我思うゆえに我あり

2003年01月18日(土) 「怒る」こと

人格っていうのは人それぞれで、
育ってきた環境や経験してきたことによって、形作られかたが違う。


人と出会って、その人を理解する過程において、色んなケースでとる相手の出方
、発言や態度からパーソナリティを読み取っている。


「この人って人の言うコト認めたがらないな」とか「この人って強く意見言う人
のいいなりだな」とか「この人面白いこと考えてるのに滅多に言い出さないな」
とか「この人いうこと聞くフリして意外とわがままだな」とか「口先ばっかし調
子いいこと言って意外とルーズだな」とか「この人は優しい人なのに入り込みに
くそうにわざとしてるな」とか「この人は一度決め付けたらなかなか意見変えれ
ない人だな」とか「この人細かいところに目が行き過ぎて全体見えてないな」と
か「この人みんなのためにとか言って結局自分の利益を中心に考えてるな」とか
「この人、人の面倒を見すぎて自分のことおろそかにしてるな」「この人曖昧な
情報を信じ込んじゃってあとで傷ついてるよな」って無意識に感じとっている。


* * * * *


結局、完全な人なんていない。
TAKUはそう思う。


ある人から見たらいい人でも、別の人が見たら大悪人だったり、使える人かと思
ってたら意外と使えない人だったり。それはその瞬間その人のある側面しか見て
いないのであって、その人の全てを捉えているわけではないんだろう。


もし一方的に責めることをするならば、それは、ある側面を見ている場合だと
思う。自分にとって都合がいいか?で考えたとき都合が悪い時「怒る」とか
「責める」という行動をとるとして、総括的に、俯瞰で見ることができている
とき、演技でもしない限り、「怒る」とか「責める」フェーズに感情をもって
いけないというのが頭の中。

俯瞰しても解決不能とわかったとき(普通ならもう一度主観に立ち戻って「怒る」
べき時)は、あっさりと身を引く決断をとってしまう。そこはちょっと残酷すぎ
るという自覚があって、最近では、警告を発したりしなきゃ相手に失礼だ、と
反省している(--;


子供のパーソナリティが発展途上なのはわかるとして、
じゃぁ、大人になった人は全員「完全体」になったのかというと、そうではな
くて、全員(とTAKUは思う)どこかしら必ず欠落している部分があるんじゃない
だろうか。これを読んでる方の中にも、きっと自分で「この部分が抜け落ちてる
なー」って自覚してる人も多いんじゃないかな(自虐的にならないでね)。

で、もしかすると自分は、

「厳しく律する、断る、罰する、怒る」
という部分が欠落してるんじゃないだろうか、と。
他人同様、自分を罰する行動がとれない。
だから自分の「インチキ」も許しちゃうんだろう、と。


自分をだまして相手を許しちゃう、かもしくはその害悪に同調して自分も共犯に
なってしまって「怒る」こと避ける。それか猛スピードで客観しちゃったりする。
主観的過ぎるのも人間ちいせえと思うけど、後先のことを考えて問題解決すれば
自分も含め全体が解決じゃん!って発想なんだけど(そこが癪に障る人もいるだろうな。)。

でも今では、気に入らないことがあったら、深く考えないで主観のまま「怒る」
ようにしてる。あとはどうにでもなれーーーい。って、放り投げる、責任もたな
いのって、意外と楽。あとで仲直りすればいいことだし(ここ大事)。

怒る時大事なのはそこに愛があるかってことなんだろうな。
愛のない「怒り」=「憎しみ」だとしたら。
俺はやっぱり、人を憎んで生きていたくはない。


* * * * *


ある人(エのつく人)曰く、
「偽善はまだいい。良くないのは偽悪だ」という考え方がある、と。
なるほど、と思ったことを思い出しつつ今日はここまで。


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