「あおぬま ひろこさ〜ん」という感情の無い女性の声が、眠気を振り払った。
ザワザワとした人ごみの静けさと暖房のぬくもりが、北陸の駅の待合に似て、ゆったりとしていた。
耳の後から目が追いついてきて、ゆっくりと左右に首を振ると、右隅にある何とも座りにくい真四角でベージュの銀行ソファーから、すらっとした両足と小ぶりな紺の制服が立ち上がった。
あせって小またになるわけでもなく、女性特有の苛立(いらだ)ちが足に現れるでもなく、丁度、素敵な速さで小尻をゆらした。
生まれ育った豪雪地帯で、雪は人の心を見透(みす)かすように焦(あせ)っている人間を、コッン、と転がせる。
18で、憬(あこが)れた有名大学に出てきてから、私は「暗い」と言われるようになった。
決して小尻では無いけれど、ゆったりとした故郷の女性の動作は、雪と溶け合ったように私たちの小さい村を、穏やかにそして暖かく包み込んでくれていたのだから。
視界がはっきりして来る前に、小尻は同じベージュ色の背もたれのある銀行チェアに隠れてしまった。
鼻の斜め左下に垂れ下がるラインが見えてくると、肩下セミロングのストレートでヘタ紫なすのように彼女の髪の黒光りがはっきりしてきた。制服は今時珍しく上下で、紺色のベストに白いシャツを着ていた。
5�辰藁イ譴討い襪里鉾狃�の声が聞こえてくる。
「…ですね。そういうことなら、この口座では無理ということなんですね。なぜ…」
ピントがぼけてしまって相手の顔はよく分からないが、彼女の唇が上下に動くのと同時に、教科書を読んだ時のようなはっきりとした東京弁と、それでいておでんの源助大根のような微(かす)かな甘い声が聞こえてくる。
小津さんの「戸田家の兄弟」の主人公のような静かな怒りが発せられた。
こういう時はあぶない。とてもあぶない。母や姉を見てきているから分かっている。いつもは仲がいいのに隣近所とぶつかるのは、いつもこんな声だった。結果はといえば、父と私がご近所に謝りにいく。いや、「相手の気持ちを聞きにいくんだ」と父は帰り道に言っていた。私はいつも父のその一言を聞くためについていくのだった。その後、2,3日もしない内にいつものような母とおばさんたちは井戸端会議をするのだ。
彼女が、サッ! と立ち上がった。
くるりと銀行員に小尻を向けて一瞬立ち止まったように見えた。明らかにさっきとは違う苛立ちで足を速めていた。
私も、サッ! と立ち上がり、6年間培(つちか)ってきた社会技術で歩調を大きくして小走りを大またにした。
銀行を出て3�辰盥圓�ない間に「あの…」と声を掛けていた。
彼女は凄い形相で睨(にら)み返してきた。フワッとまいた髪から、ぬか漬けの匂いがした。
その匂いで私は謝りに行く時の作った笑顔が自然とほころんだ。
彼女も私の顔を見て、先ほどの銀行員ではない、と解ったのだろう、「あれ?!」と小声で発した。
「あ、ごめんなさい」と少し顔を赤らめて下げた後、ちらっと私の顔を覗(のぞ)きみた。
「あの〜良かったら、ちょっと座りませんか? あ、でも寒いからそこのドトールでも」
私は、「ちょっと…」から何だか東京もんのナンパみたいだなぁ、と思った。そして生まれて初めてのナンパにも驚いた。
「…ぇ…ええ…」
それから私たちは、何回かお茶をしてから食事に行った。2ヶ月も経った新入社員の季節に、彼女の家に行くことになったのだった。
私は何だか、「有名大学出身、一流企業、エリートコースの人間」として半分、「優しくて暖かく、そして弱さをもった人間」として半分、受け入れられているんじゃないか、という気持ちになった。両方とも私の一部ではあるが私ではなかった。彼らは所詮、守護天使のように後天的に周りの人が望んだ私でしかなったのだ。
