梅雨の合間が恋しいくて空を見上げる。
常に移り変わっていて、常に同じな空がある。
そういう自然がわれわれを取り囲んでいる。
けれども、少し目を下げれば必ずわれわれと空との間に、ビルや電線や街灯が入り込んでいる。
なんという電磁気学の成果であろうか。いや、今や電磁気学だけでこの近代化、現代化を捉えることは出来なくなってきている。
企業のマーケティングによって計画され、建築技術によって製造されるようになった物たちがわれわれを取り囲んでいるのだ。
それらの全てを内在的に知っているものなどいるのだろうか。フッサールが生活世界を、われわれ自身の「生」を取り戻そうとしたのは、全くもってピンと外れなのだ。われわれの生活世界を豊かにしているのだから。あるいは、それが合理性によって取り戻せるというプラトン的「空」への信仰もまた同じである。空とわれわれの間には、ビルも電線も街灯も入り込んでいるのだから。
もう、われわれの食事は、宗教的信仰に直接結びつきはしない。
もう、われわれの排泄は、日常的嫌悪を直接結びつきはしない。
出産、排泄、摂食、病死までもが、われわれにとって直接性を失ってしまったのだ。生活世界の直接性を失ってしまったのだ。
コペルニクス転換、それに対するパスカルの憂慮は、われわれのプラントン的「空」の危機でしかなかったのだ。
機器によってその危機が毀棄された訳ではない。その毀棄は機器には利きめがなかっただけなのだ。
それらの機器にわれわれの根本的な変革を感じてしまう。
機器の社会化による内在的な知識の、身体的な知識の、直接的な知識の喪失に恐怖しながらも、この社会を生きている。
ここに真理への道がある