝ち負けだけで一喜一憂ということは無くなった。
次のノルウェー戦が楽しみです。


2002年05月08日(水) ゴダール『愛の世紀』

ひきこもりたがる我が身を家から引き剥がすようにして、公開中のゴダールの新作『愛の世紀』を観に行った。

いやー、よかった!ゴダール。頑張って出かけた甲斐があったなー。
ゴダールというと難解というイメージがあって、だからチョット、というひともいるけれど。私の場合は逆だから。
私はワカラナイから、謎があるから、何遍も繰り返しゴダール作品を観る。『勝手にしやがれ』や『気狂いピエロ』なんてもう二十回くらい観てる。で、観るたびに発見があって飽きるということがない。

だから、ワカラナイ=嫌いということにはならない。ことゴダールに関しては。恋愛と一緒で、謎があるからこそその吸引力も増すというものなのです(笑)。

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『愛の世紀』はゴダールのなかの“大人の時代”への渇望が生んだ映画だ。
私はこの映画をみて、トルーマン・カポーティが生前コレットと交わした会話を思い出した。(その様子はカポーティの絶筆『叶えられた祈り』のなかに描かれている)

パリのアパルトマンにコレットを訪ねたカポーティは、ベッドに横になったままの憧れの“女王”にこう訴える。

「私は自分が何を望んでいるのかわからないんです。私は自分がどうなりたいかはわかっています。つまり大人になりたいんです」

あの、或る意味、非常に悪名高いカポーティがこのような言葉を吐くこと自体に震えるような感動を抱く私なのだが、答えるコレットの言葉もさすがに含蓄モノだ。

「そんなこと誰にも出来ないことよ。大人になるなんて。あなたが考えている大人になるっていうことは、知性だけのひからびた服を着た人間になるってことなの? 羨望とか悪意とか貪欲さとか罪とか、そうした欠点をみんななくしてしまうということ? そんなこと不可能よ…(後略)…」

このコレットの返答は長く、後半部分がまたスンバラシイので興味のある人はぜひ読んでみてほしいのだが、それはともかく、彼女の結論はこうだ。
私たちは勿論、時々は大人になることもあるし、数少ない高貴な瞬間も人生のあちこちに散らばっているだろう。しかし、そうした瞬間の中で一番重要なことは死である。死が私たちを最後にはただのモノ、純粋なモノにしてくれる…

コレットのこの深い洞察とウィットに富んだ言葉(このウィットの部分は全部読まないとわからないかもしれない)はカポーティを力づけただろう。(私だって救われる思いがした)けれど、カポーティは何とかして“大人”になろうという努力を続けた、と私は思う。だって、誰だって心の平和が欲しい。ましてやカポーティのような特異な才能に恵まれた人間がそれを欲しないはずがない。だからコレットの言葉を慰めとし、励みにしながら、カポーティは書くことを通して自分なりに“もっと大人に”なろうとしていたと思うのだ。

『愛の世紀』のゴダールは私の中で、このカポーティの姿とダブる。輝かしいものであるはずの新世紀(二十一世紀)に滅びの予感をしっかりと抱きながら、そして自らもいずれは死んでいく人間とわかっていながら、歴史と現実を真正面から見据え、“大人”であろうとするゴダールは泣きたくなるくらい若々しい。
これは、この世紀に大人であろうと真摯に望む者は、まるで子供のようなかたくなさと真っ直ぐな視線をこそ持たねばならないということ、なんだろうな、きっと…


あ、そうそう。この映画のパンフレットには映画の採録シナリオがついている。それからゴダールのインタヴューと矢作俊彦(トシちゃん!)のテキストまで載っているんだよ! チマリス、狂喜乱舞 in 日比谷、でした。

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帰り道、散歩がてら銀座まで歩いて、山野楽器で TRICERATOPSの『2020』を買う。

きのうの夕方ラジオをつけたらこの新曲がかかって、絶対買おうと決めていたのだ。まったく和田唱ってのはあの若さで、どうしてこんなに上等の sentimentを持っているんだろう。

家に帰ってエンドレスでかけて、サビの“2020年の夜明けに写る 僕らどんなだろう”というところで、今日みた映画を思い出して泣いた。いーじゃないか、ゴダールとトライセラが一緒くただって!(笑)


2002年05月07日(火) 決戦前夜

日本時間あす朝のレアル対日本の試合。
ジダンもラウールも出ないんですってサ。体調が不安なんですって…


んむむぅ・・・


な〜んだよな〜んだよぅと思っていたら、フィーゴは出るという情報が。
なんか、フィーゴじゃんけんで負けちゃったのかななんて思ったりもする。
さらに、西澤が腹痛を訴えているとの報道あり。
よ〜っぽど相性が悪いんだね、スペインと…。

さらに。そればかりか、さらに。
中村俊輔、ヒザの腫れがひかないため試合には出ないそうです。
午後のテレビニュースでそう言ってました。プスン!・・・


でも起きちゃうんだろうな、観ちゃうんだろうな、明日早朝の中継。
気分は、ぱふぱふ〜ッって感じなんですけどね。
というわけで、今日はめずらしく早寝です。
ボン・ニュイ、オヤスミナサイ…



2002年05月06日(月) 優勝はユヴェントス

『手練れのオヤジをなめてはいけない。
  いわんや、シメオネをや。 by レオナ』

というわけで、セリエA最終節、優勝に王手をかけたインテルを、ラツィオが阻〜〜〜止!
インテルはここぞというところでエリート集団の脆弱さを露呈し、終わってみればよもやの3位転落。優勝はユヴェントス、2位ローマということで今季セリエAは決着した。かわいそうなのはレコバにセードルフ、カロンといったところか。連覇を狙いながらすんでのところで逃したローマのカペッロ監督は、少しばっかり人相が悪くなっていたような…(笑)

それにしても、さすがユヴェントス。昨年のローマとは違い、優勝慣れしている。ファンの乱入、ユニフォーム強奪にも余裕の表情。スター選手も剥がされ脱がされながら笑顔を絶やさない。みんなパンツ一丁で嬉しそうに飛び跳ねていた。…アタシも嬉しいわ!



