教えることの限界、それは、教える>教えられるということです。 教えられる側がえるものは、教えたことをこえることがないのです。 そういう風に考えていくと、人類の知的財産は消費されるばかりで、先細りの未来があるばかりです。
しかし、教える、に対立する存在として、「教えられる」ではなく「学ぶ」があれば、教える<学ぶという関係も大いに成り立つと思います。
私は生徒が学べる授業をしているかなあ? ということを昨年度の反省としてずっと持っていました。
かっちりと学習課題を決めて、手順を踏んで、すっきりまとまる授業、そういうのはうまくできるようになりました。
でも、そういう授業は生徒にとっては教えられてはいるけど、面白がって、もっとやりたい!知りたい!みたいな感じにはなっていないんじゃないかなあ、と。
そんなわけで、今年度の私の目標は「意味のないことに意味を見出す」と決めてやってみています。
「授業一時間の中で身につける力」なんて、ねらいません。 50分なんて小さな単位ではわからないことをやりたい。 そのときちょっと心に残っていて、10年後にふっと思い出してわかるようなこともあるかもしれない。
「追求の活動」なんて最小限です。 「生徒の興味関心」にすりよったりもしません。自分の好きな小さな世界の話よりも、自分がまだ知らないすごい世界がものすごくあるんだ、という発見のほうがスペクタクル。
具体的にどうするかというと、まず、私が話しをする。 とくに道徳的でも、教訓的でも、教育的でもない話。 どんな本を読んだ、とか、どんなことがあった、とか。
それについて考えを述べさせたりもしません。
ただ、体を向けて話を聞かせる。 そして,一人一人私の話について心の中ではいろんなことを考えます。
これは手抜きっぽいんですが,実は自分への挑戦でもあるんです。 しーんとさせて,自分が話をする一人語りってにがてなんです。
聞くことを強いるからには、興味深い話にしたい、と思うし、プリント用意して授業組み立てたほうが教科書進めるし。
でも、私も生徒もけっこう楽しい実感はあります。 この前意外と好評だったのは「教師をバカにすべし」の話と、旧約聖書のアダムとイブの話。
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