あの人の左側頭に、刃渡り17cmのナイフを刺して飛び出してきてしまった左眼が、中秋を過ぎて枯れてきた草むらの上に転がっていった。
瞳の周りにまとわりついたヌルヌルがオクラのヌルヌルのようで、ちょっと美味しそうだったから、右手の親指と人差し指で、イヤ〜っぽくつまんで、ヒョイっと食べてみた。昨日一緒に食べた手作りの杏仁豆腐と木苺のような感じがして、悪くは無い味だったけれど、どうも舌の上にこびり付く体液が、もう大嫌いになってきていたあの人の体液を想像させて、後味は悪かった。
1回刺しただけで、「信じられない」とう表情でこちらをギョロリと眺めていたけれど、枯れ草の上に倒れこんでやっと現実が認識できたのか、憎しみのように両頬を上げて眉毛を顰(ひそ)めたけれど、片方しか二重の瞳が無かったから対したことなかった。その後、修羅となって戦場を駆け回った武士のように死ぬ間際まで行動が出来なくて、ただ現実を認識するだけで精一杯だったよう。全く、その現実を認識した後に価値付けをしないと行動できないのは男らしくなくて嫌いだったし、一旦付けた価値付けは神様への信仰のように変わらなかったから、私は散々苦労したし、散々言葉で言ってきたし、散々行動でも示してきたのに、あなたは結局価値付けによって縛られて死んでしまったわね。
身長が私と同じ160�造靴�なかったからかもしれないね。だっていつも私と歩き時は5�属未△觚�底靴を履いていたから、大っ嫌い。
寝る前や起きてからやたら感謝の言葉を前向きな思考にこだわっていたからかもしれないね。だっていつも私の言葉は感謝の対象にならなかったから、大っ嫌い。
大人の渋さとか言って道にゴミ捨てしたり煙草を吸ったり必要ない車を買ったりしていたからかもしれないね。だっていつも裏返しにある不安を私にぶつけてばっかりだったのに、それが大人の関係だなんて勝手に世間様を私とあなたの関係の中に入れ込んできたのだから、大っ嫌い。
昔一緒に見た映画の中で、ナイフを抜くと血が飛び出るってシーンがあって「あはは、あんなことあるの〜?」と聞いたら「あるんだよ、人の血はな〜落ちないんだぞ。犯罪者はそれで苦労するんだ」って言ってたから、最後に1つくらいあなたの言葉を大切にすることにするね。あなたの言葉はいつも大切にしていた気もするけれど、でも、やっぱりそうじゃなかったのかもしれないなって、ビクビク痙攣(けいれん)を始めたあなたの体を見ていると思うの。オレンジの山用のフリースは確か6万もしたし、汚れてもいいように買った濃い色のチノパンは2万もしたのに、赤い血がナイフの口から間欠泉のように噴出してはあなたの高かった服に奇麗な朱色をつけていくわ。
「おんなは靴と服の病気だから1万以上のものは買うな」なんて言うから、「そうかな」って思っていたのに、いい気味。あなたの言葉に従ったら私は何倍も我慢してきたというのに・・・だから突然悲しくなってきてしまった。4時を回ってもう暗くなりだしている山のハイキングコースから200mも離れた紅葉の中で、もうすっかり淋しくなってきてしまった。あなたが居なくなってしまったからかな、あんなに嫌がっていたのに。夜に入るからかな、山の夜はとてつもなく寒いって言うし。年齢が30歳を超えてからかな、ホルモンバランスが変わるって言うし。
ヘナヘナと座り込んで、コリー犬のハッチが老衰で死んだ時よりもひっそりと泣きだしたけれど、直ぐにぴったり、涙が止まってしまった。ああ、これからどうしようって。大変な事をしてしまったわ、人を殺してしまった。法律的には重罪だし、唯一の身内の年老いた母親に迷惑をかけてしまうかもしれない。会社は何とか通えるだろうか、ああ、大変なことをしてしまった。こんな日本のような国で母親や私は疑われただけで酷(ひど)い目に合わされるんじゃないだろうか。あの人から受けた精神的苦痛よりももっと辛くて苦しい社会的制裁なんて生易しい言葉で表現できないほどの苦しみを。ああ、大変な事をしてしまった。
