やさぐれ日記・跡地
アルティーナ



 否定する資格

何年ぶりか(ぉぃ)リアルタイム日記。
ぉぅぃぇーハイテンション!!(最初だけ



最近、昔読んだ小説などを読み返すことが多いのですが。

この文章良いなぁ、と思ったページには折り目をつけているシリーズ小説があって。

当時のように今も良いと思う折り目のページもあれば
以前ほどは重要だと思えない文章もあり、

又、折り目のついていないページから「これイイ」と思える文章が見つかったりします。
そういうことから自身の価値観の変動を認識したりしているのですが。


物凄く「コレは大事だ!」と再認識したことが2つあって、
おそらくずっとか、少なくとも今後暫くは影響を与えるだろうこと。

その1つをもとにして、ちょっと書いてみます。


ある日記の内容を引用しちゃうんですけど、まぁ許して下さい(ぉ




アメリカ産の牛肉、輸入再開されるようですね。

政治・経済・世界情勢ネタは個人的に思うところあって、日記では滅多に(つか語ったことあったっけ?くらいの勢いで)書かないのですが。


賛否両論あるでしょうが、その人の日記は輸入に対して否定的でした。
私もまぁ、「ホントに大丈夫ナノカヨ牛肉」と不安に思う部分があります。


その人は「面倒だから信頼できる和牛のみでいい」
「100%安全じゃないものにお金を払うなんて、キチガイ沙汰だ」
「稼いだ金で、毒物かもしれないものを買って食えと言うのか」

というようなことを書いていました。
そして、後の世代に危惧を抱いていました。


誰だって危険なものよりは安全なものが食べたいだろうし、そう願うのはおそらく当然なのだと思います。


ここで私が心に残っている文章を紹介しましょう。

『責難は成事にあらず』

どこに載ってるのか、結構バレそーですが(´−`)


全然頭に残っていない言葉だったのに(そりゃそーだねー、くらいの)、つい最近読んでハッとしました。
そうしてようやく、なるほどなと理解できたのだと思うのです。

人や物事を否定したり、責めたり、非難することは、何かを成すことではないという意味です。


平たく言うと「ダメって言うなら改善策を提示しろ」ってことなんですけど、プレスしすぎですねこれは。


話を戻しまして。
その人の日記には、否定的な言葉と今後への危惧、そして改善策?と思われる文章が綴られていました。

(先に断っておきますが、たかが日記であり単なる感情のぶちまけに過ぎないと言えばそれまでで。
常にいちいちこういうことを気にして他人の日記を読んだりしてるわけじゃありません)


先の言葉に則って考えるなら、
否定をしても今後を気にかけても、具体的にこうしなければという提示がなければ大して意味を成さないのです。

改善策?は現実的なものかどうかも気になります。


信頼できる和牛のみとは、どういう和牛なのでしょう。

どういう基準で信頼されるのか、アメリカとの関係性の中でどのように安全性を確立していくのか、答えられるだろうか。


100%安全なものとは一体何か。

信頼できる食べ物=100%安全では決してありえない。
そこに気づいているだろうか?

例えば全国で唯一無殺菌牛乳を販売している業者があるけれども、その業者が「信頼」を勝ち取るために何年の歳月をかけて「結果」でもって証明してきたか。

それもまたあくまで積み重ねであって、信頼を得て現在に至るまで品質を保っているに過ぎず、常に殺菌が混入する可能性と闘っている。

それは「信頼」できても、「100%」ではないということ。

「これまでの100%」は「これからも100%」ではないという現実の厳しさ。


それでも、100%安全でなければお金を払う価値はなく、払うのはキチガイなのだろうか。

何よりも、ハンバーガー等のファーストフード業界が今も勢力を伸ばしているという現実があって。
ファーストフードは100%体にイイと思って食べてる人が、それこそ一体何人いるのだろう?


おそらく決して体にイイわけではない、とわかっている。
野菜不足になってしまうことも、塩分過多になってしまうことも、きっと多くの人が知っている。


しかしそれでも必要とされている。
安いチェーンの牛丼屋さんが、焼肉屋さんが、マックもコンビニもケンタッキーも、その人その人の基準と判断で量りにかけられて、そうして選ばれている。


この現実をわかった上で、そう軽々と否定できちゃうのだろうか。
であれば随分と軽薄すぎやしないか?


信頼できる食材とはどんなものか、見分ける目と知識があって、それを誰かに教えられるほどの自信があるのだろうか。

減農薬の野菜とはどんなものか、無農薬野菜との違いはどんなもので、有機野菜はどんな作られ方をしているのか?
何が1番栄養があって、いつどの時期で、どういう調理法で?


養豚場で育てられる豚が生まれてから私たちの食卓に届くまでのプロセスを知り、その中にどんな問題があってどんな改善が必要で、またそのためにかかる時間や費用の目算がどれくらいで。


・・・そんなの、わかんないだろう。
その道のプロでもなくて、調べるには限界があって、実際に経験したわけでもなくて。


非難するのは誰にでも出来るけれど、非難する資格があるのは誰だろう。

食の安全性の現状と、これまでと、これからと、それら全てを的確にこと細かく知り、語り、導き、実行できる者にしか資格はないのじゃないだろうか?


アメリカ産の牛肉が安全だと言ってるマスコミに対してやはり非難をしていたけれども、確かにマスコミって無責任なところがあると思うし、そのくせ影響力が大きい。

けれど否定をするだけで現実的な具体策を何ら提示できない人は、マスコミと大差ないだろう。
全ては暴論であると思う。



これは何か違うと思う、
何となくしっくりこない、
不安を感じる、
違和感がある、

・・・そういうのは誰しも感じる。

感じるのは自由で、思うのも自由で、口にだすのもまた自由。


けれど非難し責めても方向を示せず「正す」ことが出来ない時点で、一体どれだけのものが変えられるだろう。

正解を知らないなら、間違っているかどうかもまた確実ではないということ。


こう書くと「綺麗事だ」と思われそうですが、
否定し非難しているだけの方が随分と綺麗事なのかも知れません。

そして、否定するというのは案外、随分と楽なことなのかも知れないなと思いました。



そんな感じ(、、

いや、決してその人の日記を全否定したいわけじゃないのですが。
小説に載ってた言葉をそのまま借りて考えると、こうなるなーって。


私が抱いたその日記への印象は、「相変わらず過激な書き方してるなぁ」くらいのもので。
受け入れられないものに対しては物凄く拒絶するその人の性格がよく出てるというか、うん、それもまたその人らしさなのです。

そもそも徒然に書き綴る日記だしー、とか。
でももうちょっとその過激さを緩めた方が、うまく生きていけそうなのになー、とか、そんなことばっかり。


だから別に文句言って叩きたかったわけじゃないんだ。
題材的に引用しやすかったからつい、ってのと、是非ともそういう「理」があるってことを知って欲しかったと言うか。

気分悪くなっちゃうだろーからゴメンナサイ。



ちなみに私も、『責難は成事にあらず』という言葉にとっても考え方を改めさせられたことがあります。

家族に関わることなのですけど、それはまた次の機会にッ。


この言葉を以前より深く理解できたことで、
今後ちょっとだけ賢く?生きてけそーな気がする。



p.s.
日記埋めますそのうち(先にしろ


2005年12月15日(木)
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