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「 こいすの聖母 」 (4)
2002年11月17日(日)




 ささっと食事を済まし、財布とハンケチだけを持って、さっさと、美術館へと歩き出そうとした。不思議と鼓動や緊張はなかった。絵画には何かがあるのだ、というえも言われぬ漠然感が肉体を磁力で引き寄せようとしていた。自発的に向かってきた勢いが、絵画からの引力にはっきり換わったのが、朝起きてからだった。肉体はもう、精神的な興奮を、刺激を、欲求を、欲望を染み渡らせ、絶対的な暴力に変化させてしまったのを悟った。この老体が過去、青年として瑞々しさを振り撒いていた事など誰が信じようか。肉体の絶対的な暴力は、成長させそして奪っていく。最後の最後には全てを奪っていく。その高みに異常な精神的興奮は浸透していったのだった。この引力は、永久磁石が一生涯磁力を失わないように、肉体が滅び去るまで作用しつづけるだろう。けだし、精神的な防壁を解いた就寝前や運動の後、風呂上がりには必ず浮かび上がってくるだろう。
 フィレンツェに連れてきた精神的な欲求が矮小に縮んでいったけれど、空いた心に何も入れずに部屋の鍵を掛けた。一歩一歩進む足は、動く歩道の上のように無駄も疲れも無く、地図を暗記しているピッティ宮殿に向かっていく。神の命令、預言、使命、天命という肉体の絶対的な暴力を象徴するかのような言葉が、消えては浮かんできた。確かに行かなければならない、という暴力に、何故、どうして、如何に、利害、五徳、十過などは叩き壊され霧散していく。それは絶対的な暴力を何とか現世に留めようという形骸にしか過ぎないのだから。外気の寒さに反応してか、暴力の喜びに反応してか、ほんのりと蒸気が世界に満ちていき自己の拡大が感じられるようになった。円形に放射していく蒸気の外延が「椅子の聖母」のある場所まで辿りつくと、道を曲がり左右に体を向けても常にその地点の方向と距離が意識の上でザワザワと波立っていた。
 もはや、そこには精神や理性という脆弱な形は入り込む余地がなくなっていた。判断せざる悟性のような形だけが、道路や建物の認識し、入館料の支払いを僅かに司った。

 見えていけ、見えていく、見えてきた。

 飾られている場所は既に頭に入っていたせいだろう、殆ど無意識のように引き寄せられていった。他の絵画は壁紙によって色彩が強調されるか、弱められるかしているのに、ヘクサードを使った「椅子の聖母」は、壁紙や内装に強弱をつけられることなく完全に独立して、絵画の歴史や経緯、そして画法や構図などを遥かにして1つの高貴さを際立たせていた。理性的な思考で理解し味わう歴史、画法、構図などは認識して始めて優美さや感銘を与えるが、ぼんやりと海月のようにふわふわと寄せては還す波の上にあって、牽っ張られたのは、色彩の艶やかさであった。
 遠くから眺めると、聖母の肌と聖子イエスの四肢はターバンの明るく白と同化しているように見え、椅子の装飾棒とヨハネの暗めの肌、ターバンの文様と上に巻かれた天使の輪が黄色に見えている。文様の黄色系である茶色が、ターバンの白さと同化現象を起こして明度を上げ、遠視には黄色に見えるのだ。ターバンの文様と天使の輪を頂点に、椅子の装飾棒と、ヨハネの肌と同じくその上にかかる天使の輪が左上がりの正三角形作り出し、聖母子の右下への斜辺を暖かく支えるように挟み込んでいる。ターバンから底辺へと下る垂直線が聖母の体の中心線と重なっているように観えた。また、中心線だけを観れば聖母の肉体は、聖子を受け止めている右下へ傾いた凹みのようにも観え、首と足の側辺の中心に聖母子の腕が平行に並んでいるように観える。何重にもなってイエスは聖母の手よってしっかりと受け止められながら、色彩では服の黄色によって正三角形に包摂されている。さらに、黄色の服は垂直に下っても聖母の下半身である瑠璃色の左右どちらにずれることなく中心に腰を据えている。  
 ラファエルロはルネッサンスを体現したその人であり、弟子たちに作品を任せるようになって低下したギリギリの時代に作成されたとされ、それゆえ、直前に作成された「椅子の聖母」は、芸術の最高潮と言われている。色彩の観点から見られてきた、いや、構図や画法など合理的に分析されてきた芸術の最高潮という評価は、文章化されてきていなかったけれど浮遊する遠視によって現れてきた黄色の三角形や垂直線をも含んでいたのだろう。ルネッサンスらしいヒューマニズムの最高度を持つとされる作品は、世紀を超えて地域を超えて、言語を超えて、聖母が人間らしい母の情愛と感じられる。ただ、聖母もまた、構図や画法や体のバランスを考えて合理性や理性や神の似像を意識した姿勢ではない。現実の女性はそのような知性から最も縁遠くあったとしても、その到達点は普遍性を有し、時空を超えて情愛を感じさせている。それは知性の対象である両目や構図などを一足短に飛び越えてきたのだろう。だから、聖母に現実的な深い母の情愛を、時間空間を超えて感じてきたのだろう。

 その両目や頬の接触だけではなく遠視して初めて、聖母子の深い情愛が広がって飛び出していた髄液が今やっと、頭部へ戻ってきた気がした。海月のように浮遊する意識が黄色の配色によって、やっと、上陸してきたようだ。私は数秒だろうか、佇んだ。
 3ヶ月間もの間、私を惹きつけてやまなかったのは、無意識にあったその三角形だったのだろうか。今朝から磁力を生じさせ、トランス状態に入り込ませたのは、色彩の正三角形と垂直線、凹みと平行線だったのだろうか。だからこそ、私は遠くから「椅子の聖母」を眺めているのだろうか。心の底はこれで全て消え去ってしまったのだろうか。1つのミッションは終了だったのだろうか。
 自分自身の心を聞くために、呼吸を整え、体を垂直にして力を抜き、十数年ぶりに目を閉じて胸の奥に裸で入っていった。

 「いや、・・そうだ、・・けれど、・・・」と無駄な知性の世界のざわめきが聞こえてきたが、都会の雑踏が無音になっていくように、遠のいていった。都市の暗澹とした地下道へ潜っていくと、水が溢れ出し耳に栓をして顔面に冷たい流動性を撫で付けてきた。底に何も動きがなければ地下水が静穏だったのだが、末那識のように降り積もったシースノーが微音を立てながら音波を発していた。海底から聞こえるスクリュー音のように、「ゴォーォーン・・・・ゴォーォーン・・・・」と定期的に重低音で身体を貝が閉じるように回折してきた。
 何であるかは分からなかった。色彩が惹きつけて来た1つであったのも確かな理由だった。美術史家達の知識や構図の解析、歴史的経緯や影響関係も少々惹きつけられてきた。けれど、それ以上に私を魅了してきた何かが、あったのだ。
あと数歩、あの先に。
 そして、最も遠い一歩も要らない胸の心底に。
 体に力を入れて「椅子の聖母」に近づけば、はっきりする何か、何ものかがある。
 老いて足腰も不十分になった私を、狂わせた何かがあるのだ。

 地下水から浮上し頭上へと舞い上がった。
 目をゆっくりと開き、体に力を戻した。腰が尻の力で重心を数ミリ上げ、上半身も肩甲骨を閉めた。視界が広がり黄金で出来た不恰好に大きい額と、後ろに広がる薄い真赭色の壁紙に腰から下の水色だった。
 私は数歩すすんだ。


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