でも、黙っていれば平気よね。人類は色んな人類を殺してやっと生き残ったんだし、今の日本人もいろんな人を殺して生き残ってきた子孫だわ。戦争っていったって、殺人っていったって、同種を殺す事には変わりないし、食べていくためには、生き残っていくためにはしょうがないことだし、そうだ、正当防衛は仕えないかした。今は精神状態が可笑しいですって言えば情状酌量とかありそうだし、法律もそういえばいい加減ね。私の中ではどうなのかしら。大体ばれるのって本人が良心の呵責(かしゃく)からだわ。変な行動をしてみたりとか、そんなので。ああ、刑事の自白は怖いな〜。日本は自白は強力な証拠になるし。私結婚したり安定した生活を手に入れたり子供が出来たりしたら、ほっとして良心の呵責が出てくるのかしら。ああ、でも今って犯罪で捕まらない人って多くなったそうだわ。この心のもう無くなってしまった肉の塊はどうしましょ。そうよ、彼は天国に行ったんだわ。これで良かったのよ、彼は充分生きて満足だったわ、そんな風に私が私自身を洗脳すればいいのよ。仏教も浄土、キリスト教もイスラム教も天国みたいな素晴らしい所があるし、そんな所に行ったって思う人々ばっかりだったんだわ。だから天国とか浄土が出来たのか〜。1つ利口になったかもしれない。でも、肉の塊では社会的に利巧にならないといけないな。ああ、待って、私が人を殺したのも阿弥陀様や神様のご指示って考え方もあったわね。全ての事が阿弥陀仏、神様によって決定されているってそんな考えの人が多かったはず。「悪魔が乗り移った〜私は悪くない」って考えても良いんだった。それとも周りの人たちみたいに、「自分のために、自分の気持ちよさのために」でもいいわ。自分勝手な自分にあわせてくれる相手を永遠に探さなきゃならない恋愛ジャンキーとか車とか金とか名誉とか自分をかっこよく見せてくれて得ばっかり考えている金の亡者とか、あれは嫌だこれは嫌だって文句ばっかりでなーんにもしない弱々しい人々とかそんな風に考えれば、「私が気持ち悪かったから殺したの」って思い込んでも良いわね。あ、でもこの考え方だと次にむかついたらまた殺さなきゃいけないかな、ばれちゃうから止めておこうかな、この考え方。
そういえば、仏教の本質って「正しい生活を送る」って言ってた人がいたな。高校時代にあった変な人だったけれど、よく覚えている。そういえば私は今まで犯罪歴が無いから指紋も取られていないし、家出とか近所とのトラブルもないから、疑われる率は低い気がする。仕事もきちんとそれなりに、それと適当にやっているから普通の平々凡々だし、見つかりにくいだろうな〜。このそろそろ死体もそうだと良いんだけど。
「正しい生活を送る」が本質なんてちゃんちゃら可笑しいわね。「正しい」なんて直ぐに変わるじゃない。精神的負担を感じて社会生活を営めなくなる行為を「正しくない」としているだけじゃないの。むかついたら殺しちゃうとかさ。「欲望を抑えましょう」ってのも面白いけれど、やっぱりそれって普通のことじゃないのかな。だっていろんな人と助け合ってしかいけないんだもん。自分1人で子供のようにわがままじゃ駄目ってだけでしょう。「正しい」って何かって考えたら、周りに迷惑かけない、で終わりじゃない。山にこもって無害に生きていくって事でも良いし、社会の弱者を救済するのでもいいし、方向性を提示してもいいんじゃない。でも、それってどれも「正しい」ようで「正しい」とは思えなくもある。そんな曖昧なもので良いのかしら。まあ、曖昧だったから今でもしぶとく生き残っているのかもしれないな。仏教の名の下に何百万人も殺してきただろうしこれからも殺されていくんだろうな。でも、それで天国にいけるよ、あなたには責任ないよ、って言い切れるんだし、「正しい」んだし。それで良いんだろうね。
