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Mi Pensamiento Diario

思いやりとか…

晩御飯を食べたあと、思わず寝ちゃった。別に疲れていたわけでもないのに。そういえば、今日から9月だったんだね。今まで気がつかなかった。ムースもいよいよ水曜日から学校が始まる。今学期はどうなるんだろう?出来れば朝早い授業は取りたくなかったけど、履修するものがなかったから仕方なしに朝8時からの授業をとったの。前学期何度か遅刻をしたし、今学期は遅刻をしないように気をつけないと。今月や来月はまだ暖かいからいいけど、11月ともなると朝晩は−10℃を下回るから。これが結構つらいの。車の窓ガラスは凍りついちゃってるから、スクレーパーで毎朝ガリガリと窓をこすらなきゃいけないし。たまにドアまで凍りついていて、全身の力をこめて開けないと開かないときもあるし。朝早い授業を取ると、この作業がもれなくついてくるから、なるべくとりたくなかったんだけど。しかも今学期から初めて毎日学校へ行くことになったの。月曜から金曜まで。今までは授業のある日とない日っていうのがあったから、どうにか宿題をこなすことが出来たけど。今学期は勉強の仕方を考えないといけない。1つの課題のみに1日を割くことが出来ないから。
今日は三浦綾子の「氷点」を読んだの。っていっても全部じゃなくって上巻のみ。気分的には下巻も読みたかったけど、明日読むものがなくなっちゃうから、今日は上巻だけでやめておいたの。三浦綾子を読むのは何年ぶりだろう?いつだか本棚から三浦綾子の作品だけを取り出したから、そのときに何作品か読み直したと思うけど。でも、エッセイばかりだった気がする。長編を読むのはもしかしたら「塩狩峠」以来かも。そうだったら10年ぶりだ。それにしても三浦綾子の作品はいい。ってムースは三浦綾子が好きだから何を読んでもいいって思うんだけど。そのうちに旭川にある三浦綾子の博物館?へ行こう。旭川の街はあまりよく知らないし、行ったら楽しめると思うから。汽車で行ってもいいし、車で行ってもいいし。北海道へここ8年行ってないから、そろそろ行きたくなっちゃった。札幌も駅が北にずれてからあまり行ってないし。小説の中にも出てたけど、札幌駅前の五番館だって今じゃ西武になってるし。ムースが子供のころ、っていうか高校生のころは五番館はただ五番館だったけど。「氷点」はまだ最後まで読み終わってないから感想は明日かな?ってまともな感想なんて1度も書いたことなかったかもしれないけど。
上巻の最後に洞爺丸台風のことが出てたの。実はこの洞爺丸台風の話を子供のころに聞いてたムースは、青函連絡船が時化の中を航行してるとき、いつも座礁、転覆しないことを願っていたんだ。まさか今日こんなところで自分を脅かしていた事故の話に巡りあうとは思わなかった。洞爺丸台風の話は母からよく聞いてたんだけど、1度港を出た船が戻ろうと思ったけど戻れず、転覆しちゃったって聞いてたの。だから時化のときはいつも船が戻りませんようにって思ってた。時化になるとジュースの缶なんかはスーッと滑って通路に落っこちちゃうの。映画の「タイタニック」の最後の方でテーブルの上にあった皿やナイフやフォークがバラバラと滑り落ちるシーンがあるけど、あんな感じで船が揺れるたびにすべてのものが気持ちいいくらいスーッと滑って落ちていくの。だから手で缶を抑えてなきゃいけないんだけどねぇ。ムースは船酔いしてるからそれどころじゃなかったけど。1番恐かったのは台風が北上している中、乗ったときかな。ムースの乗った次の便からは欠航になったけど。あのときはまだ小学生で、洞爺丸のようにならないで欲しいって思ってたから。洞爺丸と同じ函館発の船だったから。青森に着いたときはホッとしたもん。
三浦綾子の作品を読むといつも思いやりとかやさしさってことを考えちゃうの。実は前にエッセイで思いやりについて書こうと思ったんだけど、ちゃんと考えてなくって今だに書いてないままなんだ。そのうちに、ふと書きたくなることがあると思うから、そのときには思いやりについてのエッセイを書いてみようかな。でも思いやりややさしさって一体なんだろうね。よくその人の立場になって考えて見なさいっていうけど、これも実は紙一重でよくもなるし、悪くもなるから。ムースはいつも悪くしちゃってたけど。よくこの日記に書いてるけど、自分と他人を混同しちゃうの。これってその人の立場でものを見ているようで、いつも自分の視点で、自分のものさしを使って見ちゃうんだよね。さらに悪いことには、自分の考えを押し付けちゃったりすること。何度も何度も「こうやったらうまくいくよ」っていえば、それは考えの押し付け以外の何ものでもないからね。多分、聞いている方は自分を守るのに一生懸命になっちゃうと思う。思いやりってときに何もいわずに黙って見ていることも必要なのかなって思う。自分の意見では反対って思っても、当人がどうしてもやってみたいってことがあったら、好きにすればって突き放していうんじゃなくて、黙って見守ってあげることも必要かなと。もし、無謀だと思われることへの挑戦であったとしても、うまくいけばみんなで喜べばいいし、もし失敗して泣きついてきたとしても、それを受け入れてあげることも大切なことかなと。人は時に冒険をしたくなるからね。手堅いって思われてる人だって、冒険はしていると思う。ただ他の人以上に用意周到なだけで。それが故に手堅いって思われるだけで。だって誰にでも初めてってことはあるんだし、それはすべて冒険だから。人が何かに挑戦をしてるのに対して黙って見守ってあげるのは思いやりでもありやさしさでもあると思うけど、どう考えてもそれはいいことだと思わないってことに対して黙って見てたり、何もいわないのは思いやりでもないし、やさしさではないと思う。何だか矛盾をしたようなことを書いてるかもしれないけど、ムースの頭の中では矛盾ではないんだけど。これっていう具体例が思い浮かべはいいんだけど。
やさしさって何でもハイ、ハイいうのがやさしさのように思う人もいるかもしれないけど、これはその逆で出来ないことは出来ない、ダメなものはダメっていうのもやさしさじゃないのかな。ってこの間、こんなことを書いていた方がいたっけ。ムースもそう思うし、そうしてきてる。今は何でもハイ、ハイっていって甘い顔を見せて、何かあったときには知らんぷりって人が多いけどね。でも、普段甘い顔をしている人の方が受けはいいよね。そうじゃないといつも厳しいことばかりをいっているようだもんね。人はうれしいかったことや楽しかったことはすぐに忘れちゃうけど、イヤな思い出はいつもでも覚えてるからね。厳しいこといわれてイヤだなって思えば、心に残ることはイヤだってことだけ。もし少しでも振り返って、何で厳しいことをいわれたんだろうって考えてみれば見えてくることもあるんだけどね。それが反省でもあり、学習でもあると思うけど。誰だって厳しいことをいわれずに、いつもチヤホヤされたい。でも、いつもチヤホヤされてるだけでは、甘やかされ、骨抜きにされてるだけのような気がするけど。本当の意味でのやさしさや思いやりがわからないかも。そんなことを思っちゃった。
三浦綾子の小説はムースにいつもこういうことを考えさせてくれるから、だから好き。いつも読み終わったあとに思う。自分は一体何をしてきたか。人に優しく出来たのだろうか。思いやりを持って接してきただろうかって。

明日は「氷点」の後編。いよいよ陽子の出生の秘密が明かされる。


2002年09月01日(日)




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