ぼくたちは世界から忘れ去られているんだ

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2002年05月10日(金) ノンフィクションファンタジー
 鯉のぼりの中からもっと小さな鯉のぼりがどんどんと生まれ出でて、いつのまにか空は鯉のぼりで覆い尽くされていた。
 そもそも、わたしが仕舞い忘れたのが失敗だった。鯉のぼりだらけの空の下で、いったいどうやって生きてゆけと云うのだ。そんなわたしの心配も知らずに、ミチカがぐるぐると走り回りながら歌った。
「鯉のぼり、鯉のぼり、増えて不貞腐れ鯉のぼり」
 全くのでたらめな歌なんだけれど、旋律は割にしっかりしていて、わたしは少しだけ、感心して、また、ふと我にかえり、ミチカを抱きすくめるようにして、とめた。
「待ってよ」
 ミチカは相変わらず子役のようないやらしく計算したような微笑を浮かべて、鯉のぼりの歌を歌っている。ミチカはすぐ、向こう側に行ってしまいそうになる。向こう側、と言って判るだろうか?わたしにはよくわからないのだけれど、ミチカは
「あ、今、向こう側にいってた」
などと時折言い、わたしはなんとなく理解したような気になっている。
「待ってよ、ミチカ、向こうに言っちゃ駄目」
ミチカは笑っていたのだけれど、一瞬、ほんの一瞬だけ、正気の、あまりにきれいな、すうとした顔を浮かべて、水風船のように、弾けた。
 弾けたミチカの体からは血は流れなかった。鯉のぼりがどんどんと出てきて、その鯉のぼりの一匹一匹が、
「鯉のぼり、鯉のぼり、増えて不貞腐れ鯉のぼり」
と、いう歌を歌っている。わたしはなんだか気味が悪くなって、その場を立ち去った。ミチカが消えてしまうのは、そんなに珍しいことじゃない。二、三日たつと、妙なところから出てくる。この間は、カレーを作りながら、ふっと消えて、次の日のこりのカレーを温めていると、電子レンジの中から汗だくのミチカが出てきた。その空白の二、三日の間に、ミチカは「向こう側」に行くのだそうだ。
 一度、ミチカに向こう側とはどんな所なのか、訊ねたことがある。ミチカは淡々と、
「何も無い。でも何でもある」
と、述べた。なんだかよくわからなかったので、それ以来「向こう側」の話はミチカとはしない。



 次の日、ミチカは鯉のぼりを切り裂いて、帰ってきた。ハロー、といつものように言うと、向こう側に行くたびに綺麗になる顔を、わたしの顔にぐいと近づけて、わたしをしげしげと眺めると、じゃ、と言ってどこかに行ってしまった。


 もう会えないんじゃないか、という予感がわたしを包んだ。けれどわたしはその予感をかき消しながら、今日も生きている。


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