| 2004年02月02日(月) |
村上春樹 柴田元幸『翻訳夜話2 サリンジャー戦記』 |
『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の訳者あとがき豪華版です。 私が一番興味があったのは、結局サリンジャーはどんなメッセージをもって『キャッチャー』を書いたのか、ということと、『キャッチャー』の一般的な読まれ方ってどんなだろう?っていうことでした。
でも、この両人の対談を読んでいて、もっと印象的だったのは、アメリカの社会論みたいなことでした。 当時のアメリカだったからこそ『キャッチャー』だった、というような読み方が面白かったし、合点ときました。
「以前アメリカのテレビ・ドキュメンタリー番組で、森の中にこもって生きているヴェトナム帰還兵たちを取材したものを見たことがあるんですが、そういう人たちで、森にこもって一人で生きている人ってずいぶん多いんですね、アメリカ全土で。要するに、社会と訣別して、森に入っちゃうしかないわけです。町や村の一角でこそっと静かに生きていくことができないんです。
つまり、ひきこもるという行為は、自己実現というアメリカ的義務を怠っているということになっちゃうんでしょうね。
そう思います。アメリカの場合は、まず、自分が自分であるアイデンティティみたいなものをつくって、それが他の人とどう違うかということを言語的に、ロジカルに証明しなくてはならない。
言語化できないとだめなんですね。
ええ。アメリカの場合まず、そういう個人的マニフェストみたいなものが提示されなくちゃならないということです。でも、ヨーロッパには世間からはずれたもの、はみ出したものをけっこう東洋ほどではないにしろ融通無碍に呑み込んでいく部分がある。そういう個人的マニフェスト作りみたいなものを真剣にやりだすと、人は痛切に孤独になっていかざるを得ないのかなあ、という感じはしますね。だから文学も出るとしても、ギャッツビーの孤独さとか、ホールデンの孤独さみたいなのは、ヨーロッパではちょっと見られないことなんじゃないかなと。」
サリンジャーは第二次世界大戦に出征した経験から心に深い傷を負いました。 帰還後の第一作がこの『キャッチャー』であり、この作品後、彼は外界とまったく隔絶した自分だけの地を手にいれ、そこにこもってしまっている、ということを分析した上の会話です。
“自己実現というアメリカ的義務”、現代の日本にも感じることありませんか? よく耳にする、「自分らしさ」とか、「オンリーワン」などという言葉は耳あたりがいいようで、でも、“確実に人とは違う何か”を求める厳しさをはらんでいます。 誰しも「自分らしさ」を追い求めるほど、直面するのは自己の凡庸さなのではないでしょうか。
それでも、「そんなはずはない、かならず私らしい、オンリーワンといえる何かがあるはずだ」と自分をせめたてることと、「あなたも私も同じ、ちっぽけな一人の人間だよ」と認めること、どちらが幸せなんでしょうね。
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