「私にとって、持って生まれたものは今更変えようがないが、所有物なら、いくらでも努力によって改善できる。持って生まれた歯がダメになったら、プラスティックの歯に代えて、本当の歯より、もっと立派に見せかければいいのです。 私の人生観は、かくて、プラスティックの歯を容認します。それはつまらぬ「死んだ物質」にすぎないが、(中略)人間は生まれたときから、あるかどうかわからぬ「私」というものを、ただ無限に、周囲の「死んだ物質」の中へ放射してゆこうとする、ラジウムみたいな存在なのでしょう。」
愛読書、『不道徳教育講座』より。
こういうことを実感したいつかの夜の出来事。 男女何人かで飲んでいて、宴もたけなわ、ほろ酔い気分の私でした。 私が「酔いをさましに、ちょっと散歩に出てくる」と言って一人出て行こうとすると、みんなは帰るつもりだと思ったらしく、 「帰っちゃダメだよ」 「絶対戻ってきてよ」と口々にいい、一人が 「じゃあ、この時計を貸すから15分で戻ってくるように」と私にロレックスの腕時計をつけました。 「大丈夫だよ。絶対戻ってくるよ」 と言って、ふらりと店を出た私。 右腕にいつもはない重みが。
私は人生で一番高価なものを身に着けているかもしれないなあ。
と思い、まじまじとロレックスを見てみました。 ふーむ、これが世に名高いロレックスかあ。 とは思うものの、それはそれ以上でもそれ以下でもないものでした。
何のこだわりももたずに、ただ、腕に巻かれただけのロレックスはまがうことなく「死んだ物質」であり、私を毛ほども高めて見せてはくれないし、私にとっても何の価値もたないものでした。 (だって人ものものだもん)
かといって、私が自分でそういう高価なものを手に入れたいか、と言われたら、微塵もそんな気持ちはない、と答えます。 高価なものを手に入れると、「長くつかいたい」とか「傷ひとつつけたくない」とか、そういう執着が絶対出てくると思います。 そうすると、いつもは大事にしまいこんでおいて、いざ!というときに、蔵から引っ張り出すような仰々しさで登場したりして。 それは物に自分が献身しているようで、本意ではありません。
私がどんなに高価なものを持っても、鷹揚に構えていられるぐらいになれたらほしいと思うかもしれませんが、それはきっと、50歳をこえてからでしょうね。
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