Dance日記帳
モクジキノウヨクジツ


2007年03月08日(木) 柔和な受動態

ニュウワナジュドウタイ
まるでフランス語のような響き。

此処最近、いろんな方とお逢いする機会があったり、メールをいただくことが多かったりして(お返事してない方、ごめんなさい!ちゃんと読んでます!ご存知の通り、筆無精ならぬタイプ無精なもので…お許し下さいませ。)「ひとは様々だ」ということを再認識する日々。

人の話をきちんと聞く能力のある方や、人の言わんとしている事を受け入れる心のある方は本当に素敵だと思う。
素直さ、誠実さというものは、訓練して身につくものではなかろう。
私も、其れをひとつ欲しいと思うのだ。

今日はふたつの対照的な出来事があった。
ひとつは、或る方に「それは好くない」という主旨を角がたたぬよう、回りくどく促したにも拘わらず、全く耳に届かず、再三の懇願のうえにも理解されぬという地獄をみた。最後のほうには、ほぼダイレクトに「そういう話はもう止めにしましょう。」とまで言葉に出したのだが、その方には一切通じなかった。日本語がわからない方なのだろうかと不安に思うほど。メガホンでも用意しておけば良かったのかも知れぬ。非常に疲れた。周囲は十分私の悪戦苦闘に気付いたうえで「よく頑張ったね」と同情さえしてくれた程だ。(此処でまた「私のこと?」と誤解があってはならぬので、もう少し詳細に話をすれば、或る方はその隣にいる方に対する失言をしていたのだが、本人は全く気付かず、事情のわかる私がその方と隣の方の両方ともを気遣ったうえで話題の変更を誘っていたわけです。)

もうひとつは、「私の言葉足らずだ。誤解されて不愉快に思われるかもしれない。」と不安に思っていたやりとりで、その方は驚くほど私の言葉を前向きに捉えてくださっていた。
いつもは慎重派で、私が「大丈夫だよ!」と言ったとしても何度も「本当に?」と聞き返すような方だというのに。私の不足した言葉をもとに「あなたの言葉に支えられて、今日一日を頑張ることができた。ありがとう。」と言ってきてくださった。同じ言葉を受け取った人の多くは、悪い方向に捉えられても仕方がない状況だというのに。

同じ人間の発する「言葉」だというのに、受け取る側の姿勢ひとつで私は悪人にも善人にも変容するのだ。真意はたったひとつだというのに。不条理だ。

そこでふと思った。

同じ「言葉」を受け取るのならば後者に成りたいと。
どうせ「誤解」するのならば、一層のこと、うんと自分に都合良く、好いほうに捉えるのが仕合わせだ。

そして、ひとつめの出来事では「空気を読もう」とか「ニュアンスを受け取ろう」とかの曖昧な物事で悩むのではなく、其処に発される言葉をきちんと聞く姿勢を大切にしようと思った。
聞こえない言葉や見えない文字を探るのではない。実際には一番簡単かつ単純でありながら、つい流してしまいがちな重要な事柄だ。
ひとの発する言葉に無意味はないと思うべきだろう。

さて、ちょっと話はずれてしまうが、もうひとつ。

夜自宅に戻ると留守番電話が入っていた。
「昨日電話した山田です。チャッピーのことですが、土日でお願いします。」

どこの山田なのか、何のチャッピーなのか。土日はどうするのだか?
確かにウチの留守番電話は初期設定のままの機械音での「タダイマルスニシテオリマス」というやつだから、間違えることもあるだろう。
しかし、何故、ひとつ「○×さんのお宅ですか?」とか「念のため、私の番号は…」くらい入れておいてくれないのだろうか。
内容を察するに、ペットの美容院か病院かホテルか?という感じではある。
せめて相手方のお店の名前か、かけてきた方の連絡先さえわかれば「間違って入っていましたよ」と伝えられるのに…。
たぶん山田さんは、今度の土日にどこかのお店にチャッピーを連れて行き「予約の電話したじゃないですか!」「いや、そんな連絡受けてない!」という水掛け論を繰り広げることだろう。
其れを想像すると、少し心が痛むのだ。

明日こそは柔和に受け入れ体制を整えておきたい。


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