| 2006年11月06日(月) |
イラク戦争に反対した人に、いじめ問題など語れない長い理由 |
平蔵 : 「 人間とは、妙ないきものよ 」
久栄 : 「 はぁ・・・? 」
平蔵 : 「 悪いことをしながら善いことをし、善いことをしながら
悪事をはたらく。 こころをゆるし合うた友をだまして、
そのこころを傷つけまいとする 」
「 鬼平犯科帳 」 池波 正太郎 ( 作家 )
Heizoh : People are strange. Hisae : What? Heizoh : They do good things while they're doing bad things. They trick friends who trust them, and yet they try not to hurt them.
Shotaro Ikenami
時代劇の中でも、特に 『 鬼平犯科帳 』 が好きだという人は多い。
池波作品には、悪の中に善を、善の中に悪を嗅ぎとる 「 鼻 」 がある。
冒頭の台詞は、主人公の 長谷川平蔵 が妻の 久栄 に語り聞かせている場面だが、単純な勧善懲悪の物語は少なく、大半が複雑な背景を含む。
そこで、犯人や、登場人物の人物像にまで及ぶ作品に仕上げるためには、細かい心理描写が求められるのだが、池波作品はそれに優れている。
作品に登場する様々な個性は、現代にも通じるものがあり、己を善人だと思い込み、悦に浸っている人間ほど始末に負えないのも、その一例だ。
善人ぶっていても、実際は利己的で周囲への配慮や誠意に欠けていたり、逆に、少々、素行に問題のある人物が、本当は善意を持っていたりもする。
そのあたりも作品の大きな魅力になっていて、時代を超えて幅広い読者層に愛されてきた理由の一つだといえるだろう。
日本を代表する時代劇映画の名作といえば、黒澤明監督の 『 七人の侍 』 であるが、この映画が名作たる所以も、登場人物の性格描写にある。
未見の方のため、映画の 「 あらすじ 」 をご紹介するが、舞台は戦国時代、野武士の襲撃に苦しむ百姓たちが、自衛のため、侍を雇うことになった。
貧しい村なので報酬もなかったが、集まった七人の侍は、まったく名利などかえりみず、哀れな百姓たちの為に死闘を展開する…という物語である。
この作品には、侍の七人をはじめ、村の長老や、百姓など、計13人の主要人物が登場するのだが、それぞれに異なる性格が見事に描き分けられる。
シナリオの執筆中、黒澤監督は大学ノート一冊にびっしっりと、登場人物の生い立ちや、性格分析を描きこみ、そこから撮影に入ったのだという。
黒澤作品は一貫して 「 願望の映画 」 であり、この作品に登場する侍たちも、現実を超えた理想の、こうあってほしいと願う姿が描き出されている。
それぞれに個性的だが、侍たちは品行方正で、私利私欲などなく、彼らの関心は、戦いに専念し、いかに野武士を倒すかに腐心して飽きない。
報酬でなく、哀れな百姓の不幸を見過ごせないという、武士道の愛や憐憫の 「 仁 」 という徳目を貫き、身命を賭けて戦い、村を守り抜こうとする。
侍たちは百姓に雇われているのだが、その負い目はまったくなく、毅然として処しているのに対し、この映画の百姓たちは雇用者としての誇りがない。
百姓は、長老の儀作が語るように 「 ビクビクするしか能がねえ 」 だけで、自己の保身だけを考える狭量な 「 利己 」 の集団として描かれている。
侍の精神を支える 「 武士道 」 は、鎌倉時代に発達し、その後、江戸時代に儒学思想と結合して完成した、日本独特の精神世界を指す。
忠誠心に富み、勇敢で潔く、他人の不幸を見過ごせない優しさと同情心を持ち、信義と廉恥、いわば恥を知るのである。
近いものとして欧州には 「 騎士道精神 」 があるが、主君に対する忠義の面、フェアプレーの面などは共通しても、己を律する重要な部分で異なる。
世界広しといえども、このような哲学は他に例がなく、その崇高な精神は、欧米人からも尊敬され、いまや 「 サムライ、武士道 」 は世界の共通語だ。
この映画における百姓の 「 利己 」 的な生き様に対し、侍は武士道精神に基づいた 「 利他 」 を貫くところに、優しさ、勇ましさ、美しさが光っている。
最近の日本人男性の多くは、この 「 武士道精神 」 と対極にある。
忠誠心は 「 強制されたくない 」 という権利にとって代わり、国旗や、国歌を疎かにしても構わないという、頓珍漢な論理によって崩壊しつつある。
勇敢で潔いことを言えば、「 好戦的だ 」 などと揶揄され、腰抜けの憲法に固執する連中から、やいのやいのと非難を浴びせられる羽目になる。
他人の不幸を見過ごせず、イラクの国民の窮状を救おうと、アメリカと共に起てば、「 余計なことをするな 」 と、エセ平和主義者から文句を言われる。
そのくせ、自分が能力に劣っていたり、ストレスに負けて鬱になったりすると、開き直って 「 仕方が無い、何が悪い 」 と、なんら恥じることを知らない。
けして、侍が偉くて、百姓が劣るとは思わないが、すべての国民が利己的に、まったく自分の保身しか考えないようでは、その国の将来などない。
たとえ一部でも、自らを厳しく律し、多少、荒っぽい手を使ってでも、哀れな弱い立場の者を守ろうとする 「 侍 」 が、必要ではないだろうか。
最近、学校での 「 いじめ 」 が問題になっているけれど、そんなことは我々の子供時代 ( いまから40年ほど前 ) にも、たしかに存在していた。
当時、それが大きな問題にならなかったのは、弱い者をいじめる卑怯者は、侍気質の 「 ガキ大将 」 によって、すぐに粛清されたからでもある。
いまは、誰かがいじめられていても、教師も、親も、社会も、なにより友達が、見て見ぬふりをする 「 無関心が自殺に追い込んでいる 」 のである。
いじめの問題で、学校が悪いとか、親が悪いとか、いじめる奴が悪いとか、騒がれているが、この 「 利己的で他人に無関心な風潮 」 が一番悪い。
たとえば、イラク戦争でいうと、戦争が始まってから大騒ぎした人々は多いけれど、それ以前のフセインによる圧政には、大半が無関心だった。
いじめっ子のフセインに、アメリカというガキ大将が腕力にものを言わせて立ち向かった途端に、彼らは、やいのやいのと平和論をぶつけ始める。
それは、火の粉が自分にかかることを怖れる 「 利己的な保身 」 か、ガキ大将の活躍をやっかむ 「 ねたみ 」 か、考えることを知らない痴れ者だ。
東欧でヒットラーがユダヤ人を虐殺しているときも、同じように 「 いじめ 」 を阻止しようとする米軍を抑えつけた一団があり、いつの世も同じである。
戦争の痛ましさも、それに荷担する虚しさも、当然、誰もが理解しているが、いつの世も、フセインや金正日のような 「 いじめっ子 」 が存在する。
そこには、虐げられた哀れな弱者の影があり、それを救うのには武士道でいうところの 「 智・仁・勇 」 を兼ね備えた 「 侍 」 が不可欠になる。
最初の 「 智 」 は教養であり、「 仁 」 は愛、寛容、同情、憐憫などといったヒューマニズムの高貴な精神である。
そして 「 勇 」 は、剛毅、敢然、自若、勇気、克己などの徳目であり、これらはすべて、平常心と生への無執着、利他の精神が無ければ成立しない。
善人ヅラして、戦争反対だの、護憲だのと眠たいことを言ってる 「 利己的で、他人のことなど無関心 」 な連中に、いじめの問題を語る資格はない。
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