2002年05月03日(金) 吊り下げ式猫用給水器

きのうのジャーナルに『貧乏サヴァラン』のことを書いていて、面白いはなしを思い出した。
高橋睦郎『友達の作り方』の森茉莉の項によれば、その昔、高橋氏に気に入りの食パンを一山分けてあげたモリマリさん、翌日になって高橋氏に電話をかけてきて「昨日あげた食パン、帰って食べてみたらとびきり美味しかったので、貴方にあげたのが惜しくなっちゃった」というようなことを言ったらしい。そうして高橋氏がどう対応すべきか困っている間に電話は切れてしまったそうだ。

こういうのを読むと、さすが本家モリマリにはかなわん!と嘆息する。
贅沢貧乏を気取るのは簡単だけれど、この根性の入り方はさすがだ…

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ところで。今日は午後になって、小さなお客様があった。

わが家はマンションの一階なのだが、床面は地面(コンクリートの前庭)から1メートル50センチくらい高くなっている。昼過ぎ、ベランダに出て干した絨毯を叩いていたら、前庭の端をゆっくりと猫が横切っていくのが目に入った。あまり見たことのない白っぽい成猫で、ゆっくりというよりはヨタヨタと、腹をコンクリにすりつけるようにして進んでいく。急いで台所からカルカン(ドライフード)の箱をとってきて舌をチャッチャッチャッと鳴らし、「ニャーコ、ニャーコ」と呼んでみる。このカルカンの青箱は去年、近所を徘徊中のミーちゃんや横浜の父の家のそばにたむろしていた兄弟猫たちにやるつもりで買ったものだが、実際にはまだほんの一掴みほどしか使っていない。

私は手につかんだカルカンをパラパラッと落として白猫の気をひき、うちのベランダの真下まで引き寄せたところで、さらに撒いてやった(朝のチーズのときとは打って変わって気前良くやった)。そうしておいて、猫が食べている間に吊り下げ式の給水器を作る。これは、1.5メートル下にいる猫に飲み水をやるためのもので、お味噌の入っていたプラスチックのカップと針金とヒモで作った。カップに水を入れてスルスルと下へ下ろすと、しばらく遠巻きにしていたがやがてそばへやってきた。そうして、しばらく水のにおいを嗅いだりしていたのだが、とうとう一口も飲まずにお帰りあそばした。

白地にところどころ薄茶色のはいった猫は明らかに洋猫の血が混じっていて、眼はとてもきれいな水色をしていた。薄汚れて、野良猫ぶりもかなり板についていたけれど、こちらを見るときの眼を見ると、以前人間に飼われていたことは間違いなさそうだ。
マリーちゃんと勝手に命名して、吊り下げ式給水器はまたこの次のときのためにとっておくことにした。






これが吊り下げ式猫用給水器だ。これを下へおろして、ヒモをベランダの手摺に結んでおく。





2002年05月02日(木) 貧乏サヴァラン

やっぱり、アレなんだろうか今年は。厄年。

年初からあれこれ、あまり良くないことが続いてはいたけれど、ここ数日でやっと気が付いた。具体的なことは書かないけどね、いやぁ、ホ〜ントにろくなことがないねぇ、今年は…!

それで、ほとほと嫌になって布団を被ってふて寝してみたりもしたのだけれど(どうせ、連休)。今日はきちんと起きて、朝ご飯を食べて、スーツを着てよそ行きの顔をして出かけた。

面接だったのだ、実は。週に何日かだけでも外で働こうかな、と思って。でもこんなご時世で職を求める人は多いし、雇う側にしてみれば、若くて優秀なひとを採りたいでしょうしね。あまり期待は持たずにおこうと思っている。(どっちみち厄年)

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面接の帰り、日本橋のデパートの地下で紅茶とチーズを買って帰る。紅茶は普通のダージリンを買うつもりが、あれこれ見ているうちに、フォションの黒缶(プレステッジ)を買ってしまう。これは値段が普段の紅茶の倍以上した。私にとっては少し贅沢だけれど、ささやかな気晴らしということにする。

それから、サンタンドレという白カビのチーズ。このチーズは昔、一、二度母親に買って帰ったことがあった。ハイカラな食べ物には疎い母だったけれど、これはよほど気に入ったのか「そこらのケーキなんかよりよっぽど美味しい」と言って喜んでくれた。それで「その白いフワフワしたのは全部カビだよ」と教えるつもりが、言えなくなってしまったのだ。なにしろ、レアのステーキというものが信じられない(生焼けの肉なんて!)というような素朴かつ保守的なひとだったので…

家へ帰ってテレビのまえの卓袱台に向かい、紅茶を淹れて、小さく切ったチーズと苺を食べていたら『貧乏サヴァラン』を思い出した。森茉莉の『貧乏サヴァラン』。

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夜、日本代表対ホンジュラス。3−3の引き分けだった。
うまくいかないこともあったし、決定力不足は相変わらず否めないけれども、先行されながらしつこく追いついてドローに持ち込んだのはエライ。前半の不具合を後半修正して、最終的に負けなかったというのは“実力”と言えるのではないだろうか。




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