そんな風にわだかまっている私が、彼女の部屋に入っていいものか、と迷って立派なマンションの廊下でコツコツと足を行ったり来たりさせていた。そんな私に気がついたのか、彼女が、カチャリと優しくドアを開けて、「入りなよ」と声を掛けてくれた。
部屋は1DKで、清潔にしてあった。ベージュが基調の壁紙に濃茶のタンスや勉強机が良く似合っていた。同色のコタツのカバーが壁紙と中間の彩度や明度だったので、木のかごに入った蜜柑が美しかった。柔らかい日差しの方を見ると、靴下の中にオレンジとファッションピンクが脇腹に縦に入った紺色が揺れていた。「これは?」と窓を開けて手に取ると、緑茶を入れてくれていた彼女が、パタパタと寄って来て、「…ェっと〜、毎週スイミングをしてるんだ。」と水着の方へ視線を投げかけていた。私が水着を離し窓を閉めると2人の距離は、蜜柑10個分も無くなっていた。彼女はそのことにハッとして、より体を丸めた後に、両手で私の体と両腕を包むように回してきた。サラサラの頭を臍(へそ)の上辺りにくっつけてきて、おでこや鼻の膏(あぶら)を灰色のせーターにこすりつけるような仕草をした。
何秒か、何十秒かの後で、「ピーッーーーー!」と、けたたましく、やかんが2人を裂いてしまった。
パタパタとスリッパを鳴らしながら、小尻がキッチンの方へ走っていった。10畳はある縦長の部屋の南東にベランダ有り、そこから見て左手の壁沿いにベット、先にはタンスと姿見が、右手から順にTV、コタツ、鏡台、と台所へ続くドアが開けっ放しになっている。あの時とは丁度逆の鼻のラインと唇が紫なすに見え隠れしていた。
ポフッ、っと私はベットにへたり込んだ。
あの時と逆のように視界がぼけだして、耳も感度を下げていった。それに連れて心は饒舌(じょうぜつ)になってきた。
「ぬか漬けはつけているの?」というアルタ近くの地下のレストランで、コースを頼んだ後に何気なく始まった会話だった。
「え? …なんで知ってるの?」と2回目の取り乱しを彼女はした。
「最初に会った時に髪から香ったんだ。」
「そっかーじゃー言われたことないけど匂うのかもね…」
「ううん、そんなことないよ。あれは小さい頃から食べてないと気がつかない匂いなんだよね。だから平気さ。」
「…そか。そっかー。そうだよね。月島さんも小さい頃から食べてたんだね(笑)」
「そうだよ。田舎はどこなの?」
「えーっと、山形。山形の米沢よ。」
「そっか・・・」
「ね、今度私の家に来ない? 東京で食べてくれる人いなくて美味しいかどうか判らなくて」
そんな会話で、家に行くことになったのだった。
その日から彼女は、取り乱した後に見せる安心感を電話でもメールでも表に出すようになった。まるでご近所と喧嘩した後の母親の顔のような。
彼女とこのまま続いていけば、取り乱しは日々日常になって、何がしかの夫婦の絆(きずな)みたいなものを見つけていくのだろう。そして、「山形」と聞いた時、「食べに来ない?」と聞いた時に感じた殺意をスパイスにしていくのだろう。
私は一時期、人間の心というのが感じられなくなった時期があった。こんな話をした2人の友人は、「トラウマか?」と聞いてきたがそんなものは一切なかった。立派で正義感の強く酒に弱くてすぐに寝てしまう父親に、わがままで可愛らしいしっかりした母親や、すっかり大人しくなったのだというちょっと遠くに住むじいちゃんに、丸めがねのよく似合うばーちゃんはじーちゃんに惚れている。家族が本当に仲が良いと知ったのは、高校時代で、本当に嬉しかった。だからより一層勉強に打ち込めるようになったのだ。好きだった野球も止めて半年がたった2年の始め頃だった。私は一時期、人間の心というのが感じられなくなったのだった。
その時に逆に色々と感情に邪魔されずに考えられた。「感情はどこからくるんだろう」「人と出会わないようにするには」「人を殺してしまったら」「良心って何だろう」などと。
執筆者:藤崎 道雪 (校正H16.1.7)