そんな風に思っていたら、大分暗くなったので、死体は置いて帰ることにした。お腹が減ってきたから。興奮するとお腹は減る。あの人は最初の1年は興奮させてくれたけれど、その後ずーっとあの人だけが興奮していたっけ。私の体の一部が気に入っていたみたい。でも、それは年取ればぺちゃんこになるものなのよ、何だか悲しい人だったなぁ。人を物の部分でしか見れない人で、私よりも先に物になっちゃったんだもん。
テクテクと降りていって、砂利道まで戻ってきた。15分もあるいたので少し首下に汗をかいて、ひんやりとした静かな車中にバタンと入った。暖房をつけている間に、もう私の感情をひっかきまわさなくなった物体についてはどうでも良くなってきた。
それより私だわ。
これからどうしよう。もうあの人に文句を言うだけで私があるっておもえなくなっちゃったのだから。仏教の「正しい」に文句を言って私が「正しい」みたいに言えなくなっちゃったように。そういえば、仏教の開祖ブッダって自分で本を書いていなくて、全部お弟子さんの聞いた言葉なんですってね。それって私のようにただ「正しい」を追い求めて、ぐちゃぐちゃ文句を言っているだけみたい。「私は正しい、正しい」っていうだけだから、後から一杯仏教の経典って出来るんでしょうね。どっちにしろ私は弱い狭い立場だわ。さて、どんな風にしようかな。
それより私だわ。
私って無いんじゃないのかしら。批判するだけで本当の私だけのオリジナルってないんじゃないのかしら。あの「仏教って正しい生活だよ」って言った人もただの引用だし。その人がその人だけで決めたことってないんじゃないのかしら。あったとしてもただの思い込みだったり決めつけだったし、そんなものでしかないんじゃないのかなあ。仏陀さんですらビンドゥー教から引用しまくりだし、キリストさんもユダヤ教徒として死んでいるし、そんな人たちの考え方も結局は社会の中の中で取捨選択されていくのだし、認められるかどうかは決まるのだし。
私以外をこんな風に批判してみても私は、全く私ってないなあ。寄りかかるむかつく、苦しめられた人がなくなってよっかかれなくなっちゃった。もともと無かったけれど、はっきりしちゃったわね。
私って不自由ね。私って自分に由来しているものって何もないんだろうね。むかつく人を殺して、普通の人が一生しないような目玉を食べてみても、死体をどうやって隠そうとか思い悩んでみても、私って不自由なのね。あの人が居なくなれば私は私らしく、私は自由になるって思っていたのに。全く違っていたわ。もう、車の中が暖かくなってきたからセールも入れてギリギリ9千円だったフリースを脱いで、車のキーをまわして発車させましょう。
神様や天国や浄土やそんなものを想像しても、結局心の慰めにしかならなかったわ。私は私らしくなんてなれなかった。この世界の中で人間の血がしみこんでいない土地なんてないし、また少しだけ流れただけのことになっちゃったわ。私なんて本当にあるのかしら。不自由である事だけは確かなこと、それと肉体があるってのも。でも、それって死体になってしまったあの人とどこが違うのかしらね。
あの人も不自由じゃない。あの人の方が、体を物質的に自由に動かせないだけくらいだもの。
取り合えず、社会的自由とか言われている生存権だけは確保しないと、って思っただけで、もうその頃には電灯が全然ない市道に車は入っていった。
明日は、朝から会議だったわね。
ああ、あのはげ課長、ズラ、ずれてるよって誰か指摘してやれよ。
ねちねちした口調がいやだなぁ。新人のぴちぴちした細い子は可愛いのになあ。将来あの腹とズラになったりしてー。
あーもう、早く寝よう、それくらいしか出来ないわ。
帰るのに1時間半、寝る準備で40分かなぁ、30分に頑張れ私!