FROM PEARL

2005年01月12日(水) 昔の思い出

 遅ればせながら、明けましておめでとうございます。
今年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。

 お正月の話になりますが、私の子供の頃は、お正月は年に一度のお小遣い稼ぎの大イベントでした。忙しい父が家に居て過ごすので嬉しい事で、反面母はお正月の準備や大掃除に明け暮れ、新年は来客のもてなしなどにおおわらわ。とにもかくにも賑やかに過ごしていた記憶があります。

 毎年朝は家族で元旦を祝い、午後には祖父の元へ新年の挨拶。
2日は、父の勤め先の若手社員さんが毎年ご家族、友人を伴って訪れてくださり、その数10数人で、その日は我が家はマンパイ、遅くまで飲めや歌えの新春の会でした。
3日、4日と父の仕事関係の方がいらしたり、こちらから出向いたり、
とにかくどこかしらで新年会が繰り広げられていたことを思い出します。
 私と弟は、そういった仕事関係の方からいただけるお年玉のスケールの大きさに、親戚に行くより期待を膨らませていたものです。
母にしてみれば、宴会の食事から、お年賀の用意など、それこそ死ぬ思いの忙しさだったのでしょう。
 お年賀の量も半端じゃない。年末連れ立って銀座へ出かけ、虎屋の最中を買いに行くのですが、その時には荷物を持って帰らないのでどうしてなんだろう?と思っていると、数日して大きなダンボール箱が3つくらい届き、その中に何十袋の最中の箱がぎっしり詰まっている。
自分の分も無いのかな?なんて期待しても、実際おこぼれが回ってくるのは5日も過ぎたころ。賞味期限いっぱいのところでないともらえない。
紅白の「御代の春」という可愛い桜形の最中なんですが、ピンクの中に黄色い餡がたまらなく美味しくて、弟と取り合いになることも。
 おせち料理もその頃から、母は普通のおせちじゃ、お客様が飽きるといって、ローストビーフや中華料理など今だったら定番のような料理も当時はまだまだ邪道とも言われていたレシピを沢山作って、どのお客様がいらしてもそのお客様用に新しいお重に盛り付けてもてなしていたんですよね・・・・
学生になってからは、ひたすら洗い場、宴席のお酌のお手伝いをしていましたが、洗っても洗ってもお皿にまみれる、という感じでした。
お酒も酒屋さんのラックみたいなものが2,3個ベランダにおいてあり、
「里佳〜、ビール」と叫ばれると、ビールを、「日本酒」と呼ばれれば日本酒の一升瓶を運びいれなくてはいけませんでした。
銀行へ新券に取り替えてもらった現金を、両親が相談しながら何十もの袋に詰めていたのも思い出されます。後から聞いた話ですが、お年玉用が何十万だったとか・・・・・今でもそのようなご家庭は沢山あるのでしょうが、今の私の生活では本当にお正月は迎えられないといったくらい物入りだったようです。

 自分が大人になり、親になって、来客や訪問などのイベントをする生活ではない状況を考えると、今更ながらに両親の大変さを実感するのです。
もともと営業職ではない私ですから訪問来客も無いのが当たり前なのですが。

 今年は、私にとっては、さらに簡略なお正月。
おせち料理を用意しない簡単な元旦でした。
1日からあいている大手スーパーがあるのに、おせち料理は無用と唱える旦那様なのです。
 考えてみれば昔の風習をすべて当てはめることも無いのですよね。
とはいっても、なんとなく自分の両親のしてきたことが頭から離れなくて、
こんな手を抜いたお正月って良いのだろうか、と思った2005年の幕開けでした。
せめて、お雑煮は作ろうと、お餅に鶏肉、野菜、京にんじんを用意し、詰めただけのかまぼこと伊達巻、黒豆のお重。
今までの鶏はどこそこのじゃないと駄目、と言っていた自分が、スーパーの鶏はいける!と思えるようになったし、京にんじんだけは譲らなかったけど、かまぼこも伊達巻も築地の行き当たりばったりの河岸で買ったもので済ませたし、こだわらないで用意できたのは初めてかもしれません。
それで十分だと、旦那様はいたって満足そう。不思議な人だ。


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