ものかき部

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「 私の両手 」
2006年09月17日(日)




 大量に消費されていく。
文字、写真、音声、映像、数々のコンテンツの生命は極端に短くなった。流動するスピードが加速し過ぎて、シャットダウンしたり極端に入り口を狭くしたりした。

 はたと気がつけば、大量に時間が消費されてきた。
楽しませるゲーム、服装、髪飾り、おしゃべり、ペット、数々の時間浪費アイテムが巷(ちまた)にあふれかえっている。何にもなりはしない。何も価値を生み出さない、と思うようにして避けてきた。

 仕事も誰かが取って代われる仕事だ、文章も読まれないで消えていくだろう、退屈も私でなくてもいいのだし、歓喜すら社会の中の他人から与えられるようになってしまった。奇麗に美しく簡単にやり易く感じよく操作性もよく去勢もされ流行に一喜一憂して、そんな風にパッケージングされて、そのパッケージングされたものしか、もうこの体は受け付けなくなってしまった。
 添加物を取ると体に悪いと言うのに、無性に欲しくなる。
 浪費しているだけと言うのに、無性にしたくなって押さえがきかない。
 怠惰であるだけなのに、無性にそれが悔しくなって、けれども自分の中の道徳を捨てられなんかない。
 世知、仁義、教養、人気、金銭、異性、商品、本、そんなものが増えたけれど、結局は消費されて消えていくだけのものだ。

 この両手を見てみろ。私の手じゃないか。誰に取って替えられない手じゃないか。
 この両手を見てみろ。こんなに分厚くなって私の塊のような手じゃないか。この手に消費されない何かをつかませてあげたっていいじゃないか。

 そんなものがあるのだろうか。
 消費されない何かなどこの手に掴(つ)めるのだろうか。
 文化の薫(かお)り高い欧州に行けば、思想の誇り高いインドに行けば、掴めると錯角すら出来ないで居るのに、周りは消費されるだけのものたちだけなのに、何かをつかめるのだろうか。
 友情、親友、両親、兄弟、いづれがそうではないと言えるのだ。人間関係があるから私が私としてありえるのだろうか。天皇制という日本を代表する世界観の中に埋没すれば、どんな分野でも権力構造の頂点に立てば、そんなかけがえのないものを掴めるのだろうか。
 
 年を取り1つ1つ積み重ねて上に上がれば上がるほど、色んなものを獲得すれば獲得するほど、吟味できる能力がつけばつくほど、絶望は心の中にナイフを突きつける。
 30代後半から40代まで、体力の衰えと共に亡くなって行った数々の天才たちがいた。けれども、その死すら私のこの手に握らせる事が出来るのだろうか。誰にだって訪れる体力の低下と、それによる精神的な更年期障害なのだから。
 肉体の変化すら、この手に確たる消費されない私自身の証として与える事は出来ないのだ。
 全ての現象事象に答えが無いというのなら、観念や信念の中にあるのだろうか。
 それすら、過去の偉人たちのモザイクになり、新しいモザイクと判定するのは知的エリートであり、存続させるのは民衆と言う無関心集団なのだ。話題性や知名度や権威権力の高さがそのキーワードであることは疑いようもない。
 知的エリートに良いよ、と言われて喜ぶ感情で穢(けが)された観念でこの手は満足するのだろうか。誰のものでもない私の両手が。
 
 小指から指を徐々に合わせていって親指で最後になった。
 合掌(がっしょう)のポーズとなった。

 閉じた私の手。
 爪の汚い短い私の両手。
 老いていくかは判らないけれど、必ず朽ち果てる汚くて短い爪のちょこんとついた私の両手。


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