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読書日記。平田オリザ「演劇入門」 再び芝居その他の表現について。芸術の森。「レームブルック展」 - 2003年08月14日(木)

平田オリザ「演劇入門」講談社現代新書

今年の前半は自分としては思いのほか芝居を見た。
and「勝手に吠えろ」
シアター・ラグ・203「ディ・プッペン・シュピーレ」(歌で参加)
マルアール「ロンリー・ガール・フレンズ」
シアター・ラグ・203「ビーハイブ」
能「砧」「融」
イナダ組「ライナス」
千年王國「SL」

お能と千年王國以外は「お友達がでているから」
「お友達がつくっているから」という理由で出かけたものだ。

10年以上前に
ほんのちょっと芝居にかかわった経験から

(最後にかかわったのは
今のこの地の若い演劇ファンは
その名も知らないであろう
デパートメントシアター・アレフ(某教団とは一切関係なし)
で、バンドとして出演した
ビルの屋上での公演「OKUJO」)

芝居をやるおもしろさも
実行する難しさも、そのおそろしい労力も想像できる。
しかし、純粋な観客としては
この地方都市でみるアマチュアのお芝居の
終わった後の満足度は決して高くない。

演劇とはなにか。
本も映画も好きな自分に
その表現形式の独自性を
しっかりと見せてくれるような舞台を望みながら
たいていの場合その望みは果たされない。
(といって、東京に見にいくほどの通ではないし。
だったら、映画を見ているほうが安くてお気楽だ。)

古典の、淘汰された厳しい様式は観ているだけで
さまざまな意味を感じさせてくれるが
現代のオリジナルの戯曲は
まず個人の様式を模索することから
はじめなければならないから
完成度がくらべものにならないのは
仕方のないことかもしれない。

(近現代の)真に芸術的な表現とは
徹底的に個人的な問題を突きつめていくことで
すっと普遍的な場所にぬけるもの。
(たとえば漱石の作品にそれを感じる。)

かねがねそう考えていたわたしにとって
平田オリザの論考は
たいへんしっくりくるものだった。

演劇世界の「リアル」とは何か。
という問いの立て方。
(そのかげには世界にとって「リアル」とは何か、
という問いが常にある。)
それを検証するために
「ダメな戯曲とはどんなものか」を
具体的に切っていく過程は
そうとう気持ちがよい。

そこで出てくるのが
近代演劇の特質、
対話の本質、
日本語の特殊性の問題。
役者と演出家の、身体と言葉のコンテクストの摺り合せの必要性。
(以前に観た「MILK」という芝居に感じた苛立ちは
これの徹底的な欠如が原因だなぁ。)
そして現代日本人と日本社会の問題。
ここまで考えている人の芝居なら
ちょっと観てみたい気にもなる。

とくに前述の自分の考えに非常にフィットした部分が下記。

 逆説的に聞こえるかもしれないが、私は、
 芸術家がその見えている世界、
 感じ取っている世界のありようを
 力強く示せれば示せるほど、
 観客の側により強い主体性を生むことができると
 考えている。ただ、その場合には、
 芸術家の持つ強いコンテクストを
 批判的に受け止められるだけの能力、
 アートリテラシーが要求されるのだ。

 芸術は、他者の知覚を擬似体験することができる。
 優れた芸術作品は、創り手の知覚の束が具現化した形だと
 言ってもいい。その知覚の束に触れたとき、
 鑑賞者の側にも、当然コンテクストの組み替えが起こるだろう。
 「このような世界の見え方があったのか」
 「たしかに私は、このように世界を見た瞬間があった」
 という覚醒は、受け取り手の側の知覚を刺激し、
 新しい世界の見方の模索を促すからだ。

そうだ、そのとおり!! 拍手!!!
ヴィジョン。覚醒。
プロであろうとアマチュアであろうと
表現する限りはそこなんだよ。

最近、白洲正子の「西行」や「明恵上人」を読んだとき
わたしは時間を超えて、
白洲という人間と、西行や明恵という人間と
同時に対話をしている気分にさせられた。
(対話というよりは
教えを乞うているような気分に近いが)
不思議な「ヴィジョン」だった。
歴史というよりもっとこまやかな
時間と肉体と息づかいがそこに現前した。

ああいう体験を劇場でもしたいものだなあ。


芸術の森。「レームブルック展」

派手にテレビで宣伝していたし、
お盆に入ったこともあり、混んでいた。
ただ券で入ってよかった。
というのは
あんまりピンと来なかったから。
とくに
完成期の「形」が
すきではなかった。
「形」が息苦しくてね。
もっと柔らかくてもやっと広がるようなのがすきかも。

美術館はすいてるのがいいや。


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