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「 こいすの聖母 」 (5)
2002年11月18日(月)



 
 「ああ、そうか」
 ロープ際まで来た時に誰かが音を出した。
 私が出したようだ。
 「ああ、そうか」
 続けて出したのも、私自身のようだ。
 何がそうなのだろうか。絵に集中出来ていないでいる。
 都会の雑踏に阻まれて地下水に潜れずに、「椅子の聖母」を見てしまっている。
 先のようにしてみても、いかに力を抜こうとしても、主体的ではなく見てしまっている。何かに邪魔されて、地下水にまで降りて見ようと出来ていない。見ているのに見てしまっている。完全な客体でもなく主体でもなく、客体の主体でもなく、理知的に統御できていない主体の客体とでも言うべき誰かが、ロゴスを出していた。
 絵画の前にあった白い撚れて太いロープは視界から消え、黄金の無粋な枠も消そうとして必死に見ようとした。何かがゆらゆらと浮かび上がってきた。オレンジ色で桃色の何かが。

 「ああ、そうか」
 今度は私がその音を出した。
 これは、いや彼女は、いや聖母は、別れた女性に似ているのだ。いきさつが多かった中で子供産んで、途端に、可憐さと儚さと引き換えにしたあの目になった女性だ。卵形の顔に福与かな長髪、小さな唇、同身長で私より長かった手。長いこと忘れていた1つ1つを、直観に照らし合わせるように眺め出した。

 「そうか、そうか。」
 1つだけ異なるとすれば引き締まった鼻だけで、全く彼女に似ていた。高知の馬路村出身なので、一時、名産品の「ユズ」というあだ名をつけられていた彼女だった。上半身に対して下半身が豊かで、すらりと背の高いのにも関わらず、可憐さと天真さが同居していて、30幾許かを超えていたけれど強烈に惹かれていった彼女。仕事の乗ってきていた時期に出会い、足しになっていたというのに、子供を産んでから足枷になった思い出も浮かび上がってきた。

 「ああ、そうか」
 聖母の持っている賢さと情愛の深さは、足枷として発揮されたのだな、と理知的な私が続けてその音を出した。今になって、仕事の切り離れた老人になって、老害で理性的な知識など砕け散ってきたヨボヨボになって、やっと今、彼女の足枷が解った。遠視した絵画のように合理性を超えた何かを、老人ホームでの意識の混濁が理性や重々しい知識をぶち壊して、やっと性の持つ性へと、素直に触れられるようになったのだった。
私は、ヨハネだった。
 聖母と聖子の右横にあって、2人に全く顧みられないヨハネ。ラファエルロの聖母子の中で2人が抱き合い頬を寄せているのは「テムピの聖母」と「椅子の聖母」しかなく、そして最も接触している「椅子の聖母」。そして2人とも視線を合わせないという絶対的な情愛で結ばれている唯一の1枚は、ユズと息子の象徴だったのだ。どのように足掻いても踠いても、最もシンプルな正三角形の内部には到達出来なかった。私がどのように愛情を注ぎ込んでだとしても、子供の前に崩れ去ったという敗北感は、三角形の一点でしかないという屈辱感は、身を任せる気持ちを失せさせていったのだった。聖ヨハネは、聖子がロゴスであったと、本性上神ではなかったが神によって神的な地位に高められたのだと、明瞭に語った。赤子をそのように解釈しようとして、けれどそうした理知的な三角形は、垂直線に後から合わせた正三角形でしかなかったのだ。
 私の体は、小刻みに震え出した。
 また、精神的な主体が、物理的な客体に影響を与えようとしているのか、いや、その2区分が、理知的な2区分が崩れ出そうとする予兆の予震なのかもしれない。
 
 「椅子の聖母」に心底で惹かれていたのは、私がヨハネでしかなかった哀愁と、その三角形を縮めてぶち壊そうとした過去の思い出を、象徴していたからだったのだ。黄色の三角形をずらして、イエスの位置を聖母から永遠に引き離そうとした。けれど、ずらせたのは服装に過ぎず、黄金の三角形よりも4色配色のテトラードの方が強くて、聖母子は情愛を保ったままだった。パウロのようにマリアの後を受け継いで、死後何十年後に、宗教を創立することも出来なかったのだ。過度の期待と服飾しか接点がない副役に結果的に甘んじるしかなかったヨハネが、この私だったのだ。「椅子の聖母」はありありと見せ付けている。
 この私は、天使の輪だけで聖母とつながれ、三角形で情愛の垂直線を支えるしかなかった。そして突っ走り、薄暗い排ガスの被ったような老人ホームに辿りついて、止まった。それが解ると、ゆっくりと意識の外延は立ち枯れてきて、肩が数センチ落ちた気がした。

 頬に生暖かい流れを感じた。脳の髄液と胸の地下水が混ざり、溢れ出したかのように止めどもなく流れ出した。先ほどまで、原因がわからずに絵に集中出来ていないでいたけれど、流れ出した地下水が都会の喧騒を押し流し、裸の私やっと地下水脈へと戻ってこられた。ロープの前にいる女性が一旦は驚き、そして「分るわよ。」という微笑を意識して出した。漁婦を思い出したが、それも体液が押し流し、視界には狭まりだしTVのノイズのような影が左右から差してきた。

 「ああ、そうか」
 また、誰かがその音を出した。
 もう、その形は知っている。
 視界が暗くなり、供犠としての小刻みが揺れる中で、音だけの世界が広がってきた。
 廊下に垂れる涙滴だろうか、それも肉体が、精神的な興奮を、刺激を、欲求を、欲望を染み渡らせ、絶対的な暴力に変化させてしまったのだろうか。震えながら徐々に暮れていく世界の中で最後の感覚が消えていき、流れていきだす。

 雨水が樋に跳ねる音が聞こえる。



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