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みんみん



 隣る人

フォルツァ総曲輪で映画「隣る人」を観る。児童養護施設「光のこどもの家」を撮ったドキュメンタリー。
www.tonaru-hito.com/
ドキュメンタリー映画がいろいろ気になるも、ナレーションや音楽がバイアスになっていて、もうちょっと放っておいてくれ、という作品も少なくないと感じていた。しかし本作は字幕もキャプションすらも出ない。そもそも時間と空間を切り取った時点で何らかの物語は生まれてしまうが、極力そのバイアスを省こうと心を砕いてある(はじめとおわりの場面がフレーム的な儀式のような役割を持っているけれども)。
「資料に語らせる」ような研究、という話をしばしば仲間とする。そんなことを思い出す。しかしこれは観る人の力も問う。でもだからこそいい。対峙せざるを得ない。対峙を許される。

映画に寄せられた内田也哉子の言葉ではないが、私はKや女人にとって「隣る人」となりえているだろうか、と思った。
親は子供を思っているか? 私はそれを自明だとは思わない(いや、自明であってほしいし、本当は自明であるべきだとも言いたい。けれど、子供が親を思う気持に比べたら何であろうか、とも。KやL氏と接する中でそれを知った)。だから意図して心を用いるべきことがらが多々あると思うのだが、「母(とか親とか、とにかく血のつながり系)」という言葉は無根拠にもろもろを自明にしがちだ。
この映画は児童養護施設の話であってそうではないし、親子の話であってそれだけではない。人どうしの関わりにおいていろいろと敷衍されうるテーマだろう。素直な方にも、いろいろとこじらせている(きた)お方にも。

さて直前にフォルツァのHPをのぞくと、この映画を企画された稲塚由美子氏の舞台挨拶が急遽決定したとのこと。お話を伺ったら先入観が出来てしまうようで迷ったが(自分面倒くさいー)、そんなことはなく、むしろ伺うことができてよかった。稲塚さんがつまらない意味づけなどするようなお方ではないからこそ、この作品が成立している。むしろ観た人がこの作品を意味づけすることに大いなる意味がある。
稲塚さんのお話を伺っているあいだに、自分がどう感じたかということを伝えるのが観た者の礼儀であるようにふつふつと思えてきて、終演後許されるままにしばしフォルツァのロビーでお話しした。

(実はこのたびフォルツァっていい映画館(というか「場」)だ!と初めて素直に思った(失礼)。いや、わかるんだけど、最初は「え?」って思うこともあったので。ボランティアベースとはいえどうなん?というか。でもこなれてきたのでしょう。この秋は観たい作品も多々、ありがたいことです。)
http://www.tmo-toyama.com/forza-sogawa/index.html

家の中のこととしては、Kが叫び、女人が折り合いをつけてくれることに感謝した。必ず解はあるのだろうとも。そして家の外の人としての私には何が出来るかということを考えた。そのような希望を持ちました。

作品の性格上、DVD化する予定はなく、自主上映をベースに広げてゆくとのこと。また観たくなったら上映会をする、か。

(追記)
舞台である「光の子どもの家」、および職員の方々をどう捉えるか、という問題もあろう。絶対化/神聖化するつもりはない。職員の方々の個人的な生活や人生はどうなのか、とも思う(勝手な話だけど)。
でも、それでもこの映画が、私に、立ち止まる機会を与えてくれたことには間違いがない。

2012年10月29日(月)
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